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2005年5月31日

コンペティション部門 『Where the truth lies』アトム・エゴヤン

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誰もが言うように、今年のカンヌコンペの副題は「作家の祭典」「作家の会合」あるいは「作家のサヴァイヴァル」。すでにパルムドールやグランプリを穫った新旧スター作家たち(40〜50年代生まれ)。いま、ある者はリサイクル期(安定期)に、またある者は衰退期に入っている。賞とは別の場所で、彼らはみなサヴァイヴァルのふるいに掛けられたわけだ。
そのなかでもいちばん若いアトム・エゴヤン(60年生れ)。実験映画の分野から出発し、97年に『スウィート・ヒア・アフタ』で審査員特別グランプリを獲得したアルメニア出身カナダ監督だが、前作『アララトの聖母』では自らのオリジン探求を主題とすることとなる。ただ、その探求に付きまとうナイーヴさが人々を辟易させたのも確か。
こういうとき人は(ハリウッド外の映画監督は、と言い換えてもよい)どうするのか。一方でオリジン探求を続ける手(今年の審査員長クストリッツァ、あるいはギタイあたりか)があり、真逆の極として「アメリカ映画」への参入という手があるだろう。自らの作家性を担保にマシーンのなかへ身を投じるのだ。
エゴヤンが選択したのは後者。お得意の説話的複雑さとサスペンスで、50〜70年代のショウビズ界スターコンビ(ケヴィン・ベーコン&コリン・ファース)の表と裏を語る『Where the truth lies』。惜しいのは、裏音楽産業ものや裏ハリウッドと違い産業システムの変革を蔑ろにしてしまっている点だが、エルヴィスとケネディのような主人公コンビといい、いまに繋がるアメリカを語るには良質なフィルム。『マン・オン・ザ・ムーン』の緻密さとエモーションに比べるのは酷だが、「アメリカ映画」へのイニシエーションとしては、これはなかなか良いのではないか。
もちろんそんな選択にみなは冷たい。多くの酷評が目に付き、エゴヤンはサヴァイヴァルレースの脱落者扱い。ちなみにこのふるいから〈またしても〉落とされたもうひとりがヴェンダースなのだが……まあとにもかくにも。エゴヤンに関しては、やっとここから面白くなるんじゃないかと、個人的には思うのだった。

松井 宏

投稿者 nobodymag : 10:36

2005年5月29日

監督週間部門 『Be with me』エリック・クー

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監督週間オープニング作品。シンガポールの監督エリック・クーは8年前すでにカンヌで発見されており、久々の国際舞台復帰だという。またタイトルはビーチボーイズ『20/20』に収録された同名の曲(デニス作曲)が由来とのこと。
物語は3つの軸で構成される。美人キャリアウーマンに憧れるしがない警備員。女子中学生の同性愛と破局。そしてテレサ・チャンという、二重障害を持つ老婆の実人生。
3つの軸にはまず共通点がある。ほとんど台詞がないこと。警備員は孤独なダメ男の典型でつねに無口なため、女の子はそのコミュニケーション手段がつねに携帯メールなため、老婆はもちろん基本的に言葉を奪われているため。この「言葉のなさ」は、それぞれに、異なるコミュニケーション手段を与える。手紙(警備員)、メール(女の子)、そして身体への接触(老婆)。
もうひとつの共通点は、すべてが「恋愛」とその挫折を語っていること。ここでエリック・クーの選択は正しい。つまり3つのコミュニケーションのモードは、いかにアナログだろうとディジタルだろうと、決して恋愛の成功を導きはしない。もちろん負け犬同士の、たとえば警備員と少女との、逃避的恋愛もクーは斥ける。では恋愛とは誰にも訪れぬ不可能性なのだろうか?
そこでクーは別種の出会いを演出する。ドキュメンタリーとフィクションとの出会いだ。テレサ・チャンの実人生に、彼女の伝記を編纂するひとりの弁護士が接ぎ木される。その接ぎ木により彼の父(妻に先立たれ絶望に沈んでいる)と老婆との出会い、そして恋愛が演出される。ひとつの現実から作品を演出する弁護士(伝記の編纂)は、同時に恋愛の演出家でもあり、その姿はひとりのシネアストのそれでもあるのだ。
ただ以上のことはこの場合「演出」のレッスンの先行をも意味してしまう。ショットの力や色の処理、スタイルの器用な使い分け、あるいは全編を覆う「孤独さ」など、ここ10年ほどのアジア映画評価のおさらい的感も、それに通ずるだろう。ではここに欠けるのは何か? 現実やファンタスムの断片を再構築するロマネスクな意志、である。
その意志と力を持つのが、たとえば『SMILE』を完成させたブライアン・ウィルソンであり、また今年のカンヌでの『Odete』(ジョアン・ペドロ・ロドリゲス)や『Les invisibles』(ティエリー・ジュス)であろう。今後エリック・クーはそこに辿り付けるだろうか。

松井 宏

投稿者 nobodymag : 23:34

コンペディション部門 『Lemming』ドミニク・モル

今年のカンヌ映画祭コンペ部門のオープニング作品。〈レミング〉とは北欧に生息するネズミ科の小動物の名だ。その繁殖力の強さにより鼠算的に増える種の数を集団自殺で調節する、そんな特異な習性を持つ。本作は、ひょんなことからレミングを発見する〈幸福な〉若夫婦(ロラン・リュカ&シャルロット・ゲンズブール)がたどる奇妙な経験を、上司でもある〈危機の〉熟年カップル(アンドレ・デュソリエ&シャルロット・ランプリング)の介入とともにサスペンス仕立てで描いてゆく。物語はロラン・リュカ演じるハイテク企業の技師(タケコプター紛いの空飛ぶ監視カメラを作っている)の視点から語られる。さまざまな事件(上司の妻の誘惑、自殺、自らの妻の不倫、交通事故、上司の死……)が現実とファンタスムの境で繰り広げられ、彼自身の錯乱がフィルムのそれと軌を一にすることとなる。
日常から生じさせられる不気味さ。それは見事に持続させられ、現実とファンタスムの境は最後まで曖昧なままだ。その不気味さがレミングに賭けられているというか。ここでのレミングは、一見して、物語とは関係のないヒッチコック的マクガフィンの意味のなさ=不気味さなのだが、一方でドミニク・モルはそこに象徴的な意味をも与える。つまりここでのサスペンスは、犯罪を巡るのではなく(たとえば上司の死がリュカによる他殺なのか、自殺なのか云々)、レミングという存在に、物語上のその機能にこそ、賭けられているのだ。
とはいえ夢落ち的ラストといい、結局はクラシシズムに寄り添うフィルムだと言えなくもない。デビッド・リンチへの道はほど遠く、あるいはアラン・レネ『アメリカの伯父さん』のネズミ実験場からもほど遠い。あるいは、異なる形でレミングを扱う青山真治『Eli, Eli, Lema Sabachthani?』(「ある視点部門」出品)の対蹠的存在だと、そうも言えるだろう。フランスの若手監督には珍しく「アメリカ映画」を見据える演出や細部を持つドミニク・モルだが、今回もまた前作同様(『ハリー、見知らぬ友人』)、良質なフィルムの粋をはみ出すことがなかった。

松井 宏

投稿者 nobodymag : 00:05

2005年5月15日

コンペディション部門 『Last Days』ガス・ヴァン・サント

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カート・コバーンをモデルとした主人公、マイケル・ピットが演じる彼はブレイクと名づけられているが、他の登場人物はみな役者の名前、ファーストネームがそのまま劇中で使われている。当時のバンドメンバーや友人たちの名前をそのまま劇中に用いることは可能だろうが、ガス・ヴァン・サントはこのようにしてあっさりとこの映画が、現在、製作されたこと、つまり当時の再現ではなく過去と現在が明確に違うということを宣言し、語り始める。役者はみな、現在、当時の彼らと、同年代の役者が選ばれている。これがひとつ目の「ずれ」。
マイケル・ピットだけ役名がつけられているのは、彼が劇中でおかれる立場を示している。過去に現在を導入するこの映画の主人公が現在、すでに死んでいることはこの映画を観る者ならばみなすでに知っている。劇中で麻薬更正施設からの脱走者で森の中で友人と自閉的な生活を送っている彼は、つまり生(麻薬からの更正)と死(ひどい中毒症状を捨て置くこと)との間に立っている。若さを謳歌する友人たちにつねに混ざろうとせず、ほとんど意味のある言葉を発することもできないブレイクは登場人物中ひとりだけ決定的に老いて見えるのはこのためだ。ふたつ目の「ずれ」。
3つ目は撮影である。カメラのフォーカスは常に1点に絞られ、画面上の人物が移動しようと徹底して無関心である。このフォーカスの「ずれ」はガスの好む柔らかい光の中で端的に美しい。そしてその美しさが提出するのは当然「カメラ」の存在、これは劇映画であるというアナウンスであろう。
4つ目の「ずれ」は『エレファント』に顕著にみられた彼の話法である。ひとつの現象が違った話者の視点から、なんのサスペンスを明かすでもなく繰り返される。観客は時系列の整理のために推理するのではなく、一度の時間の流れでは語られなかったこと、語りきれなかったことに耳を、目を澄ますことになる。パラレルにわずかにきしみながら横滑りを続けるひとつの事象。関係ないが、カート・コバーンのために「How long, how long will I slide?」と歌ったアンソニー・キーディスを思い出した。
5つ目。マイケル・ピットの演奏、シャウトをサーストン・ムーアが文字通り「ずらして」ループを組み、劇中ではブレイクひとりだけでその音楽を創造する。つまりこの音楽はブレイクの頭の中と、映画を観る者だけが体験できる。どこでループを組んだのか聞き逃してしまうほどにこの演奏のシークエンスは滑らかで、その滑らかさがかえってそのわずかな「ずれ」の存在を浮かび上がらせる。
いくつもの「ずれ」。ひとつひとつがかすかに立てるきしみの音は、徐々に、徐々に大きく共振して「大きな」音、音楽となり、その音楽は死の直前、ブレイクの手によってなる。その瞬間、彼は「ずれ」から起こる軋みのたてるかすかな音を拾いその振動を増幅させる共鳴体、純粋に音楽装置となっているように見える。
ラスト。彼はまさに「抜け殻」となるのだが、天上へ窓枠に足をかけて上っていくもうひとりの彼をわれわれは目撃する。彼は誰だったか。唐突だが、私はソングライターとしてのカートではなかったかと思ってしまう。ヴァセリンズを誰より尊敬していた彼。かつて彼のパフォーマンスにはやはり心奪われたが、好きな「歌」もたくさんあったことを思い出した。
鈴木淳哉

投稿者 nobodymag : 12:48

コンペディション部門 『Kilometre Zero』ハイナー・サラーム

主人公のクルド人アコは望まず参加したフセイン・イラク陸軍の兵隊として最前線に配属される。戦死者を郷土に帰す任務を帯び、戦地から離れるが、その間ドライバーや検問のイラク軍上官とのやり取りのうち、被差別民族としてのクルド人の立場を知る。映画は戦地からの移動のシーンでロードムービーの様相を帯び始め、その間次第に寓話化が加速する。節々で軽妙な笑いが差し挟まれ、そこで扱われるギャグは、この監督の語り手としてのスタンス(笑ってしまうもの・笑うべきもの・笑うしかないもの)が見て取れ、共感できる部分も多かった。その中でひとつ、牛が絶好のタイミングでくそをするシーンがある。ひとつの映画を製作するのならば、撮影中に不測の事態をフィルムに定着する(してしまう)ことは、確かに起こりうるだろう。ギャグとしてはもちろん採用であるが、問題はそのシーンを採用することが映画全体に及ぼす影響である。
イラン・イラク戦争を題材に、戦争を寓話として語るのがこの映画の勘所であるが、物語の寓話化と、撮影中に起こる不測の事態を編集に残す/削る決断は無関係ではありえない。寓話として物語を語る態度とは、映画の詳細描写から「リアリティ」を排除し、現実世界とは切れた場所、「映画」の中で、ある種の題材、この映画の場合は「戦争」のエレメントをより高純度で抽出する作業と言える。フィルムに不測の事態を定着し、そこから新たな撮影の着想を得ることはあるだろうし、そうした事態を歓迎すべき映画ももちろんあるが、この映画で持ち込まれるそれは、違ったレベルではあるがこの映画が「現実」と地続きであることを、ひいてはこれはひとりの人間が監督した「映画」であることを観客に意識させる方向に働き、寓話としての強度がぐらついてしまっているように思う。
そのぐらつきのせいか、冒頭の最前線のシーンでたびたび見られる砂漠で主人公と戦友の3人が話すシーン——砂塵がレフ版の役目を果たすのか、逆光(カメラは常に「西側」の方向を向いている)で撮られる夕景は不思議とシャドウ部が明るく、美しいコントラストをみせる——を繰り返されると、その前に見た、3人があまりに無邪気にヨーロッパを礼賛するシーンを私はくつくつと笑ってしまったのだが、その無邪気さがどこまで演出されたものなのか、どこまでイラクの「現実」をひきずっているのか、判断がつかなくなってしまった。
鈴木淳哉

投稿者 nobodymag : 12:45

コンペディション部門 『バッシング』小林政広

戦時下のイラクにボランティア活動のため滞在し、人質となり開放された日本人女性のその後をめぐるフィクション。今現在、フランスでもひとりの女性ジャーナリストと通訳が長期間人質にとられているという。そんな中での上映だが、私も現在ジャーナリストが人質にとられていることを知ったのは上映後だし、特に異様な雰囲気の中での上映とはならなかった。
主人公の女性、ユウコの心情を反映してか、常に曇天の空模様で劇は展開される。空模様とある人間の心情など、厳密に無関係であるが、その無関係性とは違ったある種の不可能を、この映画はその上映時間を通して提出しているように思う。
物理的ではない種々の暴力が、これでもかとフルコースで主人公とその家族に降りかかってくる。「言葉の暴力」と呼ばれるようなそれはその直接的な被害者以外、決して同じ体験を持つことはできない。つまりその被害を第3者が追体験するには想像で擬似的に体験するしかないということだ。そしてそこには決定的な距離があり、他人が理解することなどありえない。しかし、空模様と人間の感情に相関関係に見られる不可能とこの場合の不可能はまったく違うものだ。それは他人が被害者の心情、状況を理解するのに感じる/感じてしまう距離とは、何も悪意だけで埋められているわけではないからだ。その距離を作ってしまうもの、その中にはもちろん善意だって含まれるし、人間の持つ美醜すべての感情が複雑に絡み合っているのではないか。肯定的な意味で用いられるような「人間的な感情」が他人(そこにはもちろん家族のような親しい人間も含まれる)との距離を作り出してしまう状況。私の関心は悪意の表出よりもむしろそちら側にある。劇中の登場人物も観客も、主人公の状況を共有することはなく、観客の多数が上映中に席を立つ中、そんなことを考えていた。
鈴木淳哉

投稿者 nobodymag : 12:41