EDITORIAL

今号で取り上げた作品には「民衆」や「群衆」といった共通のテーマが現れているのではないだろうか。これら作品の登場人物たちは、特別な生を生きる人物としてではないし、はたまたヒーローとしてあるのでもない。現在を生きる不特定多数の人々の中のひとりとして登場している。

ペドロ・コスタは『ホース・マネー』制作のきっかけとして、1974年にポルトガルで起こったカーネーション革命の際の出来事を話す。当時、コスタが革命の運動に参加する一方で、ヴェントゥーラはわずか数メートルしか離れていないバリケードの向こうで恐怖と不安に怯えていた。共に群衆の中のひとりとして生きていたあの時が発端なのだと。

黒沢清『クリーピー 偽りの隣人』は、郊外のある住宅地が惨劇の舞台になる。ある夫婦が隣人に不信感を覚えながら生活をするその背後で、名前のない人々が、映画で起きていることに無関心であるというように映り込んでいる。事件に関係ある者と関係ない者とが当然のように同じ画面に収まっている。事件の当事者もそうでない人も同じようにこの世界にいる。そのことが、事件の恐ろしさをより引き立てているようにも見える。

真利子哲也の長編商業映画デビュー作『ディストラクション・ベイビーズ』ではひとりの男が取り憑かれたように喧嘩をする様を繰り返し描いてゆく。暴力を描く手段として選択されるのは、一歩引いた位置から登場人物たちを見ることである。それは、あたかも路上で遠巻きに見ている野次馬の視点であるかのようだ。主人公・泰良の喧嘩だけが繰り返し描かれていたのが、いつしかそれを見ている人々の物語になっている。

いまだ限られた形での上映のみが行われ、公開が待たれるミゲル・ゴメスの『アラビアン・ナイト』もまたポルトガルで生活する実際の人々が主人公となっている。実際の出来事がフィクションとドキュメンタリーを混在させた形で語られる。

これらの映画では、その外側に名前や顔のない人々の顔が浮かび上がる。作品の中に現れるだけであっても、作品の中に登場しなくとも、人々は映画と関係を持っている。それは、これらの作品が私たちのいる現実と地続きであることを意味しているのではないか。

後半部分にあるのは、映画批評家との対話である。いま映画批評を書くこととは何か。映画批評の不在と言われる状況に対してあるTwitterなどSNS上に溢れる言説。そのとき、映画批評が行うべきことは何なのだろうか。現在の言葉を生み出すこと。個人的な思考を共通のこととして伝播させてゆくこと。過去と現在、大きい映画と小さい映画、相反するふたつのことを同じ視野に入れること。あるいは、頑固に同じ問いを繰り返すこと。アメリカ、フランス、日本と住む場所は違っても、その答えが各々との対話の中から浮かびあがってくるだろう。