<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<feed version="0.3" xmlns="http://purl.org/atom/ns#" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" xml:lang="en">
<title>nobodymag</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.nobodymag.com/" />
<modified>2010-03-10T14:50:54Z</modified>
<tagline></tagline>
<id>tag:www.nobodymag.com,2010://2</id>
<generator url="http://www.movabletype.org/" version="3.01D-ja">Movable Type</generator>
<copyright>Copyright (c) 2010, nobodymag</copyright>
<entry>
<title>『ハート・ロッカー』キャスリン・ビグロー鈴木淳哉</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.nobodymag.com/journal/archives/2010/0310_2317.php" />
<modified>2010-03-10T14:50:54Z</modified>
<issued>2010-03-10T14:17:26Z</issued>
<id>tag:www.nobodymag.com,2010://2.1122</id>
<created>2010-03-10T14:17:26Z</created>
<summary type="text/plain">　私は「戦争」に反応できない。なにか考えても、思うところがあっても、それらは戦争経験のない身にとって、反応からはるかに遅れた、それとは別のある振る舞いとしかならない。「振舞う」こと自体すらも何らかの倫理基準に抵触するのではないかと思い、縮こまるのである。だから、映画の冒頭で、「戦争は麻薬だ」という提言がなされても、「戦争」とも「麻薬」とも縁遠い身としては、どういう意味か考えてしまい、また「反応」は...</summary>
<author>
<name>nobodymag</name>


</author>
<dc:subject>cinema</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.nobodymag.com/">
<![CDATA[<p>　私は「戦争」に反応できない。なにか考えても、思うところがあっても、それらは戦争経験のない身にとって、反応からはるかに遅れた、それとは別のある振る舞いとしかならない。「振舞う」こと自体すらも何らかの倫理基準に抵触するのではないかと思い、縮こまるのである。だから、映画の冒頭で、「戦争は麻薬だ」という提言がなされても、「戦争」とも「麻薬」とも縁遠い身としては、どういう意味か考えてしまい、また「反応」は遅れ、「振る舞い」となってしまう。反応／振る舞いを分かつこの遅れは、やはり、戦争経験がない、しかし、戦争の存在は知っていて、私がここにいたかもしれない、というある種の後ろめたさに起因するのかもしれない。私の代わりに誰かが死ぬ。つまり、「戦争」を主題に扱った映画において、我々が、映画の中の登場人物に自らを重ねる場合、戦争以外を扱った映画の登場人物に自らを重ねる場合と真逆のベクトルをも含む。「私でない誰かが、ここにいる」という後ろめたさに端を発するものと、「私でない誰かが、ここにいるが、ある部分で彼は、私であるかもしれない」という願望に端を発するものである。<br />
 <br />
　なぜ、こんなたためない風呂敷を広げたかと言うと、監督のキャスリン・ビグローが、そうした場所に観客を置いたからである。それはまさにこの映画の登場人物たちの主な仕事である、爆弾処理の場面で、観ることができる。<br />
 <br />
　爆弾を中心に、被爆を避けて、半径数十メートルの空間が生じる。そこに、防爆スーツを着込んだ爆弾処理班が一人、中心を目指してつかつかと歩いていく。爆弾は市街地に置かれることも多く、当然衆目の目線は彼に集中するわけだから、無数のカメラポジションが発生する。宇宙服と見紛うような、分厚い防爆スーツに身を包んだ者の目線、また彼を守る者が、群集の中に怪しい人間がいないか、探す目線、爆弾処理を見物するそこに住む者たちの目線。これらは、即座に目線の主がわかり、これは誰の目線か、なぜこの目線が要請されたのか、考えることもない。映画の世界を確立するというよりは、人間の見た目に近く作られた画面で、これらのショットが繋がれていくが、そこにひとつ、人称性を帯びない目線がノイズのように紛れ込み、私の「反応」を遅らせる。映画に遅れて気づいたのは、それは、爆弾処理を実行するもの、また、彼を援護するものが、「我々はこのようなところから見られているのではないか？」と予測したかもしれない場所、つまり、爆弾の起爆装置があるのだとして、そのスイッチを握っているものがいるかもしれない場所に、カメラを置いたということだ。<br />
 <br />
　映画の登場人物たちが、「私かもしれない」なら、この目線は、「私を殺そうとするものがいるかもしれない」場所であり、「私かもしれない人間に、殺意を持つものが、いたかも知れない場所」から、「私かもしれない人間」を観ることは、倫理基準への抵触を恐れる気持ちよりも強く面白いと思った。</p>

<p><br />
<br><a href="http://hurtlocker.jp/">TOHOシネマズみゆき座、TOHOシネマズ六本木ヒルズ他全国ロードショー中</a><br />
</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>『The Anchorage 投錨地』C.W.ウィンター＆アンダース・エドストローム結城秀勇</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.nobodymag.com/journal/archives/2010/0224_0141.php" />
<modified>2010-02-23T16:46:17Z</modified>
<issued>2010-02-23T16:41:24Z</issued>
<id>tag:www.nobodymag.com,2010://2.1117</id>
<created>2010-02-23T16:41:24Z</created>
<summary type="text/plain">　セルジュ・ダネーは、「目のための墓場」と題されたストローブとユイレの映画についての文章で、次のように述べている。「映画を、映像を、声を、投錨するということ、それは映画の不均質性を真剣に受けとめることである。また、そういった投錨、つまりひとつの映像にとって、他の場所ではなくそこでしか可能ではなかったという事実、それは単に言葉と声の問題だけではない。それはまた身体の問題でもある」（「カイエ・デュ・シ...</summary>
<author>
<name>nobodymag</name>


</author>
<dc:subject>cinema</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.nobodymag.com/">
<![CDATA[<p>　セルジュ・ダネーは、「目のための墓場」と題されたストローブとユイレの映画についての文章で、次のように述べている。「映画を、映像を、声を、投錨するということ、それは映画の不均質性を真剣に受けとめることである。また、そういった投錨、つまりひとつの映像にとって、他の場所ではなくそこでしか可能ではなかったという事実、それは単に言葉と声の問題だけではない。それはまた身体の問題でもある」（「カイエ・デュ・シネマ・ジャポンⅥ ゴダールとストローブによる映画」）。</p>

<p><br />
　『The Anchorage 投錨地』は、スウェーデン、ストックホルム群島の人気のない小さな島に住むひとりの中年女性の3日間を描く。この作品で、一番最初に観客の記憶に刻みつけられるのは、この女性の身体である。まだ夜も明けきらぬ森の中を抜けて、彼女は海岸に出る。そこまで着てきたガウンを脱ぎ、彼女は素裸で海に身を潜らせる。ひとかき、ふたかき、時間にして数十秒にもならない短い水泳を終え、彼女は体を拭き、ガウンを羽織る。風にうねる波の音が耳を覆う中、彼女がゴム長靴に足を突っ込むときにたてる、ゴボッと言う音が、私たちをその場所に釘付けにする。<br />
　彼女は、泊まりに来ていた家族が帰って以降、ほとんど言葉を発しない。魚を捕まえ捌き、街に買い物に出かけ、屋根に積もった落ち葉を片付ける。椅子に腰掛ける。ほぼ無言で行われる彼女の一挙手一投足を見るならば、そこに物語られるべきすべてが描かれているのを理解するだろう。他ではないこの場所で、彼女がいかにして存在するのかを。しかし同時に、この作品を物語るのは彼女の声そのものである。日記の記述のような言葉を、ウラ・エドストロームの美しい声が3度読み上げる。日付との関連の中に繋ぎ止められる、動物や植物の様子、彼女の世界に侵入してきた異物、そして繰り返す季節の様子を。彼女によって音声化される言葉は、映像を裏付けるものでも、映像に裏付けられるものでもない。彼女の動きとそれが立てる物音が絶えず観客を現在に引き留めようとし、彼女のナレーションはそれをかつて繰り返されこれからも繰り返されるだろう小さなサイクルの連鎖へと広げていく。両者の振幅の中で、観客はこの地に繋ぎ止められる。</p>

<p><br><a href="http://www.yebizo.com/">恵比寿映像祭にて上映。『The Anchorage 投錨地』の上映は24日（水）19時〜。</a></p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>ヴァンクーヴァー・オリンピック　ジャンプ団体梅本洋一</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.nobodymag.com/journal/archives/2010/0224_0016.php" />
<modified>2010-02-23T15:19:05Z</modified>
<issued>2010-02-23T15:16:11Z</issued>
<id>tag:www.nobodymag.com,2010://2.1116</id>
<created>2010-02-23T15:16:11Z</created>
<summary type="text/plain">　黄金時代の日本ジャンプチームを率い、今日は解説者席に座る小野学はいったい何を考えたろう。バイツ、ユリアンティラと外国人ヘッドコーチを招聘しているが、好結果を残せない。今でも素晴らしい結果を残し続ける葛西の努力は賞賛に値するけれども、今なお、彼が代表でもっとも良い成績を残し続けることは、やはり強化がうまく行っていないということだ。結局出場機会はなかったが、岡部までもが代表に呼び戻されるということは...</summary>
<author>
<name>nobodymag</name>


</author>
<dc:subject>sports</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.nobodymag.com/">
<![CDATA[<p>　黄金時代の日本ジャンプチームを率い、今日は解説者席に座る小野学はいったい何を考えたろう。バイツ、ユリアンティラと外国人ヘッドコーチを招聘しているが、好結果を残せない。今でも素晴らしい結果を残し続ける葛西の努力は賞賛に値するけれども、今なお、彼が代表でもっとも良い成績を残し続けることは、やはり強化がうまく行っていないということだ。結局出場機会はなかったが、岡部までもが代表に呼び戻されるということは、長野オリンピック以来、選手が育ってきていないということだ。確かに伊東大貴は、今シーズンの前半は好調だったが、ヴァンクーヴァーにピーキングできなかった。W杯に出続けていた湯本は代表落ちし、団体戦に出た竹内択にせよ栃本翔平にしても、オーストリーはもちろん、ドイツ、ノルウェイの選手と比べると大幅に見劣りする。ジャーナリズムは、日本の実力を過信し、何とかメダルを！と叫ぶが、昨夜、テレビ出演した小野学は、５位ぐらいが妥当でしょう、と述べていた。その通りになった。昨年の世界選手権の３位はラッキーだったというだけだ。<br />
　選手強化に問題があるのだろうが、もっと大きな問題も見え隠れする。企業スポーツという問題だ。雪印（原田、伊東）、土屋（葛西）といった企業に選手たちが丸抱えされている。彼らはサラリーマンなのだ。だが、W杯を見続けている者にとって、大倉山のNHK杯優勝程度が目標の企業スポーツの枠を、この競技ははるかに越えている。ヨーロッパ・ジャンプ週間の賑わいぶりを見れば、そんなことは明らかだろう。ウィンタースポーツに関わる企業がコンソーシアムを組んで、SAJをサポートする体制が最低限必要ではないか。あるいは、カーリングのチーム青森のように、大倉シャンツェのある札幌市が、ジャンプチームを完全にサポートする体制を作るのもいいかもしれない。船木和喜の弁だが、日本人選手の多くは大倉山で練習しているので、大倉山特有の向かい風に慣れているので、無風や追い風では結果が出せないということだ。W杯形式のジャパン・カップを設けて、各地の台──スキー場に行くと大会後はまったく使われていないジャンプ台がたくさんある──を回りつつ、ヨーロッパ・カップのように、そこで好成績を収めた選手を次々にW杯に参戦させるのもいいだろう。フットボールのようにジャパンA、ジャパンBといったカテゴリーに10名程度の選手を入れておく。AチームはW杯、Bチームはヨーロッパ杯といった感じで。<br />
　とにかく数人のエリートのみが常にW杯に参戦する現在の方式では、選手層がさっぱり厚くならない。</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>『リミッツ・オブ・コントロール』ジム・ジャームッシュ結城秀勇</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.nobodymag.com/journal/archives/2010/0222_0057.php" />
<modified>2010-02-21T16:09:47Z</modified>
<issued>2010-02-21T15:57:39Z</issued>
<id>tag:www.nobodymag.com,2010://2.1115</id>
<created>2010-02-21T15:57:39Z</created>
<summary type="text/plain">　吉祥寺バウスシアターで行われている「爆音ナイト傑作選2009」にて。
　爆音上映ということで当然期待していたのは、BORISのサウンドトラックでもあるのだが、冒頭イザック・ド・バンコレとアレックス・デスカスとジャン＝フランソワ・ステヴナンの3人の対話で、予期していなかった音の位相のありように気づく。アレックス・デスカスの言葉を英語に翻訳して反復するステヴナン。そこでセンターから聞こえてくる彼らの...</summary>
<author>
<name>nobodymag</name>


</author>
<dc:subject>cinema</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.nobodymag.com/">
<![CDATA[<p>　吉祥寺バウスシアターで行われている「爆音ナイト傑作選2009」にて。<br />
　爆音上映ということで当然期待していたのは、BORISのサウンドトラックでもあるのだが、冒頭イザック・ド・バンコレとアレックス・デスカスとジャン＝フランソワ・ステヴナンの3人の対話で、予期していなかった音の位相のありように気づく。アレックス・デスカスの言葉を英語に翻訳して反復するステヴナン。そこでセンターから聞こえてくる彼らの声が遙か遠くから聞こえてくるような錯覚に陥る。彼らの話を注意して聞いてはいるのだが、両サイドのスピーカーから聞こえてくる、言葉の塊を為すほど明瞭になる前に浮かんでは消えるざわめきの中に聞いている私がずぶずぶと埋まっていくような感じだ。中央よりやや左よりに座った私は、物理的にセンタースピーカーよりレフトのスピーカーの方が距離が近かったが、この感じはそのせいだけではないだろう。初見ではないので注意深く字幕を追うことなどやめた。そこで気づいた。ド・バンコレは私たちを旅に連れ出してくれるツアーガイドではないし、これから先目にするもの耳にするものは、ド・バンコレの感覚を通じて私たちに届けられるものなどではないのだと。<br />
　ド・バンコレと彼が出会う人々は目に見えない力で結びつけられている。目に見える力などないのだから、ただ力で結ばれていると言えばいい。科学的、哲学的、音楽的、映画的、絵画的、幻覚的、ボヘミアン的なその力のサイクルの中にたやすく加わっていくことなどできない。ド・バンコレの留まるホテルの中には、窓を開け放っていたとしても、締め切っていたとしても、同じ大きさで外の街の音が入り込んでくるだろう。あるいはバルコニーで、向かいの建物の窓に見知った女の姿が現れ消えていくのを見つめたカメラが、そのままワンカットでド・バンコレの横顔を映し出す以上、私たちが彼と同じものを見た確証はなにもない。彼らと私たちの間には壁がある。通り抜けられない壁だ。そして通り抜けられない壁を通過するために必要なものを私たちは教えられている。想像力とスキル。<br />
　『リミッツ・オブ・コントロール』に登場する人物たちは、力によってジャームッシュの人生と結びつけられてもいる人々だ。この力はここには姿を現さない、もっと多くの人々を結びつけている、そしてその結びつきによって生まれたものでもある。3月発売のnobody issue33に掲載予定のフィリップ・アズーリによるジム・ジャームッシュのインタヴューで、ジャームッシュはここには姿を現さないがこの力に連なる者たちについて言葉を紡いでいる。la vida no vale nada。人生には意味なんてないという言葉は、ジャームッシュとジョー・ストラマーの間に横たわっている言葉だ。だとすれば、私が欲しいのは、意味や価値ではなく、力だ。</p>

<p><br><a href="http://www.bakuon-bb.net/bakuonnight2009/index.html">爆音ナイト傑作選2009。『リミッツ・オブ・コントロール』は23日（火）まで。</a></p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>『抱擁のかけら』ペドロ・アルモドバル梅本洋一</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.nobodymag.com/journal/archives/2010/0217_1327.php" />
<modified>2010-02-17T04:28:54Z</modified>
<issued>2010-02-17T04:27:53Z</issued>
<id>tag:www.nobodymag.com,2010://2.1114</id>
<created>2010-02-17T04:27:53Z</created>
<summary type="text/plain">　アルモドバルはもう完全に「巨匠」だ。彼の監督歴もすでに40年近く、そして年齢も還暦に達している。諦念と達観、そしてメランコリー。失った恋と眼差し、家族、そして職業としての映画。ほとんどアルフレッド・ヒッチコックのようなタッチで恋愛を描き、なんとかロッセリーニの『イタリア旅行』のような透明な単純さに到達しようとする倒錯的な欲望。ペドロ・アルモドバルのこのフィルムは、そうした混濁と透明の中間地帯を浮...</summary>
<author>
<name>nobodymag</name>


</author>
<dc:subject>cinema</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.nobodymag.com/">
<![CDATA[<p>　アルモドバルはもう完全に「巨匠」だ。彼の監督歴もすでに40年近く、そして年齢も還暦に達している。諦念と達観、そしてメランコリー。失った恋と眼差し、家族、そして職業としての映画。ほとんどアルフレッド・ヒッチコックのようなタッチで恋愛を描き、なんとかロッセリーニの『イタリア旅行』のような透明な単純さに到達しようとする倒錯的な欲望。ペドロ・アルモドバルのこのフィルムは、そうした混濁と透明の中間地帯を浮遊するように展開する。<br />
　映画監督マテオ・ブランコとシナリオ作家ヘンリー・ケインというふたつのアイデンティティを持つ盲目の男。彼が14年前に撮った作品の顛末と、それにまつわる事件が、新聞の訃報から思い出される。ファム・ファタルとして登場するレナ（ペネロペ・クルス）──彼女の役名はマグダレナ、つまり英語だとマデリーン──は明らかに『めまい』のマデリーンだ。時に彼女はセヴリーヌと呼ばれるから、その意味では『昼顔』の娼婦でもある。ここでも出現する二重性＝分身。それが何重にも重層して、映画を撮り、それを完成させることの神話が、このフィルムの物語の中心に位置する。だから極めて自己省察性の強いフィルムでもある。還暦に達し、自らのキャリアを振り返り、自らが敬意を表する映画作家たちを総動員しつつ、アルモドバルの様式、彼のスタイルにはまったく揺るぎがない。<br />
　このフィルムのペネロペ・クルスは溜息が出るほどに美しい。そして、恋愛という凶器を手にした彼女は、女性そのものを体現する。誠実であることが裏切りそのものであり、何人もの男たちの運命を狂わせていく。これほどのファム・ファタルを見たことがあったろうか。<br />
<br><a href="http://www.houyou-movie.com/">全国ロードショー中</a></p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>サッカー東アジア選手権梅本洋一</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.nobodymag.com/journal/archives/2010/0217_1325.php" />
<modified>2010-02-17T04:26:38Z</modified>
<issued>2010-02-17T04:25:40Z</issued>
<id>tag:www.nobodymag.com,2010://2.1113</id>
<created>2010-02-17T04:25:40Z</created>
<summary type="text/plain">　１勝１分１敗という成績もちょっと信じがたいが、実際にゲームを見ると、問題なのは、その内容であることが誰の目にも明らかだ。岡田武史の続投を問う声が大きくなっているのも当然だろう。
　このチームではすべての起点にならざるを得ない遠藤にボールが渡っても、虚しく首を振るばかりだ。遠藤の後方に位置する稲本は、ボールを持っても、バックラインに戻す選択しかない。内田、長友の両翼はしっかりマークされている。空い...</summary>
<author>
<name>nobodymag</name>


</author>
<dc:subject>sports</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.nobodymag.com/">
<![CDATA[<p>　１勝１分１敗という成績もちょっと信じがたいが、実際にゲームを見ると、問題なのは、その内容であることが誰の目にも明らかだ。岡田武史の続投を問う声が大きくなっているのも当然だろう。<br />
　このチームではすべての起点にならざるを得ない遠藤にボールが渡っても、虚しく首を振るばかりだ。遠藤の後方に位置する稲本は、ボールを持っても、バックラインに戻す選択しかない。内田、長友の両翼はしっかりマークされている。空いているケースが多い大久保にボールを渡しても、その後の展開力は皆無だ。コンセプトが先走りしすぎているという論評が多いが、どんなフットボールをするのか、というコンセプトは選手たちのプレーぶりから一切伝わってこない。オシム時代は、まず走り勝つこと、そしてボールを前に繋ぐこと、すべての選手がそれを試みていた。だから、たとえゲームに負けたとしても、まだ見所はあった。しかし、東アジア選手権の３ゲームを見る限り、岡田武史がどんなフットボールをしたいのか、どのようにゲームを作っていきたいのかまったく見えない。安全なパスを選択するがゆえにパススピードは遅くなり、ゲーム展開は遅延するばかり。「動きだし」がほとんど見られないから、ワンタッチ、トゥータッチのパスが見られない。そして、思い切って仕掛ける勇気を持ったプレーもほとんどない。いったいこのチームは、どうやって勝つつもりだろうか？ W杯ベスト４など、もとから誰も信じていないだろうが、このようなチームを目の当たりにすると、ジーコ時代よりも悪い。何もしないジーコに対して選手たちは、どうにかしようとはしていた。でも、今回、チームを変えようとする選手は見当たらない。<br />
　フランス協会以外、こうした監督を留任させる協会はないだろう。監督の仕事は勝つことも重要だが、選手たちの能力を100パーセント出すように仕向けることだ。少なくとも東アジア選手権の３ゲームで、目立った選手はいなかった。ということは、監督の編成能力がないということだ。育成型の監督にも選手権型の監督にも共通する仕事とは、ゲームを通じて、こんなフットボールをするという形をアピールして、その形で勝利を収めることだ。ファーガスンもヴェンゲルも、そしてグアルディオラも、モウリーニョも同じ仕事をしているし、彼らのチームは、ユニフォームを代えても、選手の仮面を付けさせても判る。国立競技場を包み込んだブーイングの嵐は、今から13年近く前の同じ場所で対UAE戦のドローの後と同じだ。当時の観客はもっと熱くて、カズに卵を投げた奴までいた。そして、当時のチームも、加茂解任の後を受けて就任した岡田武史が監督だった。彼が監督になってもパッとしないゲームが続いたが、それを劇的に変えたのは、中田英寿だったことは皆が覚えている。<br />
　原博美は、次戦のバーレーン戦には、欧州組を入れると言っている。森本、本田、松井、長谷部、俊輔……。長谷部を除いて大して活躍している選手はいない。それに本田もCSKモスクワに移籍したばかりで、どうなるのか。</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>『（500）日のサマー』マーク・ウェブ結城秀勇</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.nobodymag.com/journal/archives/2010/0215_2208.php" />
<modified>2010-02-15T13:15:15Z</modified>
<issued>2010-02-15T13:08:50Z</issued>
<id>tag:www.nobodymag.com,2010://2.1111</id>
<created>2010-02-15T13:08:50Z</created>
<summary type="text/plain">　「彼女のキスで俺は生まれ、彼女が去って俺は死んだ。彼女が愛した数週間だけ、俺は生きた」。そんなセリフを『孤独な場所で』のハンフリー・ボガートは脚本の中に挿入したが、主人公トムにとっての500日間が意味するのもひとつの「生」のサイクルだろう。いや、「生」というほどハードボイルドなものではとてもないので、タイトルどおり、ひとつの季節を彼は通過する、というくらいにしておくのが適切か。渡辺進也はこの映画...</summary>
<author>
<name>nobodymag</name>


</author>
<dc:subject>cinema</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.nobodymag.com/">
<![CDATA[<p>　「彼女のキスで俺は生まれ、彼女が去って俺は死んだ。彼女が愛した数週間だけ、俺は生きた」。そんなセリフを『孤独な場所で』のハンフリー・ボガートは脚本の中に挿入したが、主人公トムにとっての500日間が意味するのもひとつの「生」のサイクルだろう。いや、「生」というほどハードボイルドなものではとてもないので、タイトルどおり、ひとつの季節を彼は通過する、というくらいにしておくのが適切か。渡辺進也はこの映画を見て「ラブコメというより青春映画ですね」と確か言っていたような気がするが、それは正しい。「この映画はボーイ・ミーツ・ガールの映画だが、恋愛映画ではない」とナレーションが宣言するとおり、この映画の主たるテーマはトムの成長にあるからだ。<br />
　だが私がこの映画を興味深く見たのは、三度挟まれるナレーションが非時系列な展開を方向付けしていく、トムの成長物語という側面ではない。そうではなく、500日間を経た後で振り返られる過去の、その非時系列的なあり方そのものだ。トムとサマーが出会った1日目から、彼にとってのひとつの季節が終わる500日目まで、彼らが何度喧嘩して仲直りしたのかなどわからない。もしかしたら彼らの関係における決定的な瞬間はすべてここで描かれていて、トムの目には非連続的なものに映るサマーの感情の変化の理由はきちんと脚本に書かれているのかもしれないのだが、移り変わる日付に特に注意も払わずに見ていると、ああまた喧嘩してる、ああまた仲良くしてる、といった感じで500日間におけるあらゆる 1日1日が等価に過ぎていく。サマーを演じるズーイー・デシャネルの、光の加減で空色にもエメラルド色にも見える目の色のように、トムの記憶を通じて断片的に描き出されるサマーという女性はまったくつかみどころがない。<br />
　しかし、そんなものだよな、と思うのだ。「僕らの関係は一体なんなのか」「何でそんなことする」と繰り返し問うトムに対して、サマーが「ハッピーならいいじゃない」「したいからそうする」と答えるたび、500日間のうちの任意の一瞬が現在として通過する。過去は、500日間の1日目から順に色褪せていくわけじゃない。嬉しさのあまり出勤風景がミュージカルになってしまう1日も、 IKEAで売り物の家具を舞台に小芝居をする1日も、リンゴ・スターのレコードを見せても彼女が無反応な1日も、ふたりで大声でペニス！と叫ぶ1日も、因果関係から解き放たれて独立して共存する。<br />
　この作品の最後で、トムは500日間という時間を切り離し囲い込んでしまうが、それでもこの先も、ある1日が突然暴力的に回帰してくるのを妨げることはできないだろう。彼がサマーへの思いを断ち切ろうが断ち切るまいが、たいした問題ではない。これは彼の人生のうちの500日間なのではなく、500日間という記憶のあり方そのもののうちに彼は生きたのだから。「記憶がわれわれのうちにあるのではない。われわれのほうが、記憶ー＜存在＞のうちに、記憶ー世界のうちに生きているのだ」（ドゥルーズ『シネマ2＊時間イメージ』）。</p>

<p><br><a href="http://movies.foxjapan.com/500daysofsummer/">シネクイント、TOHOシネマズシャンテ他にてロードショー中</a><br />
<a href="http://www.nobodymag.com/online_shop.html">nobody issue32 特集「She's so lovely 現代のコメディエンヌに向けて」でも取り上げています。<br />
</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>『まだ楽園』佐向大結城秀勇</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.nobodymag.com/journal/archives/2010/0213_1936.php" />
<modified>2010-02-13T10:44:05Z</modified>
<issued>2010-02-13T10:36:05Z</issued>
<id>tag:www.nobodymag.com,2010://2.1110</id>
<created>2010-02-13T10:36:05Z</created>
<summary type="text/plain">　曖昧で矛盾したやりとりは、対話をどこへも導かないまま、その量を増加させていく。前進しているのにどこへも行かない、月並みだけれど見たことのない風景がどこまでも広がっていく。そうした世界を名付けるとすれば、その公開から4年を経たいまでも、やはり“まだ”楽園なのだと呼ぶほかない。
　この映画を初めて見た2004年の初夏から、何度か繰り返しこの映画について書いてきた。この作品に捉えられた私たちを取り巻く...</summary>
<author>
<name>nobodymag</name>


</author>
<dc:subject>cinema</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.nobodymag.com/">
<![CDATA[<p>　曖昧で矛盾したやりとりは、対話をどこへも導かないまま、その量を増加させていく。前進しているのにどこへも行かない、月並みだけれど見たことのない風景がどこまでも広がっていく。そうした世界を名付けるとすれば、その公開から4年を経たいまでも、やはり“まだ”楽園なのだと呼ぶほかない。<br><br />
　この映画を初めて見た2004年の初夏から、何度か繰り返しこの映画について書いてきた。この作品に捉えられた私たちを取り巻く風景について、いくつかのカップルについて、繰り返される矛盾に満ちた会話について。だからもう、いまさら改めて書くことなどないだろうと高をくくっていたが、見直してみたところ “まだ”この作品には驚かされる。『ランニング・オン・エンプティ』という新作の公開が直前に迫ったこのときになお、『まだ楽園』というタイトルの中の “まだ”という言葉の重みは失われていない。<br />
　もう既に何度か見たやりとりに笑いをこらえきれなかったのは、彼らのやりとりが正しいタイミングをつかんでいるからだ。父殺し、世界の終わり、というともすれば90年代的な色合いに染まってしまいそうなテーマを持つこの作品が、ちっとも古びた感じがしないのは、絶えず重苦しさに空虚な風穴を穿つ笑いがあるからだ。そのタイミングは、やはり私たちを“まだ”という時間感覚の中に置く。死体の埋葬の儀式にあわせて二度繰り返される、世界を切り裂くエンジンのスタート音。そのタイミングの絶妙さには震えを覚える。とりわけ二度目は、狭い室内空間を稲妻のように切り裂くミサイルズの音楽付きで。そしてライヴハウスのシーンで、佐向大自身が演じる店員のあの乾いた笑いのタイミングはどうだろう。<br />
　“まだ”という時間感覚の可能性は、“まだ”使い尽くされていない。</p>

<p><br><a href="http://www.palomine.jp/">池袋シネマ・ロサにてレイトショー中</a></p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>『サロゲート』ジョナサン・モストウ結城秀勇</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.nobodymag.com/journal/archives/2010/0201_1437.php" />
<modified>2010-02-01T05:40:58Z</modified>
<issued>2010-02-01T05:37:40Z</issued>
<id>tag:www.nobodymag.com,2010://2.1107</id>
<created>2010-02-01T05:37:40Z</created>
<summary type="text/plain"> 「ターミネーター」シリーズを3でキャメロンから引き継いだジョナサン・モストウ。日本では奇しくもキャメロン12年振りの劇場長編と同じタイミングで、モストウの新作『サロゲート』が公開されている。偶然にしては出来過ぎなほど、キャメロン『アバター』とモストウ『サロゲート』は比較対象としてうまい対になっている。
　どちらの作品も、生身の人間が異なった外見の人工物に乗り込み、人工物の体験を生身のものとして感...</summary>
<author>
<name>nobodymag</name>


</author>
<dc:subject>cinema</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.nobodymag.com/">
<![CDATA[<p> 「ターミネーター」シリーズを3でキャメロンから引き継いだジョナサン・モストウ。日本では奇しくもキャメロン12年振りの劇場長編と同じタイミングで、モストウの新作『サロゲート』が公開されている。偶然にしては出来過ぎなほど、キャメロン『アバター』とモストウ『サロゲート』は比較対象としてうまい対になっている。<br />
　どちらの作品も、生身の人間が異なった外見の人工物に乗り込み、人工物の体験を生身のものとして感じるという事柄をプロットの中心においている。『アバター』のそれはCGであり、人間とはスケールも色合い（世界の背景も含めて）も異なる。一方『サロゲート』は、皺や皮膚のたるみなどが消された特殊メイクを強調した存在として現れる。一皮むけば機械の中身が簡単に露出してしまう所などは、旧式ターミネーターを思い起こさせもする。そして極端に言うと、『アバター』はCGが人間を駆逐する話なのだと言えるし、『サロゲート』は人間が特殊メイクを駆逐する話だと言える。<br />
　作品を見る前には、モストウを応援したい気持ちが多分にあったのだが、鑑賞後にはどうも乗り切れない気分が残る。その理由はおそらく『アバター』との比較によって明確になったものかもしれない。『アバター』では、人間がアバターに乗り込んだ後の経験は詳しくわかるが、なぜアバターに乗り込む必要があるのかはよくよく考えるとわからない。逆に『サロゲート』ではなぜ人間がサロゲートに乗りたくなるのかはわかれど、実際乗り込んだ体験がどんなものかはよくわからない。この点が、映画のおもしろさということに大きく関わっている気がするのだ。<br />
 『ロスト・イン・アメリカ』の中で、安井豊はキャメロンの映画の構造的な同一性について語っている。「スピルバーグの時代」の空間は我々が現実に生活する空間の延長上にあったが、「キャメロンの時代」の空間は、理論的には延長上に位置しているが、実際には我々の生活空間から途絶した異空間になっていると。例えば『ターミネーター』であれば「観客は、核戦争後の死者の視点ーー単純に言えばターミネーターの視点ーーからLAを見ていることになる」と。<br />
シリーズ三作目にして、初めて核戦争がリアルタイムな事柄となった『ターミネーター3』におけるおもしろさはおそらくここにかかっていた。あの非人間的な物体との追跡劇は、核戦争後の使者の視点と核戦争前の生者の視点が紙一重のところまで近づいたところで初めて可能だったのではないか。『サロゲート』でも同様に行われる追跡劇がどこか盛り上がりに欠けるのは、あのシーンを傍観しているはずの普通のサロゲートたちの視線がどんなものなのか、観客にはわからないせいだろう。乗り心地という点で、サロゲートがアバターに劣っているのは明白である。</p>

<p><br><a href="http://www.movies.co.jp/surrogate/">全国ロードショー中</a></p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>『永遠に君を愛す』濱口竜介結城秀勇</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.nobodymag.com/journal/archives/2010/0130_0522.php" />
<modified>2010-01-30T06:49:02Z</modified>
<issued>2010-01-29T20:22:37Z</issued>
<id>tag:www.nobodymag.com,2010://2.1106</id>
<created>2010-01-29T20:22:37Z</created>
<summary type="text/plain">　ああしておくべきった、あるいは、ああすべきではなかったという、日常私たちが無批判に繰り返す些細な誤った振る舞いを、濱口竜介の作品は上映時間いっぱいをかけて極限まで高めていく。結婚式の3ヶ月前にあった浮気を些細なこととみなすかどうかは意見の分かれるところだろう。というか、『永遠に君を愛す』の登場人物は誰ひとりとして些細なことだとは認識しない。だがここであえて些細な過ちと呼ぶのは、結婚式3ヶ月前の浮...</summary>
<author>
<name>nobodymag</name>


</author>
<dc:subject>cinema</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.nobodymag.com/">
<![CDATA[<p>　ああしておくべきった、あるいは、ああすべきではなかったという、日常私たちが無批判に繰り返す些細な誤った振る舞いを、濱口竜介の作品は上映時間いっぱいをかけて極限まで高めていく。結婚式の3ヶ月前にあった浮気を些細なこととみなすかどうかは意見の分かれるところだろう。というか、『永遠に君を愛す』の登場人物は誰ひとりとして些細なことだとは認識しない。だがここであえて些細な過ちと呼ぶのは、結婚式3ヶ月前の浮気が結婚式3ヶ月前の浮気のままに、しかしまったく別の重みを持ったものに変容する瞬間がこの映画にはあるからだ。<br />
　新婦、新郎、新婦の両親、新郎の母、浮気相手、そして神父、彼らはそれぞれに、このあまり道徳的とはいえない振る舞いについて述懐する。その出来事をどのくらいの重みを持ったものとして認識するか、その事実に対してどうリアクションすべきか、目の前に迫った状況にどう対処すべきか、意見はみなそれぞれに違っている。違ってはいるが、そのひとつひとつは各人の内面の規範によるものでしかない。違ってはいるが、彼らが持つ規範は同じものを共有している。誰も結婚式3ヶ月前の浮気なんてしてもいいじゃない、とは言わない。悪いことではあるのだが、結婚式3ヶ月前に浮気した人間と結婚してはならないという法律はない。悪いことではあるのだが……。道徳という私たちの柔らかな部分を静かに揺さぶる、この微妙な悪は、振動をゆっくりと伝播させていき、しまいにはあらゆる人々を決定不能な状況にまで追い込む。<br />
　その後に観客を待つ展開は、一体なんだったのだろうか。許し、でも、和解、でもおそらくない。彼らは道徳を法の域まで高めたのだ。彼らは不道徳なことを罪の域まで追いやったのだ。これは単なるレトリックではない。内面的な規範が、外在的な規範に変わった瞬間があるのだ。その瞬間を厳密に言い当てることはできない。だが、それ以前のシーンにもその萌芽はあった。個人的なことだが、家族同士が話し合う中に、突然神父が介入してくる瞬間、大島渚の『絞死刑』を思い出した。大島は見えざる権力の体制を暴くために様々な儀式を繰り返し導入してきたが、濱口が『PASSION』に引き続き結婚の問題（特に今回は結婚「式」）を描くことにはそれとさほど遠からぬなにかが潜んでいるのかもしれない。<br />
　新郎と新婦が隣室に移動して奥の部屋へと続く扉を閉める。彼らがそれぞれに言葉を交わす。その時にはすでに、結婚式3ヶ月前の浮気はそれまでとは違った重みを得ている。彼らは「永遠に愛す」だろう。『JLG／自画像』の最後の言葉ではないが、そこには約束があるからだ。<br />
　だが彼らが変化したのだろうか。いや、そこで変わるのは観客の方なのかもしれない。そこで、これはいい映画だ悪い映画だという内面的な規範を放棄して、ただ、これはシネマだという外在的な規範を得るのかもしれない。</p>

<p><br><a href="http://www.mirai-kyosho.kitanaka-school.net/index.html">「未来の巨匠たち」にて上映</a></p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>『夜光』桝井孝則梅本洋一</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.nobodymag.com/journal/archives/2010/0126_1950.php" />
<modified>2010-01-26T12:12:35Z</modified>
<issued>2010-01-26T10:50:50Z</issued>
<id>tag:www.nobodymag.com,2010://2.1105</id>
<created>2010-01-26T10:50:50Z</created>
<summary type="text/plain">　「未来の巨匠たち」特集上映の枠で、桝井孝則の『夜光』を見た。プログラミングに携わるひとりなのに、初めて見たと告白する無責任さを許して欲しい。関西に住む彼の作品に触れる機会がなかったと言い訳するのも、DV撮影されているのに、ディジタル時代のアナログメディアである映画がなかなか距離を踏破しづらいことを示しているのかも知れない。
　海老根剛の文章はこのフィルムにはうってつけのイントロダクションになるだ...</summary>
<author>
<name>nobodymag</name>


</author>
<dc:subject>cinema</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.nobodymag.com/">
<![CDATA[<p>　「未来の巨匠たち」特集上映の枠で、桝井孝則の『夜光』を見た。プログラミングに携わるひとりなのに、初めて見たと告白する無責任さを許して欲しい。関西に住む彼の作品に触れる機会がなかったと言い訳するのも、DV撮影されているのに、ディジタル時代のアナログメディアである映画がなかなか距離を踏破しづらいことを示しているのかも知れない。<br />
　<a href="http://blog.livedoor.jp/mirai_kyosho/archives/51425452.html">海老根剛の文章</a>はこのフィルムにはうってつけのイントロダクションになるだろう。そして桝井孝則のフィルムを、ものの１分も見れば、このフィルムが作っている力学を感じられない人はいないだろうし、その映画を見たことがある人なら一様に「ストローブ＝ユイレ！」と呟いてしまうだろう。異様なテンションで語られるリアリズムから遠い台詞回し、長々と続行する風景のショットとノイズを排除しない現場の音……そう書けば、ストローブ＝ユイレの真似事は誰にでもできそうなのだが、ゴダールの真似をできる人がいないように、映画の限界体験でもあるストローブ＝ユイレの力学をそのままコピーしたところでストローブ＝ユイレになれる人など誰もいない。なぜなら、ストローブ＝ユイレのフィルムが生成するのは、フォルムではなく、力学からだからであって、その力学は、厳密な弁証法に基づいて成立する。音声と映像と簡単に言ってしまえばそれまでなのだが、その弁証法的な力学に到達できる人は、例外的だ。<br />
　つまり桝井孝則は例外的な存在だ。彼のフィルムでは、どんな局面においてもそうした弁証法的な力学が息づいている。台詞と声、ペンと紙、男と女、都会と田舎、停止と移動、時間と空間、仕事と金銭……。表面的には、派遣労働者である女性と同じように写真家になりたいのだがアルバイト生活をする男性の労働についての物語の体裁を採っている。重要なのは、その物語が語る内容ではなく、弁証法の産み出す力学であって、映画は、その要素をひとつひとつ詳細に知的に構成しつつ、弁証法の運動をそのプロセスのまま提示している。『夜光』は、その意味で、撮ってしまった映画とは正反対の位置にある。<br />
　むろん、こうした映画が備えている困難さについては誰でもが知っている。映画は商業であり、娯楽であると言われれば、このフィルムは、その範疇には入らない。映画産業から見れば、このフィルムは映画ではない。だが、映画にはどんな可能性があり、映画でどんなことが可能になるか、という商業を括弧に入れて、別の問題を立てれば、このフィルムほど、その問いにまっとうな回答を与えているフィルムはないだろう。つまり映画とは思考である。映画とは弁証法の運動である。<br />
<br><a href="http://mirai-kyosho.kitanaka-school.net/">特集上映「未来の巨匠たち」シネマ・ジャック＆ベティにて開催中、1月29日まで！</a></p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>『オルエットの方へ』ジャック・ロジエ結城秀勇</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.nobodymag.com/journal/archives/2010/0123_1416.php" />
<modified>2010-01-23T05:19:46Z</modified>
<issued>2010-01-23T05:16:35Z</issued>
<id>tag:www.nobodymag.com,2010://2.1104</id>
<created>2010-01-23T05:16:35Z</created>
<summary type="text/plain">　職場では偉そうにしているが好きな部下の女の子には頭が上がらない男が、偶然を装ってヴァカンスにその女の子とその女友達ふたりと、大西洋岸のとある海辺の町で2週間ばかりの夏の日々を過ごす。
　この映画のなにが素晴らしいかを一言で言えば、2時間半あまりあるこの映画のほとんどの時間で女の子たちがバカみたいに笑ってきゃあきゃあ言っているだけということだ。木靴を履いて踊ってはきゃあきゃあ言い、エクレア食っては...</summary>
<author>
<name>nobodymag</name>


</author>
<dc:subject>cinema</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.nobodymag.com/">
<![CDATA[<p>　職場では偉そうにしているが好きな部下の女の子には頭が上がらない男が、偶然を装ってヴァカンスにその女の子とその女友達ふたりと、大西洋岸のとある海辺の町で2週間ばかりの夏の日々を過ごす。<br />
　この映画のなにが素晴らしいかを一言で言えば、2時間半あまりあるこの映画のほとんどの時間で女の子たちがバカみたいに笑ってきゃあきゃあ言っているだけということだ。木靴を履いて踊ってはきゃあきゃあ言い、エクレア食ってはきゃあきゃあ言い、ヨットに乗ってはきゃあきゃあ言い、うなぎを床にぶちまけてはきゃあきゃあ言う。もちろんそんなヴァカンスもいつか終わる。夏の始まりと終わりでは、いろんなことが様変わりする。しかしたとえすべてが元通りでなくなってしまうにしても、いやそれだからこそ、あのバカ騒ぎに意味がないわけではない。<br />
　喧噪とこみ上げる運動の中で、3人の女の子たちはもう誰が誰だかわからなくなってほとんどもう抽象的な「女の子」になる。もちろん彼女たちにもそれぞれに違った背景があり、違った顔がある。それをカメラはここしかないというくらい完璧に美しく切り取る。それらの顔は皆違って魅力的なのに、またひとたび彼女たちが動き出しバカ騒ぎを始めれば、それぞれの部分的な差異による美しさを、もっと普遍的な「女の子」の美しさが覆い隠してしまう。女の子女の子と書いてきたが、別に彼女たちはティーンエイジャーなわけでもなく、もういい大人だ。でもこういう女性たちはきっと死ぬまで「女の子」だろう。そうじゃない女は若いころから女の子じゃない。ダニエル・クロワジが好きでやってきたはずのベルナール・メネズが魅了されてしまったのも、そうしたものだったはず。静けさと倦怠の中でひとりの「女の子」に戻り、再びバカ騒ぎがやってくることで「女の子」全体みたいなものになってしまう3人の女の子を通じて、ちょっと世界に恋をする。<br />
　この作品の助監督として名を連ねる、ジャン＝フランソワ・ステヴナンの名前のせいだろうか。『オルエットの方へ』はどこかジョン・カサヴェテスの映画を思い起こさせもする。周りの男性の友人には、『ハズバンズ』の男たちのようであってほしい。周りの女性の友人には、いつまでも『オルエットの方へ』の女の子のようであってほしい。そんなふうに思えた作品である。</p>

<p><br><a href="http://www.rozier.jp/index.html">渋谷ユーロスペースにて「ジャック・ロジエのヴァカンス」開催中！</a><br />
<br>nobody issue32 にてジャック・ロジエ小特集を掲載！<br />
<a href="http://www.nobodymag.com/online_shop.html">お買い求めはオンラインショップにて</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>『アワーミュージック』相対性理論＋渋谷慶一郎田中竜輔</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.nobodymag.com/journal/archives/2010/0122_0101.php" />
<modified>2010-01-21T16:41:31Z</modified>
<issued>2010-01-21T16:01:00Z</issued>
<id>tag:www.nobodymag.com,2010://2.1103</id>
<created>2010-01-21T16:01:00Z</created>
<summary type="text/plain">　ピアノ、エレクトリック・ギター／ベース、ドラムス、そして様々な電子音。普段はまったく忘れてしまっていることだが、そもそもの音の大きさが異なる楽器たちがごく「自然」にひとつの楽曲を奏でているということは、本当はものすごく「不自然」なことで、音の増幅を制御する技術が存在しなければ、それら楽器の数を量的に調節するか、もしくは物理的に距離を取るしか、本来その音楽を実現する術はないはずだ。遠く離れた場所か...</summary>
<author>
<name>nobodymag</name>


</author>
<dc:subject>music</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.nobodymag.com/">
<![CDATA[<p>　ピアノ、エレクトリック・ギター／ベース、ドラムス、そして様々な電子音。普段はまったく忘れてしまっていることだが、そもそもの音の大きさが異なる楽器たちがごく「自然」にひとつの楽曲を奏でているということは、本当はものすごく「不自然」なことで、音の増幅を制御する技術が存在しなければ、それら楽器の数を量的に調節するか、もしくは物理的に距離を取るしか、本来その音楽を実現する術はないはずだ。遠く離れた場所から奏でられるギターやピアノ等々を背に、囁くような歌声で奏でられる音楽というのは構図的にはとても魅力的だが、ともあれ、いつも私たちが耳にしている音楽、とりわけポップスのほとんどは、そのような「不自然さ」を前提として奏でられている（もちろんそれは音の大小だけに限られた問題ではない）わけで、この「不自然さ」に対してどのように振舞うかということは、ミュージシャンや歌い手の立場をはっきりと示すものであるはずだ……などと、言葉に置き換えてみれば簡単なことだけれども、しかしそんなことを実感する機会は決して多いわけではない。そんな中で、『ATAK015 for maria』収録楽曲を基調とした相対性理論＋渋谷慶一郎のコラボレーション作品『アワーミュージック』は、そもそも調和を可能にしているわけではないそれぞれの音の間の「不自然さ」が当然のものとして音楽に存在することと、その調和自体の「不自然さ」こそが形作る音楽の存在を、はたと気付かせてくれる一枚であるように思えた。<br />
<BR>「音楽を否定するとか、今までの音楽の歴史を全部更地にして、音を出さないとか、ずっと同じ音を鳴らすとか、そういうことによって音楽の概念を更新しようとする立場とは、むしろすごく遠い（中略）新しい音楽とは何か？という問いが成立するかどうかは別として、僕は音楽を内側から食い破る方が面白い」<br />
（<a href="http://www.nobodymag.com/online_shop.html">nobody issue31所収　渋谷慶一郎インタヴューより　聞き手：田口寛之</a>）<br />
<BR>　『アワーミュージック』に鳴り響くひとつひとつの音は、渋谷慶一郎の『for maria』の楽曲をまさしく「内側から食い破る」ような「歌」として蠢いている。蠢いている、というのは文字どおりの意味だ。1曲目「スカイライダーズ」冒頭からステレオに振られたやくしまるえつこの「ナナナナーナーナ」というコーラスに続く最初のブレイク、「まさかね」という歌い出しがセンターに響くと、それまでセンターでミュート気味にフレーズを重ねていたギターがR.chからスライド気味に和音を鳴らす。この最初のブレイクにおける音の定位のダイナミックで自由な変動こそが、『アワーミュージック』全体を貫く一瞬であるように思える。それぞれの楽器は全体を構築する部分として機能しているのではなくて、それぞれがそれぞれの全体を持ち、それが共鳴することで形作られることを実現する音楽、と書けば少しでも伝わるだろうか。原曲である「Sky Riders」や「Our music」をひとつの海として、その中でそれぞれの音がその潮流にそれぞれの｢歌｣を見つけ、それを指針に勝手気ままに泳いでいたら、いつの間にかそれがひとつの音楽になってしまったかのような、「不自然」な響きの豊かさな差異を包み隠すことのない音楽として、私は『アワーミュージック』を聴いている。<br />
　しかし、そのそれぞれの流れに舵を取る者の中で、それにしてもやくしまるえつこという歌い手の声の手触り（耳触り）には驚かされた。彼女のウィスパーヴォイスが（そして曲の始まりを告げるブレスが）、複数の楽器との共演においてこれほどに存在感を保っているということ自体がまさしく先述した「不自然さ」そのものを率直に体現しているのだと思うが、「BLUE」、そして「our music (remodel light remixed by alva noto)」での彼女の声はそういった問題を超えて本当に凄い。彼女が参加するというジム・オルークのバカラックのカヴァーアルバムも楽しみだが、その前にこれまであまりピンと来ずに流し聴いてしまった相対性理論の過去作を聴き返してみたく思う。<br />
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=nobodymag-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B002VNSXXK&fc1=000000&=1&lc1=0000ff&bc1=000000&lt1=_blank&IS2=1&f=ifr&bg1=ffffff" width="120" height="240" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>『インビクタス　負けざる者たち』クリント・イーストウッド結城秀勇</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.nobodymag.com/journal/archives/2010/0121_2359.php" />
<modified>2010-01-21T16:05:13Z</modified>
<issued>2010-01-21T14:59:33Z</issued>
<id>tag:www.nobodymag.com,2010://2.1102</id>
<created>2010-01-21T14:59:33Z</created>
<summary type="text/plain">　モーガン・フリーマン演じるネルソン・マンデラは、民族融和のための象徴的なイベントとして1995年のラグビー・ワールドカップを位置づける。その成功のために彼は、南アフリカ共和国代表チーム・スプリングボクスのキャプテン、マット・デイモン演じるフランソワ・ピナールとの面会を行う。ふたりは互いに自分の立場を重ね合わせるかのようにして、実現不可能に見える目標に向かって人々を指導（リード）していくことについ...</summary>
<author>
<name>nobodymag</name>


</author>
<dc:subject>cinema</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.nobodymag.com/">
<![CDATA[<p>　モーガン・フリーマン演じるネルソン・マンデラは、民族融和のための象徴的なイベントとして1995年のラグビー・ワールドカップを位置づける。その成功のために彼は、南アフリカ共和国代表チーム・スプリングボクスのキャプテン、マット・デイモン演じるフランソワ・ピナールとの面会を行う。ふたりは互いに自分の立場を重ね合わせるかのようにして、実現不可能に見える目標に向かって人々を指導（リード）していくことについて、言葉を交わす。如何にして人を導くことができるのか。「自分が手本を見せることによってです」とピナールは答え、マンデラもまたそれにうなずく。このやりとりに、これまでイーストウッドの作品に登場してきた指導者（あるいは教育者）の姿を思い出す。『ハードブレイク・リッジ　勝利の戦場』のハイウェイ軍曹、あるいは立場は違えど『ミリオンダラー・ベイビー』のフランキー。だが、ハイウェイ軍曹とは違いピナールが肉体的な接触によってチームメイトを引っ張っていくことはない。また、マンデラがフランキーのように常にリングサイドに居続けることもない。イーストウッド自身が演じてきたトレーナーはここにはいないのだ。予告編でも使われているウィリアム・アーネスト・ヘンリーの詩の言葉通り、ここで出会うふたりは、コマンダーでありキャプテンである。<br />
　この面会シーンには、「目が悪いから」と言って窓を背負って椅子に腰掛けるフリーマンと、その左手に腰掛けたデイモンを互いの肩越しに切り返すショットがある。ほぼ同じ距離間での撮影のはずなのに、フリーマンの肩越しに見るデイモンよりも、デイモンの肩越しにみるフリーマンの方が、なんだか遙か遠くにいるように見える。思い起こせば、この違和感はこの場面で初めて感じたものではない。この作品のはじめから、フリーマン＝マンデラのいる場所は変だった。彼だけがニュース映像の中に姿を見せていた。彼はいつも誰からでも見える場所にいる。だからこそSPにとっては、すれ違うすべてのものが潜在的なテロの驚異に変わるのだ。追い越していく新聞配達の車にSPたちは危機を感じるが、新聞配達人はまるで大統領がそこにいることなど気づきもせずに、マンデラの写真が一面に載った新聞の束を置いていく。同様に、スタジアムの客席に気軽に入っていくマンデラの姿にSPは警戒を強めるが、スタジアムに満ちているブーイングとは裏腹に彼の握手を拒む者などいない。悪意の対象として衆目に曝されているという危惧と、フリーマンと実際に接する人たちのリアクションとの齟齬は、この作品の全体を通して流れ続ける。この違和感を端的に示しているのが先のショット切り返しショットなのではないか。フリーマンはすぐ目の前にいるのに、まるでどこか別の場所にいるみたいに、人々は振る舞うのだ。<br />
　いたるところにいるようで、いまここにはいないようなフリーマンの指揮の下、民衆はどうやって不可能に見えた勝利を獲得するのか。コマンダーとしてのフリーマンはいかなるコマンドを発し、勝利に導いたのか。本当に正直なところ、なにもしてないんじゃないか、と思う。ただひとりでにそうなったのだと。ピッチ上のコマンダーであるデイモンの姿が見失われ、緑と黒のユニフォームを着た人々がスローモーションの連鎖の中でひたすらぶつかり合うときに、ただひとりでに勝利が生じる。膨大にあるように見える悪意の発露の可能性が、何事もなかったように無視されていく過程で既に気づくべきだったのだが、「キャプテン・オブ・マイ・ソウル」だったのはフリーマンとデイモンではなく、あらゆる人々なのだった。<br />
　だが……、やはり何事も「ひとりでにそうなった」りはしないはずなのだ……。この『インビクタス』にもイーストウッドというコマンダーがいるように。コマンダーの存在を突出したものにしないというのは『チェンジリング』『グラン・トリノ』の流れから理解できるが、ここまでかと、驚いている。</p>

<p><br><a href="http://wwws.warnerbros.co.jp/invictus/">2/5、全国ロードショー</a><br />
　</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>『建築と日常』公開座談会「個人と世界をつなぐ建築」結城秀勇</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.nobodymag.com/journal/archives/2010/0119_0052.php" />
<modified>2010-01-19T15:30:41Z</modified>
<issued>2010-01-18T15:52:12Z</issued>
<id>tag:www.nobodymag.com,2010://2.1101</id>
<created>2010-01-18T15:52:12Z</created>
<summary type="text/plain">　3月発売予定の『建築と日常』No.1に掲載予定の公開座談会を青山ブックセンターにて。伊東豊雄、坂本一成、中山英之、長谷川豪の4人を招いての座談会である。創刊準備号である『建築と日常』No.0の特集「建築にしかできないこと」から、No.1の特集である「物語の建築」への橋渡しとも呼べるようなイベントであった。
　はじめに「個人と世界をつなぐ建築」というテーマで、各人がプレゼンテーションを行う。私的な...</summary>
<author>
<name>nobodymag</name>


</author>
<dc:subject>architecture</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.nobodymag.com/">
<![CDATA[<p>　3月発売予定の『建築と日常』No.1に掲載予定の公開座談会を青山ブックセンターにて。伊東豊雄、坂本一成、中山英之、長谷川豪の4人を招いての座談会である。創刊準備号である『建築と日常』No.0の特集「建築にしかできないこと」から、No.1の特集である「物語の建築」への橋渡しとも呼べるようなイベントであった。<br />
　はじめに「個人と世界をつなぐ建築」というテーマで、各人がプレゼンテーションを行う。私的なものと公的なものの関係性のような話になる。伊東豊雄、坂本一成のプレゼン後、『建築と日常』の編集者である司会の長島明夫から、「物語の建築」という（様々な誤解を招く可能性をはらんだ）コンセプトについての説明がある。ごく乱暴にまとめると、通常「物語」という言葉が想起させるのは、主観性であったり個人的なもの、あるいは外部から独立して成り立つ閉鎖性など（こと建築において）ネガティヴな要素であることが多いが、「物語」を神話や民話のようなものも含めたものとして考えるならば、そこには主観を超えたもの、パブリックなものであるとも考えられるはずだ、というようなことが話される。<br />
　各々の詳しい内容については『建築と日常』No.1の刊行を待っていただければと思うので省く。面白かったのは、この「物語の建築」を巡る対話の中心にあったのは「建築の言葉」とはなにかという問いだったのではないかということだ。中山の「2004」の、建築家のごく恣意的な主観に過ぎないスケッチを数多く積み重ねることから建築をつくるという話。あるいは長谷川の「狛江の住宅」における「道路より1m高い庭」や「五反田の住宅」の一軒の建築をふたつの建物に見せるスリットのような「装置」。それらはまったく違った意味で、建築を知らない人間でも魅力的に思える「物語」を喚起する。ごくごく私的なものをある種公的なものに変容させるプロセスであり、単なる公衆をひとりの私人として招き入れるかもしれない契機。そうした魅力に惹かれる一方で、伊東が「くまもとアートポリス」のコミッショナーに就任した際のエピソードにも胸を突かれた。コンペティションで選ばれる建築の良さをどうやって伝えるのか。建築家に対してなら、この建築はこうこうこのように良いといくらでも説明できるが、それは建築の「表現」のレベルに過ぎないのではないか。建築家ではない人にそれを伝えることはどうすればできるのか。<br />
　そのための言葉が、客観的なデータや効率性を示す数値ではない、というのは参加者の言を待つまでもなくわかりきったことだろう。小さな物語が、差異や変奏を包み込む社会性を獲得できるのか。だとしたらその物語はどのような言葉で語られるのか。興味深い問いだ。</p>

<p><br><a href="http://kentikutonitijou.web.fc2.com/">『建築と日常』ホームページ</a></p>]]>

</content>
</entry>

</feed>