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<title>『ポール・ランド、デザインの授業』マイケル・クローガー宮一紀</title>
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<summary type="text/plain">　ポール・ランド（1914-96）。スイスにおけるデザイン教育の拠点であるバーゼル造形学校を設立したエミール・ルーダー、アーミン・ホフマンらとともに彼はスイス・スタイルとも呼ばれる国際タイポグラフィー様式を確立する一翼を担った。これは数あるグラフィック・デザイン様式のうちでもっとも重要な本流と言ってよいだろう。左右非対称、グリッドに沿ったレイアウト、サンセリフ体の使用といった特徴を持つこの様式は、...</summary>
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<![CDATA[<p>　ポール・ランド（1914-96）。スイスにおけるデザイン教育の拠点であるバーゼル造形学校を設立したエミール・ルーダー、アーミン・ホフマンらとともに彼はスイス・スタイルとも呼ばれる国際タイポグラフィー様式を確立する一翼を担った。これは数あるグラフィック・デザイン様式のうちでもっとも重要な本流と言ってよいだろう。左右非対称、グリッドに沿ったレイアウト、サンセリフ体の使用といった特徴を持つこの様式は、現在ではあまりにも至る所で採用されているために、それがひとつの経験に基づいた様式であるとは気づきにくい。空港で、駅で、学校で、映画館で、あるいは路上で、文字の書かれた看板を見ることがあったなら、（たとえそれが何も知らない素人によって描かれていたとしても）そのほとんどすべてはスイス・スタイルと無関係ではありえない。スイス・スタイルは知らず知らずのうちに私たちの生活を支えているのである。<br />
　もっともランド自身はニューヨーク・ブルックリン出身のアメリカ人で、あまり知られてはいないがキャリアの初期にはエスクァイアをはじめとする雑誌のアート・ディレクターを務めていた。その後、いくつかの広告会社やデザインスタジオに籍を置いて数多くの優れたコーポレート・アイデンティティ（IBM、ABCテレビ、UPS、エンロン、etc...）を手掛けた後、1956年にイェール大学に教授として迎え入れられると、晩年まで教育者として若手を育成することに情熱を傾けた。<br />
　ポール・ランドのそんな教育者としての側面にスポットを当てているのが本書である。原題は“Paul Rand: Conversations with Students”。 亡くなる1年前にあたる95年、ポール・ランドはアリゾナ州立大学に招聘されて講義を行った。本書に収録されているふたつの対話は、その際に行われたインタヴューと、学生たちとのディスカッションからの抜粋で、これらはポール・ランドの生前に行われた最後のインタヴュー記録である（ちなみにオリジナル原稿は<a href="http://www.mkgraphic.com">著者マイケル・クローガーのウェブサイト</a>で読むことができる）。そして、後半にはランドのかつての教え子や仲間たちからコメントが寄せられている。それぞれが「思いやり」「手強い」「天才」「誠実」といった様々な言葉を並べて異なる人物像を語っているところが興味深い。<br />
　白地に朱と濃紺の文字が2色刷りで踊るシンプルでとても美しい造本である。全体にヴォリュームの小さな本ではあるが、最晩年まで世界中を飛び回り、自らの考えを人々に伝え続けたポール・ランドの姿が浮かび上がってくる。いつも人に読書を勧めていた彼の膨大なレファランスが巻末に資料として付されている造りも丁寧で感心する。惜しむらくはそのほとんどが日本語訳されていないことだ。最後に、ポール・ランドの印象的な言葉を紹介したい。彼の言葉はいつでも明快で未来へ向けて開かれている。<br><br />
「よろしい、君はそこに立っているね。君は灰色だ。灰色のシャツ、灰色の線、明るい灰色に暗い灰色。君全体が灰色のシンフォニーだ。これらすべてが関係だよ。これは20%、こちらは50%、すべてが関係だ——わかったかね？　君の眼鏡は丸い。襟は斜めになっている。これが関係だ。君の口は楕円形で、鼻は三角形だ——これがデザインが何であるかだよ」<br><br />
追記：本書の内容とは関係ないことであるが、著者の略歴がどこにも記載されていないというのは出版社の重大な過失ではなかろうか。ここに補足しておくと、著者のマイケル・クローガー（1950-）はオハイオ州のマウント・セント・ジョゼフ大学等のデザインスクールで教鞭も取っているグラフィック・デザイナー。81年の夏にスイスのブリッサーゴで行われたワークショップに参加した際、講師を務めていたポール・ランドと出会う（他にアーミン・ホフマンやヴォルフガング・ヴァインガルトら錚々たるメンバーがこのときの講師に名を連ねている）。ちなみにランドはこの地で20年以上の長きに渡って毎年夏に1週間の講義を持っていた。アーミン・ホフマンによれば、学生たちはランドのこの講義を夏の5週間に渡るセミナーの最大の山場と考えていたようである。</p>

<p><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=nobodymag-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4861005841&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>]]>

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<title>『ソール・バスの世界』宮一紀</title>
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<summary type="text/plain">　映画作品のタイトルバックにデザインの手法を取り入れた最初期の人物としてその名を映画史に燦然と輝かせるソール・バス（1920-96）。代表作を挙げればきりがない。オットー・プレミンジャー、ビリー・ワイルダー、ロバート・アルドリッチ、ウィリアム・ワイラー、アルフレッド・ヒッチコック、そしてもっとも最近ではマーティン・スコセッシやリドリー・スコットが全幅の信頼を寄せていたタイトルバック・デザイナーとし...</summary>
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<![CDATA[<p>　映画作品のタイトルバックにデザインの手法を取り入れた最初期の人物としてその名を映画史に燦然と輝かせるソール・バス（1920-96）。代表作を挙げればきりがない。オットー・プレミンジャー、ビリー・ワイルダー、ロバート・アルドリッチ、ウィリアム・ワイラー、アルフレッド・ヒッチコック、そしてもっとも最近ではマーティン・スコセッシやリドリー・スコットが全幅の信頼を寄せていたタイトルバック・デザイナーとして知られているが、彼自身映像を監督していたことはあまり知られていない。日本で見られるものはたいへん限られており、ソール・バス唯一の長編作品『フェイズⅣ / 戦慄！昆虫パニック』（1974）だけがかろうじてVHSになっている（だが大手レンタルショップの在庫情報からは完全に消え去っている。レンタル落ちで叩き売りの憂き目に遭ったのだろうか）。そんな中で彼の制作した『ソール・バスの映画タイトル集』（1977）と『なぜ人間は創造するのか』（1968）の2作品が封入されたDVDパッケージが発売された。率直に喜ばしいことである。<br />
　『ソール・バスの映画タイトル集』はソール・バスが手掛けたいくつかのタイトルバックをインタヴュー形式の自身による解説とともに収録した作品で、収録されている作品のほとんどはすでに日本でもソフト化されているものだが、もちろんデザイナー自身の解説とともに見られる点では貴重な資料と言えるだろう。ここでは初期の頃によく見られた映画作品へのミニマムなグラフィックによるアプローチ（『黄金の腕』）から、実写映像を伴った「より映画の本質を追究した」アプローチ（『ウエスト・サイド物語』）、そしてほとんど映画と一体化し、もはや映画作品の序章や前段と位置づけられるようなタイトルバック（『大いなる西部』）を経て、再び抽象的な認識論を展開することになるタイトルバック（『荒野を歩け』）へと至るデザイン手法のプロセスが語られる。<br />
　一方、『なぜ人間は創造するのか』はソール・バス自身が監督した映像作品である。こちらは「体系」「模索」「過程」「判断」「寓話」「余談」「探求」「なぜ人間は創造するのか」という示唆に富んだ興味深い8話構成となっており、冒頭のアニメーションでは摩天楼を想起させる石造りの建築物を徐々に上昇しながら、その中で歴史上の人物たち、名も無き人間たちが右往左往している様がコミカルに描かれる。次第に実写映像を伴って、先に挙げた「創造」の根源的なテーマについて様々な側面から考察してゆくこの作品は、1968年度のアカデミー賞最優秀短編ドキュメンタリー賞を受賞している。<br />
　今日でも数は少ないが優れたデザインのタイトルバックは生み出されている。ペドロ・アルモドヴァル監督作品のタイトルバックを手掛けるフアン・ガッティ、デヴィッド・フィンチャー監督作品や「スパイダーマン」シリーズを手掛けるカイル・クーパー、あるいはスパイク・リー監督と初期の頃からタッグを組んでいるランディ・ボールスマイヤーといった著名なデザイナーたち。彼らのほとんどが明らかにソール・バスの薫陶を受けているし、彼らの仕事のほとんどはソール・バスの仕事からまだそう遠くまで到達していない。</p>

<p><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=nobodymag-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B001BWTVU6&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>]]>

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<title>『アキレスと亀』北野武山崎雄太</title>
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<modified>2008-09-30T01:43:52Z</modified>
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<summary type="text/plain">　絵を描き続ければ人が死に続ける。なんで映画観てこんな辛い思いをしなければならないのかとまた悲しくなってしまう……。
　少年真知寿（マチス）は、大金持ちである生家に出入りする画家との素朴な交流から画家になることを志す。しかし、父親の会社が倒産に追い込まれてから生活は一変する。少年−青年−中年と時代を追って半生が語られてゆく真知寿を貫く無表情、過去への執着のなさは、すべて他人への無関心に端を発するも...</summary>
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<![CDATA[<p>　絵を描き続ければ人が死に続ける。なんで映画観てこんな辛い思いをしなければならないのかとまた悲しくなってしまう……。<br />
　少年真知寿（マチス）は、大金持ちである生家に出入りする画家との素朴な交流から画家になることを志す。しかし、父親の会社が倒産に追い込まれてから生活は一変する。少年−青年−中年と時代を追って半生が語られてゆく真知寿を貫く無表情、過去への執着のなさは、すべて他人への無関心に端を発するものである。少年時代に唯一心を通わせていたかに思える又三の（言うなれば自分のせいでの）死は彼になんら影を落とすことはなく、それは鉛筆で描かれた又三の風景画にただ赤い色彩が入るだけのことであり、あるいは青年時代における友人の事故に際しても、それは飛び散るペンキの色に赤が加わることに過ぎない。中年時代に遭遇した事故もまた同様である。彼にとって死とは、顔が赤く染まることでしかない。「母親」が死んだ時からずっとそうであった。だからキレイなままの娘の死に顔を、口紅で赤く染めずにはいられない。だがしかし真知寿は、自らも創造のさなか火に包まれ死にかけたのち、転がっているコーラの缶を見て自分がどうこうする前から「赤」はそこにあったことに気づいた（かもしれない）……。ただ、『アキレスと亀』の残酷は、このような死そのものに対する白々しさにあるのではない。なにより残酷なのは、絵を描き続け、よって不幸であり続けた男の半生を語っておきながら、創造すること・続けることへの絶望をひたすら見せつけておきながら、北野自身には「帰ろうか」に対して帰る場所を用意している点にある。かつて『キッズ・リターン』でわれわれに続け方を教えてくれた北野武はしかし、このひたすら残酷で陰鬱な『アキレスと亀』で後続を一蹴してまんまと逃げおおせた。幕切れにおいて、彼が帰るべき隅田川沿い（言わずと知れた「下町」、そして「浅草」、上っていけば「足立区」）をぬけぬけと歩いて逃げる頃には、われわれは創造の火床（文字通り！）なんて耐えられようが耐えられまいが良いことなんてひとつもないということを諒解して呆然としている。前に「続けることだ」とここに書いたが、シャッターの落書きは早く消して、やめられるうちにやめなくては……。<br />
<br><a href="http://www.office-kitano.co.jp/akiresu/">テアトル新宿、銀座テアトルなどでロードショー中</a></p>]]>

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<title>講演「肖像の理論のためのスターの顔」ドミニク・パイーニ結城秀勇</title>
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<modified>2008-09-28T17:40:58Z</modified>
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<summary type="text/plain">　東京日仏学院にて開催中の特集上映「映画におけるメタモルフォーズ」の中の1本、アルフレッド・ヒッチコック『めまい』の上映後、プログラムを行ったドミニク・パイーニ氏による講演が行われた。先だって前日の青山真治監督との対談の前に行われた講演では、この特集プログラムの全体に渡って話が展開された（それはウォルト・ディズニー『ダンボ』から、ジェリー・ルイス『底抜け大学教授』、果てはロビー・ウィリアムスのPV...</summary>
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<![CDATA[<p>　東京日仏学院にて開催中の特集上映「映画におけるメタモルフォーズ」の中の1本、アルフレッド・ヒッチコック『めまい』の上映後、プログラムを行ったドミニク・パイーニ氏による講演が行われた。先だって前日の青山真治監督との対談の前に行われた講演では、この特集プログラムの全体に渡って話が展開された（それはウォルト・ディズニー『ダンボ』から、ジェリー・ルイス『底抜け大学教授』、果てはロビー・ウィリアムスのPVや現代アートまでを照準に含めた壮大なものである）が、本講演は『めまい』という1本の映画を中心に組み立てられる。なぜならこの映画は、「映画におけるメタモルフォーズ」というプログラムに流れるふたつの基調を完璧なまでに巧妙に併せ持つ作品だからである。そのふたつの基調とは、『ファウスト』『レオパルドマン』『潜行者』『マイノリティ・リポート』『トロピカル・マラディ』における変身／顔の変形という要素と、『間諜X27』『お遊さま』『スリ』『ヒストリー・オブ・バイオレンス』『ブラウン・バニー』における顔が変わらないこと／無表情という要素である。そして『めまい』こそ、「ある女性を別の女性に似せるために変形させる」が「そのふたりの女性は同一人物である」という両者が互いに循環し合うような物語を持った映画なのである。<br />
　また物語上そうであるばかりではなく、『めまい』は構造的にも強固な循環性を持ち、閉じられていない作品なのだ、という点から話は開始される。『めまい』はジェイムズ・スチュアートが逃走中の犯人を追うシークエンスで幕を開ける。その後の事件を引き起こす彼の「めまい」が生じるのを描く場面なわけだが、それはまるで「なにか他の映画の途中の部分」の続きがいきなり始まったかのような印象を与えるとパイーニは語る。そしてめくるめく反復に次ぐ反復が展開するこの作品は、最もドラマチックな事象−−キム・ノヴァク演じる女性の死−−が反復することで幕を閉じるわけだが、しかしそれもまたそれが本当に最後の反復であったのかは誰にもわからないという点で、第3第4の反復がこの映画の途中から再度開始されるかもしれないという循環性が最後まで残る。<br />
　この作品に渦巻きや緑というモチーフが繰り返し登場することは様々な論者によって語られているが、パイーニは幾つかの抜粋を提示しながら細やかに分析していく。花弁の構造、髪型、階段の螺旋、そしてスチュアートの運動までが渦巻きという形態にとらわれていくが、その渦巻きの中心に残される空虚は死である。それと同時に、渦巻く運動は中心を飾る装飾となる−−まるでペンダントの枠、カメオの縁飾りのように。空虚には肖像がはめ込まれるのだ。造形芸術が辿ってきた肖像の歴史を遡行するように『めまい』は肖像を思考するという視点のもと、数々の興味深い指摘が行われたが、その中でももっとも刺激的だったのは、スチュアートが初めてノヴァクを目撃するシーンについてのものだ。そのシークエンスは、スチュアートの視線をノヴァクの視線で直接切り返すのではなく、カメラがふたりを結ぶ直線から大きく一度退いてから、ゆっくりとノヴァクの後ろ姿を捉える。すなわちスチュアートの視線ではなく、一度われわれ観客の視線になってから、初めてノヴァクの肖像が描き出されるのだ。しかもそれがもっとも鮮明になるのは、完璧な肖像である横顔（色彩や凹凸のなくなった影、移動祝祭などで大衆が最初期に手に入れることのできた自己イメージたる切り絵）によって、なのだ。極めつけはノヴァクの横顔がもっとも大きく映し出されるとき、そこにスタンドインの別の女性の顔がサブリミナル的に挿入されているという指摘だろう。ふたりのノヴァクは同一人物でありながら、ひとりのノヴァクの肖像の中に別の女性が紛れ込んでいる……。<br />
<br><br />
　この講演によって様々な考えが触発された。この文章の始めの方でプログラムされた作品をふたつに分類したが、この分類はあくまで仮のものでしかない。互いが互いの中を行き来する。例えば『ヒストリー・オブ・バイオレンス』における、モーテンセン的としか言いようのない無表情と彼のかみ合わないふたつのアイデンティティ。追っ手を欺くために変形する『マイノリティ・リポート』のトム・クルーズの顔は（『コラテラル』におけるようなサイボーグめいた）無表情を備えてもいること。『間諜X27』は不動のディートリッヒのイメージが様々な変装の中で揺れ動く映画だとも言える。つまりいくつか個別の作品にまたがるスターの肖像のあり方。『めまい』におけるキム・ノヴァクは鮮烈なイメージとともに、先程述べたスタンドインの女性のイメージがインサートされることやタイトルロールでまったく別の金髪女性のアップからこの映画が始まることなどによって、非常にとらえどころのない印象をも感じさせる。よりヒッチコック好みのヒロインたちよりも、彼女が肉感的であることも関係しているかもしれない。一方スチュアートはマンやフォード、ホークス、プレミンジャー、オルドリッチなどとともに形成した「戦後のスチュアート」、仕事は見た目よりも優秀だが敗北の苦みを（そしてときに勝利にも苦みが伴うことを）知る男をこの映画でも演じている。「肖像の肖像、表象された肖像」としてのスターの顔。こうしたレヴェルでの展開も可能ではないだろか。<br />
　そしてもうひとつだけ。『めまい』のスチュアートは、暗い部屋の窓際で完全にシルエットとなった横顔によって、ふたりのノヴァクの同一性を看破する。カットが変わってカメラが彼女の前面に回り込んでも、「まるでピカソの絵画のように」そこにあるのは「正面から見ても横顔だけ」、決して視線を交わらせることのない顔なのだ。そこから、ふたつの肖像の視線をどのように交わらせるのかという問題も派生してくる。廣瀬純が『アワーミュージック』について述べていた、「フェイス・トゥ・フェイス」の切り返しに対する「バック・トゥ・バック」の切り返し、これもまた肖像の歴史の先端で切り開かれなければならない領域だろう。</p>

<p><br><a href="http://www.ifjtokyo.or.jp/agenda/festival.php?fest_id=49">東京日仏学院 特集上映「映画におけるメタモルフォーズ」<br>『めまい』の上映は10/4（土）14:00〜も</a></p>]]>

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<title>『東南角部屋二階の女』池田千尋梅本洋一</title>
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<issued>2008-09-27T02:03:56Z</issued>
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<summary type="text/plain">　若く才能のある映画作家たちが小さな世界に身を落ち着けてしまうのはいったいどうしてなのだろうか？ 
　壊れかけた木造アパートの脇に庭付きの日本家屋があり、その縁側で老人はタバコを吸っている。会社を辞めた男はそのアパートの一室に住み、同じ日に会社を辞めた同僚と男と見合いをした女性が同じアパートに転がり込む。アパートのオーナーで小さな飲み屋を営む女性が老人の世話をする。男は老人の孫であり、父の残した借...</summary>
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<![CDATA[<p>　若く才能のある映画作家たちが小さな世界に身を落ち着けてしまうのはいったいどうしてなのだろうか？ <br />
　壊れかけた木造アパートの脇に庭付きの日本家屋があり、その縁側で老人はタバコを吸っている。会社を辞めた男はそのアパートの一室に住み、同じ日に会社を辞めた同僚と男と見合いをした女性が同じアパートに転がり込む。アパートのオーナーで小さな飲み屋を営む女性が老人の世話をする。男は老人の孫であり、父の残した借金の返済のためにこのアパートを売ろうとする。<br />
　確かにこのフィルムには上記の物語を肉付けするために多様な細部に満ちていて、特にラスト近くに襲ってくる台風はいかにも映画的にこのフィルムを豊かにする運動となっている。<br />
　だが、いかに映画的な色づけがなされていようとも、このフィルムに出演する若手（西島秀俊、加瀬亮）やヴェテラン（香川京子、高橋昌也）が好演しようと、このフィルムは、このアパートの周辺の小さな世界を突き抜けたりはしていない。突き抜ける要素はあるのだが、それは決して映画的な運動ではなく、物語上の要請だと感じられてしまう。ここでもまた「ミニマリズム」という言葉が記されるべきだろうか。すべてが予定調和的で破綻が無く──つまり、極めて平均点の高いフィルムなのだが、その平均点の高さと破綻のなさによって、すべてが収まるところに収まってしまう。<br />
　小津安二郎のフィルムならば、同じようにミニマルな表層を見せているが、その外には、大きな力で変わっていく世界を感じるし、成瀬の世界も常にミニマルな安定を見せる世界に亀裂が入り、それが破壊される力学を描いていた。同じように台風がやってくるにせよ、相米慎二の『台風クラブ』の台風は、かつての調和のある世界を思い出させるために襲来するのではなく、それまで揺り動かされていた秩序を根こそぎ破壊し尽くしてしまう。もちろん、小津や成瀬や相米を引き合いに出す必要はなく、池田千尋のフィルムは彼女のものなのであって、他の何かと比較する必要はないかもしれない。<br />
　だが、若い映画作家が、見事な造形力を見せつつ、最終的に調和ある世界に回帰していく様を見るのは、どうしてももの足りない。そう感じるのはぼくの個人的な感慨にすぎないのだろうか。少なくとも若い映画作家は、それまでの映画史のすべての先端にあって欲しいと考えるのは過大な期待なのだろうか。それとも、こうした「日本映画」が多く生まれているこの数年の事情をこのフィルムもまた反映しているだけなのだろうか。それとも、そんな感慨を記す映画批評など必要なく、このフィルムに登場する高橋昌也のように沈黙を貫く方が健康的なのだろうか。<br />
<br><a href="http://www.tounankadobeya.com/">ユーロスペースほか順次公開中</a></p>]]>

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<title>『私のハリウッド交友録 映画スター25人の肖像』ピーター・ボグダノヴィッチ結城秀勇</title>
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<modified>2008-09-21T16:49:33Z</modified>
<issued>2008-09-21T16:39:12Z</issued>
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<created>2008-09-21T16:39:12Z</created>
<summary type="text/plain">　まるで辞書みたいな外観の書物だが、百科辞典的な効用を期待してはいけない。網羅的な事実が必要なら、その用途によってもっと大勢の人が記載された名士録のような本や、ここに書かれた人たちのひとりひとりについてもっと詳しく書いた本がいくらでもある（ジェリー・ルイスも自伝を出版したし、ベン・ギャザラも執筆中だそうだ）。『私のハリウッド交友録』という邦題が示すとおり（原題は『Who the Hell&apos;s in...</summary>
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<![CDATA[<p>　まるで辞書みたいな外観の書物だが、百科辞典的な効用を期待してはいけない。網羅的な事実が必要なら、その用途によってもっと大勢の人が記載された名士録のような本や、ここに書かれた人たちのひとりひとりについてもっと詳しく書いた本がいくらでもある（ジェリー・ルイスも自伝を出版したし、ベン・ギャザラも執筆中だそうだ）。『私のハリウッド交友録』という邦題が示すとおり（原題は『Who the Hell's in It』）この本はもっとプライヴェートなものである。25人という数は歴史上にあまた煌めくスターたちを記述するには非常にささやかな数字だろうし、研究書としてはそのひとつひとつの分量も決して多くはない。しかしながらこの本にはひとつの明快な目的がある。イントロダクションでボグダノヴィッチはこう書いている。「ここでのささやかな目標は、何人かの人を目覚めさせて、発見され賞味されんと向こうで待ちかまえているものに気付かせていることにある」。その目論見通り、私はこの本を読んで、おそらくスターひとりひとりについて書かれた本やあるいはカタログ的な本を読んだときに感じるだろうよりはるかに多くの（25人分だから25倍か、それ以上）映画を見たくなった。その内の2割くらいはもう何度か見ているにもかかわらず。<br />
　プライヴェートな本とはいえ、収録された文章の多くが既出のものを改訂加筆したものなので、この本が（アメリカでも）2008年に出版されたのは、単に知られざる個人的なエピソードの目新しさによるところではないのは明らかである。またボグダノヴィッチの意図するガイドブック的な効用を考えるなら、何冊かに分冊して手軽に持ち運べるようなものにした方がよかったろうが（訳註のない原書を見たことはないのでよくわからないが、それでも多分持ち運びには向かない厚さだろう）、それでもこのヴォリュームであるのには、自身かつてジャーナリストでもあった著者の編集の手腕が大きく意味を持っている。つまり、マーロン・ブランドの後にステア・アドラーが続き、ジェリー・ルイスの後にディーン・マーティンが並び、ベン・ギャザラの名前が（カサヴェテスの隣ではなく）オードリー・ヘプバーンと隣り合うということ。それはこれまで大衆が彼らに持っていた神話を強化し、あるいは見過ごされていたが魅力的なエピソードを、その神話の異なるヴァージョンとして付け加えている。神話という言葉を用いたが、スクリーン上とバックステージの姿を行き来して描き出す本書において、実際俳優とはどこか半神半人のような存在だ。そして何より、この本がリリアン・ギッシュに始まり、62年に死んだマリリン・モンローで終わること。スタジオというシステムが映画に対して行った貢献と搾取、とそれにもかかわらずどうしようもなく込み上げてくる失われた時代への想いがこの本の通層低音となっているのは言うまでもない。これはボグダノヴィッチによる「映画史」の一部であるのだ（本書の姉妹編、監督についての『Who the Devil Made It』もまたその一部だろう）。<br />
　繰り返すが、変にガイドブック然としたお手軽な本よりも、本書ははるかに良質なガイドブックである。この数年間『Songs in the Key of Z』、『宇宙の柳、たましいの下着』『中原昌也 作業日誌2004-2007』などといった書物（本来ガイドブックでない書物も入っているけど）をガイドブック的に活用しているが、結局著者の歴史が実作や活動へと反映していかないガイドブックなどほとんど役に立たないのだとつくづく実感する。ということでボグダノヴィッチの監督としての最新作（IMDBにはin productionとして『The Broken Code』が告知されている）も期待したい（というか日本公開されることを期待したい）。<br />
　それにしても、ケーリー・グラントの、彼自身が「ケーリー・グラントになれたら」と願っていたというつぶやきは、何度読み返しても泣ける。</p>

<p><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=nobodymag-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4872951166&fc1=000000&=1&lc1=0000ff&bc1=000000&lt1=_blank&IS2=1&f=ifr&bg1=ffffff" width="120" height="240" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>]]>

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<title>08-09チャンピオンズリーグ第１戦 ディナモ・キエフ対アーセナル　1-1梅本洋一</title>
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<created>2008-09-18T06:27:59Z</created>
<summary type="text/plain">　かつてディナモ・キエフはそのスピード溢れるフットボールでチャンピオンズリーグを席巻したことがある。シェフチェンコを擁した98-99シーズンのことだ。コーチのロバノフスキーは、中盤をやや省略し、あっという間に敵ゴール前に攻め込むフットボールで強豪を次々になぎ倒し準決勝まで進出した。シェフチェンコがこのシーズンの得点王になった。
　アーセナルの緒戦の相手はこのディナモ・キエフだ。いくらプレミアで調子...</summary>
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<![CDATA[<p>　かつてディナモ・キエフはそのスピード溢れるフットボールでチャンピオンズリーグを席巻したことがある。シェフチェンコを擁した98-99シーズンのことだ。コーチのロバノフスキーは、中盤をやや省略し、あっという間に敵ゴール前に攻め込むフットボールで強豪を次々になぎ倒し準決勝まで進出した。シェフチェンコがこのシーズンの得点王になった。<br />
　アーセナルの緒戦の相手はこのディナモ・キエフだ。いくらプレミアで調子を上げているからといって、アーセナルには不利な材料が山積だ。ロンドンーキエフの長い移動時間。もともとアウェイに弱い体質、もともとロシア──ここはウクライナだが──でのゲームに弱い体質、さらにチャンピオンズリーグでかつて１度も勝っていないこと。大観衆と緑の絨毯のようなピッチでのゲームに慣れている選手たちにとって、暗いスタジアムでの寒いゲームは苦手なようだ。<br />
　もちろんディナモ・キエフもかつてもディナモ・キエフではない。シェフチェンコが去って10年近く、そして、ヨーロッパ・フットボールの均一化の波を受けて、このチームにも多くの外国人選手が加入し、システムも見る限り4-2-3-1。めったに見ることのないチームが新たなフットボールを展開する驚きなどもう期待することはできない。ディナモ・キエフは、バックラインの４人と中盤の３人でアーセナルの中盤を潰しにくることなどゲーム前から了解済みだろう。そして、アーセナルは、この日、ファン・ペルシを左ワイドに置いて4-2-3-1、単にガチンコ勝負だ。いつもの４バックの前にデニウソンとソング、両翼にウォルコットとファン・ペルシ、トップ下の位置にセスク、そしてアデバイヨールの１トップ。点を取られにくい代わりに展が入りにくいシステム。アウェイの布陣だ。<br />
　ビッグクラブを迎えてディナモ・キエフに気合いが入るのは当然。イーヴンの展開が続く。ヴェンゲルはスーツの上にダウンを着ている。寒い！ 前半はサニャとクリッシの上がりが少ない。やはり負けなければよいのか？<br />
　後半も同じような鈍い展開が続く。アーセナルは中盤がフラットに４人いないとどうも展開がやや遅くなるようだ。トップ下のセスクにはスペースがないし、デニウソンとソングからの展開は期待できない。ふたりともボールへのからみはよいが、ボールを奪ってからのミスパスが多い。やはりイーヴン。ギャラスのミスからゴール前にボールが送られ、サニャが相手を倒しPKを与える。ディナモ・キエフ１点リード。ここから立て続けにヴェンゲルが動く。まずソング→ベントナーで、4-4-2。次いでイエローを貰っているサニャに代えてエブエ。最後にファン・ペルシ→ヴェラで4-3-3。フルアタックだ。ほとんどのボールをアーセナルがキープできるがゆえに、ややアタックが単調になる。ラスト５分ではどんどん放り込みはじめる。ギャラスの１発でドロー。こんなものだろうか？<br />
　とりあえず若手選手たちも寒いアウェイを経験した。</p>]]>

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<title>村野藤吾──建築とインテリア展梅本洋一</title>
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<issued>2008-09-12T13:18:25Z</issued>
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<created>2008-09-12T13:18:25Z</created>
<summary type="text/plain">　村野藤吾の建築やインテリアはかなり多く見てきたし、実際にその内部を使用したことも多い。建設中の横浜市役所を小学校に通う市電の中から何度も見たし、同じように東横線の中からは千代田生命ビルも何度も見た。箱根プリンスホテルも新高輪プリンスホテルも行ったことがあるし、日生劇場には何度も足を踏み入れた。立派で豪華で特徴に溢れているのだが、どうも好きになれない。その存在感が大きすぎて、それがぼくらに課す重さ...</summary>
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<![CDATA[<p>　村野藤吾の建築やインテリアはかなり多く見てきたし、実際にその内部を使用したことも多い。建設中の横浜市役所を小学校に通う市電の中から何度も見たし、同じように東横線の中からは千代田生命ビルも何度も見た。箱根プリンスホテルも新高輪プリンスホテルも行ったことがあるし、日生劇場には何度も足を踏み入れた。立派で豪華で特徴に溢れているのだが、どうも好きになれない。その存在感が大きすぎて、それがぼくらに課す重さが好きになれなかった、と書けばいいのだろうか。しかし、村野の立派な建築物は常にぼくらの側にあった。<br />
　たとえば新高輪プリンスホテルが建ったころ、それまでの高輪プリンスホテルの庭が好きだったぼくは、新館の建設で都心のホテルの広大な庭園の一部が失われたのが嫌だったし、無料だった駐車場が潰されて大宴会場になったときは、プリンスホテル系列にいつもある接ぎ木のような拡大路線そのままだと思った。箱根プリンスホテルのロビーにしても直線的な廊下の周囲にめぐらされた円形の空間が好きになれなかった。日生劇場で芝居を見るとき、ロビーの豪華な照明やぶ厚いカーペットは、これから見る舞台に不似合いだと思ったものだ。劇場空間は自己主張があるものよりは、できる限りニュートラルであるべきであって、そこを彩るのは舞台美術家や演出家であると思っていた。つまりぼくは村野の「個性」が好きになれなかったのだろう。<br />
　村野藤吾の「建築とインテリア」展を見て、そうしたぼくの好みが変わることはなかったが、しかし、その村野の原点がホテルの内装といったものよりも、かつて太平洋を航行した客船のインテリアにあることを知って、彼の「趣味」を理解することができた。アルゼンチナ丸やブラジル丸といった戦前の太平洋航路の花形だった客船（本当は貨客船と書くべきか）の一等社交室や喫煙室の内装は、当時の豪華な客船のインテリアにかなりの「東洋趣味」を混合させたものだった。特に照明を見ればそのことが納得できる。当時、隆盛を極めた豪華客船のインテリアに別の要素を加えることこそ、彼にとっての自己主張だったように見える。後に大規模なホテルなどを担当することになる彼のデザインは、その反復だったように思えるからだ。たしかに船の場合は説得力がある。何週間も航行を続ける船にあっては、そうしたデザイン上の遊戯は、航行の退屈さを薄める要素になりうる。だが、ホテルや公共施設にあっては、そうした足し算としてのデザインは、少なくともぼくにとっては納得できるものではないのだ。<br />
<br><a href="http://www.mew.co.jp/corp/museum/exhibition/08/080802/">松下電工 汐留ミュージアムにて開催中、2008年8月2日（土）～2008年10月26日（日)</a></p>]]>

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<title>『ハンコック』ピーター・バーグ結城秀勇</title>
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<summary type="text/plain">　ドリュー・バリモア、ルーク・ウィルソン主演の『100万回のウィンク』を見て、ラヴコメというジャンルから八割がた逸脱したその脚本にちょっとびっくりしてしまった。その脚本家ヴィンス・ギリガンが『ハンコック』にも参加しているというので見に行った。全体的に大味な印象は否めないが、この映画もまた歪な回路をたどって家族の物語へ至る。
　あるいはこれはスーパーヒーローものというより、怪獣ものといったほうが近い...</summary>
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<![CDATA[<p>　ドリュー・バリモア、ルーク・ウィルソン主演の『100万回のウィンク』を見て、ラヴコメというジャンルから八割がた逸脱したその脚本にちょっとびっくりしてしまった。その脚本家ヴィンス・ギリガンが『ハンコック』にも参加しているというので見に行った。全体的に大味な印象は否めないが、この映画もまた歪な回路をたどって家族の物語へ至る。<br />
　あるいはこれはスーパーヒーローものというより、怪獣ものといったほうが近いのかもしれない。ウィル・スミス演じるハンコックは、頑丈な体と飛行能力、それとなぜだか知らないが悪人を退治しているという理由から「スーパーヒーロー」と一般に認識されているようだが、それって怪獣と何が違うんだろうか。本来なら大惨事になりかねないような、彼の引き起こした事件が一般人によって携帯で撮影されyoutube（またしても！）にアップされるのだが、それはウィル・スミスがなまじ人間の姿をしているためにゴシップに早変わりする。本人も自分が人に好かれているとはさらさら思っていなかったわけだが、初めてできた友人の言葉とメディアの意見とが相乗効果を生みだして、彼に一撃を加える。現代アメリカにおける怪獣を退治するのはヒーローや秘密兵器ではなく、携帯やデジカムの流布された映像である。<br />
　この映画で一番感動的だったのは、中盤の心を入れ換えた（？）ハンコックが警官にひたすら「グッジョブ」と言って回るシークエンスだった。自分で自分の言ってることが理解できてないかのようなウィル・スミスの姿が、怪獣が初めて人間の言葉を学習する、意味はわからないが使ってみたら会話ができた、という素朴な感動を与えてくれた。しかし、それをきっかけにウィル・スミスがいつものウィル・スミスに戻ってしまい、怪獣、もといスーパーヒーローにも家族がいて、単独の突然変異体として世界に存在するわけではないというくだりになってしまうとなんだか冗漫な感じになってしまう。「やっぱりくるのか？」とこちらをハラハラさせながらも、最終的にウィル・スミスに付き物の例の「自己犠牲」を、ギリギリのところで回避している点は評価したいのだが……。<br />
　この映画を見て、『ダークナイト』のバットマンが、あの「良き人々」の住むゴッサムシティで嫌われ者のヒーローであることにこだわる点に、疑問がますますふくらんだ。<br />
<br><a href="http://www.sonypictures.jp/movies/hancock/index.html<br />
">全国ロードショー中</a></p>]]>

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<title>『ダークナイト』クリストファー・ノーラン松井 宏</title>
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<modified>2008-08-31T01:49:32Z</modified>
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<summary type="text/plain">　バットマン出来の善し悪しは悪役にかかっている、というのがティム・バートンの教訓だったとすれば、ノーランの前作『ビギンズ』はそれを破ったゆえに駄目だったのわけかと勝手に納得していたものの、どっこい本作はジョーカー登場である、さてどうなるものかと期待は膨らむ。
　で、やはりこのフィルムはジョーカーの肩にかかっていた。で、ジョーカーの存在に対して妙な感覚を持ってしまったので、このフィルムに対しても妙な...</summary>
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<![CDATA[<p>　バットマン出来の善し悪しは悪役にかかっている、というのがティム・バートンの教訓だったとすれば、ノーランの前作『ビギンズ』はそれを破ったゆえに駄目だったのわけかと勝手に納得していたものの、どっこい本作はジョーカー登場である、さてどうなるものかと期待は膨らむ。<br />
　で、やはりこのフィルムはジョーカーの肩にかかっていた。で、ジョーカーの存在に対して妙な感覚を持ってしまったので、このフィルムに対しても妙な感覚を持ってしまった次第だ（とはいえこれは俳優ヒース・レジャーの演技というよりは、やはり監督ノーランの演出に関わる問題だ）。<br />
　バットマンに限らず、いかなる警官もほとんど彼に銃弾をぶっ放すことがきでないのは、いったいなぜなのだろう？検事ハービー・デントを護送する際にジョーカーたちが護送車を襲ってライフルからバズーカまでぶっ放すのだが、警官たちはといえば、立派な銃を持ってるくせにほとんどそれを撃たない。そしてその後、バットマンの象徴とも言えるシーン、つまりバットマンはジョーカーを轢き殺そうとしながらも直前でそれを回避する。<br />
　バットマンはジョーカーに限らずひとを（極力）殺めないわけだから、いいだろう。しかし警官たちはがんがん撃っても構わないはずだ。でもぜんぜん撃たないから、なんだかジョーカーは、レジャーの迫真さにも関わらず、どんどん抽象的になっていく感じがする。たとえばジョーカーとは、バットマンの、市民の、あるいはバットマンとハービー・デント／トゥー・フェイスの間の、ファンタスムであり想像の産物であって、だからそんなものに銃弾という具体物を対抗させることなどできないのだと、それがノーランの提示する図式だとしよう。であればやはりノーランというひとは、これは『メメント』からずっとそうなのだが、自らの図式を徹底しすぎる過激に生真面目な監督ということになる。ノーランにおける登場人物たちはみんな時間が進むにつれて徐々に抽象的になってゆく。そして結局残るのはフィルムの骨組みというか構造のようなものだけなのだと、そう言ったらよいか（しかも構造は「剥き出し」にはならない、なぜならそれもまたどこか抽象化を蒙っているからだ）。<br />
　マギー・ギレンホールにしても、個人的には大好きなのだが、彼女がレイチェル役というのはちょっと変だ。言い方は悪いが、「レイチェルは死ぬ」という構造のためだけに彼女を選んだのではと疑りたくもなる。<br />
　とはいえ、或るひとつのシーンを、そしてあるひとりの男を際立たせるためにこそすべてを犠牲にしたのだと、もしノーランが主張するのであれば、僕は喜んで彼に賛同したいと思う。件のシーンとは、ラスト近くの、あの2台のフェリーにおけるそれだ。そして件の俳優とはタイニー・リスター・Jr！ レニー・ハーリン『プリズン』からすでに囚人服を着せられ、いつだって脇にいながら不正に立ち上がってきた彼が、起爆装置を海に投げ捨てるとき、そこには抽象性など皆無だ。ジョーカーが悪を説いたり、トゥー・フェイスが悪のプロセスを体現してみたり、バットマンがいろいろ悩んでみたりするより、あの笑っちまうようなシンプルな身振りがいちばん具体的なのだ。要するに『ダークナイト』とは、彼タイニー・リスター・Jrによって、あらゆるレヴェルで救われたフィルムなのだった。<br />
<br><a href="http://wwws.warnerbros.co.jp/thedarkknight/">全国ロードショー中</a><br />
</p>]]>

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<title>『ダークナイト』クリストファー・ノーラン結城秀勇</title>
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<modified>2008-08-22T06:15:57Z</modified>
<issued>2008-08-22T06:12:51Z</issued>
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<summary type="text/plain">　暗い夜かと思ったら、kがつくナイトだった。バットマンが活躍するゴッサムシティには「騎士」よりも「夜」の方がよく似合う。DCコミック版でもティム・バートン版でもアニメ版でもいいが、ゴッサムシティとはその大半を夜が支配する街、そして夜の生活者たちが支配する街である。まっとうな人間も一握りはいるようだが、あくまでも少数派で、そんな人たちの価値観の通用しない街であることが嫌われものヒーロー・バットマンの...</summary>
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<![CDATA[<p>　暗い夜かと思ったら、kがつくナイトだった。バットマンが活躍するゴッサムシティには「騎士」よりも「夜」の方がよく似合う。DCコミック版でもティム・バートン版でもアニメ版でもいいが、ゴッサムシティとはその大半を夜が支配する街、そして夜の生活者たちが支配する街である。まっとうな人間も一握りはいるようだが、あくまでも少数派で、そんな人たちの価値観の通用しない街であることが嫌われものヒーロー・バットマンの正当性につながっている。<br />
　ところが『ダークナイト』におけるゴッサムシティは、そうしたギミックと魑魅魍魎の跋扈する場所ではない。昼は夜と同じくらい長いようだし、香港とも海づたいに繋がっている。なにより市民の大半は善良であるようだ。<br />
　ヒース・レジャーの死去により、ジョーカーの存在が大きく宣伝されているが、この映画の全体を形づくっているのはアーロン・エッカート演じるデント検事、後のトゥー・フェイス・デントだろう。彼が居ることによってクリスチャン・ベールとヒース・レジャー、あるいはクリスチャン・ベールとゲイリー・オールドマンとの間に三つ巴の状況が出来る。昼と夜、光と闇が拮抗するゴッサムシティに、彼の存在が多数決を導入する。彼の人間性を示すコインの演出は良くできている。幸運な男から運命を自ら切り開く男へ、そしていかに優れた人間でも表と裏の両方を選ぶことはできないという無力感を知る男として、この映画のモチーフをきっちり描いている。<br />
　彼の存在によってジョーカーの恐ろしさが初めて理解される。この民主政治の世界（いや高度資本主義社会か）では、半分を支配するのは全部を支配するのと同じだからだ。そうした彼の支配によってバットマンはひとつの苦境に立たされる。ひとつのタブーを犯すのはすべてのタブーを犯すことと変わりはないのだと。彼の戦略は、その外見とは裏腹に至極真っ当な政治戦略なのだ。<br />
　善良な市民の多数決も、賢明なひとりの囚人の独断も、結果的には同じ選択がなされ、そのことがひとつの正しい結末を生む。この正しい市民たちの住む街で嫌われものヒーローであるとはいったいどういうことなのか、なにか価値のあることなのか。それについては、愛した人と仲間と兵器とを失って走り去る男の行き先を描いた次作を待つしかないが、この作品が閏年の今年公開されることに大いに意味はあるだろう。ゲイリー・オールドマンは走り去る男が「監視者」なのだと言う。大半の市民は光を求めている。それでもなお残る闇に対抗するには、ジョーカーの用いる戦略とは別のものを見つけねばならないだろうが、我らが不機嫌なヒーローはこの逃亡の先になにを見つけるのか。<br />
<br><a href="http://wwws.warnerbros.co.jp/thedarkknight/">全国ロードショー中</a><br />
</p>]]>

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<title>『TOKYO!』レオス・カラックス山崎雄太</title>
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<modified>2008-08-17T04:15:15Z</modified>
<issued>2008-08-17T04:01:26Z</issued>
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<created>2008-08-17T04:01:26Z</created>
<summary type="text/plain">　日本人の目は女性器のようであるから汚らわしい……
　こう被告席で吐き捨てるメルド（ドニ・ラヴァン）は、下水道の怪人である。といっても彼は、渋谷の事件以外とりわけ怖がられるようなこともしておらず、銀座においてもちょっと攻撃的な浮浪者といった程度で、けが人もいないようだ（食事も花にお札とわりと高尚）。メルドは、もうそもそもから「東京の人々」に恐れられており、われわれもまた「ニュース」を見ることによっ...</summary>
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<![CDATA[<p>　日本人の目は女性器のようであるから汚らわしい……<br />
　こう被告席で吐き捨てるメルド（ドニ・ラヴァン）は、下水道の怪人である。といっても彼は、渋谷の事件以外とりわけ怖がられるようなこともしておらず、銀座においてもちょっと攻撃的な浮浪者といった程度で、けが人もいないようだ（食事も花にお札とわりと高尚）。メルドは、もうそもそもから「東京の人々」に恐れられており、われわれもまた「ニュース」を見ることによって（そしてなにより『ゴジラ』の音楽によって）、端から恐れられるべきものとして彼を知る。彼をただの気狂いと分つただひとつの点、それは彼が特殊な言語を喋り、しかもーーこれが重要だがーーそれを理解できる人間がほんの少数いるということにつきる。彼がもし同じ内容のことを日本語で話せば気狂いであるし、フランス語やあるいは全く意味不明な言葉で話してもやはり気狂いであろう。ただ、特殊な言葉を介して、恐るべきメルドと弁護士が神と預言者の構図にぴたり収まるとき、人々はただならぬ様相に畏れをなす。フランスから駆けつけたジャン＝フランソワ・バルメールは、弁護士のはずなのにメルドから不利な証言を引き出しては話せたことだけで何故か誇らしげ、自信満々である……。<br />
　ドニ・ラヴァンの笑顔が昔からひどく凶暴だった。腹を立たせ眉を吊り上げている時よりも、ジュリエット・ビノシュの横で「牙」を見せる無邪気で畸形的な笑みの方がよっぽど凶暴に映ったし、両手を広げ飛行機を模して駆けてくるビノシュの身振りよりずっと観客のわれわれを脅かしていた。通常の意味合いからは明らかに逸脱した身振りを持っていたラヴァンは、『メルド』で怪人となった。心臓の辺りを掴み、赤いあご髭をたなびかせながらひたひたと足早に進む姿はそのグリーンのセットアップという格好にしろ街の中には混ざり得ないノイズである。ただ、それを常に追うのがDVによるやや寄り添うような視点であったこと。カラックスが特別な言葉と視線によって擁護したのが純粋な暴力であったのか、あるいは単に動くラヴァンだったのか。いずれにしろ、すごいことだ、空恐ろしい。<br />
<br><a href="http://tokyo-movie.jp/">8/16、シネマライズ、シネリーブル池袋にて世界先行ロードショー</a><br />
</p>]]>

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<title>『JUNO／ジュノ』ジェイソン・ライトマン結城秀勇</title>
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<modified>2008-08-11T07:20:19Z</modified>
<issued>2008-08-11T00:42:13Z</issued>
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<created>2008-08-11T00:42:13Z</created>
<summary type="text/plain">　前作『サンキュー・スモーキング』もそうだったが、この監督（『ゴーストバスターズ』のアイヴァン・ライトマンの息子である）の作品は嫌いになれない。一見小品だが重厚な味わいがあるというわけではなく、小品は小品ながら、その尺度身の丈にあった誠実な作品を見せてくれる。
　なにかと『ゴーストワールド』と比較されている『JUNO／ジュノ』だが、重要な比較要素としては主人公と年上の男性との音楽の交換が挙げられる...</summary>
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<dc:subject>cinema</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　前作『サンキュー・スモーキング』もそうだったが、この監督（『ゴーストバスターズ』のアイヴァン・ライトマンの息子である）の作品は嫌いになれない。一見小品だが重厚な味わいがあるというわけではなく、小品は小品ながら、その尺度身の丈にあった誠実な作品を見せてくれる。<br />
　なにかと『ゴーストワールド』と比較されている『JUNO／ジュノ』だが、重要な比較要素としては主人公と年上の男性との音楽の交換が挙げられるだろう。『ゴーストワールド』では、77年オリジナルパンクを信仰するソーラ・バーチと、第2次大戦後の音楽は音楽じゃないというスティーヴ・ブシェミの時代錯誤なふたりの出会いであったが、同様に77年オリジナルパンクを愛するジュノ＝エレン・ペイジにおいてはより複雑なアナクロニズムが展開する。彼女のこれから生まれてくる子供の養父となるはずの年上の男性から彼女に手渡される音楽は、93年を頂点とするグランジ（オルタナ）なのである。そこには戦前の78回転SP盤とパンクのヴィニール盤の間に横たわるような断層は既にない。仮にもグランジ好きセミプロミュージシャンがストゥージスもパティ・スミスもちゃんと聞いたことがないなんて考えにくいという脚本的な難点はおいておくにしても、パンク〜オルタナという直系の流れの中でのふたりの趣味の交換はほとんど不毛だという気がする。別にあの男なしでもジュノはソニックユースをいずれ知ることになってもおかしくない。<br />
　でも、そんな似た者同士の狭い社会においてでさえ、垣根を越えたひとつ隣の物事を知ることすらも非常に困難なことになっているのが、いま私たちの住む世界でもある。日本の郊外にもたぶんこんな女の子いるよなって思う。そんな田舎にいまだにカート・コバーンに憧れてるおっさんといまさらパティ・スミスに憧れてる女の子が、お互いのことも知らずに生きていて、たまたま出会う。ダリオ・アルジェントよりハーシェル＝ゴードン・ルイスが良いって意見は通るが、ストゥージスよりソニックユースがすごいって意見は却下される。あるものは伝達されるし、あるものは伝達されない。そこから現在生まれつつある音楽やら映画の話になったりしない。<br />
　この距離感の失われた歴史を、年上の男と少女の間で交換される音楽が象徴している。カーペンターズの「Superstar」のカヴァーでソニックユースと出会い、彼らのオリジナル曲を聞いて「ただのノイズじゃん」って幻滅すること。デヴィッド・ボウイがプロデュースした「All the young dudes」でモット・ザ・フープルを紹介し、それが彼らの過激なパフォーマンスよりもかつてプロムのダンス・チューンだったのを想起させてしまうこと。<br />
　とかく脚本が評価されているこの作品だが、脚本上重要なこれらの楽曲をこれ見よがしにじっくり聞かされてたら、前述の閉塞感をやたら煽るだけの作品にたぶんなっていただろうと思う。でもここで書いたことなんていろいろ起こることのひとつの側面でしかないし、例のソニックユースもモット・ザ・フープルも、メインで使われてるキニア・ドーソンやその他の楽曲とまったく同じ比重でさらりと用いられている。そしてジュノが再発見する最愛の男の子は、彼女が経験したパンク〜オルタナ間の交流とはまったく別の場所から、ふたりが歌うにふさわしい楽曲を見つけてくる。<br />
　そうした控え目だが的確なやり方が、なにか新しいこと、いまここにないものをゼロから生み出すような素晴らしさではなくて、いまここにあるものでもこれだけできるんだという感動を与えてくれる。ジェイソン・ライトマンの手によって、『JUNO／ジュノ』は秀逸なカヴァー曲のような魅力を与えられている。<br />
<br><a href="http://movies.foxjapan.com/juno/">現在、東京都内ではシネマート新宿、吉祥寺バウスシアターにてロードショー中</a><br />
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<title>北京オリンピック・サッカー男子　アメリカ対日本　1-0梅本洋一</title>
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<summary type="text/plain">　天津はすごく暑そうだ。ゲーム開始当初、気温は35度。画面が引いたときバックスタンドがぼやけて見える。湿気も多いのだろう。公害のせいもあるか。解説の山本昌邦は、アテネでの自らの体験を「オリンピックというのは、ユーロとはちがうんです。ピッチは綺麗ではないし、気温だって高い。綺麗なサッカーをして勝とうとしてもダメなんです」と語る。メキシコ・オリンピックの銅メダルは５バックで5-2-3という布陣だった。...</summary>
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<![CDATA[<p>　天津はすごく暑そうだ。ゲーム開始当初、気温は35度。画面が引いたときバックスタンドがぼやけて見える。湿気も多いのだろう。公害のせいもあるか。解説の山本昌邦は、アテネでの自らの体験を「オリンピックというのは、ユーロとはちがうんです。ピッチは綺麗ではないし、気温だって高い。綺麗なサッカーをして勝とうとしてもダメなんです」と語る。メキシコ・オリンピックの銅メダルは５バックで5-2-3という布陣だった。４バックの後ろにスウィーパー（鎌田）を置いていた。「マイアミの奇跡」と言われた対ブラジル戦勝利も、専守防衛で伊藤のシュートが偶然入ったものだった。唯一の勝ちに行ったシドニーでは、ＰＫ戦までいき、中田のＰＫ失敗でアメリカに敗れた。<br />
　今回のU-23は、オーヴァーエイジを使っていない。それでもアジア予選でこのチームがだんだん強くなってきているように見えた。反町は指導者の中ではもっとも理論家の一人だと思うが、ここまで選手をとっかえひっかえして、ベストのイレヴンを選べていない。このゲームは、センターバックに森重と水本、両サイドに内田と長友、２ボランチに梶山と本田（拓）、ミッドフィールドに谷口、本田（圭）、香川、そしてワンチップに森本という布陣。決して悪くないだろう。事実、前半はショートレンジのパスを繋ぎながら、右の内田がチャンスメイクする場面が多かった。森重と谷口が決定期を外したが、このリズムを持続すればたぶん勝つだろうと予想できる展開。だが、後半開始早々に長友のサイドを破られてバックラインが下がったところをミドルで決められた。先制されたが、この失点で目が覚めるのではないかと思えた。<br />
　だが、この１点ですっかり動きが落ちたのはジャパンの方。バックラインの押し上げがまったくなくなり、どの選手も自分のポジションから動こうとしないのだ。業を煮やした反町は、動きの質が悪かった梶山を李に代えて２トップ、さらに疲労の見えた森本を豊田に代えた。だがゲームは停滞するばかりだ。アメリカが暑さと残り時間からゲームを「殺し」にくるのは分かっているだろう。反町は正直だ。点が欲しい。だからＦＷだ。だが、このゲームを見る限り、その選択は間違っていたようだ。森本にはほとんど有効なボールが供給されていない。惜しいシュートは森重と谷口。両方ともパスは内田から来ている。攻撃の選択肢が少ない。有効はアタックは内田からしか始まっていない。問題は中盤の強化にあるはずだ。梶山を下げると中盤のパサーが誰もいなくなった。動きがわるくても梶山は代えられないのだ。左サイドの長友と本田（圭）からの崩しも少ない。２トップにするなら香川を下げるしかないだろう。<br />
　だが、もっと問題なのはハートだ。タイムアップが迫っても、バックラインの押し上げがない。ドリブルで勝負する奴がいない。豊田は、ペナルティエリアの中でＰＫをもらおうとしていた。この時間帯なら、明らかなＰＫの他、倒れてはいけない。ピッチがわるい。暑い。湿気が多い。そんな状況の中で勝ちを拾うためには、ハートしかない。このチームは、かなりうまい。だが、仕切る奴とハートのある奴がいない。</p>]]>

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<title>『ザ・ロード』コーマック・マッカーシー宮一紀</title>
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<summary type="text/plain">　一組の父と子が核戦争後と思しき灰燼と化した大地を延々と歩き続ける。空は暗澹たる分厚い雲に覆われ、そこに鳥の姿などあろうはずもない。寒冷化が進み、灰色の海の水は冷たい。もちろん魚など死に絶えているだろう。どうやら世界には〈道〉だけが残されたようだ。とても危険な〈道〉である。〈悪い者〉が出るかもしれないからだ。それでも彼らはひたすら〈道〉を南下して進んでゆく。多くの絶望的な光景に接しながら、父と子は...</summary>
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<![CDATA[<p>　一組の父と子が核戦争後と思しき灰燼と化した大地を延々と歩き続ける。空は暗澹たる分厚い雲に覆われ、そこに鳥の姿などあろうはずもない。寒冷化が進み、灰色の海の水は冷たい。もちろん魚など死に絶えているだろう。どうやら世界には〈道〉だけが残されたようだ。とても危険な〈道〉である。〈悪い者〉が出るかもしれないからだ。それでも彼らはひたすら〈道〉を南下して進んでゆく。多くの絶望的な光景に接しながら、父と子は時おり言葉を交わし、共に歩き続ける。<br />
　興味深いのは、人類がほとんど死滅したからっぽの世界で、彼らがなおも他者に怯えていることだ。そこで想定されているのは〈道〉の周辺に身を潜めて待ち伏せをする収奪者たちの存在である。世界には〈善い者〉と〈悪い者〉がいる。父は幼い息子にそう教えながら、彼自身は決して〈善い者〉の存在を信じていないようにも見える。むしろ彼の取る行動には善悪の判断など些かも介入しない。常に相手を出し抜くため、彼はただ遠方に眼を凝らし、耳をそばだて、嗅覚を鋭敏に保つ。ときには居もしない相手を察知しようと、長い時間枯れた叢の下で息子の手を握って息を潜める。もちろん実際に相手が現れて、息を飲むほどの緊張感が漲る瞬間も幾度か訪れるだろう。だが、たいていの場合、茫漠とした世界に向けられる彼らの感覚は、結局のところ何も感知することなく宙空に霧散する。彼らは疲弊を押して感覚を研ぎ澄ませるが、研ぎ澄まされた感覚のほとんどが不毛であることによって、疲弊はいよいよ進行してゆく。この作品が絶望的な世界を描いているとすれば、それは彼らの感覚の不毛さがあちこちで渦巻いているからだ。世界が捉えどころのないものだとすれば、世界は絶望的である。だが一方で、この作品が救いを描いているとすれば、それは父と子が、追い剥ぎに遭っても、病に伏しても、あるいは死してなお、世界を捉える感覚だけは決して捨てなかったからではないか。父が幼い息子に最期まで唱え続けたのが「Take a look at」という言葉であったこと。そのことがただただ感動的である。<br />
　ところで、SF小説作品としてはネビル・シュートの『渚にて——人類最後の日』、あるいはハーラン・エリスンの「少年と犬」（『世界の中心で愛を叫んだけもの』所収）でも黙示録的な世界がアイロニックに描かれていたが、『ザ・ロード』はむしろ近年のアメリカ映画の系譜に属している気がしてならない。『アイ・アム・レジェンド』や『ベオウルフ／呪われし勇者』が教えてくれたのは、「伝説」や「勇者」が何の救済にもならないということだった。カタストロフを覆すことのできるような特権的な存在はすでになく、残されたのはどうしようもない救い難さである。そうした事後的な世界で人々がどのように振る舞うかが示されたのが『ミスト』や『ハプニング』、あるいは『宇宙戦争』といった作品群だったはずだ。結城秀勇も指摘しているが、そこにあるのは物事の因果関係や物語の顛末などではなく、「現実を堪え忍ぶ」人々の有り様だ。世間では『ザ・ロード』に登場する少年を「新人類」と捉える向きもあるらしい。実際、著者のコーマック・マッカーシーはこの作品をかなりの高齢で授かった息子ジョン・フランシスに捧げていて、そこには何かしら託す思いもあるのだろう。だが、そこに希望を見出して安堵する気楽さは厳に慎まなければならない。いま、このような作品群がアメリカから立て続けに発表されている現実にそろそろ私たちは目を向ける（take a look at）べきである。</p>

<p><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=nobodymag-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4152089261&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=FFFFFF&bg1=FFFFFF&f=ifr&npa=1" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=nobodymag-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4488616011&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=FFFFFF&bg1=FFFFFF&f=ifr&npa=1" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=nobodymag-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4150103305&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=FFFFFF&bg1=FFFFFF&f=ifr&npa=1" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>]]>

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