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<title>『J・エドガー』クリント・イーストウッド梅本洋一</title>
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<summary type="text/plain">　イーストウッドは、あるインタヴューで、ものごころついたときからFBIの長官はずっとフーヴァーだった、と言っている。49年間も同じ地位になった人物なので、イーストウッドの感想も当然のことだろう。だが、ぼくはこの人をまったく知らなかった。この人の名前を知ったのも、イーストウッドが、ディカプリオ主演でこの人についての伝記映画を撮影中だというニュースを聞いたからだ。つまり、ぼくは、まったくの白紙でこのフ...</summary>
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<![CDATA[<p>　イーストウッドは、あるインタヴューで、ものごころついたときからFBIの長官はずっとフーヴァーだった、と言っている。49年間も同じ地位になった人物なので、イーストウッドの感想も当然のことだろう。だが、ぼくはこの人をまったく知らなかった。この人の名前を知ったのも、イーストウッドが、ディカプリオ主演でこの人についての伝記映画を撮影中だというニュースを聞いたからだ。つまり、ぼくは、まったくの白紙でこのフィルムに臨んだことになる。<br />
　1924年から没した1972年の間FBIの長官だったというのだから、この人物は、かなり特殊な人物だったのだろう。執務室で自伝の口述筆記を始めようとするエドガーの姿。つまり、その時々のエドガーの姿がまるでパズルのようにパッチワークのように描かれることになるだろう。『市民ケーン』以来、その手法は映画がもっとも得意とするところだ。フラッシュバックの多彩な構成によるパッチワークというとき、『市民ケーン』ならば、「薔薇の蕾」Rosebudという「謎の言葉」──ヒッチコック流に言えばマクガフィン──があった。だが、『J・エドガー』には、隠された部分がまったくないのだ。もともと図書館にカードシステムを導入したことで知られるエドガー・フーヴァーは、FBIでは諮問による科学捜査の導入に尽力する。同時に、母の衣裳を身に着けるくらいに極度のマザコンだったエドガーは、プロポーズしたヘレン・ギャンディに、まるで絵に描いたようにふられるが、ヘレンは、彼の私設秘書として彼を一生支え続けることになる。。そして、40年間に亘って、彼を支えたクライド・ドルソンとの「プラトニック」な同性愛の関係。そんな秘密めいた事どもも、いとも簡単に開陳されてしまう。つまり、この２時間を越すフィルムで、「導きの糸」のようなものは存在していない。<br />
　そして49年間という長い時間は、アメリカ社会の歴史であると同時に映画の歴史でもある。ジャンジャー・ロジャースと夕食を共にしたり、「実はドロシー・ラムアーと結婚しようと思っている」と語ったりすることで、セレブリティの仲間入りをするエドガー。同時に犯罪を一掃するのを目的としたFBIならば、30年代のアメリカの犯罪映画が、マフィアをはじめとする犯罪組織の駆逐のキャンペーンであったことは周知の事実だ。『民衆の敵』や『Gメン』といった映画で主演を務めたのは、ジェイムズ・キャグニー。当時、ようやく常態になったトーキー映画の申し子のように、シング＆ダンス・マンとしてスクリーン狭しと歌い踊り、異様なまでの早口で台詞をまくし立てるギャングとしてマシンガンを構え続けたのが彼だった。<br />
　このフィルムでは、相手を握手をしてから、後で手を拭くエドガーといったマーティン・スコセッシのフィルムのディカプリオならお馴染みのシーンと共に、強い母親に自らの口調を正すように命じられ話し方教室のような場所に通わされるエドガーの姿が描かれている。おそらくジェイムズ・キャグニー。への偏愛と共に、この言葉への偏執狂的な接近こそ、後にエドガーが大統領をはじめとする有力政治家に対して自らの権力を維持する手段となる盗聴に繋がることになるのではないか。ジョン・F・ケネディが暗殺されたという報告を電話で受けたエドガーは、ちょうどケネディとマリリン・モンローがベッドで囁きあう声を盗聴器から耳にしていたところだった。<br />
</p>]]>

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<title>『永遠の僕たち』ガス・ヴァン・サント梅本洋一</title>
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<summary type="text/plain">　このフィルムの原題はrestless。文字通りrestがない。「落ち着きがない」とか「動き続ける」とか、「そわそわしている」とか、だから「不安」や「不穏」だという意味になる。見知らぬ他人の葬儀に出席し続ける登校拒否生徒のイーノックは、ある葬儀で短髪で色白の少女アナベラに会う。
　難病もの？ 青春映画？ どちらも当たっている。青春映画というのは、タイムリミットのある若さを疾走する映画であり、その極...</summary>
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<![CDATA[<p>　このフィルムの原題はrestless。文字通りrestがない。「落ち着きがない」とか「動き続ける」とか、「そわそわしている」とか、だから「不安」や「不穏」だという意味になる。見知らぬ他人の葬儀に出席し続ける登校拒否生徒のイーノックは、ある葬儀で短髪で色白の少女アナベラに会う。<br />
　難病もの？ 青春映画？ どちらも当たっている。青春映画というのは、タイムリミットのある若さを疾走する映画であり、その極みに「難病もの」があってもおかしくはない。このフィルムの中で、アナベラがイーノックに言う台詞で、You are haunted by the gohstという件がある。イーノックは、日本兵で特攻隊のヒロシの亡霊にhauntedされているからだ。友人のいないイーノックは、いつもヒロシと話し、彼とゲームに興じているからだ。<br />
　この世とあの世の通路の中で生きているイーノックと難病に苦しみ文字通り死と隣り合わせに生きているアナベラ、そして死の世界で、死を迎えたその日のままでそこにいるヒロシ。このシナリオは実にうまく図式的で完成している。だが、常に曇天の中で展開するこのフィルムにあって、シナリオと同等に重要なのは、明らかに演出だ。<br />
　たとえば「お前、男みたいな格好しているな」とイーノックに思われていたアナベラと、イーノックがどのように近付いていくのか？ 彼らのファーストキスはどうやって行われるのか？ 長く連結された貨物列車が鉄橋の上を走る映像が何度も見えるが、それらは彼らの人生とどんな関係があるのか？ そして、ヒロシはどうやってイーノックの前から姿を消していくのか？ あるいは、そして要するに、イーノックは、彼が取り込まれていた死の世界からどうやって生の方へ舵を切るのか？ ガス・ヴァン・サントは、常に彼が見せる映像の運動から距離を置いて、見事なスクリプトを辿りながら、そのスクリプトに明瞭な演出を与えている。<br />
　冒頭のビートルズの『トゥー・オブ・アス』から、ぼくらは小さな田舎町に住むふたりの高校生の男女と、かつて特攻隊で死んだヒロシの姿を静かに見つめるようになり、彼らを取り囲む大人たちの人生に触れていく。restlessなのは、イーノックとアナベラばかりではない。周囲の大人たちもみんな同じだ。<br />
</p>]]>

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<title>『ラブ・アゲイン』グレン・フィカーラ＆ジョン・レクア松井宏</title>
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<summary type="text/plain">「長年連れ添った妻に突然離婚を告げられた中年男スティーヴ・カレルがなんとか彼女を取り戻そうとがんばる」。そんなあらすじを読んだだけでわかるけど、これは典型的なリマリッジ・コメディである。つまり冒頭でさっそく駄目になったカップルが以降、どのように再生するかが問題となる。「再生するかどうか」じゃなくて「どのように」こそが、このジャンルの焦点だ。
　
　その点『ラブ・アゲイン』は見事。妻エミリー（ジュリ...</summary>
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<![CDATA[<p>「長年連れ添った妻に突然離婚を告げられた中年男スティーヴ・カレルがなんとか彼女を取り戻そうとがんばる」。そんなあらすじを読んだだけでわかるけど、これは典型的なリマリッジ・コメディである。つまり冒頭でさっそく駄目になったカップルが以降、どのように再生するかが問題となる。「再生するかどうか」じゃなくて「どのように」こそが、このジャンルの焦点だ。<br />
　<br />
　その点『ラブ・アゲイン』は見事。妻エミリー（ジュリアン・ムーア）に別れを告げられ一人暮らしを開始したキャル（スティーヴ・カレル）は、ライアン・ゴズリング演じるジェイコブという超絶プレイボーイに、モテ男になるための教育を受けはじめる。良くある手といえばそうだが、実のところここでキャルが受けているのは、モテ教育というよりもむしろロマンチックコメディ教育とでも呼ぶべきものだ。いかにしてわたしはロマンチックコメディの登場人物になりえるのか？ キャルは徹底したアイロニーをヨロイとしながら、しかし自分はやはり妻を愛しており、そのためには外見からカッコ良くなるのが必要なんだと（少なくともこのジャンルの登場人物になるにはそれが必要なんだと）確信する。同じようにこの作品自体、このジャンルに対して徹底したアイロニーで臨みつつ、ゆえに生まれる恐るべき現実主義とでも呼べるものを自らの衣服にする。「わお、なんてクリシェな雨の降り方だ」と叫ぶキャルを捉えるカットに、でもどうしようもなく感動してしまうわたしたち。この作品のひとつ大きな魅力だ。<br />
　いや、じゃあどうやってカップルは再生するのか？ スタンリー・カヴェルが『幸福の追求』で書くように、ひとつの手段として、ふたりが「子供」になるというのがある。つまりふたりで無垢を獲得するのだ。その通り『ラブ・アゲイン』は、ふたりを「子供」に仕立てようとする。一度目は息子の中学校での、先生との両親面談（彼らは中学生よろしく、教室のイスにちょっこり座って先生に向き合う）。そして二度目が、ついにふたりが仲直りするはずの決定的シーン。キャルはおママごとよろしく庭に風車を作ったりして、息子たちと一緒にエミリーとの仲直りの場を、自宅の庭に設ける。エミリーを目隠しして、子供じみた雰囲気のなか、彼はふたりが出会った中学時代のシーンを反復しようとする。原題は「Crazy, Stupid, Love.」なのだが、まさにどんどん幼児化していく先にしかラブはないわけだ。彼らは闘いの果て、ついに無垢を獲得するのだろうか。<br />
　<br />
　と、思われた瞬間、ところが。それは失敗に終わる。そして、実はそこからがこの作品のもっともサスペンスフルな時間というか、もしかしたら本質、なのかもしれない時間がグっと現れてくる。<br />
　その庭で起こるのは文字通り家族パーティであり、そこでは、それまで紡がれた複数の糸が一挙に合流し、さまざまな事実が明らかになる。ジェイコブズが心底惚れてしまった女性がキャルの娘だった、キャルの息子ロビーの憧れジェシカが実はキャルに惚れていた、等々。恐るべきことに、その明らかになった事実によって、もはやどうしようもなく修復不可能な亀裂が各人物間に生まれてしまうのだ。おいおい、いったいどうするんだ、こんなになったらどうしたって彼らの関係は修復できないだろう……。絶望、とでも言いたくなるような感覚（ほんとに心臓がバクバクしてしまった）。あぁ……。<br />
　実際はその後、カップルは中学時代を再度、さらに激烈な仕方で反復しようとして、そしてそれに成功し、作品が終わる。しかしどうもそれよりも、やばい、どうしようもないぞ、作品自体が壊れるぞ……、という恐怖とも絶望ともつかぬ感情をもたらすあの「失敗」こそに、なにかとても大事なことが潜んでいるのではないか。もちろん近ごろのロマンチックコメディの諸作は、とにかく物語の終盤にスペクタキュレールな何かを、つまり過度な悲劇を用意して観客の注意を惹こうとするのがつねではある（結果リミットを越えて作品が登場人物を貶めてしまうのだ）。しかし『ラブ・アゲイン』のその悲劇は、なにかもっとこう、強い意志みたいなものでもって設けられているような気がするし、登場人物たちもそれによってもっともっと豊かになっている。</p>

<p><br />
　おそらくそこで『ラブ・アゲイン』は、なにかを終わらせようとしたにちがいない。いや言い方を変えよう。とにかくこの作品はここで「ゲームを変えるのだ」と舵を切った。『マネーボール』のブラッド・ピットの究極の目的がゲームに勝つことではなく「ゲーム自体を変えること」だったみたいに。実際ジェイコブズの彼女（＝キャルの娘）を、ジェイコブズは「シー・イズ・ザ・ゲームチェンジャー」（それまでプレイボーイだった自分を根本的に変えてくれたから）と呼ぶ。そう、ゲームチェンジャーである彼女こそが、まさしくゲームを変えてしまう。<br />
　そのときロマンチックコメディは一種の「家族もの」へと変容するだろう。ジェームズ・L・ブルックスの諸作がそうであるように、もはやロマンチックコメディはけっしてそれ単体では成立せず、そこには「家族の物語」が絶対に必要なのだ、とでも言うように？ まだよくわからい。でもとにかく『ラブ・アゲイン』は、ゲームそのものを変えようとした。だからとても勇気に溢れていると思ったし、この作品についてもっといろいろ考えてみたらいいとも思った。きっと作品自体が壊れようとも、見せるべき、感じさせるべきなにかがここにはあったんじゃないか。とっても豊かな作品だ。あぁでも、もちろん、ジェシカを演じるアナリー・ティプトンという女優を見るだけでも最高だ。第二のシェリー・デュヴァル、ついに現れました！てなわけで。</p>]]>

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<title>『カルロス』オリヴィエ・アサイヤス田中竜輔</title>
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<modified>2011-12-09T16:34:54Z</modified>
<issued>2011-12-09T13:37:15Z</issued>
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<summary type="text/plain">　このフィルムが5時間半という時間を通じて映し出すカルロス＝イリイッチ・ラミレス・サンチェスとは、もちろんかつて世界を揺るがした極左テロリストのことだ。膨大な一次資料に目を通し、俳優の国籍や使用言語にも固執し、 いくつかのシーンでは現存する資料の中に再構築されたカルロス自身の言葉をそのままに使い、実在の関係者たちと面会するにまで至ったというオリヴィエ・アサイヤスの史実に接する態度は、きわめて誠実な...</summary>
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<![CDATA[<p>　このフィルムが5時間半という時間を通じて映し出すカルロス＝イリイッチ・ラミレス・サンチェスとは、もちろんかつて世界を揺るがした極左テロリストのことだ。膨大な一次資料に目を通し、俳優の国籍や使用言語にも固執し、 いくつかのシーンでは現存する資料の中に再構築されたカルロス自身の言葉をそのままに使い、実在の関係者たちと面会するにまで至ったというオリヴィエ・アサイヤスの史実に接する態度は、きわめて誠実なものであると言えよう。しかしながら、否、おそらくはそれゆえにこそ『カルロス』は一方で、歴史的人物をその題材としたいくつかの偉大な作品群と同様に、まったく別の表情をそこに備えてもいる。つまりこのフィルムはテロリスト・スーパースター＝カルロスをその題材としながら、同時にその人物をあくまで1枚の鏡として（あるいはひとりの亡霊として）、そこにまったく別の人物像を反射させてもいるのだ。<br />
　それが最も顕著となるのは、当初はその事件の複雑さから全体の省略さえ考えられたという、第1部から２部にわたってのOPEC本部襲撃事件のシーンだ。それまで、優れた結果を残しながらも、自身の素性をひた隠しにすることを職業上必然としていたはずのカルロスは、しかし仲間の裏切りにより自らの顔と名前が世に知られ渡ったことを契機に、今度は自らのイメージを利用するという戦略を選択し始めることになる。現実のOPEC事件の際、「現実のカルロス」がチェ・ゲバラのイメージを流用し、一種の「コスプレ」を行っていたという事実は重要なものだ。それまで、誰にも見られないことを己のパフォーマンスの戦略としていたカルロスは、ここで一種の「映画俳優」的な身振りを優先したのであり、そして同時に彼は自らのイメージを「世界」という「スクリーン」に向かって投げかける、ひとりの「映画監督」であることさえも選択したということだからである。<br />
　それゆえに、このシークエンスにおいて『カルロス』は明瞭に一種の「メイキング・フィルム」的な様相を浮かび上がらせることになる。つまり、 自らの映画（＝計画）を成立させるためのスタッフ（＝戦士）を選出し、その段取りを伝え、実際の撮影現場（＝会議場）ではキャスト（＝人質）の立ち位置を指定し、彼らに演出（＝命令）を行う、といった具合に。そこではトラブルに見舞われたスタッフの健康状態も把握せねばならないし、果てにはケータリングのサンドウィッチに使う肉の種類まで気を払わなければならない。自分自身のベスト・パフォーマンスを見せることだけでなく、周囲の人々を含めたあらゆる状況のベスト・コンディションを選択することが、映画監督＝カルロスには求められる。<br />
　撮影現場の内的な状況のみならず、映画監督＝カルロスの仕事は膨大だ。次の撮影所（＝空港）に向かうためのバスを呼び寄せる手続きを臨時スタッフ（＝大使館員）に伝えなければならないし、そこでは新しい機材（＝飛行機）のマニピュレーター（＝パイロット）とも意思疎通を図る必要まである……。しかし、映画は順調には進まない。決定的な障害に突き当たると、雇われマニピュレーターは撮影続行は不可能だと告げ、頭をフル回転させて至った妥協策に親身となってくれたはずのスタッフは激昂する。キャストたちは何をしたら良いかわからずにただただ席に座ったまま疲労を蓄積していく。ジリ貧状態のままに「カルロス初監督作品（＝OPEC本部襲撃事件）」は撮影途中で頓挫し、スタッフはいつの間にか姿を消し、キャストたちは身なりを整えて撮影所から立ち去っていく……。<br />
<br><br />
　ミネリ『明日になれば他人』において、監督の座をエドワード・G・ロビンソンから引き継いだカーク・ダグラスは、その映画作品を頓挫させてしまうも、その後の自暴自棄的な狂騒の果てに、自らの未来に対する希望を勝ち得ていた。しかしそんな救済はカルロスには訪れない。そこにあるのは、たとえばスコセッシ『アビエイター』のごとき（あるいはファスビンダー『聖なるパン助に注意！』のごとき？）停滞のままに描き出される没落の日々だ。もはやかつて彼を奮い立たせた「大義」なるものが消失し、世界のどこにも居場所を失った、たんなる中年のパッとしない生活だけがここには残っている。アサイヤスは革命というユートピアへの郷愁も断罪も『カルロス』に描き出そうとはしない。『デーモンラヴァー』のコニー・ニールセンが、『レディ アサシン』のアーシア・アルジェントがそうであったように、『カルロス』のエドガー・ラミレスはこの広く残酷な世界でひとりぼっちの闘いを繰り広げることで、自らの存在を確かめようとし、それに敗北し続けるだけなのだ。<br />
　たとえばスコセッシのように登場人物のパラノイアへと帰着させるでもなく、あるいはマイケル・マンが『パブリック・エネミーズ』においてデリンジャーの消失をジョニー・デップの空っぽの表情に託したようにでもなく、アサイヤスはこの物語の終わりを、 カルロス＝エドガー・ラミレスの身体の歪な変化をただただ映し出すことにこそ求める。自らの肉体の完全さを確かめるように（ある種の理想を恍惚と眺めるように）鏡の中を見つめていた凛とした眼差しを失い、見知らぬ黒人女性とのセックスによって得た性病を自らの「睾丸」に抱えただけの男の、その苦悶に歪む瞳を私たちはじっと見つめるべきだ。つまり、かつて自らの内側に巻き起こる「理想」に突き動かされていた男が、その敗北の後に身体の外側から内側に移植されてしまった「痛み」に繋ぎ留められ、世界から剥がれ落ちていく様子を、私たちはおそらくは私たち自身の似姿として、誠実に見つめるべきなのだ。</p>

<p><br><a href="http://www.institut.jp/ja/evenements/11152">「鉛の時代　映画のテロリズム」東京日仏学院にて 開催中（11/29（火）-12/18（日） ）<br>『カルロス』は12月10日（土）13時より再上映予定！</a></p>]]>

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<title>『ウィンターズ・ボーン』デブラ・グラニック松井宏</title>
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<modified>2011-12-09T07:19:00Z</modified>
<issued>2011-12-09T07:16:18Z</issued>
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<summary type="text/plain">　ファーストカット。ああ、16ミリ！と思い、それだけで画面に釘付けになってしまったのだが、エンドクレジットで「レッド・ワンで撮影」とあった。レッドというのはこんな画面まで可能なのか。しかしいったいどうやって、どんなプロセスであんな映像になるのか。正直よくわからないので、どなたかわかる方がいたら教えてほしいです。
　バーバラ・ローデンの『Wanda』（70）も、ダルデンヌ兄弟の『ロゼッタ』（99）も...</summary>
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<![CDATA[<p>　ファーストカット。ああ、16ミリ！と思い、それだけで画面に釘付けになってしまったのだが、エンドクレジットで「レッド・ワンで撮影」とあった。レッドというのはこんな画面まで可能なのか。しかしいったいどうやって、どんなプロセスであんな映像になるのか。正直よくわからないので、どなたかわかる方がいたら教えてほしいです。<br />
　バーバラ・ローデンの『Wanda』（70）も、ダルデンヌ兄弟の『ロゼッタ』（99）も16ミリでの撮影だった。どうやら「ひとりでたたかう女の子（女性）」なる肖像には16ミリの質感がぴったりのようだ。なぜだ？ わからない。<br />
 『ウィンターズ・ボーン』に登場するのはミズーリの山地に暮らすヒルビリーたちであり、またそのなかのひとりの少女。リーという名の17歳の少女は、精神を病んだ母と、幼い弟と妹の面倒をみながら暮らしている。父親は覚せい剤の密造で逮捕されたのだが、保釈されてすぐ逃走。父が法廷に現れなければ保釈金のカタに家と土地をとられてしまうことが判明。リーはひとり、父親を捜しはじめる。<br />
　けれど『ウィンターズ・ボーン』はワンダやロゼッタのような、いわゆる職探し映画でもないし、貧困を前面に出すようなタイプの映画でもない。この作品の鋳型は西部劇だ。言い換えるなら、神話的な何かだ。父親を捜すリーが訪ねる人々が、みな御丁寧に「わたしは、おれは、おまえの父親とこうこう血がつながっていて……」と口上を述べてくれるように、彼ら彼女らはみな何かしら血がつながっている。南部らしいといえば南部らしい、でもそれだけでは収まらないこの恐怖。あるいは、誰しもが父であるかもしれない可能性を持つという、この心臓の凍るような恐ろしさ。ではそんなとき、父捜しとはいったいどんなものになるのか？<br />
　実のところ、ある段階から父捜しは父の死体（骨）捜しに変容する。今度は警察に彼が死んだ証拠を見せないといけなくなったのだ。父の兄であるティアドロップと一緒に骨を捜すリー。とても素晴らしいシーンがある。夜中、ティアドロップはリーを墓場に連れていく。殺されて埋められたかもしれない、といって暗闇のなか懐中電灯とスコップ手に、墓場をうろつく。どう考えたって見つかるはずがない。それでも静謐な狂気（ティアドロップは白粉常習者）でもって、地面を確かめつづけるティアドロップ。リーもそれが無駄だとわかっている。観客のわたしたちだってそうだ。このどうしようもない絶望感。そしてふと、ふたりは斜面に横並びで座る。「ヒー・イズント・エニウェア」と呟くリー。「サムウェア」と応えるティアドロップ。<br />
　エニウェアとサムウェア。ふたつのあいだのこの深淵。「父」はいないが「兄弟」はいる、ということ以上におそらく、ふたりの見つめる世界は異なる。あるいはこう言ってもいいだろう。ティアドロップは神話の登場人物であり、リーは神話のなかに迷い込んでしまった人物だと。ティアドロップはほとんど呪われているかのごとく、神話を最後まで生きねばならない（ラストの彼を見れば確信できる）。そんな彼の導きによってリーは神話に迷い込み、と同時に、彼のおかげで神話の永久的な悪循環からすんでのところで逃れられる。<br />
　とにもかくにもリーはエニウェアからサムウェアへ、そしてエニウェアとサムウェアの同時性を知るだろう。いないんだけどいる。どこにもいないと同時にどこかにいる。それが神話というものだ。最終的に冷たい川のなかで彼女が手にした骨こそ、まさにそれだ。そしてまた、よくわからないけど確実にある何かとは、この映画にみなぎる「寒さ」のことでもある。「ウィンターズ・ボーン」というタイトルの正確な意味はわからないが、骨に突き刺さるこの寒さこそが作品を支配し、そしてこの物語を導いているのだろう。<br />
　しかしティアドロップという美しい名を持つ人物（目尻にある涙粒のタトゥー！おそらく刑務所で入れたのだろう）。それを演じるジョン・ホークスは『君とボクの虹色の世界』というくそヒドイ映画でしか記憶になかったが、今作では本当にかっこいい。ガレージのなかでリンチされているリーを助けに来るティアドロップ。ガレージのシャッターが自動で上がると、彼は武器も持たずに、長い腕をダラリ垂らしてそこに立っている。胸が熱くならずにいられるかい。</p>]]>

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<title>関東大学ラグビー対抗戦　早稲田対明治　18-16梅本洋一</title>
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<summary type="text/plain">　ちょっと遅きに失したが備忘録として今年の早明戦について。
　早慶戦でツボにはまった早稲田のワイドに振る方法とキックパスだが、早明戦の明治では毎年のことだが、ここ一番のディフェンスをシャローで仕掛けてこられると、ふたつともうまく行かなかった。もちろん強風の影響がキックパスをためらわせたかもしれない。だが、SOが狙いを定めたキックをする余裕が明治のディフェンスで与えられていなかった。さらに明治のシャ...</summary>
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<![CDATA[<p>　ちょっと遅きに失したが備忘録として今年の早明戦について。<br />
　早慶戦でツボにはまった早稲田のワイドに振る方法とキックパスだが、早明戦の明治では毎年のことだが、ここ一番のディフェンスをシャローで仕掛けてこられると、ふたつともうまく行かなかった。もちろん強風の影響がキックパスをためらわせたかもしれない。だが、SOが狙いを定めたキックをする余裕が明治のディフェンスで与えられていなかった。さらに明治のシャローでしかも粘り強いディフェンスが、大外に位置する早稲田の選手にパスが送られる前に早稲田のラインを封じていた。<br />
　だからゲームは拮抗する。こういうゲームはPGで勝負が決まるものだ。ラスト２分での明治SHの不用意な反則がゲームを決めてしまった。<br />
　これから大学選手権に向けて、両チームともまだまだ伸びシロがあるようだ。まず明治だが、まず原点回帰で十分このチームは成長する。かなり強いスクラムをもっと強化する。そしてこの日はほとんど出なかったモールをしっかり仕込む。そこからSOのキックでFWを前に出す。バックスはディフェンスに徹する。色気を出さずに、戦術を単純な「メイジ」に絞り込むだけで、帝京とも拮抗したゲームが挑めるだろう。<br />
　そして早稲田。こちらの方がチームを成長させるのが難しい。なぜなら、よりタイトなスクラムを常に組めるようにし、プレッシャーがかかった中でのパスとキックの精度を高め……などなど多くの課題を解決しなければ、今年のチーム戦術が熟成してこないからだ。まず明治が優勢だったスクラムを最低でもフィフティフィフティにもっていかないと帝京と当たっても対抗戦と同じ結果になる。スクラムをイーヴンに組めるようになると、バックラインにスペースが生まれて、パスやキックにも余裕が生まれ、今年の戦術が有効になる。もしスクラムの強化が望めないときは、パスやキックのスキルを数段階アップする必要がある。スクラムの強化よりはずっと時間がかかり、常に動いている中でのプレーの選択という判断力の問題も出てくるから、１〜２週間のレッスンで解決するのは不可能ではないか。つまり、早稲田の場合も明治と同様にスクラムの強化がキーになる。考えてみれば毎年面子が代わる学生チームの強化方法は、そんなに多彩にはない。早稲田が今シーズン選んだ戦術は、学生には難しすぎるかもしれない。（もちろん、困難に挑む方が格好いいのは重々承知だ。）<br />
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<title>『トゥー・ラバーズ』ジェームズ・グレイ高木佑介</title>
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<summary type="text/plain">　ジェームズ・グレイの新作（と言っても、製作は2008年）が、先日紹介したリチャード・リンクレイターの新作と同じくDVDスルーされている。シネコンではハリウッド大作映画だけが画一的に公開されている一方で、こういった「多様」な海外作品が劇場公開すらされない事実には頭を抱えるばかりだ。たとえば、シネコンと大手配給会社が結託した「デジタル上映システム」への完全移行がこのまま推し進められていくと、弊害が巡...</summary>
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<![CDATA[<p>　ジェームズ・グレイの新作（と言っても、製作は2008年）が、先日紹介したリチャード・リンクレイターの新作と同じくDVDスルーされている。シネコンではハリウッド大作映画だけが画一的に公開されている一方で、こういった「多様」な海外作品が劇場公開すらされない事実には頭を抱えるばかりだ。たとえば、シネコンと大手配給会社が結託した「デジタル上映システム」への完全移行がこのまま推し進められていくと、弊害が巡り巡った挙げ句に、「ハリウッド大作以外の映画作家の新作を見るのは2、3年後にDVDスルーで」なんてことがもっと当たり前になるのかもしれない。リリース初日に皆でTSUTAYAに走ってレンタル！みたいな。こうも息苦しいと、ヤン・イクチュンみたいに「シバラマ！」と叫び散らしたくなってくるのが正直なところである。</p>

<p>　そして、今作でジェームズ・グレイが切り取るこの世界も決して明るいものではない。多くの移民たちが住むニューヨークのブライトンで両親と暮らしながら、父親の経営するクリーニング店を手伝っている主人公のレナード（ホアキン・フェニックス）は、冒頭から海に飛び込んで自殺を図ろうとする。むかし婚約者に捨てられたショックから鬱病を患っているからだ。だが、この映画がとらえる冬の重々しい光と寒さによってくすんだ風景を目にすれば、彼ならずとも自然と気が滅入ってくることだろう。ニューヨークで撮った「恋愛映画」と言っても、数多くのドラマを生んできたsophisticatedな場所や出会いが軽やかに映されるわけでは決してなく、むしろ、この陰鬱とした街や「家族」的なつながり、あるいは自営業のクリーニング店の経営を任せられようとしている重苦しい現状のすべてから、彼は逃れたいと思っているようにすら感じられる。家族同士の付き合いで知り合ったサンドラ（ヴィネッサ・ショウ）が自分に好意を抱いていることを知っても、表向きは明るく振る舞いはするが、やはりその奥には暗い何かがくすぶっているのがホアキン・フェニックスの表情や画面に張りつめた空気だけで判ってしまう。たしかに、『裏切り者』や『アンダーカヴァー』と比べてみても、誰にでも判る「見せ場」があるような映画と言うより、男と女のごく小さな物語を慎ましく語っているだけの作品のように見えるかもしれない（何せベースとなっているのがドストエフスキーの『白夜』だから。最後に女に振られる、ただそれだけの話）。だがそれだけに、今作で映画をたしかに持続させている俳優たちの存在感や演出のディテールは、ジェームズ・グレイ作品のなかでもひときわ際立っているように思える。同じアパートで出会ったミシェル（グウィネス・パルトロー）の部屋と、レナードの部屋を隔てる「窓」の使い方ひとつ取ってみても、これだけ映画の欲望と視覚的な面白さが昇華された映画的瞬間を見るのは、やはり『裏窓』（54）くらいしか思いつかないはずだ。<br />
　父親に部屋を追い出されたミシェルにレナードが偶然出会うシーンや、彼がクリーニング店で働いているという設定は、すでに本作以前の作品でも指摘されてはいるが、そのまま『若者のすべて』（60）からの引用だろう（そういえばヴィスコンティも『白夜』を撮っていた！）。とはいえ、単なる引用に留まっていないのがすごいところだ。言うまでもなく、ヴィスコンティのあのフィルムも、映画の楽天性や絢爛豪華さというよりかは、息苦しさや重々しさの果てにあるかもしれない何かを捉えようとした緊張の張りつめる映画だった。あのフィルムこそが都市の片隅で生きる人々をとらえた現代的な映画の原点なのだとあえて言ってみることが、ジェームズ・グレイが見つめるこの世界に対しての、ひとつの回答／意志表明であるのかもしれない。<br />
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=nobodymag-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B005FOKX8K&ref=qf_sp_asin_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>,<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=nobodymag-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B003UYICOY&ref=qf_sp_asin_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br />
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<title>『CUT』アミール・ナデリ隈元博樹</title>
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<modified>2011-12-05T14:27:59Z</modified>
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<summary type="text/plain">鎌倉にある黒澤明、池上にある溝口健二、そして北鎌倉にある小津安二郎の３つの墓場。秀二(西島秀俊)が、黒澤の墓石の前でただ静かに「先生」とつぶやく。溝口の墓石の前では記念碑に彫られた『雨月物語』の文字を自らの指でなで合わせる。そして小津の墓石の前では「無」と彫られた一点の文字を見据え、静かに両手を合わせる。
このフィルムには、たくさんの墓場が登場する。秀二の兄の慎吾が殺されたヤクザのシマの倉庫の便所...</summary>
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<![CDATA[<p>鎌倉にある黒澤明、池上にある溝口健二、そして北鎌倉にある小津安二郎の３つの墓場。秀二(西島秀俊)が、黒澤の墓石の前でただ静かに「先生」とつぶやく。溝口の墓石の前では記念碑に彫られた『雨月物語』の文字を自らの指でなで合わせる。そして小津の墓石の前では「無」と彫られた一点の文字を見据え、静かに両手を合わせる。<br />
このフィルムには、たくさんの墓場が登場する。秀二の兄の慎吾が殺されたヤクザのシマの倉庫の便所も墓場のひとつだ。兄の赤黒い血痕がいまだ残るこの薄汚い墓場で、秀二は「殴られ屋」となる。彼は映画製作に費やした自らの借金を返済していくことと同時に、娯楽と芸術が成立しにくくなってしまった現代の映画状況への怒りをも噴出させることとなるのだ。ヤクザやサラリーマンたちから繰り出されたそれぞれの拳が、くしゃくしゃでバラバラに束ねられた紙幣へと変わり、秀二の顔面や鳩尾を即座に襲う。秀二に反撃の余地はないものの、彼の口から発せられる過去の「シネフィル東京」のプログラムと取り上げられた映画の製作年数、それぞれの回の観客動員数がその怒りの反動をあたかも代弁しているかのようだ。<br />
その秀二が定期的に催している「シネフィル東京」も、都内の自宅マンションに隣接された屋上の一角、つまり墓場である。「今夜は心地よい風が吹いています。きっと今日の映画たちのいい効果音となってくれるでしょう」と、彼は清水宏とバスター・キートンの二本立てを前に30人弱の来客へひと笑いをかます。上映は自ら映写機でフィルムを回し、画面形式に合わせた壁掛けのホワイトボードへと投影するしくみだ。都市の片隅に存在するこうした自主上映会という形態は、まるで現代の映画状況を象徴としたある種の墓場であり、そこに集うシネフィルという存在すらも、もはやその墓場に寄り添う屍なのかもしれない。<br><br />
しかし、墓場はあらゆるものを葬り去るためだけのネガティブな場所ではないはずだ。アミール・ナデリの映す墓場とは、ただその死を弔うためだけにあるのではなく、むしろその死の断片をつなぎ合わせ、更新させていく可能性を秘めた場所なのだ。黒澤、溝口、小津の墓場を訪れ、「先生」といった言葉や、指をなで合わせたり一点を見据えるといった秀二の行為が、墓場を前にして重なり合ったとき、目の前には数々の映画的記憶が浮遊する。便所という墓場は、彼の兄への弔いだけに用意されたものではなく、あるとき100発のパンチと引き換えに100本のフィルム(ナデリの生涯ベスト100)を僕たちに教えてくれさえする。さらに秀二は「シネフィル東京」という墓場を絶やすことなく、満身創痍のなかでも上映を続けていく。いつものように拡声器を片手に携え、芸術と娯楽の混在したかつての映画の時代を取り戻そうと街頭演説に奔走することもやめようとしないのだ。時おり秀二の顔面や上半身にジョン・フォードの『捜索者』、小林正樹の『怪談』、ロベール・ブレッソンの『少女ムシェット』などが重なる。つまりナデリは墓場によって映画的記憶の縫合をくまなく実践し、それらを重ね合わせることで生じる新たな映画の行方を、秀二やこのフィルムを観ている僕たちに託しているのではないだろうか。<br />
「はい用意……スタート！」という秀二の声だけがラストに鳴り響く。彼は返済したはずの借金を再び借金して映画を撮り続けている。彼が何を撮っているのか僕たちにはわからない。ただひとつ信じたいのは、いま撮ろうとしているショットは、はたしてどこで「カット！」がかかり、どんな新しい記憶の縫合が実践されうるのだろうか、ということだ。その彼とは秀二でもあり、ナデリ自身のことでもある。</p>

<p><br><a href="http://bitters.co.jp/cut/">2011年12月17日（土）よりシネマート新宿、シネマート心斎橋ほか全国順次ロードショー</a></p>]]>

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<title>『僕と彼女とオーソン・ウェルズ』リチャード・リンクレイター高木佑介</title>
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<modified>2011-11-30T20:15:43Z</modified>
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<summary type="text/plain">　リチャード・リンクレイターの新作が先月からDVDスルーされている。原題は“Me and Orson Welles”。1937年のニューヨークが舞台で、オーソン・ウェルズのマーキュリー劇団の旗揚げから、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」公演の成功までの過程が、駆け出し俳優としてそこに居合わせたザック・エフロンが演じる主人公のリチャード君（！）視点で語られている。つまり、オーソン・ウェルズが引...</summary>
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<![CDATA[<p>　リチャード・リンクレイターの新作が先月からDVDスルーされている。原題は“Me and Orson Welles”。1937年のニューヨークが舞台で、オーソン・ウェルズのマーキュリー劇団の旗揚げから、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」公演の成功までの過程が、駆け出し俳優としてそこに居合わせたザック・エフロンが演じる主人公のリチャード君（！）視点で語られている。つまり、オーソン・ウェルズが引き起こした伝説の「火星人襲来」騒ぎや、ハリウッドに招かれて『市民ケーン』（41）を撮る直前に焦点を当てた話というわけだ。<br />
　リンクレイターの作品は『ビフォア・サンライズ』（95）と『スクール・オブ・ロック』（03）くらいしか見ていない（でも、どちらもすごく好きである）。だが、今作を見る前は正直なところ、こんなトチ狂ったような映画を撮るなんていったい何を考えているんだ、と思った。原作があるとはいえ、オーソン・ウェルズによって見いだされた“天性の才能”を持つという駆け出し俳優リチャード君の物語を、あろうことか自分でプロデュースして監督も手掛けるなんて……。ウェルズのニューヨーク時代だけを扱っているものの、ウェルズ本人もトリュフォーもすでにいない現代において、そんな映画マニアの夢物語みたいなことを本気でやるのはスコセッシくらいなものだろう――などと、失礼ながら思ってしまったのである。でも、これがどうしてなかなか、良い作品になっているのだった。<br />
　まず、18歳の高校生・リチャード君をちょっと大人に成長させてくれる、ウェルズの秘書役のクレア・デインズがけっこう良い。もちろん、たとえば『上海から来た女』（47）でウェルズを狂わせていたリタ・ヘイワースの抗いがたい魅力にはほど遠いけれど、「これからセルズニックと食事に行くのよ」と去っていくときの彼女の後ろ姿や歩き方にはかなりぐっとくるものがあった。他にも、たとえばリチャードが作家志望の女の子グレタ（ゾーイ・カザン――エリア・カザンの孫）にレコード屋で会うシーン。リチャードがフレッド・アステア&ジンジャー・ロジャースの“Let’s Call the Whole Thing Off”（ポテト！ポタト！トマト！『踊らん哉』！）やら、コール・ポーターの“I Get a Kick Out of You”やらといったレコードを漁っていると、「ガーシュウィンが死んだから悲しいわ……」とピアノを弾いているグレタに出会い、ラジオから流れるリチャード・ロジャースの音楽をバックにおしゃべりをする、などというくだりがある。ちょっと「あざとい」が、でも自然と画面に惹きこまれるような良いシーンになっているのだった。劇中にはそれこそスコセッシやウディ・アレンしか使わないような曲ばかりが挿入されているので、リンクレイターも選曲や時代考証にはかなり力を入れたのだろうけれども。<br />
　普通だったら、映画好きの青年が若気の至りで撮ったかのようなこんな作品は目も当てられないことになるのが相場だろう。でも、これはDVDながらも最後まで一気に見れてしまったのだった。とはいえ、ここまでの拙文を読み返してみると、ただの映画好き丸出しなのは自分のほうだと思えるのだが、まぁそれはともかく。</p>

<p><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=nobodymag-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B005HDR8NM&ref=qf_sp_asin_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>,<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=nobodymag-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B003XKRTUS&ref=qf_sp_asin_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>]]>

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<title>『ニーチェの馬』タル・ベーラ増田景子</title>
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<modified>2011-11-28T15:04:22Z</modified>
<issued>2011-11-28T14:59:47Z</issued>
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<summary type="text/plain">　10分ほどだっただろうか。数分遅れて入り着席して数秒後には、荷車を引く馬が走る様だけをただただ見ていた。
　きっと白か灰色で、お世辞にもきれいとは言えない毛並みの痩せ馬なので、そのものに目を奪われたというよりも、馬が全身の筋肉を使って行っている運動に目を奪われたということなのだろう。だからといって、馬が変わった動きをするわけではない。馬は鼻息荒く、課された任務、つまり荷車を引っ張るために淡々と走...</summary>
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<![CDATA[<p>　10分ほどだっただろうか。数分遅れて入り着席して数秒後には、荷車を引く馬が走る様だけをただただ見ていた。<br />
　きっと白か灰色で、お世辞にもきれいとは言えない毛並みの痩せ馬なので、そのものに目を奪われたというよりも、馬が全身の筋肉を使って行っている運動に目を奪われたということなのだろう。だからといって、馬が変わった動きをするわけではない。馬は鼻息荒く、課された任務、つまり荷車を引っ張るために淡々と走っているだけ。それをカットを割ることなくキャメラが左から、正面から捉えているだけなのだ。<br />
　そんな体験は、リュミエール兄弟の撮った映画を見る100年ほど前の観客に近いのかもしれない。スクリーンに映る馬というオブジェクトが動いているということがなんだか有り難く、面白いのだ。<br />
　そして馬は御者をしていた男の暮らす小屋に到着し、馬も映画の舞台もその小屋に定住することになる。馬が小屋に仕舞われてからというもの、スクリーンはだんだんと動きを失っていく。</p>

<p>　「退屈な映画」とタル・ベーラ監督自身が上映後のトークで、開口一番に自らの作品を野次していたが、一カ所に留まり、一定の動きを反復してからの映画は、冒頭の馬の運動を放棄してしまったかのようだ。<br />
　そのためだろうか、（さらに18時以降という時間帯のせいもあるかもしれないが）馬が小屋に仕舞われてから前に座る男性と右隣の女性が船をこぎ出した。どうやら会場をちらと見たところによると彼らが特別というわけでもないようだ。しかし、彼らがそのうたた寝から目覚めたところで焦ることは何もないだろう。この馬が小屋に来てからの6日間を描いた映画は、停滞し多少の差異を伴いながら反復しているので、目覚めたところで、まだ先と同じ様に小屋で着替えて夕飯を食べる父娘の姿を見るだろうし、小屋の外の暴風は止んではいない。多分、どのくらい自分の意識が飛んでしまったかということがわからないだろう。たまたまつなぎがよければ30分寝ていたとしても、一瞬で済んだと思うこともありえてしまう。</p>

<p>　この動くことを止め、留まってしまったということを「不朽」と言い換えてみてはどうだろうか。その言葉はどことも、いつとも、誰とも言えぬ神話に近いような情景を映し出したこの映画に似つかわしい形容な気がしてくる。タル・ベーラ監督の最後の作品は「不朽の映画」である。</p>

<p><br><a href="http://www.bitters.co.jp/uma/">2012年2月シアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー</a></p>

<p><br />
</p>]]>

</content>
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<title>関東大学ラグビー対抗戦　早稲田対慶應　54-24梅本洋一</title>
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<modified>2011-11-23T15:58:08Z</modified>
<issued>2011-11-23T15:57:27Z</issued>
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<created>2011-11-23T15:57:27Z</created>
<summary type="text/plain">　点差はもちろんトライ数でも早稲田９トライ、慶應３トライで早稲田の快勝。少人数でラックから速くボールを出し、一気に攻めるという早稲田の戦術が見事にはまった。ブレイク・ダウンでの慶應の劣勢と慶應のディフェンスに「魂のタックル」が見られなかったことが原因。早稲田のアタックは、ウィングの外側に山下や金が立っているという往年のレ・ブルーのマーニュ、ベッツェンの時代を彷彿とさせた。
　スペースと間合いを作る...</summary>
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<![CDATA[<p>　点差はもちろんトライ数でも早稲田９トライ、慶應３トライで早稲田の快勝。少人数でラックから速くボールを出し、一気に攻めるという早稲田の戦術が見事にはまった。ブレイク・ダウンでの慶應の劣勢と慶應のディフェンスに「魂のタックル」が見られなかったことが原因。早稲田のアタックは、ウィングの外側に山下や金が立っているという往年のレ・ブルーのマーニュ、ベッツェンの時代を彷彿とさせた。<br />
　スペースと間合いを作るためにSOとFBのランが実に効果的だった。このSOにキック力とディフェンス力がつけばかなりいいと思う。そしてかなり練習してきたように見えるキックパスは、まるでフットボールのスルーパスのように面白いように決まった。<br />
　これで早稲田の今年のやり方がよく見えた。だが、このチームの将来を考えたとき、このやり方でこれからも勝てるかどうかは分からない。すでに筑波に敗れ、帝京に敗れている。少人数のブレイク・ダウンではボールが出せないときにどうするのか？ ターン・オーヴァーなと望めないほと相手のフォワードが強かったときどうするのか？ フォワードが劣勢で、スローなテンポのゲームに持って行かれたとき、どうやって対応するのか？ 課題は山積している。<br />
　つまり、このラグビーは強い者が圧勝するためのラグビーだ。慶應よりもフォワードの重量が上回り、ブレイク・ダウンで完勝し、ターン・オーヴァーが何度でも可能なら、この方法で行ける。だが、帝京のように重く強いフォワードを持ち、これから筋力を増やしたところで及ばないと思える相手に、どう戦うのかという方法論は、ターン・オーヴァーからワイドへ、という戦術となかなかかみ合わないように見える。<br />
　どうすればいいのか？ 走力のあるフォワードを全面に出すことだ。ラックからクイック・ボールを出すのではなく、なるべくラックを作らずショートパスを多用してスペースを創造し、オフロードで抜いていくスキルを磨く以外にないだろう。小倉と井口を多用した今日のゲームの戦術は有効だろう。早稲田には、抜けるセンターがいないのだろうか？ とりあえず慶應よりはフォワードの強い明治を相手に、スペースを創造することに成功すれば、対帝京、対東海の作戦も見えてくるかも知れない。<br />
</p>]]>

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<title>『独り者の山』ユー・グァンイー高木佑介</title>
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<modified>2011-11-22T19:23:43Z</modified>
<issued>2011-11-22T19:04:04Z</issued>
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<summary type="text/plain">　いや、数時間前に見た本作に対する興奮がまったく冷めやらぬままにこの文章を書き始めたものの、絶対にこの言葉だけは書くまいとさっきまで固く心に誓っていた常套句を、ここで早くもあっさりと吐きだしてさっさと楽になってしまいたいと思う。やはりこの監督は、ほかの誰よりも「映画」から祝福を受けている作家だ、と。なんだ、そんなことなら3年ほど前のフィルメックスで上映された『サバイバル・ソング』を見たときから知っ...</summary>
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<![CDATA[<p>　いや、数時間前に見た本作に対する興奮がまったく冷めやらぬままにこの文章を書き始めたものの、絶対にこの言葉だけは書くまいとさっきまで固く心に誓っていた常套句を、ここで早くもあっさりと吐きだしてさっさと楽になってしまいたいと思う。やはりこの監督は、ほかの誰よりも「映画」から祝福を受けている作家だ、と。なんだ、そんなことなら3年ほど前のフィルメックスで上映された『サバイバル・ソング』を見たときから知っていたよ、とここで思う方もいるかもしれない。さらには、『最後の木こりたち』（こっちは恥ずかしながら未見）で彼を「発見」したときから俺はとっくに判っていたよ、という方もおられるかもしれない。とにかく、中国黒竜江省の山岳地帯で生きる人々にカメラを向け続けてきたこの映画監督は、「中国にはまずジャ・ジャンクーがいて、それからワン・ビンがいて……」と私たちが思い描いていた中国現代「映画史」を不意に揺るがすかのような存在感でもって、静かに屹立していると思うのだ。<br />
　と、ここでかなり大袈裟に書いてしまうと誤解を招きかねないので補足しておくと、この監督はいわゆる「映画」なるものを作るための技術的作法であるとか、「映画史」なるものへの目配せの意識や野心といったものなどは、そもそも一切持ち合わせていない。そしてそれは、実際に彼の作品を見ればすぐにわかるはずだ。少なくとも、10数年間もある女性に想いを寄せる46歳のオジサンを追ったこの『独り者の山』を見ているとすぐに気付くように、まず、カメラのレンズが汚れまくっている。水滴やらホコリやらゴミやらで、レンズに何か付着していないことのほうが珍しい。その理由は現実的に考えれば、彼が撮影をしている場所が吹雪やら雷雨やらが吹き荒れるかなり過酷で劣悪な現場であるうえ、機材も安いものだから、ということになるのだろうけれど、どうもそれだけではないように思われる。そもそも彼はそんな些細なことを「問題」として端から認識していないかのように、ひたすら人々やその土地にカメラを向け続けているように思えるのだ。君たちが映ってさえいればそれでオッケー、みたいな。それだけに、自身の「スタイル」や「映画」というものを明確に意識して作品を作っているように思えるジャ・ジャンクーやワン・ビンとはまったく異なる「眼」をこのユー・グァンイーは持ち得ているように思う。限定的な地域で暮らす人々の恋愛や性の営みに対する「好奇」の視線であることを越えて、誠実に彼らの存在を「見つめて」いくことのできる眼差し（というよか世界に対する真摯な態度）をこの監督は持ち得ているのだ。だから、この映画を見ていると自然とあの「地域的なものに留まれば留まるほど……」というジャン・ルノワールの言葉が頭をよぎってしまう。それだけではない。山に降り積もる雪の質感、空気の冷たさ、きこりたちが運ぶ丸太の重さ、そして家に立ちこめる煙の煙たさや火の暖かさといった、世界の存在感そのものが、およそヘタクソにしか見えないピンボケだらけの手持ちカメラの映像から溢れだしてくるのだ。いったい何なんだろうね、この素晴らしさは。<br />
　他にも、カメラ越しから監督が人々に話かける場面の会話がなぜか異様に良いであるとか、道を散歩する牛がいきなり交尾しようとする瞬間であるとか、忘れ難い瞬間がこの映画には溢れているのだけれど、散らかった文体のままここまで書いてきてしまったので、最後にこれだけ書いて終わりにしようと思う。それは、この映画を見て不意に思いだしてしまった監督が、小津安二郎だったということ。別にローアングルが多いからというわけではなく、それは単純に、「誰それがあそこの嫁をもらった」だとか、「ところでお前はいつ結婚するんだ」とかといった会話ばかりが行われているせいである。実際、食卓を囲んで「お前が好きな女はな、実はな……」なんて会話をしている友人同士の姿は、全然似てないけど、まるで『秋日和』の佐分利信、中村伸郎、北竜二のトリオを見ているようなのだ。だが、やはりそれ以上に、ここに映っている土地と人々が刻む会話や生活のリズム、存在感といったものが、私たちを自然に映画との「見る／見られる」の切り返しの関係へと引きこむ力をもっているからふと小津を思い出してしまうのだと思うのだけれど、明日も早くからの上映なのでそれはまた今度考えることにしよう。</p>

<p><br><a href="http://filmex.net/2011/">第12回 東京フィルメックス　2011年11月19日（土） ～11月27日（日）有楽町朝日ホールほかで開催中！</a><br />
<br><a href="http://filmex.net/2011/fc05.html">『独り者の山』は11/24（木）15:00より有楽町朝日ホールでの上映あり</a><br />
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<title>『フライング・フィッシュ』サンジーワ・プシュパクマーラ高木佑介</title>
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<summary type="text/plain">　東京フィルメックス・コンペ部門の一本。開映前に「小津安二郎に捧げます」という監督からの言葉がアナウンスされたこの作品は、スリランカにおけるシンハラ人（政府軍）とタミル人（反政府軍）の内戦を背景に描かれた若手映画監督のデビュー作である。冒頭に映し出される、夕陽が沈んでいくスリランカの海辺をとらえた一連の画の美しさには目を見張るものがあったが、まるで鬱屈した時勢に対する感情を吐き出すかのように、途中...</summary>
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<![CDATA[<p>　東京フィルメックス・コンペ部門の一本。開映前に「小津安二郎に捧げます」という監督からの言葉がアナウンスされたこの作品は、スリランカにおけるシンハラ人（政府軍）とタミル人（反政府軍）の内戦を背景に描かれた若手映画監督のデビュー作である。冒頭に映し出される、夕陽が沈んでいくスリランカの海辺をとらえた一連の画の美しさには目を見張るものがあったが、まるで鬱屈した時勢に対する感情を吐き出すかのように、途中からこの映画は少しばかり奇異な描写をとらえ始めていくことになる。『ワイルドバンチ』ではないが蟻をタバコの火で焼き殺すシーンであるとか、特に明確な理由もないけれど魚を石で叩きつぶすシーンであるとか。その他にも、虫やネズミ、犬といった生き物たちが物語とは関係なしにそこかしこに大写しで挿入され、上記のようなショッキングな描写と相まってか、この映画に奇妙な相貌を与えているのだ。<br />
　もちろんそれらの映像は意図的に配されたものであり、上映後のQ&Aにおける監督本人の言葉によれば、それらの映像はひとつの「暴力」の形態を捉えようとしているのだという。うろ覚えではあるが、つまり、内戦で人間同士が争う暴力のほかに、普段はあまり暴力と意識されることのない「暴力」をあえて描こうとしたとのことだった。だが、そういった作り手の「意図」ないし「狙い」は、聞けば理解はできるのだけれど、映像そのものからはどうも別の印象を受けてしまう。さほど台詞の多くない間延びした映像の数々も、時間が経つにつれて、目の前にある現実や人々の姿を真摯にとらえようとしているというよか、すべてが作り手の意図であったり心理であったりの単なる抒情的な「表現」に没してしまっているように思えてきてしまうのだ。たしかに、この映画がとらえる家族や恋人といったある種の共同体に次第に亀裂が入っていくという流れがあることは理解できるし、皆が一様に見せる鬱屈した表情や、風光明媚な自然をよく言えば詩的にとらえた映像からは、この監督の「表現」に対する強い意志が感じられはする。しかし、結果的にはそれらによってこの映画がひどく小さいものに見えてしまうのである。たしかに、終盤に映し出される男女の性交シーンが、まさかあんな事態になるとは見ていて思いもよらなかったし、とても驚きはするだろう。でも、ただそれだけのように思えてならないのだ。</p>

<p><br />
　とはいえ最後に、この映画でとりわけ印象深かったシーンについて記しておきたい。それは、とある小学校の場面で、そこでは少年少女たちが授業を受けている光景が映し出される。ボールペンのインクが切れた生徒に教師が自分のペンを与え、新しいペンをもらった少女が嬉しそうなそぶりを見せるという、この映画のなかでも珍しく落ち着いたやり取りがされたかと思ったその直後、画面が切り替わるといつの間にか反政府軍のゲリラたちが教室の脇に立っているのだ。ゲリラのひとりが教師に変わって、かつて存在したというタミル人の王様の話をしながら、黒板にチョークで簡単な世界地図を書く。「ここがアメリカ、ここがヨーロッパ……。この世界の至るところに我々タミル人は存在する。いま我々は自分たちの国を持つために戦っているのだ」と。もちろん、過激な民族主義に賛同するつもりは毛頭ないが、何と言ってもこの話を聞いている生徒たちの表情が素晴らしいのだ。言っていることを理解しているのかしていないのか判別しがたく、でもたしかに何かを感じ取ろうとしているかのようなその微妙な表情。良い意味でも悪い意味でも、何かが子供たちのなかで芽生えようとしているような、その一瞬の「揺らぎ」。学校という権力的な場で迷彩服姿のゲリラが授業するという、どんなショッキングな描写よりも暴力的に見える空間のなかで、作り手の「意図」さえも逃れていくかのように危うく揺らいだこの表情は、何かとても貴重なもののように思えた。</p>

<p><br><a href="http://filmex.net/2011/">第12回 東京フィルメックス　2011年11月19日（土） ～11月27日（日）有楽町朝日ホールほかで開催中！</a><br />
<br><a href="http://filmex.net/2011/fc02.html">『フライング・フィッシュ』は11/23（水）21:15よりTOHOシネマズ 日劇での上映あり</a></p>]]>

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<title>『カウントダウン』ホ・ジョンホ高木佑介</title>
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<summary type="text/plain">　本年度の東京フィルメックス・コンペ部門の一本。余命3カ月の肝臓ガンと宣告された、借金の「取り立て屋」を生業とする男が主人公で、彼の死んだ息子の心臓を移植されたことのある女から肝臓を移植してもらうために奮闘するというのがこの物語の主な筋。つまり自分が生きるために肝臓を取り立てに行く、ということである。こう書くと至極シンプルなお話のように思えるのだが、実際に映画を見ていると物語の「錯綜ぶり」に驚く。...</summary>
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<![CDATA[<p>　本年度の東京フィルメックス・コンペ部門の一本。余命3カ月の肝臓ガンと宣告された、借金の「取り立て屋」を生業とする男が主人公で、彼の死んだ息子の心臓を移植されたことのある女から肝臓を移植してもらうために奮闘するというのがこの物語の主な筋。つまり自分が生きるために肝臓を取り立てに行く、ということである。こう書くと至極シンプルなお話のように思えるのだが、実際に映画を見ていると物語の「錯綜ぶり」に驚く。というのも本作には、主人公の記憶喪失であるとか、息子と父の絆であるとか、『荒野の用心棒』のように2つのマフィアが対立していく展開であるとか、さまざまな「ネタ」が随所に散りばめられているのだけれど、どうもそれらが巧く絡み合っていない感が否めず、結果的に本当にこの映画にそれほど多くの「ネタ」が必要なのかと疑問に思えてきてしまうのだ。それはちょうど、「冬ソナ」的な波乱万丈なドラマのおいしいところだけを抽出して、2時間に圧縮しようとしたかのような錯綜ぶりなのである（と言っても「冬ソナ」全部は見たことないけど）。とはいえ、この映画一本で何やらテレビの連続ドラマを一気に見通したかのような錯覚が得られるので、ある意味すごい映画ではあるのだが。<br />
　いやもちろん、物語の内容やらネタ云々といったものがありきたりすぎてつまらない！とここで言いたいわけではない。要するに、画面そのものからそういった物語の説得力が感じられないと言えばいいのだろうか。余命3カ月の末期ガンにしては顔色も動きもいい主人公の描写であるとか、どう見ても親子に見えない父と息子（あるいはヒロインとその娘）のやり取りであるとか。ストーリーの伏線や設定ばかりが重視されて、演出や映像そのものが放つ面白さ・説得力といった、肝心な部分がおざなりになってしまっているのだ。だから、この映画の終盤でこれでもかと展開する「お涙頂戴」的な流れには少々辟易してしまった。死んだ息子とは実はダウン症児だったのでした、とこれ見よがしに語り、映画にただ奉仕させるためだけの「ネタ」にしてはやっぱりダメでしょうよ。それは単なる搾取でしかないんだ。</p>

<p><br><a href="http://filmex.net/2011/">第12回 東京フィルメックス　2011年11月19日（土） ～11月27日（日）有楽町朝日ホールほかで開催中！</a></p>]]>

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<title>『猫、聖職者、奴隷』アラン･ドゥラ・ネグラ＋木下香田中竜輔</title>
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<summary type="text/plain">　『猫、聖職者、奴隷』は「セカンドライフ」なるものの、その魅力やら中毒性やらを理解することの手助けになるような作品では一切ない。「なぜ人々はセカンドライフに熱中するのか」などといったことを心理学的に解きほぐすような手つきもほとんどゼロだと言っていい。彼らはすでに「セカンドライフ」を生きている。これは前提であり、探求の目的ではない。では、このフィルムは何を映し出そうとしているのか。仏映画レーベルカプ...</summary>
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<![CDATA[<p>　『猫、聖職者、奴隷』は「セカンドライフ」なるものの、その魅力やら中毒性やらを理解することの手助けになるような作品では一切ない。「なぜ人々はセカンドライフに熱中するのか」などといったことを心理学的に解きほぐすような手つきもほとんどゼロだと言っていい。彼らはすでに「セカンドライフ」を生きている。これは前提であり、探求の目的ではない。では、このフィルムは何を映し出そうとしているのか。仏映画レーベルカプリッチの機関誌「Capricci 2011」に掲載された『猫、聖職者、奴隷』をめぐる鼎談の中で、エルヴェ・オヴロンは「セカンドライフ」という呼称に着目し、私たちの現実の生が「ファーストライフ」であるとしたら、では私たちは一体いくつの生を持つことができるのだろうか、という興味深い問いを立てている。その問いは「セカンドライフ」に対してだけでなく、「映画」という存在そのものに対する問いとして読むべきであるだろう。なぜならば、映画はつねに「複数の生を同時に生きる」こと、つまり「演じること」という問いを継続し続けてきたメディアであるからだ。<br />
　そのような問いに接するこのフィルムに対して、ここでジャン・ルノワールという特権的な名前を持ち出すことは、決して大袈裟な話ではない。あの『ゲームの規則』の中で、モフモフとした熊の毛皮を身に纏ったジャン・ルノワールその人の姿が、この『猫、聖職者、奴隷』の中では、「セカンドライフ」を生きる「ファーリー（(毛皮で包まれたモフモフとしたキャラクターの愛好家）」たちによって、まさしく反復されているからである。このフィルムで最もチャーミングな登場人物であり、「ファーリー」のひとりであるマーカスは、自らに眠るキャラクターが「猫」であると確信をもって断言する。<br />
　ルノワール並みに大きな体に不釣り合いなフワフワとした猫耳や尻尾を身に着けるだけで満足するわけではなく、階段を音を立てずに登ったり、外の物音に過剰に反応して見せたり、と、彼は「猫」としての生をアクション(身振り)によって自ら証明しようとする。「これが俺なんだ！」と語るマーカスだが、しかしその一方で彼は冷静な現実主義者でもある。周囲の人々からは決して理解されない「ファーリー」の同志たちのために、彼は「ファーリー」のラジオ局やテレビ局を作り、人々に対する理解を求めようと活動するのだ。もちろん、猫耳と尻尾は付けたまま、否、生やしたままで。マークスは、自らのキャラクターを演じる境界を設定することを前向きに放棄している。彼の「真実」は「人間」であることのみにも、「猫」であることのみにもあるのではなく、「人間」であり「猫」であるという運動を「同時に」生きることにあるからだ。<br />
　どちらが「ファースト」でどちらが「セカンド」なのかといった序列としてではなく、あるいはどちらが「現実」でどちらが「虚構」なのかといった二項対立としてでもなく、ふたつの現実をひとつの「心‐体」の組み合わせにおいて生きる人々がここには映し出されている。このフィルムはふたりの監督曰く「インターネットによるロード・ムーヴィー」としての本作のひとときの終りを、あの「バーニング・マン」の地に見つける。あらゆるネットワークに閉ざされた一週間限りの共同体と、ネットワークによってのみ繋がれた虚構＝永遠の世界における共同体の親近性に言及することで、このフィルムはより普遍的な私たちの「現実（あるいは真実）」をめぐる、流動的に変化し続ける問いに対するひとつのリアクションを織りなしているだろう。<br />
　　『猫、聖職者、奴隷』に引き続く両監督の最新作は『ミュータント（Les Mutants）』とアナウンスされている。</p>

<p><br><a href="http://www.nobodymag.com/cinemalink/12/index.php">nobody presents "cinemalink" vol.12にて上映<br>渋谷アップリンクにて2011年11月19日(土)19時開場／19時30分開演</a></p>]]>

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