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<title>『灰と血』ファニー・アルダン田中竜輔</title>
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<summary type="text/plain">　パウロ・ブランコ製作によるファニー・アルダンの果敢な監督第1作、『灰と血』にはふたりの母がいる。ひとりは一族の歴史を支える白髪の女であり、もうひとりは夫の死を契機にその呪縛から一度は身を引いた女だ。三つの家族をめぐる複雑なシナリオの中で、彼女たちはつねに特異点としての役割を担っている。多くの場面で椅子に腰掛けながらも、そこに映る誰よりも強大な力を占有し、誰彼構わず檄を飛ばし、一族の法を強要する白...</summary>
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<![CDATA[<p>　パウロ・ブランコ製作によるファニー・アルダンの果敢な監督第1作、『灰と血』にはふたりの母がいる。ひとりは一族の歴史を支える白髪の女であり、もうひとりは夫の死を契機にその呪縛から一度は身を引いた女だ。三つの家族をめぐる複雑なシナリオの中で、彼女たちはつねに特異点としての役割を担っている。多くの場面で椅子に腰掛けながらも、そこに映る誰よりも強大な力を占有し、誰彼構わず檄を飛ばし、一族の法を強要する白髪の母はまさしくこのフィルムの「大地」であり、一方その血をめぐる因果から逃れ出るために、文字通り「風穴」をあけようと己の自由を表明するもうひとりの母は、このフィルムの「風」だ。18世紀からほとんどその姿を変えていないというトランシルヴァニアの洋館で撮影された本作において、人々はこの「大地」と「風」の狭間をいかに生きるかという選択を迫られているかのように見える。<br />
　己の野生を奔放な「風」に煽られながら、しかし「大地」の加護と拘束から引き剥がされることはなく、しばし自らに与えられた役割を演じ続ける男たち／女たち（ 花嫁、音楽家、道化、乱暴者、兄弟たち、恋人たち…….）。だが、この一族の真の主たるはずの「父」は、その姿を小さな諍いにおいて垣間見せるも、そこに新たな規律や動揺を創造することはない。問題はもはやこの家族の物語の発端にはない。すでにそこに存在する家族の物語（＝戯曲）を忠実に実現させようとする母（＝大地）と、そこに自由を創造するための逃走を図る風（＝母）、このふたりの母（＝演出家）の闘争によって、人々は自らの歴史を、ときには誤読を交えつつ、再び学び始める必要があるのだ。<br />
　しかしそのふたりの闘争は、演じることなど知らない動物たちによってこそ決定的に破壊される。『灰と血』における恐るべき「野性」が発現する瞬間は、同時にこのフィルムにおいてほとんど唯一の「無垢」を失う瞬間へと接続される。大地を揺らし風を裂く一発の銃声によって引き起こされた混乱が、逆説的にこの家族の物語にかりそめの秩序を取り戻させる。しかしながらその結末は、私たちに安心をもたらしてはくれない。「風」の低く濁った叫びは、すでにまぎれもなく「大地」を揺らしてしまったからだ。<br />
　この悲劇を収束させようとする「血」の交換は、もはやその地に安定を繋ぎ止めようとする「儀式」ではない。それは、異物をその地へとほとんど無理矢理に染み込ませ、アレルギーを引き起こさせるようなリスキーな「実験」として私たちの目に映り込むだろう。目眩を覚えずにはいられまい。</p>

<p><br>＊<a href="http://www.institut.jp/ja/evenements/11846/">東京日仏学院創立60周年 ファニー・アルダン来日記念上映作品</a></p>]]>

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<title>『刑事ベラミー』クロード・シャブロル梅本洋一</title>
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<summary type="text/plain">　クロード・シャブロルは、この遺作で映画をかつてないくらいに抽象的な場に導いた。もちろん、形態はいつもの刑事物である。丁寧なことに、このフィルムのタイトルには、このフィルムをシムノンとブラッサンスに捧げるという言葉まで見つかる。つまりベラミー警視とは、メグレ刑事なのであり、キャリアも晩年に達したジェラール・ドゥパルデューは、メグレ＝ベラミーのメランコリーをを演じるにふさわしい存在なのだろう。妻の出...</summary>
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<![CDATA[<p>　クロード・シャブロルは、この遺作で映画をかつてないくらいに抽象的な場に導いた。もちろん、形態はいつもの刑事物である。丁寧なことに、このフィルムのタイトルには、このフィルムをシムノンとブラッサンスに捧げるという言葉まで見つかる。つまりベラミー警視とは、メグレ刑事なのであり、キャリアも晩年に達したジェラール・ドゥパルデューは、メグレ＝ベラミーのメランコリーをを演じるにふさわしい存在なのだろう。妻の出身地であるニームの街で休暇中にも関わらず事件捜査に巻き込まれるベラミー。<br />
　捜査は進行し、次第に事件に潜む謎が明らかになってくるのは言うまでもないだろう。シャブロルは、かつてエリック・ロメールとともに世界初のヒッチコックのモノグラフィーを書いているくらいだ。だが、驚くべきは、シャブロルが事件の謎を解明する手つきにあるのではない。保険金詐欺に見立てた事件は、取るに足らぬ凡庸な事件に過ぎない。犯人であることを隠すために男は、自ら顔を整形し、別の人物になりすますのだが、観客であるぼくらは、その謎が解けたところでハタと膝を打ったりはしない。別の深淵に出くわすきっかけを与えくれるに過ぎないからだ。<br />
　「わたし」と同じ男がもうひとりいる。そのことに気付くだけだ。それは、おそらく「わたし」と血を分けた──この場合、異父弟──弟かもしれない。「わたし」とは似ていないが、「わたし」の分身とも、「わたし」の対極とも、あるいは、「わたし」自身とも言える弟の存在。そのことを「わたし」は、犯人と称する自らの顔を整形した男との接触によって理解する。つまり、「わたし」は、この男かもしれない。<br />
　シャブロルは、あるインタヴューで、真のレアリスムとは、こうあることを描くばかりではなく、こうではないこと、こうあったかもしれないことも描くことなのだ、と述べている。あるいは、映画はめったに愛を描くことはない。愛が表象するパッションを描いているだけだ、とも述べている。事実、「わたし」は、犯罪など犯したことがない。一応犯人とされるこの男もまた、犯罪の縁に立ちすくみ、ある男が死んでいくのを見ていただけかもしれない。つまり、「わたし」はかつて、この腹違いの弟を殺そうとしたこともある。「わたし」は「わたし」の分身を消そうと試みたこともあるだのだ。<br />
　事実、映画のラストは、この事件の解決ではない。「わたし」の分身が、消えていく姿である。そうした意味においてシャブロルのこのフィルムは、映画がかつて到達したことにない抽象的な深淵に到達していると言えるだろう。<br />
</p>]]>

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<title>『現在地』チェルフィッチュ（作・演出　岡田利規）梅本洋一</title>
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<modified>2012-04-29T14:47:26Z</modified>
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<summary type="text/plain">　何の予備知識もなくKAATの席に腰を下ろし『現在地』を見た。やや斜めに設置されたプロセニアム・アーチ、そして後方の壁には雲や宇宙のスライドが投影され、裸舞台には７組みの小中学校の教室のようなテーブルと椅子が置かれている。７人の女優たちが登場し、あるときはモノローグで、あるときはダイアローグで言葉が交錯していく。チェルフィッチュの舞台として大きな変化は、彼女たちの身体所作と言葉とが、それまでのチェ...</summary>
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<![CDATA[<p>　何の予備知識もなくKAATの席に腰を下ろし『現在地』を見た。やや斜めに設置されたプロセニアム・アーチ、そして後方の壁には雲や宇宙のスライドが投影され、裸舞台には７組みの小中学校の教室のようなテーブルと椅子が置かれている。７人の女優たちが登場し、あるときはモノローグで、あるときはダイアローグで言葉が交錯していく。チェルフィッチュの舞台として大きな変化は、彼女たちの身体所作と言葉とが、それまでのチェルフィッチュのように何の関係もなく行き違うのではなく、身体所作がミニマムに削られて台詞だけが屹立していることだろう。恋人の関係の、この村の終末が、彼女たちの口から次々に語られ、終わっていく何か、終わりつつある何か、終わってしまった何かについて多様な言葉が重層していく。<br />
　普段はおそらくチェルフィッチュ式の言葉と身体所作の行き違いの中で、俳優たちのフォルマシオンが行われているせいかもしれないが、身体所作が極限にまで削られた中で、彼女たちが唯一頼れる言葉は、見事に聞こえてくる。換言すれば、ここ30年来、多くの小劇場の舞台で普通に目にしてきた、台詞が身体所作──多くの場合、無意味な手と腕の動き──が消滅し、女優たちの声によって支えられた言葉が空間に響く体験は、新鮮なものだった。たとえばコメディ＝フランセーズやロイヤル・シェイクピア・カンパニーにごく普通に見られる正面を向いて不動の俳優たちから屹立する台詞の姿に、ようやく日本の小劇場がたどり着いたのかもしれない。つかこうへいの舞台以来、舞台上の喧噪に慣れてしまったとき、台詞とわずかなノイズのような音響に支えられた舞台の緊張感は、前衛的であると同時にミニマルでもあったチェルフィッチュの舞台体験の新たな一歩を刻むものであることはまちがいないだろう。<br />
　そして女優たちは何を語るのか？ さっきは「終わりつつあるもの」あるいは「終わってしまったもの」と書いたが、もちろん、近代古典を読んだことのあるぼくらにとって、それらの言葉たちが依拠するのはチェホフのそれであることは論を待たない。3.11以降、日常の演劇以降、身体所作と台詞の行き違い以降、「以後の演劇」──それは明瞭に、近代古典の開始と同一である。岡田利規も、『桜の園』を読んで、フィクションの力に驚いた、と公演のちらしで語っている。典型的な「以後の演劇」である『桜の園』、あるいは、常に終わりの始まりばかりを語っていたカルロ・ゴルドーニの数々の戯曲──『現在地』は、それらの世界をはっきりと指し示しているし、女性ばかりが出演するこの舞台は、形態的に『桜の園』よりは『三人姉妹』により近いだろう。<br />
　だが、そうした至極まっとうな「演劇史」への正統的な接近に驚きつつ、同時に、岡田利規には、ほとんど皆無だが、チェホフやゴルドーニに極めて濃厚な何かを感じずにはいられなかった。それは、微妙な台詞の中に、微妙な台詞の抑揚の中に、偉大な劇作家たちが込めたメランコリーである。失うことのメランコリー。まだまだ明瞭すぎる岡田利規の言葉の中には、消えてしまう、終わってしまうことへの論理的な発想はあるのだが、消えつつあり終わりつつあるものへのメランコリーが欠如しているように感じられた。だから、岡田の舞台に感心しつつ、その感心が深い感動にまで及んでくれない。<br />
</p>]]>

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<title>『灼熱の肌』フィリップ・ガレル田中竜輔</title>
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<modified>2012-04-26T16:23:47Z</modified>
<issued>2012-04-26T15:45:07Z</issued>
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<summary type="text/plain">　豊満な肉体をしなやかに弾ませ、見知らぬ男性と踊る女優のアンジェル（モニカ・ベルッチ)に、その夫である画家のフレデリック（ルイ・ガレル）は「まるで娼婦みたいに見えた」と吐き捨てる。ひと組のカップルにおける深刻な危機を明確に示すこの言葉を耳にして、しかしそれに当惑せざるを得ないのは、映画が始まった時点ですでに成立していた（と、同時に破局していた）このカップルの育んだであろう「愛」のありようを、私たち...</summary>
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<![CDATA[<p>　豊満な肉体をしなやかに弾ませ、見知らぬ男性と踊る女優のアンジェル（モニカ・ベルッチ)に、その夫である画家のフレデリック（ルイ・ガレル）は「まるで娼婦みたいに見えた」と吐き捨てる。ひと組のカップルにおける深刻な危機を明確に示すこの言葉を耳にして、しかしそれに当惑せざるを得ないのは、映画が始まった時点ですでに成立していた（と、同時に破局していた）このカップルの育んだであろう「愛」のありようを、私たちがまったく共有できないからだ。なぜこのカップルが愛し合い結婚にまで至ったのかという過程がゴッソリと抜け落ちているがゆえに、この台詞はたんに『灼熱の肌』というフィルムにおけるひと組のカップルの説話上の「危機」を指し示すものとしては、あまりに大きなノイズを含んでいる。フィリップ・ガレルが自らの作法について語る「愛についての思考」とは、おそらくこのノイズにこそ介在している。<br />
　アンジェルがその見た目として「娼婦みたい」であるか否かということは、決して自明な事柄だとは言えない（むしろモニカ・ベルッチのグラマラス過ぎる身体は、エロティックであることを通り越して、このフィルムの終盤において母となるエリザベート（エリーヌ・サレット）を超えた母性を溢れさせているように見える）。それよりも重要なことは、フレデリックが「娼婦みたい」なものとしてアンジェルを「見た」ということだ。つまりフレデリックは他者を「見る」ことにおいて、自身の妄想や思い込みに肉薄させたイメージをそこに暴力的に生み出そうとすることをやめない人物としてある。妻であるアンジェルばかりでなく、彼の友人であるはずのポール（ジェローム・ロバール）にさえ、「そんな目で僕の妻を見るな」と罵りの言葉を浴びせることからもそれは明らかだろう。<br />
　やがて彼との別離を決意するアンジェルは、その直前にフレデリックが自分のことを「見ない」ことに苛立っているのだとエリザベートに告白する。だが、おそらくそれは逆だ。アンジェルは、フレデリックが自分を「見る」ことにこそ苛立っているはずなのだ。「正面」から自身に向き合うことなく、つねに自らの暴力的な「アングル」を崩そうとしないフレデリックと自身との視線の食い違いにこそ、アンジェルは耐えられなかったのだ。チネチッタでの映画内映画撮影シーンにおいて、スタジオに侵入してきたフレデリックにアンジェルが激昂するのは、クレーンに載せられたキャメラの、そのちょうど「斜め」ほどの位置からフレデリックが彼女を見ていたからだ。正しいアングル＝キャメラに対して完全なねじれの位置にあるフレデリックの視線が、アンジェルに決定的な苦痛を浴びせるのだ。<br />
　その一方で、このフィルムの語り手であるポールとエリザベートによるもうひとつのカップルが、決定的な危機を乗り越えてゆくのは、彼らの「アングル」がはじめからその角度を共有するものだったからだろう。撮影現場で端役同士として出会った彼らは、映画内映画を撮影する架空のキャメラと、『灼熱の肌』を撮影する現実のキャメラの差異を軽々と乗り越えてしまう。突然の夜襲に飛び起きる兵士のシーンを捉えたキャメラが、あたかもそのまま撮影を続けたかのごとき質感で、撮影を終えたポールとエリザベートの出会いを捉え、そしてその質感は映画の終わりまで引きずられてゆくことになる。<br />
<br>　ここで「このどちらのカップルが私たちにとって重要なのか？」といった問いを立てることほど愚かなことはない。なぜなら『灼熱の肌』というフィリップ・ガレルの「愛についての思考」は、このふたつのカップルを両極にしてこそ生み出されるものだからであり、このふた組のカップルがそれぞれ直面する「アングル」をめぐる弁証法にこそ、このフィルムの賭け金は存在しているように思われるからだ。<br />
　『愛の残像』において写真家を演じたルイ・ガレルが、『灼熱の肌』において画家という役割を担ったことは、フィリップ・ガレルがウィリアム・リュプシャンスキーという決定的な「アングル」を失ったことによって導かれたのではないかと思えてならない。ファインダーを通して決定的な「アングル」を模索する「写真家」から、不安定な色彩と線描によって自らの新たな「アングル」を危険を承知で創造しようと試みる「画家」へ。ウィリー・クランによって撮影された画面にほぼ全編を通じて介在する「ブレ」は、リュプシャンスキー的安定からは遠く離れて、私たちの視線をつねに戸惑わせ、翻弄する。<br />
　『灼熱の肌』は、決して私たちを閉鎖的なファンタスムに閉じ込めるような、独りよがりの芸術映画などではない。このフィルムは、限りない自由と不安に支えられた誰のものでもなく／誰のものでもある「アングル」の可能性についての探求であり、ひとつの「冒険映画」だ。その冒険の果てにフレデリックが辿り着く最後の光景には、フィリップ・ガレルという類稀なシネアストの、新たな探求の兆しが映し出されているように思えた。</p>

<p><br><a href="http://bitters.co.jp/garrel-ai/">フィリップ・ガレル 愛の名作集 『愛の残像』+『灼熱の肌』<br>６月より、シアター・イメージフォーラムにて連続ロードショー！</a></p>]]>

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<title>バルサの連敗梅本洋一</title>
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<modified>2012-04-23T15:32:38Z</modified>
<issued>2012-04-23T15:31:55Z</issued>
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<created>2012-04-23T15:31:55Z</created>
<summary type="text/plain">　たとえば「Number」誌ならバルサの特集を何度も組んでいる。昨シーズンのチャンピオンズリーグの決勝で、マンUに圧勝し、文字通り「世界最高のフットボール」を実践してきた。セスクの加入によって3-4-3と4-3-3を使い分けながら、今シーズンもフットボールの新たな実験を続けているバルサ。だが、チャンピオンズリーグ準決勝のファーストレグでのチェルシー戦、そしてその終末のエル・クラシコで、バルサが連敗...</summary>
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<![CDATA[<p>　たとえば「Number」誌ならバルサの特集を何度も組んでいる。昨シーズンのチャンピオンズリーグの決勝で、マンUに圧勝し、文字通り「世界最高のフットボール」を実践してきた。セスクの加入によって3-4-3と4-3-3を使い分けながら、今シーズンもフットボールの新たな実験を続けているバルサ。だが、チャンピオンズリーグ準決勝のファーストレグでのチェルシー戦、そしてその終末のエル・クラシコで、バルサが連敗した。もちろん、いつもの通りポゼッションは70%近くを維持しながらの連敗。チェルシー戦の後、ペップは、「フットボールはゴールネットにボールを運ぶゲームであって、ポゼッションを競うゲームではない」と言っていた。チェルシー戦なら、ポストにシュートが複数回阻まれ、「運がない」と言えばそれまでのゲームだったし、ジョン・テリーを中心にしたチェルシーのディフェンダー陣が、昔の守備を思い出したのかもしれない。だが、エル・クラシコでも、敗戦を反復するバルサを見ていると、どうも何かがおかしい。<br />
　レアルは、明らかにバルサにボールを持たせていた。昨シーズンのクラシコ４連戦では、ぺぺをトップ下で起用し、前からプレスをかけ続けることで、勝機を得ようとしたモウリーニョだった。だが、強靱なプレスを90分かけ続けられるフィジカルを持っている選手などいない。だから、このゲームでは、中盤からやや後方に４人のラインを２列作り、がっちり守ってカウンターというオーソドックスな作戦。カウンターはベンゼマとCR7に任せて、後は守備。センターサークルから自陣にボールが運ばれると、メッシ、イニエスタ、チャビに群がるようにディフェンス陣が襲いかかる。バルサは、ダニエウ・アウベスとテジョの両翼にボールを集めようとするが、３センターが押さえられると、両翼にボールが回らなくなる。その意味で、ゲディラ、エジル、ディマリア、そしてシャビ・アロンソの４人は、本当によく頑張ったと思う。戦術を単純明快なものに落とし込んだチームは常に強い。<br />
　対するバルサは勝利をたぐり寄せるために必要な創造性が欠けていた。中盤でボールを奪って、ベンゼマかCR7という単純な戦術のレアルに対して、バルサの３センターに必要なのは、レアルの単純さを打ち破れる想像力であるはずだが、ミッドウィークにチェルシー戦を闘ったこのチームには、余白が残っていない。いつものプレー以上の何かができないとき、創造性は発揮されない。おそらく創造性を欠いていたのは選手たちばかりではなくペップも同様だった。この布陣で点を取るには、３センターがアタッカーを兼任しなければならない。両翼にボールが回っても、メッシかイニエスタ、あるおはチャビは、ゴール前に飛び込んでシュートを打たないと点が入らない。確かにこのゲームでは、その３人のうち、チャビにシュートチャンスが多かったが、チャビは３人の中ではいちばんゴールマウスから遠い。そして、ポゼッションが７割を超えるのなら、テュアゴとブスケツのふたりをボランチにする必要などない。ブスケツひとりで十分だった。ペップがこの布陣を考えたのはなぜだろう？<br />
　必要なのは、メッシの前にいて、両翼からのボールを受けられるアタッカーだ。ビジャが怪我をしているのなら、セスクだろう。だがペップがセスクを起用したのは後半36分。余りに遅い投入だった。<br />
</p>]]>

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<title>『少年と自転車』ダルデンヌ兄弟梅本洋一</title>
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<modified>2012-04-08T14:11:39Z</modified>
<issued>2012-04-08T14:10:50Z</issued>
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<created>2012-04-08T14:10:50Z</created>
<summary type="text/plain">　父親に捨てられた息子は、それでも父親を信じようとする。だってまだあそこに父親は住んでいる。だって、まだあそこに父親が買ってくれた自転車があるじゃないか。施設の指導員たちは、隙を見て常に脱出を試みようとする少年に「落ち着け、落ち着くんだ」と繰り返す。それでも脱出を繰り返す少年。
　偶然、逃げ込んだクリニックの待合室で噛みついた女性と知り合い、彼女は、盗まれた自転車を少年に買い戻す。なぜか？ そんな...</summary>
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<dc:subject>cinema</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　父親に捨てられた息子は、それでも父親を信じようとする。だってまだあそこに父親は住んでいる。だって、まだあそこに父親が買ってくれた自転車があるじゃないか。施設の指導員たちは、隙を見て常に脱出を試みようとする少年に「落ち着け、落ち着くんだ」と繰り返す。それでも脱出を繰り返す少年。<br />
　偶然、逃げ込んだクリニックの待合室で噛みついた女性と知り合い、彼女は、盗まれた自転車を少年に買い戻す。なぜか？ そんなことは問題ではない。すべてから断ち切られた少年は、まず自転車と繋がることができた。女性の乗るシトロエンの周囲で自転車を乗り回す少年。施設の門までシトロエンを追いかけ、「週末だけ里親になってくれない？」と女性に依頼する。<br />
　いつものようにダルデンヌ兄弟は、繋がりを絶たれた年少者の肩に、まるでキャメラを埋め込んだように、ほとんどすべてのショットで、少年を映し出す。つまり、映画を見ているぼくらも、少年を通してしか、この映画の世界と繋がることができない。だから、父親が少年を捨てた理由を知ったところで世界は一向に揺らぎを見せない。なぜなら繋がりを絶たれた少年の切羽詰まった時間の方が、父親が息子を捨てた理由よりもずっと強度に満ちたものだから。そして映画は、その強度に徹底して身を委ねる。<br />
　もちろん、それによって得られる緊張感は、ダルデンヌ兄弟が、彼らの映画でずっと伝えてきたものだ。だが、『少年と自転車』には、少しだけ別の要素が入っている。まずシリル（少年）が登場しないシーンがふたつあったこと。いままでのダルデンヌ兄弟の映画では、主人公が「見えない」シーンはなかった。最初は、里親のサマンサが父親を話すために父親が勤めるレストランの厨房に入るシーン。２つめは、サマンサが、ついに里親をやめる決意をして、施設の係員に電話をするシーン。両方とも、シリルにとって決定的なシーンだ。繋がりを持っていた大人が少年との関係性を断ち切ることを知らせるシーンだからだ。<br />
　次の要素は、初めてフレームの内部に音源のない音楽をダルデンヌ兄弟が自らの作品に付加したこと。ベートーヴェンの曲だ。これは聞いていて感動した。<br />
　そして最後の要素は、おそらくダルデンヌ兄弟は意識していないだろうが、彼のフィルムを見てみて、ぼくは、初めてその背後にある別の映画を感じた。遊園地の遊戯用のクルマに乗る部分では、ブレッソンの『ムシェット』を、そして、何度か出てくる少年がペットボトルの水を飲むシーンでは、トリュフォーの『野性の少年』を思い出した。<br />
　それら三つの要素は、それまでのダルデンヌ兄弟の映画には、存在しなかったことだろう。だから、ふたりの映画の独自性が薄くなっているのだろうか。否、ぼくには、この映画が、それまでのダルデンヌ兄弟の映画よりも、これらの要素によって深みを増していると思えた。<br />
</p>]]>

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<title>『おとなのけんか』ロマン・ポランスキー増田景子</title>
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<modified>2012-03-16T14:33:56Z</modified>
<issued>2012-03-16T14:30:17Z</issued>
<id>tag:www.nobodymag.com,2012://2.1342</id>
<created>2012-03-16T14:30:17Z</created>
<summary type="text/plain">『おとなのけんか』は黄色いチューリップと電話の映画だったと記憶しようと思う。

2011年にヒットした『ゴーストライター』（2010）の監督として記憶に新しい、ロマン・ポランスキーの作品が公開されている。ヤスミナ・レザの戯曲『大人は、かく戦えり』を映画化した『おとなのけんか』は会話ばかりの80分作品。戯曲から生まれた映画だけあって限られた空間を巧みに利用した室内劇で、登場人物も４人と少ない。しかし...</summary>
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<dc:subject>cinema</dc:subject>
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<![CDATA[<p>『おとなのけんか』は黄色いチューリップと電話の映画だったと記憶しようと思う。</p>

<p>2011年にヒットした『ゴーストライター』（2010）の監督として記憶に新しい、ロマン・ポランスキーの作品が公開されている。ヤスミナ・レザの戯曲『大人は、かく戦えり』を映画化した『おとなのけんか』は会話ばかりの80分作品。戯曲から生まれた映画だけあって限られた空間を巧みに利用した室内劇で、登場人物も４人と少ない。しかし、ジョディ・フォスターとケイト・ウィンスレット、ジョン・C・ライリー、クリストフ・ヴァルツと顔ぶれはかなり豪華であり、素晴らしい演技を見せている。だが、それは数多くの方が賞賛しているのでそちらを読んでいただきたい。</p>

<p>　だが、それに負けず劣らず黄色いチューリップと電話がすばらしい活躍を見せていた。あまりそのことについて触れているものが少なかったので、この場を借りて、賞賛を送らせていただきたい。</p>

<p>　チューリップは春を彩る代表的な花である。そんなチューリップ（黄色）がリビングのテーブルの真ん中におかれたガラスの花瓶に20本ぐらいさしてある。しかし、よくよく考えてみれば、コートやマフラーの季節にその黄色いチューリップはそぐわない。そこで何となく違和感を生み出し、ただの飾ってある花ではないことを訴えかけてくる。さらに、飾り方も大胆で、スマートにぎゅっと束になってではなく、お鍋にパスタをいれるように放射状に広げられている。すると黄色の面積もぐっと増え、鮮やかな色彩のゆえにただでさえある存在感が一層引き立つ。<br />
　どうやらそれは、今日の来客のためにわざわざ購入したものだということが後でわかる。やっぱりそうだ。よっぽどのブルジョワジーでない限り、冬にチューリップなんて飾らない。何やら20ドルもかかったというではないか。これを見栄といわずしてなんと言おうか。フレンドリーに迎えときながらも、やはりそういう置いてあるもので、自分たちなりの見栄を張っていたのだ。お気に入りの画集がわざわざテーブルに出ていたのも同じ理由だろう。さらに、置いてあるだけじゃ終わらない。黄色いチューリップはジュディ・フォスターの化身としてケイト・ウィンスレットの怒りの矛先が向けられる。さらに……（この先は見てない人には言いたくないので省略させてもらう）。</p>

<p>　黄色いチューリップ同様、いい動きをしているのが電話である。クリストフ・ヴァルツの携帯電話とジョン・C・ライリーの家電だ。彼らはどうしても内輪だけで完結してしまいがちな室内（密室）劇に外部をもたらしてくれる。と、言えばかっこいいが、実際はもうこれでもかっていうタイミングで呼び出し音が鳴るというというだけである。それでも、その呼び出し音は４人のだれよりも場を動かす力がある。というのも、どんな状況でもクリストフ・ヴァルツがその電話に出てしまうからなのだが。議論がヒートアップしてようが、席を立って帰ろうとしようが、携帯電話が鳴ったら、いったん流れは中断されて、みながクリストフ・ヴァルツの方を見ながら、いわゆる「待て」の状態になる。その時間がこの喧嘩にどれほどの油をそそいでいるかはぜひ見てほしい。部外者であるこちらが見てもイライラするような横暴ぶりなのである。</p>

<p>　そして、このチューリップと携帯電話が一体となった瞬間に、この映画はクライマックスを迎え、罵声と爆笑の渦がおこる。</p>

<p>　ちなみに、この映画のプロダクション・デザインはフランシスコ・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』（1972）や『地獄の黙示録』（1979）などのプロダクション・デザインも手がけているディーン・タヴォウラリスという人物で、今回の『おとなのけんか』は10年ぶりの復帰戦である。そうとは思えないほどにくい道具の使い方には脱帽するしかない。電話も黄色いチューリップも立派な登場人物である。</p>

<p>2012年2月18日（土）日比谷シネシャンテほか全国順次ロードショー</p>]]>

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<title>『グッバイ・マイ・ファースト・ラヴ』ミア・ハンセン＝ラヴ結城秀勇</title>
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<modified>2012-03-15T06:56:54Z</modified>
<issued>2012-03-15T06:44:03Z</issued>
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<summary type="text/plain">　ミア・ハンセン＝ラヴは井口奈己らとのトークで、『人のセックスを笑うな』と自分の作品とのドラマタイズにおける共通点は「暴力的なシーンの欠如」にあるのではないか、と語っていた。続けて、「暴力的なシーンを回避することはなにか保守的なことだと思われがちだが、むしろ暴力的なシーンが存在してしまうことの方がよほど因習的なのだ」とも言っていた。
　その言葉は、これまでよく見えていなかった彼女の作品のある側面を...</summary>
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<![CDATA[<p>　ミア・ハンセン＝ラヴは井口奈己らとのトークで、『人のセックスを笑うな』と自分の作品とのドラマタイズにおける共通点は「暴力的なシーンの欠如」にあるのではないか、と語っていた。続けて、「暴力的なシーンを回避することはなにか保守的なことだと思われがちだが、むしろ暴力的なシーンが存在してしまうことの方がよほど因習的なのだ」とも言っていた。<br />
　その言葉は、これまでよく見えていなかった彼女の作品のある側面を明らかにしてくれたような気がした。たとえば作品の内容について感じたわけではないが、彼女の長編処女作のタイトルを文字通り読むと、「すべてが許されて」しまっていいんだろうかとも考えてしまっていたのだ。だが、前日のドミニク・パイーニとの対話の中でのパイーニの鋭い指摘（「あなたの映画には悪人がいませんね」）と冒頭の彼女の言葉が気づかせてくれたのは、あらゆる罪や過ちが裁きや告白によって事後的に許されるというようなことではなくて、許されたり贖われたりすべき罪や過ちなどそこにははじめからない、というラディカルな宣言こそが処女作のタイトルの意味するところだったのではないか、ということだ。</p>

<p><br />
 『すべてが許される』と同様の、なめらかだが急激な時間の飛躍を映画の内部に持つ『グッバイ・マイ・ファースト・ラヴ』は、一見の端正さとはうらはらに、非常に歪な部分も併せ持った作品である。16歳のひとりの少女が、数年間の時間を飛び越えてそこに存在し続ける。ただ髪型や衣装がわずかに変わるばかりで、老いや肉体的な成熟をしめすメイクや加工はなされない。にもかかわらず、髪を切ってかつての恋人と向き合う彼女は、かつての彼女と決定的になにかが違っている。この映画の中で、時間の経過は成長や衰えのような一方向的で不可逆的な要素を伴っていない。実際彼女の髪はまた以前の様に伸びるのだが、やはりそこでもなにかが以前とは変わっている。10年近い時間が流れる映画としてはきわめて異例なことに、この作品は、時間を老いや成熟といった因習的な神話に結びつけることなく、ただ変化そのものとして描き出す。歳をとるのはいいことでもなければ、まして悪いことでもない。ただ、違うだけ、なのだ。<br />
　だから、この作品の最後でかつて少女であった女性（そしていまなお少女でもある女優）が川の流れに身を浸すときに聞こえてくるジョニー・フリンとローラ・マーリングの「The Water」、その出だしの一節が奇妙に心に刻みつけられる。<br />
 "All that I have is ａ river”。<br />
　その時の彼女は変容の流れそのものであって、そこにはもはや古さと新しさ、幼さと成熟のような対立は存在していない。というかむしろそのすべてが同時にも存在するようなそんな女性に見える。まるで前作のエンディングで流れた「Que sera sera」の歌い手のように、幼い少女であって、次いで恋人を持つほどに成長し、やがて息子を持つ母親にもなる、そんな女性みたいだ。その女性のように、そして『あの夏の子供たち』の三姉妹のように、互いに似通いながらもまったく違った表情をその都度見せるミア・ハンセン＝ラヴの三部作をそれぞれに愛さずにはいられないと、繰り返し彼女の映画を見る度に思う。</p>

<p><br><a href="http://www.institut.jp/ja/evenements/11541">東京日仏学院「フランス女性監督特集」3/18まで</a></p>]]>

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<title>「恐怖の哲学、哲学の恐怖——黒沢清レトロスペクティヴによせて」ジャン=フランソワ・ロジェ</title>
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<modified>2012-03-14T13:13:21Z</modified>
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<summary type="text/plain">　黒沢清は、B級映画とジャンル映画でデビューした多作の映画作家だが、彼は、国際的な舞台で次々に評価される、異論を挟む余地のないほどに個人的な作品世界を築き上げてきた。彼は恐怖と不安の映画作家だと考えられてきたが、恐怖映画の諸々の規則が、彼にあってはしばしば、それを通して日本の文化的な歴史と社会的な現実を垣間見せるプリズムにもなっている。その演出術は、自らの映画から、これまで実現されたことのない極限...</summary>
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<![CDATA[<p>　黒沢清は、B級映画とジャンル映画でデビューした多作の映画作家だが、彼は、国際的な舞台で次々に評価される、異論を挟む余地のないほどに個人的な作品世界を築き上げてきた。彼は恐怖と不安の映画作家だと考えられてきたが、恐怖映画の諸々の規則が、彼にあってはしばしば、それを通して日本の文化的な歴史と社会的な現実を垣間見せるプリズムにもなっている。その演出術は、自らの映画から、これまで実現されたことのない極限の恐怖を産み出すのに貢献している。たとえ黒沢清が、文字通りのジャンルの束縛から喜んで離れる術を知っていたにせよ、彼の映画は恐怖の物語であると同時に、深淵で微妙な哲学的な疑問である。</p>

<p>　黒沢清は、おそらく映画においてもっとも困難なことに成功しているひとりだ。つまり、ジャンルの諸形式から滋養を受けながらも既存のカテゴリーを乗り越え、原初的で夢幻的な感覚をもっとも高次の思考と混在させ、欲動を冷徹な抽象化と混ぜ合わせることに成功している。つまり、黒沢清の映画にあっては、登場人物たちがいて、諸々の概念が存在している。幽霊たちがいて、現実が存在している。人間たちがいて、理念が存在している。あれは90年代の終わりのことだった。われわれの中の何人かが、それぞれさまざまな映画祭という場で、あまりにも知られすぎた映画監督と同じ姓（もう一人のクロサワ？）を持つ映画作家によって撮られた、本当に恐ろしい、奇妙な恐怖映画を発見したのだった。その映画は『CURE』という不思議な連続殺人の物語であり、そこでは、それぞれの事件で殺人者のアイデンティティが変わり、催眠術が重要な役割を演じていた。フレーミングは冷徹かつ厳密であり、暗く不安を与える雰囲気に満ち、いかなる詩情も拒まれ、既知のものと決定的な不可思議さとが混合された印象を与えていた。そうしたものの全体が『CURE』を魅力的なものにし、少しばかりの恐れを与えてくれた。このとき、この映画作家はもっとも豊かな活動の時期に入っていたのだ。彼は1999年から2003年のあいだに、現代の映画の中でもっとも重要な作品群に値する映画を次々に撮っている。『カリスマ』、『ニンゲン合格』、『降霊』、『回路』といった作品群とともに、われわれがこの映画界の「食人鬼」を発見したとき、彼の背後にはすでに豊かで波乱に満ちたキャリアがあった。黒沢清の初期の作品群を発見することこそ、このレトロスペクティヴの目的のひとつである。</p>

<p><br />
<b>現代映画とB級の間で</b><br />
　黒沢清は1955年に神戸で生まれ、立教大学で社会学を学んだ。彼の映画への嗜好は、ヨーロッパ映画ばかりではなく、とりわけリチャード・フライシャーとドン・シーゲルに代表される1970年代のアメリカ映画、B級ホラー映画、日本映画のジャンルものから成っている。彼を魅了したのは、現代映画の形態上の転倒であり、ポスト・ハリウッドのジャンル映画の持つカオスを産み出す技法だった。彼は、日本のシネフィルの重鎮である蓮實重彦の薫陶を受けた後、相米慎二や長谷川和彦の助監督を経て、ギャング映画を異化した現代的なパロディである『しがらみ学園』を、彼の世代の他の映画作家たちと同じように８ミリで撮影した。彼はポルノ映画も２本撮影しているが、そのうちの１本は日活が気に入らず、封切られることはなかった。彼はジャンルの規則を遵守しなかったのだ。『神田川淫乱戦争』も『ドレミファ娘の血が騒ぐ』もーーロマン・ポルノというジャンルそのものが実験的なものではあったがーー、何物とも判別のつかないものだったのである。キャメラに正対する立ち位置、バーレスク喜劇のような正面性、新たなポップ・アートのような平面性、これ見よがしの文学や映画の参照の数々。そこには、ゴダールからの明らかな影響が圧倒的なまでに見られる。砂漠を横断してから、伊丹十三によって製作されたホラー映画『スウィートホーム』とともに彼は映画界に舞い戻り、1990年代初頭からTVドラマやVシネマに活動を広げていく。恐怖映画（「学校の怪談」シリーズ）や探偵もの（「勝手にしやがれ!!」シリーズ）は、彼のお好みのジャンルだ。</p>

<p><br />
<b>恐怖の映画術</b><br />
　おそらく恐怖ほど彼の作品を正当に特徴付けるものはないだろう。彼は自らの作品を、苦悩の洗練された芸術の模範的な範例にし、不安の純粋な原理の応用にしている。なぜなら黒沢清は好んで恐怖を催す物語を語っているからだ。たとえば『CURE』においては、自分で人を殺す代わりに催眠術を用いて第三者に身近な人たちを殺させる連続殺人犯の物語を、『DOOR III』においては、熱帯の寄生虫に冒されてゾンビになった保険外交員たちの物語を、『降霊』では、自分の霊能力を証明するために夫と共謀して女の子を誘拐する霊媒師の物語を、『回路』では、インターネットを通じて徘徊し、青少年たちを自殺に追い込む幽霊の物語を、『ドッペルゲンガー』では、自らの分身の罠にはまったと思い込む男の物語を語っている。他の多くの映画の中でも、悔恨、あるいはずっと隠していたいこの世のものではない抑圧の表現である幽霊たちが立ち現れる物語が語られている。だが彼において恐怖とは、演出というものの非常に個人的な方向性からもたらされている。とても丁寧なショットは、取り返しがつかないほど具体的な恐怖に満ちている。不安なざわめきが次第に重く響くときはつねに、この映画作家が非常に重きを置いているフレーム外からは、危険が出現するおそれが感じられる。縦の構図で捉えられた不動の人影は、とりわけ恐ろしさを与える。色のしみ（『降霊』の少女のドレスの緑色や『叫』のワンピースの赤い色）は、観客たちの網膜に強い印象を与え、安心極まりない平穏をかき乱す。だが、黒沢清において恐怖とは、何にもまして哲学的であり本質的なものなのである。『ニンゲン合格』や『トウキョウソナタ』のようにジャンルを直接的に呼び起こさない作品であっても、恐怖は深く染み込み、人間と社会の間の、人間とそのアイデンティティの間の関係性について、比類なく知的に問いかけを行っている。</p>

<p><br />
<b>否定する力</b><br />
　幽霊と伝染の物語を通じて黒沢清が追い詰めているのは、死の欲動であり、他者の消滅への欲望だ。夫婦の空間は、声なき脅迫の、告げられることのない殺人の欲望の場になり（『CURE』、『降霊』、『叫』）、仕事場もまったく同じオブセッションに取り憑かれていて（『地獄の警備員』、『DOOR III』、『CURE』）、家庭でも同じことだ（『叫』における父その人による子どもの殺人）。『カリスマ』において、周囲に立つ木々の荒廃を招くことで伸びていく１本の木のように、存在とは否定によってしか生き続けることはできない。つまり、存在は「ある」のだが、それが「ある」のは、存在の死においてのみである。「わたし」の変質、「わたし」の分離という仮定に感じられるめまいこそ、『ドッペルゲンガー』の深遠な主題だ。時間の宙吊り状態（『ニンゲン合格』は長い昏睡状態から我に返る）や世界の秩序の変調という蓋然性は、より不安に満ちた別の深淵へと開かれている。<br />
　黒沢清の日本、それは、自らの歴史の悔恨とトラウマ、そして歴史の消滅への予感に取り憑かれて砂漠のようになった廃墟の世界になる。事実、黒沢清の映画には、カオスへの不安、『回路』や『カリスマ』に文字通りの出現する終末が近付いていることへのめまいを伴った意識が支配している。現代の日常生活、都会の孤独、サラリーマンの不安、超越的存在の不在は、別のタイプの個人を描き出す。そこから黒沢清は造形的な結論を引き出している。彼の映画では、人間の輪郭がそれまでにはなかったやり方で描き出されている。人間の輪郭が、幽霊になり、痕跡になり、影になり、染みになる。現代芸術が現代の世界を特徴づける人間の消滅の形を描くことに執着するとき、こうした黒沢清の方法は現代芸術の主要な関心事に結びつくことになる。</p>

<p><br>*この文章は<a href="http://www.cinematheque.fr/fr/dans-salles/hommages-retrospectives/fiche-cycle/kiyoshi-kurosawa,444.html"> シネマテーク・フランセーズで開催される黒沢清監督のレトロスペクティヴ（2012年3月14日-4月19日)</a>によせて、プログラム・ディレクターであるジャン＝フランソワ・ロジェ氏によって執筆され、カタログ掲載されたものである。 <br />
（翻訳:槻舘南菜子、坂本安美）</p>]]>

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<title>『ロング・グッドバイ　パパ・タラフマラとその時代』パパ・タラフマラ、小池博史増田景子</title>
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<modified>2012-03-15T04:28:30Z</modified>
<issued>2012-03-11T16:33:27Z</issued>
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<created>2012-03-11T16:33:27Z</created>
<summary type="text/plain">　2012年パパ・タラフマラが解散する、ということは知っていた。観劇するともらう分厚い折り込みチラシの束にたしか最終公演のフライヤーを目にしたからだ。でも、「パパ・タラフマラが解散する」ということが何を意味するかは知らなかった。さらに、パパ・タラフマラがどんな劇団で、どんな歴史を築いてきたかってことも知らなかった。そう、何も知らなかったのだ。

「パパ・タラフマラは1982年に小池博史を中心に結成...</summary>
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<![CDATA[<p>　2012年パパ・タラフマラが解散する、ということは知っていた。観劇するともらう分厚い折り込みチラシの束にたしか最終公演のフライヤーを目にしたからだ。でも、「パパ・タラフマラが解散する」ということが何を意味するかは知らなかった。さらに、パパ・タラフマラがどんな劇団で、どんな歴史を築いてきたかってことも知らなかった。そう、何も知らなかったのだ。</p>

<p>「パパ・タラフマラは1982年に小池博史を中心に結成された、パフォーミング・アーツ・カンパニーで、「ダンス」「演劇」「美術「音楽」等の様々なジャンルを巻き込みながら、舞台空間全体をひとつのアートに築き上げる手法で人々を魅了した。」（本書ブックカバーより）</p>

<p>ジャンルにとらわれずに、ということは今でこそ盛んに言われるようになってきたが、やはり演劇は演劇、ダンスはダンス、映画は映画というジャンルのなかで戦っているものがほとんどというのが日本の現状である。にもかかわらず、この団体は30年も前から今でさえなかなか実現されないことをやってきたというのだ。「あらゆる境界線に立つこと」という立ち上げ時の精神をつらぬいて。その証拠に、コメントをよせている誰もがその舞台を何と呼んでいいかわからないと口をそろえて言っている。また、目次からもそれがわかる。彼らがあらゆるジャンルの境界に立って活動してきたからこそ、彼らに対して言及する人々も、詩人の谷川俊太郎にはじまり、キュレーターの長谷川祐子、映画監督の是枝裕和、写真家の港千尋などジャンルは多岐にわたる。</p>

<p>　そんな色々な人の声が集まったこの本は、ただの解散記念の記念本ではない。むしろ過去作品がどんなものだったかについて詳細にふれた文章は少ない。この本が語りたいのは、パパ・タラフマラの過去ではなく、彼らの解散についてなのだ。なので、インタヴューでも思い出話もそこそこに、この解散にまつわる話へと切り込んでいく。<br />
　ああ似たような感触の本を読んだことがあると思って思い出したのは、片岡義男の『ぼくはプレスリーが大好き』（角川文庫／1974）。エルビス・プレスリーについて書いた本なのに、全然プレスリーの名前が出てこない。プレスリーを語るということは、ロックンロールの歴史を語ることと同義なのだ。そのことをこの本から教えてもらった。きっと高い評価が得られる海外に拠点を移さずに、日本に拠点をおくことに執着しつづけ、日本に挑んできたパパ・タラフマラだからこそ、プレスリーとロックンロール同様に、パパ・タラフマラを語ることはここ30年の舞台芸術について語ることになるのだろう。</p>

<p>　これは彼らの解散についての本だと先にのべたが、そのことはあくまでも媒介にすぎない。堤清二は本書のなかでこうのべている。「私たちは、パパ・タラフマラの解散を、いまの文化状況への痛烈な批判として受けとめるべきだろう」と。この本はきっと「パパ・タラフマラの解散」という一事件を介した日本の舞台芸術界に対する申し文なのだ。</p>

<p>正直いって知らない劇団の解散である。しかし、舞台の一観客として、いや文化に関わるものとして、この事件を知らないで済ましてはいけないとこの本はしきりに訴えかけてくるのだ。</p>

<p><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=nobodymag-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4861523370&ref=qf_sp_asin_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>]]>

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<title>『なみのおと』酒井耕＆濱口竜介松井宏</title>
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<modified>2012-02-18T15:24:37Z</modified>
<issued>2012-02-18T15:05:22Z</issued>
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<created>2012-02-18T15:05:22Z</created>
<summary type="text/plain">　声による圧倒的な体験。
　酒井耕、濱口竜介という初めてドキュメンタリーを撮るふたりの監督によるこの作品は、声による圧倒的な体験と言い換えられる。ふたりは2011年3月11日の東日本大震災以後に宮城県に入り、各地の何人もの（何組もの）人々との接触を何度も重ね、やがて彼ら自身の体験をそれぞれ語ってもらい、そのなかの11人をこの作品に登場させている。昭和初期に同地域に発生した大地震を経験したおばあさん...</summary>
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<![CDATA[<p>　声による圧倒的な体験。<br />
　酒井耕、濱口竜介という初めてドキュメンタリーを撮るふたりの監督によるこの作品は、声による圧倒的な体験と言い換えられる。ふたりは2011年3月11日の東日本大震災以後に宮城県に入り、各地の何人もの（何組もの）人々との接触を何度も重ね、やがて彼ら自身の体験をそれぞれ語ってもらい、そのなかの11人をこの作品に登場させている。昭和初期に同地域に発生した大地震を経験したおばあさんから始まり、まだ20代前半と思われる女性まで、その世代はグラデーションを持つ。</p>

<p><br />
 「いかにも」な被災地の風景はいっさいない。語る人々の姿と、紙芝居という根源的な伝承装置以外、カメラが見せるのは「いかにもな田舎」の風景だけだ。ではなぜ酒井＆濱口は、ひたすら語りをカメラにおさめるという選択したのか？ たとえばジャン・ユスターシュの『ナンバー・ゼロ』がそうだったように、想像的な歴史と現実的の歴史との混交から、ひとつの怪物的な物語＝歴史をつくりだすため？ そうとも言える。と同時に、その選択の土台にはまず、以下の事実を示す目的があったはずだ。宮城県内で震災と津波を体験した人々はみながみな同一の経験をしたわけではなく、それぞれに特異な経験があったという事実。つまり、彼らそれぞれにその特異性を与えて（返して）あげることが、何よりの目的なのだ。彼らは何よりもその声によって、自らの特異性を（ふたたび）輝かせる。わたしたちがこの1年、ときに胸を痛めながら、ときにワクワクしながら見てきたありとあらゆる「被災地の映像」が、いまや「被災者」という名のもとに彼らの特異性を奪い、そのイメージを均一化している事実は疑いようがない。酒井＆濱口は、じゃあそうした均一化されたイメージを、天の光でも射すごとく破壊するような映像を求めるんだ！という、クソみたいな自己満足と履き違えられた誠実さとは無縁だった。<br />
　<br />
 「なみのちから」から「なみのおと」へ、とでも言えるのか。すべてを均一化させ硬直化させる「なみのちから」を、個々の特異なざわめきを聴かせるしなやかな「なみのおと」へと変換すること。そこで酒井＆濱口がとった戦略（＝映画づくりの方法）は、これまたとても興味深いものだった。</p>

<p><br />
 『なみのおと』に登場する人々はみな対話形式で話す。姉妹、夫婦、地元の仲間たち。あるいはひとりで語るときですら、酒井監督か濱口監督が彼（女）の対話相手となり、監督たちもちゃんと自分の顔を画面にさらすことになる。その際、対話者は互いにカメラと正対し、つまりほぼカメラに向かって話しており、それらが、いわゆるショット／切り返しショットのかたちで繋げられる。だがここで当然ひとつ疑問が生じる。いったい、どうやって正面で向かい合うふたりを、何度も同じテイクをやらせるわけでもないのに、それぞれカメラに正対した姿でとらえることが可能なのか？（2台カメラを使っている、というのもありえない。なぜならそれだと、片方の人間が映る画面に、本来あるはずのもう1台のカメラが映らざるをえないからだ。もちろん、もう1台のカメラはここに映りこんでいない）<br />
　こたえ。上映後のQ＆Aで監督ふたりが十八番でもやるように身振り手振り答えてくれた。要するに、片方の対話者を1メートルほど横にスライドして座らせ、互いの前にそれぞれカメラを置いて、そして対話をしてもらったとのこと。つまり実際のところ対話者は、それぞれ別のカメラを正面に見つめながら、斜め前方に相手を視野に入れつつ、対話をしていた。それをショット／切り返しショットのかたちで編集して繋いだ、とのことだ。<br />
　<br />
　すでに濱口監督は『親密さ』（いちおう「フィクション」映画）で、同様の方法を試していた。実時間の対話の流れを保ちつつも、対話者それぞれがそれぞれのカメラとの「親密」な関係を持って自らの言葉を発する、というこの形式。これは少なくとも話者にとって「演劇的な」（あるいは「フィクションの」）とでも呼べるような、思いも寄らない自分の力を引き出される形式なのだろう。カメラとの間にミニマムで親密な演劇空間を構築できるとき、ひとは自分のうちに潜んでいた力を初めて認識し、発揮する。おそらくそういうことなのだろうか。フィクションかドキュメンタリーか、役者か非＝役者か、そういった区別に関係なく。少なくとも『なみのおと』において、話者たちはそのようなカメラとの関係を結べたがゆえに、自分の発話の力に自分で驚きながら、自分でも知らないような大きな感情にとらえられているように思う。だからこそ、あれほど大量かつ充実した言葉を繰り出すことが可能となったのだろう。</p>

<p>　しかしなぜ酒井＆濱口はこのような技法を使ったのか？ 繰り返すが、まずは彼らに各々の特異性を返してやるためだ。この作品をあくまでも「バラバラ」から出発させるためだ。そしてもちろん、それだけじゃダメだ。バラバラ（＝各対話者に別々のカメラを向ける）から出発し、そしてあくまでも、それらを再構成（＝ショット／切り返しショットのかたちでの編集）せなばならないのだ。彼らに各々の特異性を返した後に——そう、それだけじゃダメなのだ——今度は、彼らがともに存在すべき共同体を再構成すること。</p>

<p>　<br />
　つまりこれは、まさに彼らのうちの何人かが発した「てんでんこ」という言葉の映画化でもある。「てんでんこ」（ウィキペディアにも載っていた）とは、「津波のときは、家族だろうが誰だろうが他人にはかまわず、とにかく自分のことだけを考えてバラバラに高台へ逃げろ」という意味。ひとりの男性が語っていたように「てんでんこで逃げてこそ、あとで家族がちゃんと再び集まれる」わけだ。家族や共同体を再構成するために、とにかくいちどバラバラになる。酒井＆濱口の方法論とは、まさしく「てんでんこ」のそれだ。『なみのおと』は「てんでんこ」につくられている。つまり『なみのおと』とは、実際には津波のずいぶん後につくられていながら、まさに津波がその地を襲ったあの時間帯を、そこに生きていた人々とともに生きなおしている作品なのだ。</p>

<p>　それぞれの人間の特異性を、そしてその力を存分に生きさせながら、それを損なうことなく、彼らがともに存在することのできる共同体とは、しかしいったいどんなものなのか？ わからない。これはいまもっともアクチュアルな問いのひとつかもしれない。『なみのおと』もまたそれに答えは出せないし、監督ふたりはその問いを立てるために——そして探求するために——この作品をつくったはずだ。「てんでんこ」を語った男性は、「ふるさと」というものについても語っていた。彼の語りは非常に象徴的に「ふるさと」の危うさを意識的に暴露してもいた（監督である酒井と彼のやり取りは非常にスリリング）。だから問いはこうとも言える。政治や経済、あるいは資本主義の餌食とならない「ふるさと＝共同体」とは、どのように可能なのか？と。あるいは『なみのおと』という1本の作品こそが、その共同体の姿なのだろうか……。</p>

<p><br />
　だがとにもかくにも。圧倒的な語りを体験させる『なみのおと』は、観客にもまた語りを誘うだろう。観客は上映後、さまざまなことを考え、さまざまなことを互いに語るだろう（あんなに雰囲気の良いQ＆Aはホントに珍しい。あれも作品の力だ）。『なみのおと』に登場する彼らを見て、ぼくもわたしも、彼らのように生きたい、と思ってしまうだろう。あの老姉妹のように年をとりたい、あの女性のように友人を大事にして生きたい、あの男性のようにたくましく生きたい、あの若い姉妹のような仲の良い姉妹になりたい、そしてあの夫婦のように、ケタケタ軽口をたたきながら互いの愛を確認できるような夫婦になりたい（最高の夫婦！この作品の白眉！）。彼らはみな、本当にかっこいいのだ。すべての人間が『なみのおと』のおかげで自らの特異性を取り返し、その大きな力を存分に輝かせている。そして『なみのおと』の大きなやさしさでもって、ともに存在している。<br />
　<br />
　酒井＆濱口はいまも仙台県内に滞在し、現地の人々に会い、同じように語りをカメラに収める作業を続けているという。しかもそれらの映像は「せんだいメディアテーク」にアーカイブ化され、誰もがアクセスできるようになる、そんなプロジェクトが進んでいるとのこと。わたちたちの伝承装置としての『なみのおと』は、いまや「映画作品」に留まらない大きな力となりはじめている。だがまずは、ひとまず「作品」というかたちをとった『なみのおと』を体験し、それについて多くを語るのが先決だろう。まだまだ語るべきことはたくさんある。圧倒的な体験。自分でも気づかなかった何かが、感情が、自分のからだになだれ込んでくる感覚。そんなものめったに味わえるものではない。</p>

<p><br><a href="http://www.yebizo.com/">2月23日（木）15：00、恵比寿映像祭にて上映！</a><br />
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<title>11-12チャンピオンリーグ決勝トーナメント ACミラン対アーセナル　4-0 梅本洋一</title>
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<summary type="text/plain">　しばらくアーセナルについて書かなかった。ゲームを見なかったわけではない。全ゲームをしっかりフォローしているが、どうもしっくり来ない。プレミアでは勝ったり負けたり。勝負弱いのは今日に始まったことではないが、簡単に敗れる原因になっているディフェンス・ラインの脆さは、ヴェンゲルが監督に就任してから初めてことだろう。なにしろ最初の頃は、フェイマス・バック・フォーが堅守を誇っていたのだから。昨シーズンのデ...</summary>
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<![CDATA[<p>　しばらくアーセナルについて書かなかった。ゲームを見なかったわけではない。全ゲームをしっかりフォローしているが、どうもしっくり来ない。プレミアでは勝ったり負けたり。勝負弱いのは今日に始まったことではないが、簡単に敗れる原因になっているディフェンス・ラインの脆さは、ヴェンゲルが監督に就任してから初めてことだろう。なにしろ最初の頃は、フェイマス・バック・フォーが堅守を誇っていたのだから。昨シーズンのディフェンス・ラインも多くの批判に晒されたが、原因はヴェルマーレンの怪我で片付けられていた。だが、今、ヴェルマーレンは復帰し、つい２ゲーム前まではメルテザッカーもどっしり構えていた。<br />
　この対ミラン戦、アーセナルはまったく良いところなく完敗だ。今から４シーズン前、やはりサンシーロで同じ顔合わせでの対戦があり、そのときは、アーセナルが0-2で完勝した。当時のミランのミッドフィールドの面子はガットゥーゾ、ピルロ、アンブロジーニ。今と比べても遜色ない。アーセナルは、フラミニ、セスク、フレブ。今はソング、ラムジー、アルテタ。今の問題はこの辺だ。アルテタとラムジーが「球拾い」になって、ボールを散らすわけだが、昔に比べて、ここは決定的に遅い。ラムジーもアルテタも、ボールを預けられるとルックアップしてから、ボールをこねくり回す。かつてのアーセナルなら、「ポケットビリヤード」のようにワンタッチ、ツータッチでボールが回ったが、ルックアップしながらパスコースを探せば、どんなチームのディフェンダーでもきっちりポジショニングするだろう。同じようにポゼッション・フットボールでもバルサのチャビ、イニエスタ、セスク、メッシとはぜんぜんちがう。アーセナルは、ミッドフィールドでボールが遅延し、結局パスコースがないまま、バックパスして組み立て直す。これでは、ロングボールを使ってミッドフィールドをパスし、そのままファン・ペルシにぶつけた方が効果的だろう。<br />
　つまり、アーセナルのミッドフィールドは実に凡庸になってしまった。多くの原因はアルテタとラムジー。もちろんどちらの選手も足下がしっかりしていて、ルックアップからパスという基本を押さえているのだが、グングンパスを回しならクリエイティヴな中盤を作っていくには、ルックアップするのではなく、ヴァイタル・エリアに走り込んでくる選手にワンタッチでパスするべきだ。いつだったが、アーセナルのゲームを解説した永井洋一が、アーセナルのアタックが輝くときには、ワンタッチの縦パスがグンと入ると言っていたが、その通りだ。両翼の選手も、ダイアゴナルにヴァイタル・エリアに走り込んでこない限り、アーセナルの停滞は続いていくだろう。<br />
　このチームがチャンピオンズリーグのベスト８に進む可能性はもうない。喫緊の目標はプレミアで４位まで入り、来年の出場権を得ること。だが、ステップ・バイ・ステップで階段を上がるよりも、何か劇的な変化がチームに欲しいことは確かだ。<br />
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<title>淡島千景追悼梅本洋一</title>
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<summary type="text/plain">　映画って本当に不思議だ。森繁に「たよりにしてまっせ」と言われていたり、原節子の長年の友人の料亭の娘だったりした、あのキャピキャピしていて、屈託のない、それでいて頼りがいのある女性が、87歳でこの世を去ってしまった。映画の中ではいつも美しくて、行動的で、「いいなあ、こんな人が友だちにいたらな」といつも思っていた人が、実は、現実の世界では80歳をとおに越えていた。当たり前のことだ。小津安二郎（『麦秋...</summary>
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<![CDATA[<p>　映画って本当に不思議だ。森繁に「たよりにしてまっせ」と言われていたり、原節子の長年の友人の料亭の娘だったりした、あのキャピキャピしていて、屈託のない、それでいて頼りがいのある女性が、87歳でこの世を去ってしまった。映画の中ではいつも美しくて、行動的で、「いいなあ、こんな人が友だちにいたらな」といつも思っていた人が、実は、現実の世界では80歳をとおに越えていた。当たり前のことだ。小津安二郎（『麦秋』）だって、豊田四郎（『夫婦善哉』）だって、川島雄三（『貸間あり』）だって、ずっと前にこの世からいなくなっているわけだから、淡島千景が亡くなってもぜんぜんおかしくない。87歳という年齢はむしろ天寿を全うしたとも言える。でも、不思議なのは、ぼくが最近いろいろな機会に見直した日本映画の中の淡島千景は、いつも元気で若々しくて素敵だった。その残像があまりに強い過ぎて、彼女が亡くなったと言われてもぜんぜん信じられないだけだ。<br />
　単純な事実を確認しただけのことだ。アンドレ・バザンのミイラコンプレックスだ。人は永遠の若さを防腐処理したミイラにして残そうとしたい欲望を持っている。写真映像の存在論というのは、その欲望の発露だとバザンは言う。老け役という例外はあるにせよ、写真であれ映画であれ、そこに映っている人は、現実のその人よりも必ず若い。ロラン・バルトの写真論も、そんな当然の事実の前に愕然とする体験を語っていたようにも思える。昔の恋人の写真を見ると今よりも若い。ロラン・バルトなら、若かりし頃の彼の母の写真のことを語っていたはずだ。つまり、淡島千景は、本当の年齢なんてどうでもよくて、映画の中の彼女はいつでも若々しかったということだ。<br />
　これはとても幸せなことだと思う。けれどもちょっと寂しいのは、晩年の彼女は、原節子の神話とは反対に、名画座で淡島千景特集をやると、よくその場に顔を出して、もちろん映画の中の彼女よりもずっと歳を取っていたけれども、とても嬉しそうに昔のことを語ってくれていたのだが、その彼女の姿がもう見られないことだ。若い映画研究者にかつて自分が出演していた映画について語り起こした本もある。彼女のファンであるぼくは、もちろん、その本を買い求めて読んでみた。とっても真面目な本で、彼女に関わる映画を撮った巨匠たちの映画作法を解明しようと研究者たちが頑張っている。確かに興味深くあったのだが、ぼくは、彼女が出た映画のことより、彼女のことをもっと知りたいと思った。ぼくらは、彼女について彼女自身に聞く機会を失ってしまった。<br />
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<title>『ドラゴン・タトゥーの女』デヴィッド・フィンチャー隈元博樹</title>
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<summary type="text/plain">リスベット(ルーニー・マーラ)の背中から美尻にかけて彫られた漆黒のドラゴン・タトゥー。その美しいドラゴンから一瞬たりとも目が離せないかのように、気がつけば誰もがこの158分の「犯人探し」の旅へと巻き込まれていくだろう。ただしデヴィッド・フィンチャーのフィルモグラフィーをたどってみると、『セブン』では捜査中に連続猟奇殺人事件の犯人が自ら出頭してしまうことで「犯人探し」は終わりを告げた。『ゲーム』や『...</summary>
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<![CDATA[<p>リスベット(ルーニー・マーラ)の背中から美尻にかけて彫られた漆黒のドラゴン・タトゥー。その美しいドラゴンから一瞬たりとも目が離せないかのように、気がつけば誰もがこの158分の「犯人探し」の旅へと巻き込まれていくだろう。ただしデヴィッド・フィンチャーのフィルモグラフィーをたどってみると、『セブン』では捜査中に連続猟奇殺人事件の犯人が自ら出頭してしまうことで「犯人探し」は終わりを告げた。『ゲーム』や『ファイト・クラブ』においても虚構と現実をぐるぐると駆けめぐりながらも、結局は真偽の境界なんてさして重要ではない世界へと引きこまれていたりもする。『ゾディアック』に関しては最終的に誰が犯人だったさえわからない。前作『ソーシャル・ネットワーク』は「見ず知らずの人間たちが、facebookを通していともたやすく新たなコミュニティを作っていくんだ」というショーン・パーカー(ジャスティン・ティンバーレイク)の一言に集約されているようなフィルムだった。<br />
<br></p>

<p>つまりフィンチャーのフィルムとは、そうした物語のカタルシスが奇妙に見え隠れする。しかしそれは決して悪いことではない。『パニック・ルーム』のように隠されていた富豪の遺産はどうなったのかということよりも、密室に立てこもった母娘と犯人たちの攻防にこそ強い醍醐味が隠されているからだ。だからフィンチャーにはカタルシスの周辺に漂う演出の細部にいつも唸らせられてきた。彼のフィルムとは物語の核心に迫りながらも、それをあえて遮断、あるいは欠落させることで成立しているとも言えるだろう。<br />
<br></p>

<p>だからハリエット殺害事件の「犯人探し」は、『ドラゴン・タトゥーの女』そのものをぐるぐると円環させるためのエンジンではあったかもしれない。しかしそれが結局誰だったのかということは重要ではない。むしろどうでもいい。重要なのはミレニアムのゴシップ記者であるミカエル(ダニエル・クレイグ)とリスベットがいかにして出会い、犯人を追求していくのか、あるいは追い詰められるのかというプロセスなのだ。使い慣らされたMacパソコンの画面上に怒涛のスピードでタイピングされていく文字や記号、スキャンされた多くの証拠写真が、しだいに「犯人探し」の手がかりとなっていく。カタルシスの周辺に漂う速度を持った細部によって、画面の強度が沸々と漲ってくるのだ。<br />
<br></p>

<p>さらにはヘーデビー島の高台に位置したマルティン(ステラン・スカルスガルド)の豪邸へ侵入するシーンに、フィンチャーにおける見事なカタルシスの逃避とそのプロセスが集約されている。ハリエット殺害事件と連続猟奇殺人事件に関与しているのがマルティンだと気づいたミカエル。彼は全面ガラス張りで白く塗られた邸宅といった状況下、不幸ながらもマルティンの帰宅に遭遇してしまう。寒風がかすかに漏れるベランダ窓の隙間や、ゆっくりと後退する廊下、二人の表情といった数々の鬼気迫る適切なショットが見事に並べられ、同時にヴァンゲル社の地下資料室で調査するリスベットのショットもそこに散りばめられていく。結局邸宅の地下室に連れこまれたミカエルは、マルティンにワイヤーロープで吊るし上げられ、ある一言を彼に問われる。「またフィンチャーにしてやられた！」と思わず膝を打ちたくなる瞬間なのだが、同時にそれは彼のフィルムにとって重要ではなかったりもするのだ。<br />
</p>]]>

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<title>『ヒミズ』園子温増田景子</title>
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<created>2012-02-15T06:53:21Z</created>
<summary type="text/plain">園子温監督ははやくも震災を映画にとりこんだ。それが『ヒミズ』だ。結果、この映画は今後の被災地のひとつの可能性を描きだしたといえる。

この映画は古谷実による同名の漫画（2001†2003年連載）を原作とした映画で、9月に行われたヴェネチア映画祭ではコンペティション部門で主演の染谷将太と二階堂ふみがマルチェロ・マストロヤニン賞（新人賞）を受賞、1月から全国でロードショーが始まった。「普通」を夢見る中...</summary>
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<![CDATA[<p>園子温監督ははやくも震災を映画にとりこんだ。それが『ヒミズ』だ。結果、この映画は今後の被災地のひとつの可能性を描きだしたといえる。</p>

<p>この映画は古谷実による同名の漫画（2001－2003年連載）を原作とした映画で、9月に行われたヴェネチア映画祭ではコンペティション部門で主演の染谷将太と二階堂ふみがマルチェロ・マストロヤニン賞（新人賞）を受賞、1月から全国でロードショーが始まった。「普通」を夢見る中学生・住田（染谷将太）は、色々なことが積み重って父親を殺してしまい――という話なのだが、震災を受けて園監督はこの脚本を大きく書き直した。まず、舞台は3・11後の被災地のどこかに変更。彼の家の前の池の中央には津波で流されたままになっていると思われるプレハブ倉庫が浮かぶ。また、住田の腰巾着である同級生・夜野は被災して社長からホームレスに転じた老人・夜野にし、他にも被災者ホームレスという設定になっている。そして、最大の変更はラストである。</p>

<p>『ヒミズ』のラストでは、ふたりで川原を走りながら茶沢が住田に向って「ガンバレ」を絶叫にちかいかたちで連呼する。この結末は原作ではありえない。住田はその時点で自殺をしてしまっているからだ。だが、繰り返し述べられているとおり園監督による脚本の書き直しで、住田は生きのびる道を選ぶ。その書き直しと、その一連の流れからの茶沢の声援に希望を抱いたといった感想が多いが、そこに対して首をかしがずにはいられない。あまりにも過剰すぎやしませんか。別に絶叫することもなければ、「ガンバレ」と連呼する必要もない。ふたりの表情・動作と、それまでの住田にむけられた異様な愛情表現と半強制的に自首に導いたそれまでの経緯をふまえれば、走る住田に茶沢が並走すること自体に充分「ガンバレ、住田」のメッセージが含まれている。<br />
　<br />
　そもそも園子温監督は映画においてかなり饒舌家なところがある。それは彼が詩人であったことに起因していると思われるが、とにかくセリフ、セリフの嵐。どの登場人物も監督の手にかかればしゃべり出す。饒舌家ぶりが見えるのはそこだけではない。前作『恋の罪』では田村隆一「帰途」、そして今作はフランソワ・ヴィヨンの「軽口のバラード」のワンフレーズをことあるごとに反芻しているのも印象的だ。「俺にはわかる　何だってわかる　自分のこと以外なら」。映画を見終わった後には暗唱できてしまうほど繰り返される。<br />
　<br />
はじめにこの一節を聞くのは映画の冒頭。カメラはゆっくりと左から右へと横移動しながらあの風景を映し出す。木から建物から電信柱から街の起伏をつくっていたものたちがなぎ倒されて瓦礫となり、開けてしまった風景を。場所の特定はできないものの、そこが東日本大震災の津波を受けた被災地だということだけはわかってしまう。ニュースなどで似たような風景は何度も目にしているが、やはり言葉を失うほどの壮絶さがその映像にはある。そこに流れるのが、茶沢（二階堂ふみ）によって朗読されたヴィヨンの詩だ。見るだけで多くを語ってしまう雄弁な映像にさらに何かを加えてしまうのを、饒舌といわずになんといおう。下手したら胸焼けをおこしかねない。</p>

<p>「ガンバレ、住田」の連呼もやはり饒舌家ゆえの演出なのであろう。それにしてもすでにがんばっていると思われる住田にそこまで声援を浴びせなくともよいのではないだろうか。それはまるで3・11以降日本中で繰り返されている「ガンバレ、東北」「ガンバレ、日本」のスローガンのようだ。<br />
きっとここで登場する被災したホームレスの人たちも数年前にはその「ガンバレ、東北」「ガンバレ、日本」の言葉を何度もかけられてきたことだろう。しかし、震災から5年程度経ったと思われる『ヒミズ』の世界ではそのような声援はなくなっている。きっとかけられたとしても、それは地域的なものではなく「ガンバレ、○○さん」と個人的なものではないだろうか。ニュースを見ていると、まもなく失業保険や仮設住宅といった支援が切れてくる被災した人たちに、そのような移行に直面する恐れがありえてしまう。<br />
住田は「未来」なんだと夜野は言う。だとしたら、これは希望を持てる未来なのだろうか。<br />
</p>]]>

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