2002年12月1日(日)〜
12月8日(日)

会場:有楽町朝日ホールほか

http://www.filmex.net/index-j2002.htm

 

   
 
12/1
曖昧な未来、黒沢清 / 藤井謙二郎

「これはほんといろんなとこでことあるごとに言ってることなんですけど」と前置きして、浅野忠信は喋りはじめた。先日行われた東京フィルメックスの初日、『アカルイミライ』の上映前に設けられた舞台挨拶の時のことである。「黒沢監督は、例えば水を飲むシーンの場合、『ここで水を飲んでください。いや、嫌だったら別にいいですよ』っていう風に言うんです。そう言われたら『いやいやいや、やりましょう、そのくらいのこと』ってなりますよ」。
 本当に浅野忠信はいろんなとこでこのことを話していて、私も「invitation」「ダ・ヴィンチ」等の雑誌でそれを読んだ。そして『アカルイミライ』の撮影現場のドキュメンタリーであるこの『曖昧な未来』においても、彼は当然のようにこのことについて語る。
 この「嫌だったら別にいいですよ」という言葉、素直に「曖昧な」という形容詞と結びついてしまうようだが、この映画を見ればそうではないことは明らかである。雄二という人間がどのような人間かわからない、と悩むオダギリジョーに監督はこんな言葉を告げる。「ダーティ・ハリーです。クリント・イーストウッドです」。それで何がわかったというわけでもないのだろうが、後のシーンでオダギリジョーは「雄二がどんな人間か」ということに「なんでそんなことを悩んでたんでしょうね」と笑って答えるようになる。黒沢清とオダギリジョーの作業とは、初日のペットショップでのシーンの撮影から最終日の川辺のシーンまで、登場人物の性格や心理などという画面には映らない「曖昧なもの」を徹底的に排除するプロセスなのである。よって川面から藤竜也を抱きあげるオダギリジョーの姿は極めてはっきりと画面に映し出される。よって黒沢清の目にははっきりと涙が浮かぶ。
 クラゲの放つ光が、たとえ辺りを曖昧に照らそうと、クラゲの存在は断じて曖昧なものではない。そしてクラゲが光るということも、動かし難い、力に満ちた、事実なのである。そのことを知る怪物・浅野忠信は「曖昧でない」監督・黒沢清についてのコメントを、クラゲのように無数に増殖させていく。

結城秀勇

   
 
12/8
ケドマ / アモス・ギタイ

 海に一隻の船があって、その甲板ではたくさんの人たちが話をしている。その向こうには、只、海が広がり水平線があるばかりで、だからその船が何処に位置するのかを判断することはできない。だがその船には名前が与えられていて、船首にはその名前を示す「kedma」という白い文字がはっきりと印されている。
 『ケドマ』はある「場所」についての映画だ。けれども、この映画には、それ自身でその「場所」の固有性を示す積極的なものを見ることは出来ない。只、何処までも荒野が広がるばかりで、そこには、その場所にいる人々、その場所に建てられた家があるだけだ。だが、もう一度いうが『ケドマ』はある固有の「場所」に関する映画だ。そしてその「場所」は、この映画にとっては必然的に決定されていて、そこでなくてはならない「場所」である。けれども、その「場所」の固有の名前を示すものはない。
 アモス・ギタイの映画『ケドマ』は、現代イスラエルの建国についての映画である。建国を間近に控えたその地に多くのユダヤ人が難民としてやって来る。だが、その時点では、その土地に違う文化をもった人々がいて、彼らの間にはその場所を巡っての摩擦が起きる。当然これは歴史的な事実であるわけだが、この対立は、この「場所」の名前についての対立であると思う。この「場所」に誰が名前を与え、誰がそれを所有するのかという問題なのだ。このように、私たちが、世界のある場所で起こっている戦争について考えるとき、まずその出来事を戦争として、つまり政治的なことや宗教、民族的なことといったレベルで考えてしまう。つまりその引き合いから与えられた固有名をもつ「場所」の問題として考えてしまう。
 しかし『ケドマ』における、「場所」の固有名の欠如は、私たちがこの「場所」とそれを巡る対立について考えるときに、その「場所」の固有名についての思考を停止させ、ただそこにあるものへ、そこで起こっている出来事へと私たちの意識を向ける。そこには人々がいて、武器があり、彼らは互いにその武器を向け合い、それを原因に人が死んでいるということ、私たちは、まずそれを目撃することになる。

関亦崇尋

   
 
12/8
月曜日に乾杯! / オタール・イオセリアーニ

 主人公の男はいくつかの乗り物を巧みに乗り換えて通勤する。ゴム製のスリッパまでひとつの乗り物として(さらには列車から降りて工場の入り口までくわえるタバコもそうかもしれない)、そのすべてが滑らかに接続する通勤風景は、極めてシンプルなオーヴァルのサーキットをひとつひとつのカーヴを丁寧にハンドル操作しながらくるくるまわる、その技術の熟練と優雅さに思える。だが男はあるとき、何の理由もなくその技術の熟練と優雅さを放棄する。工場入り口に張られた禁煙の看板の前で立ち尽くす。普段ならばそこでタバコを捨て工場の中に入るわけだ。実際、禁煙であるはずの工場の中でも皆タバコを喫うのだし、男もそうする。ただ緩やかにカーヴを曲がってまた次のカーヴまでまっすぐ走るだけのことだ。それだけのことなのだが、なぜか男はハンドルを切らずにまっすぐコースの外へ飛び出していく。
 だからといってそれが自由だなどということでもない。嬉々としてモーターボートを運転させろとせがんでみたり、かつて志していた絵を再び描いてみたりしても、それらはまったく新しい体験としてあるのではない。電車に乗り、バスに乗り、船に乗るという、それまでに熟練した要素とそのヴァリエーションを盛り込んで、新たなコースをつくるだけのこと。帰るところに帰るまでは、道なりにハンドルを切るだけだ。その仕種はやはり優雅なのであり、その操作はどれ程コースが複雑になろうとも大差はない。だからこそ男は、観光客が多く訪れる街ヴェニスの最高の風景は皮肉にも観光客には見ることができないということを知ったうえで、さらにしばし旅を続ける。
 上映後、監督のオタール・イオセリアーニは「我々は旅人であり、世界中のすべてを巡った後にここに帰ってきた旅人なのである」と言っていた。家族の元に帰ってきた男が運転するサビついた車も、やっぱり優雅にくるくるまわるのである。

結城秀勇

   
 
12/2
青の稲妻 / ジャ・ジャンクー

 薄暗い部屋の中、窓際の明るいところに集まり何やら話している人達がいて、カメラは薄暗い部屋の奥から窓際にいる彼らにレンズを向けている。そのせいでそのショットの、窓の外の風景は白く飛んで映ってしまい、当然それに比べて暗い部屋の中にいる人達は露出不足ぎみに映ってしまう。いわゆる逆光で撮られているショットなのだが、ジャ・ジャンクーの映画には、そのような逆光のショットが無頓着といえるほど頻繁に使われているのが目に付く。
 記念撮影か何かで写真を撮影した経験のある人なら、写真がそういう写り方をしてしまうことは多分知っていると思うのだけれど、そういう場合にそれを避けるように撮影した経験はないだろうか。逆光で撮ってしまうと、当然明るさの違いの関係で撮影したい家族や友人、あるいは自分なり、そういう対象が暗く写ってしまい、その記念写真の主人公になるべきものが映えなくなってしまうのだから、それを撮りたい人にとってはもちろんそれは避けたいと思うところだろう。
 映画の話に戻るが、逆光による現象が素人にでも周知のことであり、撮影に関して熟知しているはずの撮影のスタッフ、監督がそれを考慮しないはずはないから、それらの逆光によるショットは敢えて選択されていると言うことも出来るのだけれど、それによって、この映画に登場する人々はフレームの中でどうも映えない、というか映画の中での印象が薄いように感じられてしまう。それによって彼らはこの映画の主人公にはなれないでいるようである。
 記念写真には、特定の主人公がいて、そこには明確な場所と時間がある。おそらくそれはその写真が、過去にあったある出来事の記憶、その形態を模倣するからだと思う。三西省の小さな街・汾陽、改革開放の時代、前作『プラットホーム』、あるいは『一瞬の夢』のその場所と時間は、ジャ・ジャンクー自身の記憶と容易に結びつけることができる。映画の若者達とおなじように彼も、ラジカセから流れてくる音楽に聞き入っていたかもしれない。けれども、ジャ・ジャンクーの映画の主人公の不在は、その記憶の単純な模倣を回避する。その主題ゆえの映画と自分自身の記憶との緊密な結びつきを、逆光のショットは拒否し、映画はジャ・ジャンクー自身の記念写真にはならない。逆光にみられるその無頓着さはジャ・ジャンクーの、映画に対するそのような態度のひとつであるだろう。
 最新作『青の稲妻』では、中国のWTO加盟が話題にあがったり、2008年のオリンピックの開催国に決定のニュースに歓声が上がったりと、その時間は現在に置かれる。そのせいだろうか、ジャ・ジャンクーのその態度はさらに厳しくなったように思えた。

関亦崇尋

   
 
12/7
ブリスフリー・ユアーズ / アピチャッポン・ウィーラセタクン

 最初のタイトル・ロールが軽快なポップスとともに流れるまでの時間の長さに観客は驚き、一瞬この映画はもう終わったのかと勘ぐるかもしれない。しかし、もちろんそれは入口なのだ。森への入口であり、「彼らの世界」への入口。実際、カメラが森に入ってからというもの、ただ延々と彼らの時間が流れていくだけだ。誰もその時間に、その空間に介入できない、もちろん、それを見ている私たちも。仕方なく、また私たちは様々な推測や勘ぐりを始めてしまう。彼らの関係は?彼らはの素性は?次に彼らは何をするのか?だが、その推測はことごとく裏切られるか、宙吊りにされたまま、ひたすら時間は流れる。ひたすら虫や鳥の鳴き声が聴こえ続けるのに、その出所も、果たしてほんとうにこの森でその音が聴こえているのかも決して断定されないままであるように。
 そして、私たちには彼ら(を見ること)しか残されない。中年女性のぶよぶよした尻や日焼けで皮がめくれた青年の肌、群がる蟻に、得体の知れないクリームでべとつく指。なぜ私たちはこんなにも彼らを見なくてはいけないのだろうか?いや、ひょっとして見なくてものいいのかな……。
 たとえば、クレール・ドゥニの映画の肌を這う視線と、この映画で彼らの身体をひたすら凝視することとの差異は何だろうか。もちろん、ドゥニの映画ではそれをカメラが視線として捉え、這うのに対して、この映画はただ彼らがいるだけで、それこそ肌が他のものに見えたり、他の人の肌に見えたりすることすらない。やっぱり彼らしか見えない。しかも、ほんとは彼らのことも見えない(彼らはただその身体でしかない)。だから、この森は「彼らの世界」ですらないのかもしれない。とりあえず、私たちはこの世界を映画であるようだと言うしかないだろう。そう、これこそ何よりもまず圧倒的に映画であるものなのかもしれない。ただ、果たしてこれまで私たちは映画に「映画であること」を求めてきたのだろうか。

黒岩幹子

   
 
12/7
ブリスフリー・ユアーズ / アピチャッポン・ウィーラセタクン

 女(ルン)が運転席、男(ミン)が助手席、二人は森へピクニックに向かう。その森は、不法移民者ミンがかつて身を潜めた場所らしい。というか、ミンは不法移民者らしい。
 とにかく前半は「〜らしい」という断片が積み上げられてゆく。ルンは〜らしい、ミンは〜らしい、オーン(おばさん)は〜らしい・・・。そして二人が森へ向かう車内で、絶妙すぎる音楽の入りとともに、やっと映画は始まる。タイトルや俳優達のクレジットが画面に表示されるのが、フィルム開始約一時間後の車内シーンなのだ。森へのこの逃走が「このうえない」幸福をもたらしてくれるが、それは映画が始まってしまうことの不幸でもある。
 様々な問題を抱える彼らを、森へ、つまり映画へと、監督はとりあえず逃れさせる。この楽園で彼らは裸になり、抱き締めあう。しかし同時に<そこ>はもはや楽園ではありえない。森も彼らの身体も、様々な物語と歴史のサイン(「〜らしい」)を既に帯びてしまっていて、そのサインの浮上によって森も彼らの身体もことごとく変容してゆく。恥辱にまみれた人々をことごとく光のもとに曝してしまう、監督にとって映画はそんな場所である。
 一見楽園にみえる<そこ>は、ヘリコプターに囲まれた戦場での一瞬の休息地のようだ。兵士たちの身体は森と一体になるかに見える。しかし、もちろん<そこ>は休息の場ではありえず、サインの浮上によって逆に闘争(戦争ではない)の場となる。巨大な虫の羽音か機械音か分からない不快な高音が彼らと私たちを取り囲む。逃げ場なし。
 監督はカイエ・デュ・シネマのインタヴューでこんなことを言っていた。小さい頃に見た映画にヘリコプターが出ていて、それは恍惚をもたらし、今でも頭の中から離れないと。我々はヘリコプターに囲まれて生きてるってことだ。それは自由の楽園崩壊後の映画に現われ、ゆっくりと確実に我々を監視のもとに置くのだろうか。

松井宏

   
 
12/6
右肩の天使 / ジャムシェド・ウスモノフ

 タイトルの「右肩の天使」というのは、イスラムの古い言い伝えのことらしい。劇中、死を予感した老婆は孫に諭す。人には右肩の天使と左肩の天使がいて、右肩の天使はその人の善行を記録し、左肩の天使は人の悪行を記録する。人は死んだら、その記録された両天使の手帳を天秤にかけてその重さをくらべ、天国に行くか地獄に行くかの審判を受ける。・・・つまり、その人の魂に重要な意義を与えるもの、それは人が生前に遺した行為の結果なのである。別の言葉で言えば、それはその人の「遺産」ということだろう。
 『右肩の天使』では、そんな「遺産」にまつわる話がいくつか出てくる。例えば、前述の老婆の家。彼女はその土地と家へ執着する。それは自らの骨を埋める場所であり、その門から自らの遺体が出棺されるべき場所だ。だが、そうした土地と家が持つ特別な意味は彼女のチンピラ息子にとっては少々異なるもので、単に借金を返済するために必要な資産であり、借金返済のための金銭の単位でしかないのだ(このチンピラ息子は家の貨幣価値について交渉相手としつこくやりとりをする)。つまり、ここでは遺産の持つ精神性は引き継がれ損なうのである。引き継がれるのはモノだけであり、経済だけである。老婆もそのことを重々承知しており、息子を借金取りから救うため、死を決意する(注意したいのは彼女が生きているうちは、決して家は貨幣としての意味を持たないということだ。彼女にとって家はあくまでも骨を埋めるための場所であり続ける。彼女が死に遺産が引き継がれ始めて家は借金のかたとなる)。だから、もはやこの家のような「遺産」と右肩の天使が記録する「遺産」とは、まるで違うのだ。後者の遺産が「善行→天国」という直接的な意味の連鎖があるのに対し、前者では意味の連鎖は寸断されてしまうのだから。
 いや、この家の話は一例に過ぎない。この映画では、いろいろな変奏を交えながら「遺産」の引き継ぎ(そして時に引き継ぎの失敗)が生じているのである。ある精神的な引き継ぎもあるだろうし、単なるモノの引き継ぎもあるだろう。
 そのどちらがどうというわけではないのだが、大なり小なり引き継ぎはもはや単線的なものではなく、例えば別の人へと引き継がれたり、別の意味を担い別の場所へと移っていったりする。家は貨幣となり、父親でない男は父親となり、少年は右肩の天使となる。そんな引き継ぎの流れがいくつも絡まりあいながら世界がまわっている様子を、この映画は何の衒いもなく見せてくれている。

新垣一平

   
 
12/3
オアシス / イ・チャンドン

 この映画の物語は、重度の脳性麻痺の女と刑務所帰りの男(彼の社会不適応な性格は――偏見まじりに言わせてもらえば――なんらかの知的障害のようだが、物語中そうした言及はない)の恋を中心に据えたものである。前科者の主人公の男は社会のはみ出もので、ろくに仕事もせず、家族にも疎まれ、かといって悪びれるわけでもなくいつもへらへら何も考えずに生きているだけだ。脳性麻痺の女はと言えば、ぼろアパートにひとり住わされている。兄夫婦が時々彼女の面倒を見にくるのだが、この兄夫婦が住んでいるなかなか小綺麗なアパートは実は障害者のための福祉アパートで、つまり自分らは妹の障害を理由に恩恵を受け、妹はぼろアパートに押し込めているのである。そんなふたりがひょんなことで出会って心を通わせるという話なのだが、このプロットを聞いただけで、重苦しくて偽善的で感情過多な雰囲気があり、こういう主題の映画は大抵失敗してしまうものなのだが、この作品は見事にこの物語を語る野心を成就させているように思えた。この映画の野心は、ひとつには重厚な主題をユーモアによって描いていることだろう。例えば、男が脳性麻痺の女をなかば強姦するという残忍かつ醜悪な場面にすらもある種のおかしみが漂っているし、実際、女が強姦への恐怖と嫌悪のあまり失神してしまうという悲惨きわまりない場面においてすら、観客から笑い声が聞こえるというのは異常な事態だし、そのような演出をしてしまうとは実に肝の座った監督なのである。このユーモアが生み出す登場人物と観客の距離感が、観客の登場人物への過剰な感情移入を慎重に防いでいるように思われる。
 そして、もうひとつこの映画の大胆なのは、ミュージカルへの志向であろう。この物語の男も女もふたりとも、いわば社会において周辺の存在であり、つまり社会における意志の疎通に障害を持っているわけのなのだが、このふたりがふたりだけの間で意志を交換するとでもいうべき場面は決まってミュージカルの模倣なのである。高速道路上でのダンスシーンにしろ、女が急に立ち上がって歌いだす幻想シーンにせよ、ラストでの女がラジオの音量を最大にまで上げるシーンにしろ、ふたりは歌や踊りによって、時に幻想的に時に現実的に、いわば「ふたりだけの世界」を「映画的」(=すなわち具体的な映像と音)なものに昇華させるのである。つまり、この映画で模倣される「ミュージカル」というのは、単に「歌と踊り」という形態ではなく、ふたりの間に起こる感情を具体的に見せて聞かせるという方法論のことなのだ。だから、この映画の数々の幻想的場面――とりわけ、題名にもなっている「オアシス」の場面――は、彼らの意識下の欲求の短絡な映像化ではない。現実的映像ではありうべくもないふたりの意志の疎通の物語を叙情や情念といった見えないものによって語るのではなく、では如何に具体的な形として提出するのかという賭けとして受け取るべきであろう。よし、その賭け、のった!

新垣一平

   
 
12/2
青の稲妻 / ジャ・ジャンクー

 リービ英雄『蚊と蠅のダンス』を読みながら奇妙な感覚に捕われたその原因が解明されたのは、ジャ・ジャンクー『青の稲妻』を見ているときだった。
 その奇妙な感覚は、主人公の男ヘンリーが翻訳の女性に連れられて訪れた「地下五階まで掘り下げられた工事現場のような巨大なくぼみ」のダンスフロアでの一連の場面でやってきた。六年前は最高に「イン」で今はちょっと「アウト」なこのディスコには、蚊と蠅の巨大なCGが蠢いている(かつての最高指導者の名言「窓をあけてしまえば蚊も蠅も飛びこんでくる」、が<ここ>に引用されているわけ)。
 昨年「群像」に連載されたこの小説のこの場面だけを、既に私は読んでいたのだ。そのことに気付かず文字を追ううちに辿り着いた<ここ>は、当然のように奇妙な既視感に満ち満ちていた。それが奇妙な感覚の正体だった。とても単純なこの事実が思い出されたのが、『青の稲妻』のディスコシーンによってであることは、これまたあんまりに単純なことだ。
 『青の稲妻』の主人公たちはブンブンぶんぶんダンスを続ける。彼らにとっては大同という都市は、そして中国すらもダンスフロアに過ぎない。このフィルム全編に充満する音は、全てが全てオフレコによって綿密に設計されているかのようで、「これがリミックスだ! これで現実をかきまわしてやった!」(『蚊と蠅のダンス』)と叫ぶジャ・ジャンクーの声さえ聴こえてきそう。
 そして同時に彼らは皆工事現場の労働者でもある。削岩機の激しい音と一定のリズムはテクノのビート以上でも以下でもなく、逆もまた然り。<ここ>はダンスフロア兼工事現場。一体、ダンスと労働とに違いなんてあるのだろうか?
 大同の砂漠、切断された巨大な幹線道路、ガランとした玉突き場・・・。このダンスフロア兼工事現場を、そして<ここ>で踊り働く蚊と蠅たちを、しかし私は何度も見たことがある。またもや捕われた奇妙な既視感による切断は、ジャ・ジャンクーへの思いへと繋がれていった。次回作は北京を舞台にしてほしいなあ、と。

松井宏

   
 
12/1
エルミタージュ幻想 / アレクサンドル・ソクーロフ

 ハイビジョンを使用し90分間1カット!かのエルミタージュ美術館内でロケ撮影!帝政ロシアの絢爛豪華な大舞踏会を再現!・・・となんだか見る前からくらくらしてしまうソクーロフの新作ですが、実際の映画はもっとくらくらします。なにしろ巨大な美術館の高い天井まで映ってしまうような広角レンズを使用しながら、ステディカムの移動撮影でぶんぶんカメラの首を振るものだから、画面が右へ左へ大歪みなのだ。ノーカットだから、当然この大歪み状態が90分続くわけで、映画が終わった後には、現実世界が歪んでたり揺れたりしていないことにほっとひと安心する。
 1シーン1カットの美学とは、バザン的リアリズムのひとつである「禁じられたモンタージュ」(もちろん誤謬を含んだそれ)によって顕揚されるわけだが、ソクーロフの冒険は、その1シーン1 ショットという手法から「現実を切り取る」というフェティッシュな志向を根こそぎ奪い取る実験だったのかもしれない。(これも誤謬だが)、1シーン1カットでは登場人物と観客は全く同じ長さの時間を体験している。かつての現実の時間は、今の現実の時間となって再生されるというわけで。だが90分続くシークエンスでは、断言して良いが、観客は連続した緊張のもとに画面を見聞きできない。言い換えれば、目の前に起こっている事がらを同質の時間の連続として(カメラがそうするように)捉えることなど不可能だということだ。だから、様々な出来事(シーン)を横断する『エルミタージュ幻想』を見る観客は、各自適宜「カット」をその脳の中で行っているはずなのだ。もちろん画面自体は延々と連続した時間のなかにあるわけで、カメラが捉える時間と私たちが捉える時間は、ここにおいて決定的な断絶を強いられると言える。つまり、カメラの前の出来事の現実(の時間)とスクリーンの前の観客の現実(の時間)は、重大な亀裂があり、その亀裂のことをソクーロフは「幻想」と呼ぶ。『エルミタージュ幻想』はその「幻想」を極北まで肥大化させる装置なのだ。ところで、この「幻想」装置によって駆動する物語は「ロシアの方舟」(『エルミタージュ幻想』の原題)といういかにも大仰なものだ。だが、「ロシア」の歴史大物語などを期待してはいけない。『モレク神』が結局ヒトラーについて何にも語ってくれなかったのと同じように、この映画も「ロシア」なるものを語ってくれたりはしない。ソクーロフ式「幻想」装置は、「ロシア」なる幻想をばらばらの残骸にしてしまうだけなのだ。

新垣一平

   
 
12/1
アカルイミライ / 黒沢清

「それはすでに扉を叩いている、未来のもろもろの悪しき力」(ドゥルーズ=ガタリ)

 仁村雄二(オダギリジョー)は、小さい頃から未来の夢を見ていたらしい。予知夢というわけでもなさそうだ。予知夢であるためには、夢で見た未来の運動に現実の運動が追いつかねばならない。そもそもわれわれは決して追いつかないずっと先のことを未来と呼ぶ。しかしそれは必ずやってくる。

「悪しき力は、善かれ悪しかれとにかく指図を受けて、いつか押し入ることを早くも大いに楽しみにしている入り口に、まず軽く手で触りました」(フランツ・カフカ)

 最近彼はそんな夢を見ない。椅子に腰掛けて眠り、夢も見ないのにうなされ、汗をかく。決して追いつかないがいつか必ずやってくる未来が見えない、そんな夢なき眠りが雄二を苛むのであるが、同僚の有田守(浅野忠信)は言う。「それが1番なのかもな」。
 雄二にとって、夢は現実の行動の先取りや代替物ではない。カラアゲが小さければ小さいと言う。ヤキブタが自家製だろうとなんだろうとかまわず喰う。実現されない欲求が夢に入り込む必要はなく、ただ「さしあたってはドアを叩くことしかしない」未来だけが夢に介入してくる。夢と現実との距離が、未来と現在との距離にそっくり置き換わる。夢(=未来)が見えない雄二の現実(=現在)は完全に未分化である。そのことを危惧した守はとりあえず世界をふたつに分ける。すなわち「待て」と「行け」に。
 ふたつに分けられた世界は、「行け」に固定された右手によって再びひとつになる。もはやひとつをふたつに、ふたつを4つに分けていく作業はない。一気にバラバラになるのだ。リサイクル工場で働く雄二は家電をバラバラに解体するのだ。それが再び組み立てられようが組み立てられまいが、とりあえずバラバラにする。アンテナを千切る。クラゲはひとつがふたつにというふうに分裂して増えるのではない。ひとつが爆発的に増殖するのだ。「分節的な加速または増殖というこの方法は有限なもの・隣接したもの・連続したもの・限界のないものを結合する」(ドゥルーズ=ガタリ)。それが怪物だ。

 夢の話をしてきたが、この映画には夢であるらしき映像はたった1度しか現れない。顔も上げられない強い風の中を男が歩く。ただしそこは未来ではない。現在の東京だ。そして彼は確かそこを「砂漠のような場所」だと言うのだ。「ジャッカルたちの方は、さまざまな逃走線や脱領土線に沿って砂漠の中に絶えず奥深く進んでいく」(ドゥルーズ=ガタリ)。無論、ジャッカルたちはクラゲになる。

 このフィルムの最後、表参道で段ボール箱を蹴散らし小さな嵐を増殖させる、まだ何者でもない少年たち。彼らは数限りない嵐を発生させ、車道までも埋めつくし、表参道のすべての建物を吹き飛ばして、あたりを砂漠に変えてしまおうとしている。その場所で私たちはクラゲに、なる。

結城秀勇

   
 
12/1
夕立ち / マルレン・フツィエフ

 開催中の東京フィルメックスの特集上映で、66年のロシア映画『夕立ち』を見る。当時のモスクワの街路など野外撮影をいかした開放感溢れる画面と、若者たちの些細な会話を軽妙に聴かせる、小粋な作品だ。上映後のトークで監督が明かした裏話によれば、タルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』と隣に編集台を並べてポスト・プロダクションが行われたそうなのだが、タルコフスキーの重厚な作風とはまるで違う。言うなれば、『アンドレイ・ルブリョフ』の大鐘の建設のように垂直に高みへと達するのではなく、平行に横へ横へと滑りながら、様々な人々の表情を捉えようとする作品になっている。
 実際、作品はモスクワ市内の通りを車で横にトラヴェリングするショットから始まる。シネスコ画面でたっぷりと捉えられた通りを行き交う人々。その画面にかぶさるのはラジオ・チューニングによるサウンド・コラージュ。そこで聞こえてくるのは、クラシックからラジオドラマ、フランス語のポップスなど様々だ。無差別に画面に映り込む多様な人々と無差別に空中を舞う電波から聞こえるラジオの多様な音を同時にたたみかける、この冒頭のシーンですでにこの映画の多くの要素が表出している。やがてカメラは通りを行き交う人々から一人の女性を見つけだし、彼女に物語の焦点を当てるのだが、彼女はラジオ・チューニングでたまたま拾った音の一つであり、通りをゆく任意の人物に過ぎないのだ。
 その彼女を通して、カメラはモスクワの人々の点景を眺めることになるのだが、この彼女が恋人にも自分の意見をはっきりさせない控えめな性格で、その彼女の性格が多様な人々の声を招き寄せることになる。その中には、一度しか会ったことのない男の声もあって、ほとんど赤の他人のこの男の迷惑電話に真夜中でもしっかりつき合う彼女は、この映画の耳であり眼なのだ。多様な声は、ある種のヒエラルキーに従って招き寄せられふうでもなく、ラジオ・チューニング的に画面のあちこちから聴こえてきて、映画はそのまま盛り上がりもないまま収束してゆく。もちろん、その多様な声の選択にイデオロギーが全く働いてないわけでもなく、それは映画のラストで次々と映される若者たちの顔たちを見れば分かるだろう。その顔たちの印象は各々が確かめてほしいのだが、ひとつだけ確かなのは、その表情が全然暗くないってことだ。

『夕立ち』は12/6(金)の15:00からも上映される

新垣一平