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「映画は見世物である」から始まるあれこれ

Dravidian Drugstore - 月, 04/14/2014 - 02:35

「映画は見世物である」という定義に対し先日私が書いた疑問について、もうちょっと。映画は見世物か?まず、これは必ずしもそうとは限りません。なぜなら、見世物として大成功した作品より、それより見栄えせず観客も少なかった方が人の心に深く残り映画史に刻まれる場合も多いから。

あるいは、殆ど誰も見ることのできない、すなわち見世物としてそもそも成立していない作品が映画としてとても大きな力を持つという不思議なケースもあります。「映画は見世物である」という定義を絶対なものと思い込んでしまうと、こうしたダイナミクスが見失われてしまう。

では、映画とは何か?「映画は映画である」。この同語反復が唯一正しいようにも見えるかも知れません。しかし、ここにも問題がある。つまり私たちがそう断言するとき、それが見世物である、科学技術である、芸術である、現実である、浮薄な現在であるという様々な可能性が意気阻喪するから。

だから、まずはここから始めるべきだと思うのですね。まず、映画は映画である。そしてそれと同時に同じ重要性を持って、映画は映画以外のものでもありうる。それは、見世物でもあるし、文化でもあるし、芸術でもあるし、娯楽でもあるし、それらとは逆のものでもあるかもしれない。

ただし、ここで一気に多様な可能性を開示してしまうと、それらが単なる漠然とした全体として曖昧に放棄されてしまう。とりわけ、日本というのはそういう国です。だから、私たちは常に「映画は○○である」という言葉が口にされるとき、同時に映画は非○○かもしれないと考えるべきだと思う。

例えば、ゴダールが「映画は1秒間に24コマの真実だ」と言って、それに対してデ・パルマとかが「24コマの嘘だ」と言ったという話があって、こうした時、私たちはそのどちらか(とりわけ最近の日本では後者)のみを正しいものとして主張しがちだと思う。

でも、やっぱりそれは違う。両者は同時に存在するから意味があるわけです。あるいはさらに言うと、ゴダールの言葉にその弁証法が既に含まれている。ゴダールという映画作家は大きく言うと編集(嘘)によって自分の作品を作るタイプのシネアストです。それがああいう言葉を口にすることに意味がある。

弁証法ってのはポストモダン以降とても評判の悪いものの考え方の作法だと思いますけど、でも、弁証法を否定した後、私たちはそこで豊かな多様性の側に行くことができれば良いですが、現実にはとてつもなく単一のファシズムの側に行き着きがちな訳ですよ。私たちの現在がそれを証明してる。

あるいは、個人的な話ですが、冨永昌敬が「亀虫」をDVDにしたとき、私はそのライナーノートで彼のリアリズム性みたいな話を書きました。これも同じことです。冨永昌敬はどう考えてもフィクション性の強い作品を作る作家ですが、そう断じてしまうとそこで見えなくなるものがたくさんある。

だから、敢えて逆に考えてみるのはとても重要だと思うのですね。敢えて冨永昌敬をリアリズムの作家だと考えてみる。映画は見世物じゃないと考えてみる。映画は映画じゃないと考えてみる。こうした弁証法を通じて私たちはそこから先に様々な可能性が拡がっていることに気づく。

その可能性の拡がりこそが重要なのです。誰か偉大な映画人が「映画とは○○である」と口にする。そしてその言葉を唯一絶対なものとして信奉する人々がそれ以外の可能性を愚かなものとして排撃してしまう。これでは、映画はあっという間に滅んでしまう。この映画という言葉を日本に置き換えても同じ。

映画とは何か?その問いかけというものは、それに一度答えを与え、しかしまたその正解だと思える答えに対して自ら敢えて否定を試み、別の可能性に置き換えていくという一連の作業と時間の中でのみ意味を持つものなのだと私は思います。

あるいは、自らを否定しにやってくる他者を受け入れる。それも同じことだと思います。そして、批評家というのは、しばしばそういう存在であろうとする者のことだと私は思いますね。それは、映画とは○○であるという心地よい断言が支配する空間に否定と逡巡による時間を導入する。

もちろんここでまた、いや、映画批評家とはそうした存在ではないのだって否定が併置されるべきなのですが(笑)、まあ後は以下同文と言うことで。

『セインツ 約束の果て』 デヴィッド・ロウリー

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 日, 04/13/2014 - 21:39
 『セインツ 約束の果て』を見ているうちに、冒頭から作品のふところへと誘いこまれ、からめ捕られていく感覚に襲われる。
 良からぬ稼業で生計を立てているらしい若い夫婦が、テキサスの広大な荒れ地の中を歩きながら口げんかしているシーンで幕を開ける。歩くふたりの輪郭は日没前の低い逆光を受けて、にぶい輝きを帯びている。「実家へ帰る」と吐き捨てながら足早に歩いて行く若妻(ルーニー・マーラ)の機嫌をなんとか直そうと、夫(ケイシー・アフレック)は必死に求愛の言葉を繰り出しながら彼女に追いすがる。妻の口から妊娠の事実が告げられ、それがきっかけとなってこのシーンはいっきに雪解けとなるが、彼らふたりの心理的推移は、逆光の影の中からもはっきりと見て取ることができる。
 早朝、夕方、真夜中といった時間のロケーションを多用しながら、ぜいたくとしか言いようのない停滞が画面をじわじわと活気づけ、ピカレスク・ロマンと西部劇の中間地点で酔わせてくれる。
 出産前の最後の仕事でしくじり、刑務所に入った男は数年後、愛する妻とまだ見ぬ娘に会いたい一心で脱獄をはかる。彼は一目散に妻と娘の暮らす住居を訪ねるかと思いきや、ペナルティエリアの外で留め置かれる。そして、親友である黒人(ネイト・パーカー)が経営するバー(このバーがさすがテキサスで、黒人が経営しているとは思えぬ、カントリー&ウエスタンなサルーンの趣きなのだ)の2階に匿われながら、自分と妻の育ての親(キース・キャラダイン)のもとへ面会に訪ねたりしているのみだ。ケイシー・アフレックとルーニー・マーラとのはざまには、目に見えぬ不可侵ラインが引かれているのだろう。このラインの苛酷すぎる引かれ方に、それを見る私たちは戦慄と哀切を感じるほかはないのである。
 35mmのフィルム撮りとのことだが、惜しむらくはブルーレイ上映であるため、シネマート新宿の小さい方のハコでさえ、画質がきびしい。もう少し良質な素材で見たかった。


シネマート新宿(東京・新宿文化ビル)ほか全国で順次公開
http://www.u-picc.com/saints/

『ダブリンの時計職人』ダラ・バーン三浦 翔

nobodymag journal - 日, 04/13/2014 - 10:25
 夕焼けの海辺の中でフレッド(コルム・ミーニイ)が見上げるのは、落書きをされた彼の車がいきなりクレーンで廃棄にされるという光景だ。ダラ・バーンという監督はもともとドキュメンタリーの監督だと聞いていたものだから、いかにも嘘っぽく見えるこの始まりには、正直戸惑ってしまった。ただそんなことは私の勝手な思い込みに過ぎない。時には幻想的な光を帯びるアイルランドの自然や街のなかでユーモアを炸裂させながら、どの...

『チトー・オン・アイス』マックス・アンダーソン&ヘレナ・アホネン隈元博樹

nobodymag journal - 日, 04/13/2014 - 07:22
 カメラによって切り取られた現実のドキュメントと、カメラによって切り取られた現実のストップモーション。現実のドキュメントとは旧ユーゴスラビア以降の国々の現在やその記憶を語る人々の証言であり、ストップモーションとはその現実をもとに100パーセントの再生紙によってデフォルメされたモノクロ映像のことを指している。  ふたつの世界をマックス、ラースとともに媒介していくのは、スウェーデンから旧ユーゴへと向か...

2014-04-12

『建築と日常』編集者日記 - 金, 04/11/2014 - 15:00
500円のDVDを買って、D・W・グリフィス『イントレランス』(1916)を観た。YouTubeにアップされているもののほうが画質が圧倒的によいという不条理。バビロンのシーンを例の講義で使えないかと思って確認してみたのだけど、それ以前に、4つの時代の物語を重ね合わせて描いていく手つきが興味深い。こうした手法の前提となっている歴史認識、時空間の認識は、美術や文学など当時の他のジャンルとの同時代性も指摘できるのだろうか。 とはいえ、なにより強く印象づけられるのは、100年前の人々がカメラの前で動き、演技を ...

2014-04-11

『建築と日常』編集者日記 - 木, 04/10/2014 - 15:00
例の講義の準備で、学生の頃に訪れた開智学校(1876)や中込学校(1875)の写真を引っぱり出す。日本の大工が見よう見まねでつくった擬洋風の建築は様式的にちぐはぐで洗練されていないかもしれない、しかし洗練や完成度といった既存の評価軸の枠内でつくられる作品よりも、往々にして自明の価値体系とは無縁なところで闇雲につくられる作品のほうが人々の人生に響いてくる、ということを講義で言おうかと思った。 たしかゴダールに「処女作はその人のそれまでの人生すべてがかけられる」というような言葉があった気がするけど(気が ...

『悪魔の起源 -ジン-』トビー・フーパー結城秀勇

nobodymag journal - 木, 04/10/2014 - 02:49
霧が怖いのは、たんによく見えないからではなくて、見通せない状況と見通せる状況の間にあるはずの境目、閾値がどこにあるのかわからないからなのではないか。くっきりと見えているものがだんだん遠ざかるにつれて、細部がぼやけ、シルエットだけがかろうじて判別できる状態になり、やがてなにも見えなくなる。澄んだ空気のもとであれば長大な距離を経て表れるそうしたプロセスが、極濃の霧の中では極限まで圧縮され、たった一歩の...

『ローン・サバイバー』 ピーター・バーグ

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 水, 04/09/2014 - 15:13
 アメリカ海軍の特殊部隊ネイビーシールズが、アフガニスタンの山地でタリバンの幹部を暗殺する計画を実行し、ひょんな運命のいたずらから作戦が無惨に失敗していくさまを、単調さということをまるで恐れていないかのごとく、夥しいカットを畳みかけながら辿っていく。
 どちらかというと軽薄な作風が魅力と言えば言えなくもない作り手であるピーター・バーグだけに、受け手としては、画面に漲る生真面目な緊張感に対して眉に唾をつけたくなるのが人情ではないだろうか。本作でタフな隊員を演じたベン・フォスターとは、本作を見た一週間後、愛すべき作品『セインツ 約束の果て』で再会することになる。マイケル・チミノ『ディア・ハンター』のロバート・デ・ニーロばりにあご髭をたくわえつつ、夫不在の母子家庭にしけ込む警官を演じていたのだが、これには、なにやら知り合ったばかりの友に、予想せぬ場所で再会してしまったかのような感慨をもよおした。
 この『ローン・サバイバー』を強力に定義づけるのは、『シン・レッド・ライン』や『父親たちの星条旗』と同様、山地での軍事行動に避けられぬ斜面という空間性が突きつける恐怖である。銃撃戦にしろ、追撃にしろ、斜面においては上側の軍にくらべて下側で退却を余儀なくされる軍は、圧倒的な不利で悲惨な敗戦を強いられる。ネイビーシールズはこの斜面の下側で退却に次ぐ退却を続けるほかはなく、それがこの映画がやっていることのすべてと言っていい。
 彼らは下から上に向かって抗戦することで、重力の受難を甘受しなければならないし、一足跳びの敵前逃亡を図って崖から飛び降りるという無茶な作戦を実行すれば、当然彼らの身体は深刻なダメージを被る。おそらく、笑っては失礼だが、アメリカ海軍の訓練メニューには、絶体絶命の事態において高所からの飛び降りというものも含まれているのであろう。


TOHOシネマズ日本橋(三越前)、シネスクとうきゅう(新宿歌舞伎町)ほか全国で公開中
http://lonesurvivor.jp

『白ゆき姫殺人事件』 中村義洋

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 月, 04/07/2014 - 16:49
 つまらないというより、不可解な作品である。
 信州・茅野市にある石鹸会社の美人OL(菜々緒)が殺害され、地味な同僚OL(井上真央)が容疑者としてメディアで報道され、追いつめられていく。この作品のコンセプトは真犯人が誰か(ミステリー)ではなく、無実の罪を着せられた主人公の抗い(サスペンス)でもない。では、何を中心にこの映画は回っているのか?
 ツイッター上で無責任にインフレ化する無数の言葉によって、ヒロインのOLは何度も何度も断罪され続ける。こんなネガティヴな扱いだというのに、米Twitter社は製作協力にクレジットされる契約によく同意したものである。おそらくTwitter社としては、自分たちのテクノロジーの伝播力の強さが伝わればそれでよく、そこで交わされる無数の言語の無責任さ、不毛さは埒外なのであろう。言論のインフラをめぐるスタンスはそれでいいと私も思う。
 Twitter社はいい。無責任な報道をくり返すテレビのワイドショーも、この際どうでもいい。問題はこの映画の当事者たち(原作者の湊かなえも含む)のニヒリスティックな立ち位置であり、現代人の無責任さ、陳腐さを弾劾する批判精神はいいとして、作品の基盤自体がその批判精神を支えるだけの理性も、威厳も、正義も有していないのである。まるで、現代の風俗をリアルに描く場合、その無責任さ、陳腐さに作品の側も染まる必要があるとでも言わんばかりである。ワイドショー番組の雇われディレクター役を演じた綾野剛はいったいどこに、この作品に参加した意義を見出すのだろうか。
 職場で目立たない平凡なOLを、井上真央は女優魂で演じていると思う。女優は、とくに主役を張るようなスター女優は誰だって輝くようなヒロインを、他者を魅了するヒロイン、映画史に名を刻むヒロインを演じたいだろう。決して美貌でないわけでもない井上が、地味で冴えないOLを一心に演じたのだ。ただその精神を、映画それ自体が保証しているだろうか。ラスト近くの、窓と窓の光の点滅による手旗信号のシーンはいいシーンではあるが、あれだけでいいのだろうか。


丸の内ピカデリー(東京・有楽町マリオン)など全国松竹系で公開
http://shirayuki-movie.jp

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー映画祭2014

傑出した才気でニュー・ジャーマン・シネマの時代を牽引し、映画史にその名を刻んだ R.W.F 。今もなお世界を挑発してやまない不世出の映画作家の16作品を一挙上映します。

2014-04-07

『建築と日常』編集者日記 - 日, 04/06/2014 - 15:00
別冊『窓の観察』で短編小説をご寄稿いただいた柴崎友香さんが、下記のイベントに参加されるそうです。 空間の描き方−建築家と小説家の対話− 島田陽×柴崎友香×山崎泰寛 日時:2014年4月25日(金)19:00〜21:00 会場:近鉄堂島ビル13階 大阪市北区堂島2-2-2 参加費:無料 ※申込期限:4月20日(日) http://www.a-proj.jp/event_news.html 残念ながら私は伺えませんが、会場のご近所の書店・柳々堂さんが出張して、『窓の観察』その他を販売してくださるこ ...

アラン・ギロディ特集@シネクラブ

Dravidian Drugstore - 日, 04/06/2014 - 14:28

4/12(土)アラン・ギロディ特集@アンスティチュ・フランセ横浜シネクラブ!

14時『キング・オブ・エスケープ』日本語字幕フィルム上映
http://www.institutfrancais.jp/yokohama/events-manager/cahier1/
16時『湖の見知らぬ男』英語字幕DCP上映
(この傑作が本当に見られるべき正しい形で日本で見られるのは、きわめて高い確率で今回が最後になると思われます。万難を排して駆けつけるべき!)
http://www.institutfrancais.jp/yokohama/events-manager/cahier2/

当日券のみ。会場にて開場時より販売。
一般1200円、会員600円、芸大生無料 (同日2本目は一般も600円)
1本目と2本目のチケットの同時購入可能。
開場は、各回30分前より。整理番号順でのご入場・全席自由席。
045-201-1514

東京藝術大学 (横浜・馬車道校舎)大視聴覚室
〒 〒231-0005
横浜市 中区本町 4-44

上映後私のトークが付きます。
2本立てで両方見ると2本目は半額ですよ。
よろしくお願いします!

『家族の灯り』 マノエル・ド・オリヴェイラ

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 金, 04/04/2014 - 23:03
 ある貧困家庭の粗末なダイニングルームの1セットだけで、ほぼ全シーンが終始する。時は20世紀初頭。おそらく映画作家自身の地元ポルトとおぼしき港町のT字形に折れ曲がった裏通り、ガス灯に市の職員がひとつひとつ点火していく美しい光景が、舞台となる家のドアと窓から垣間見えるけれども、この家屋の住人が外の世界に踏み出すことは極力避けられ、大航海時代以前の大洋のごとく恐れられている。それでもミニマリズムのスタイル性にまとまらないのは、キャスティングの豪華さによるものか。それとも、とめどなく続く愚痴めいた台詞の途方のなさゆえにだろうか。
 老いた会計士(マイケル・ロンズデール)と老妻(クラウディア・カルディナーレ)のあいだには一人息子がいたが、8年前に蒸発してしまったらしい。残された息子の妻(レオノール・シルヴェイラ)は、さっさとこんなシケた家など放っておいて新しい人生を送ればいいのに、と見る側は勝手に思うが、けなげに舅と姑の面倒を見ている。老妻は「あの子を私から遠ざけたのは、あなたたち二人だ」などと言って、夫と嫁をののしる。まるで成瀬巳喜男の『山の音』のようだ。『山の音』にも似たようなシーンがある。父(山村聰)と息子の妻(原節子)の仲が睦まじすぎて、息子(上原謙)がよそに女をこしらえている原因を作ったのは、あなた方のほうだ、などと姑(長岡輝子)が夫をある嵐の晩に執拗になじるのである。
 この『家族の灯り』の主旋律となっているのは、息子の不在、貧困への隷属といった悲哀に満ちた事柄だけれども、その深層心理には、「母&一人息子」「舅&息子の妻」というスワッピング的カップルが、悪魔のように成立しているのである。これは直視しづらい画面上のスキャンダルで、オリヴェイラという映画作家の意地悪さが露呈している。先に寝室に下がる老妻は、おそらく毎晩ドアに耳をぴったりとくっつけて、夫と嫁の会話に──息子の不在を嘆いてばかりいる彼女をなにやら思いやっているような内容を装いつつ、秘密がどんどん塗り重ねられていく──聞き耳を立てているにちがいない。そんな晩があまりにも続くので、こうした貧しい現実でさえもシュールな幻想性を纏いはじめてしまったのではないだろうか。


岩波ホール(東京・神田神保町)ほか全国順次上映
ahttp://www.alcine-terran.com/kazoku/

2014-04-05

『建築と日常』編集者日記 - 金, 04/04/2014 - 15:00
最近観た映画。スタンリー・キューブリック『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(1964)と『時計じかけのオレンジ』(1971)をVHSで。ベルナルド・ベルトルッチ『殺し』(1962)と『ベルトルッチの分身』(1968)をDVDで。それぞれの監督の作品同士で、ほとんど同時代という感じがしない。 キューブリックのビデオは学生時代に買ったもので、当時は『時計じかけのオレンジ』が圧倒的だと感じていたはずだけど、いま観ると『博士の異常な愛情』のほうがよい。やはり ...

ソヴィエト・フィルム・クラシックス

1922年に世界初の社会主義国として成立し、1991年に解体消滅。最大15の共和国で構成されたソヴィエト社会主義共和国連邦。30作品のソヴィエト映画の上映によって、各共和国のカラフルな特色に注目していきます。

グランドシネマ 坂東玉三郎『日本橋』

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 木, 04/03/2014 - 16:10
 春で 朧ろで ご縁日
 とくれば、泉鏡花の新派悲劇『日本橋』である。春爛漫の東京でいま、1914年発表のこの戯曲を齋藤雅文と坂東玉三郎が共同演出した公演(2013 日生劇場)の、上演スタイルそのままに映画化された「グランドシネマ 坂東玉三郎『日本橋』」が上映されている。会場は先月下旬に「COREDO 室町 2」にオープンしたばかりのTOHOシネマズ日本橋。医学士・葛木晋三(松田悟志)と名妓の稲葉家お孝(坂東玉三郎)が運命の出会いを果たす一石橋からほど近いこの地で『日本橋』の上映とは、まったく粋な計らいで、これほど究極のご当地映画もあり得まい。映画鑑賞後に、舞台となった各所のロケーションを散歩してみるのも一興だ。ふところに余裕のある方は、そのまま日本橋地区で唯一残る料亭、人形町の「玄冶店 濱田家」で芸者をあげて、葛木晋三よろしくふられてきていただきたい(笑)。

 第一幕の第一場、お孝のライバル芸者である滝の家清葉(高橋惠子)が葛木の求愛を拒むシーンでは、高橋惠子にカメラが寄りすぎて、女優の肌について非情なカットが続くが、これは美も醜も併呑しようとする玉三郎演出の鬼の部分だと解釈させてもらった(玉三郎は編集も担当している)。怪談的要素も強いこの戯曲はまさに、かつて『夜叉が池』を演った玉三郎にうってつけの演目だ。一昨年にNHKで放映されたグレタ・ガルボの秘めた恋についてのドキュメンタリーに、ガルボをリスペクトする玉三郎が旅人として出演していたのだが、この時のスウェーデンの風景に溶け込む玉三郎のカメラの映り具合、そしてナレーションの質の高さ、どれをとっても一流で、このあまりにも高名な歌舞伎役者に対するわが視線を改めさせられるものがあった。

 主人公・葛木の心には、自分の学資を稼ぐために妾になった姉を慕う気持ちが、オプセッションとして取り憑いている。実の姉弟か、擬似的なそれかにかぎらず、弟が姉に執拗に思慕を寄せているうちに、おそろしい悲劇へと転落していく、というのは新派悲劇のひとつの典型的なパターンであろう。
 溝口健二監督の戦前の傑作群を思い出してみよう。ぱっと思いつくだけでも『滝の白糸』(1933)、『折鶴お千』(1935)、『残菊物語』(1939)などはいずれも弟のような男の出世のために犠牲となり、転落していく年上の女を、残酷きわまりない、情け容赦のないタッチで描ききってはいなかったか? そして、忘るるなかれ溝口健二こそ、泉鏡花『日本橋』の最初の映画化をおこなった人物である(1929 フィルム現存せず)。二度目の映画化は市川崑、このたびの映画化は、私の知るかぎり三度目ということになる。それぞれ、稲葉家お孝/滝の家清葉/医学士・葛木晋三/半玉お千世を演じた俳優陣をリストアップしておこう。
溝口健二版(1929)──梅村蓉子/酒井米子/岡田時彦/夏川静江
市川崑版(1956)───淡島千景/山本富士子/品川隆二/若尾文子
坂東玉三郎版(2014)─坂東玉三郎/高橋惠子/松田悟志/斎藤菜月
 こうして書き出してみると、改めて溝口健二版を見てみたいという、見果てぬ夢が狂おしく広がる。あの夏川静江が半玉を演っている姿が目に浮かぶようだ。岡田茉莉子のお父さんの岡田時彦が葛木晋三を演っているのもお誂え向きだ。


TOHOシネマズ日本橋にて先行公開、以後全国で順次上映予定
http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/news/nihonbashi.html

2014-04-04

『建築と日常』編集者日記 - 木, 04/03/2014 - 15:00
某所で建築教育関連の座談会に立ち会った(文字起こしの仕事)。これまで自分とは縁遠い分野だと思っていたけれど、ここしばらく例の講義のことを考えている関係で、響いてくるところが多かった。教育の制度面のことはともかく、現場レベルの思考は、編集の仕事で他者と向き合うのと通底するように思う。

『それでも夜は明ける』スティーヴ・マックィーン渡辺進也

nobodymag journal - 火, 04/01/2014 - 04:39
 最初に、まるでこれから起こることをダイジェストで示すように一連の様子が描かれる。サトウキビの収穫の仕方を教えられ、金属の皿に載せられた食事を素手で掴み、木の実からインクを作ろうとして失敗し、夜中横に寝る女奴隷に誘われる。そこにあるのは、陥ってしまったことに対してどうしようもないあきらめの表情なのか、それともうまくいかないことへのいらだちなのか。  『それでも夜は明ける』の原題は、’12YEARS...

『LIFE!』 ベン・スティラー

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 日, 03/30/2014 - 19:30
 『LIFE!』はベン・スティラーの監督・主演作。頭のてっぺんからつま先までベン・スティラーを見るための映画だろう。ストーリーはJポップの人生応援ソングの歌詞のようで気恥ずかしいものがあるが、この映画はそういう見方ではなく、部分への偏愛で見るべきだと思う。気むずしい気質の主人公が一念発起して、ある名フォトグラファーの行き先を追いかけ、グリーンランド、アフガニスタンの僻地に旅に出る。ベン・スティラーは自分の冒険譚に仮託しながら、その実これらの土地の風景をカメラに収めることに無上の喜びを感じているのだろう。私たち観客も、素直にこれらのロケーションの奇観に感動すべきだ。
 と同時に、これはアメリカの写真グラフ雑誌「LIFE」へのオマージュでもある。「LIFE」は2007年に休刊、翌年よりGoogleイメージ検索でアーカイヴが閲覧可能となった。「LIFE」社のネガ管理係のベン・スティラーがネガ保存庫の暗い空間から冒険の旅に飛び出す瞬間、会社の廊下を走る姿が横移動のスローモーションでとらえられ、歴代の表紙の陳列が見られる。盟友ウェス・アンダーソンのやりかたを用いつつ、この雑誌の精神性を顕揚しているわけだ。私自身かつて「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」という映画雑誌の発行にずっぽりと創刊から休刊まで関わっていたことがあり、ひとつの雑誌への拘泥が、それをつくる人、それを読む人の人生をがらりと変えてしまう、ということを身をもって体感している。だから主人公の心情は、分かりすぎるほど分かる。
 そして、デヴィッド・ボウイー1969年のヒット曲「スペース・オディティ」。管財担当の新経営陣(ユダヤ的な髭を蓄えた合理主義者たち)がまずこの歌の歌詞を誤解し、歌の中の主人公トム少佐との連想から、主人公を揶揄する。その後、主人公が恋するシングルマザーが、彼らの歌詞の誤解を主人公に言い聞かせ、主人公を鼓舞する。彼女はひとつの歌の解釈を介して、自分と主人公が同類であることを間接的に主張しているのだ。昨年に日本公開された愛おしむべきベルトルッチの佳品『孤独な天使たち』(2012)で「スペース・オディティ」のイタリア語版の楽曲が使用されて感動的だったが、2年連続でこの曲に心揺さぶられることになった格好である。
 たしかに新経営陣はトム少佐の解釈を間違えた。そして、トム少佐の醸すロマンティシズムを、ベン・スティラーとシングルマザー役のクリステン・ウィグは共有した。しかし二人は、トム少佐のその後を知っているのだろうか? 知っていても触れないだけなのだろうか? 「スペース・オディティ」で月面着陸した宇宙飛行士のトム少佐はその11年後、1980年のヒット曲「アッシュズ・トゥ・アッシュズ」で薬物中毒になっているのである…


TOHOシネマズ日劇、TOHOシネマズ日本橋などで公開中
http://www.foxmovies.jp/life/
 

映画のことやゲームのこと

Dravidian Drugstore - 金, 03/28/2014 - 16:32

下で書いた『それでも夜は明ける』における現代映画のエッジなメソッドを古典的物語映画と折衷してあのように大成功収めたことに対する肯定ないし否定を議論するってのはとってもアクチュアルな問題だと思うんだけどなあ。根本的に現代映画という問題自体がこの国では不在なのかも知れない。

もちろんある種の古典映画は現在でも撮られているし、見られるべきだし、面白いし、インスピレーションの源なんだけど、そこで古典的物語映画(A)/現代映画(B)という世界映画の現在へと到達すべき最初の溝ないし亀裂ないし転換点となる大きな問題が認識されず、あくまで(A)一元論、ないし(A)とその不可能性という否定神学的構造の中で映画がとらえ続けられているのが日本の映画状況ないしそれを取り巻く言説における今日まで続く最大の問題の一つであるのかも知れません。

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今年に入ってAAAタイトル作ってた大手ゲームスタジオがバンバン閉鎖してバンバンレイオフ進んでるし、インディーゲームへの流れとかEarly Access現象ってのもあるから、今、映画からゲームへの物語媒体の移行って図式を作るのはやや首を傾げる部分がある。

むしろ、ハリウッドに憧れて大型化を進めてきたゲーム業界にあって、ごく少数の圧倒的勝ち組を除いた本格的危機に直面しているのがこの一二年の流れで、その中でもう一度「ゲームとは何か?」って根源的な問い直しが起きているのが現状だと思う。

例えば「バイオショック」シリーズを作り世界的に影響力の強いケン・レヴィンなんかが、自身が作り上げたイラショナルゲームズをわずか15名のスタッフにまで縮小したんだけど、その背後にも同じ危機感があったし、一つの物語を作品にするまで7年もかかるような現在のAAAタイトル製作はあまりに不合理だしリスクが大きいし、それ以上にゲームのあるべき姿じゃないって発言をしてる。彼の次の作品は物語をレゴブロックのように自由に組み合わせたり展開出来るという野心的なものになるらしい。

だから、当たり前のことなんだけど、映画とゲームはやっぱり「違う」。その絶対的な違いを前提にお互いの良いところや問題点を見て学んでいくべきであって、安易な比較やあっちはこんなに新しい!とかすごい!みたいな話はとても危険だと思う。

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