週刊平凡 [梅本洋一]

ソウト・デ・モウラのこと

2011年9月28

 

 ポルトガルで開催されたユーロ2004は、オットー・レーハーゲルが率いたギリシャが優勝したことを覚えている人が何人いるだろうか? マンマークを中心にしたディフェンスからのカウンターでノーマークのギリシャが勝ち進み、ポルトガルが暑すぎるから、こんな「時代錯誤」のフットボールが勝ち進んでしまう、などと優勝しながらも、ギリシャが酷評された大会だ。思い出してみれば、ルイ・コスタやフィーゴといったポルトガルの黄金世代がチームの主力を張った最後の大会だった。ぼくも毎朝本当に眠い目を擦ってこのサイトに「日誌」を連載した。

 そんな2004年の6月下旬から7月にかけての映像を思い出すと、フットボールのゲーム以外の映像ばかりが目に浮かんでくる。赤茶色の土、乾燥した空気、坂道──スイスの映画作家アラン・タネールが83年に撮った『白い町で』やヴェンダースが撮った『リスボン物語』の映像そのままだ──がそれらの映像を構成している。そんな中で、「日誌」には書かなかったけれども、あるスタジアムの映像が、そうしたポルトガルに典型的なランドスケープと共に思い出される。そのスタジアムではグループ・リーグのブルガリア対デンマーク戦とオランダ対ラトビア戦しか行われていない。どちらかと言えば──どちらかと「言わなくても」──些末なゲームが2試合行われただけだ。ゲームの内容はまったく覚えていないし、事実、その2ゲームのレヴューは書いていない。だが、ゴール裏には観客席はなく、一方に岩肌が露呈した山塊があり、もう一方には緩やかに下っていく草原があり、両サイドには急勾配のスタンドと中央が何本ものワイヤーで繋がれた大きな釣り屋根がスタンドを被っていた。伝統的なイングランドのフットボール専用競技場でもないし、陸上競技のトラックが存在している多くのイタリアの多目的競技場でもない、とても斬新な競技場だった。競技場の名前をエスタディオ・ムニシパル・デ・ブラガ、スポルティング・ブラガの本拠地である。

 2005年のことだったろうか、スペインで発行されている高価だけれども、最高に美しい建築雑誌『El Croquis』を眺めていた。中には、マノエル・デ・オリベイラの『Casa do Cinema』もあった。上映ホールやいくつものミーティングスペースを備えた2階建ての現代建築。「すごいな。オリベイラのカーサは!上映ホールまであるんだ!」。ページをめくると何とエスタディオ・ムニシパル・デ・ブラガがある。Casa do Cinemaと同じ建築家の設計なのだ。エドワルド・ソウト・デ・モウラ、その名を初めて知った。彼の作ったブルジョワの住宅はどれもたゆたゆと光に溢れて、同時にこれ見よがしに存在感を誇示するのではなく、さりげなく周囲のランドスケープの中に収まり、違和感がまったくない。ブラガのスタジアムも山塊と丘の傾斜をそのまま利用していて、まるで山に包まれるように建っている。同じテイストがある。同じ建築家なのだから同じテイストがあるのは当然か!

 そのエドワルド・ソウト・デ・モウラが今年度のプリッツカー賞を受賞した。彼に賞を手渡したのはバラク・オバマだ。「あなたの作品ではブラガのサッカー場がすごく好きだ」とオバマも言っていた。ソウト・デ・モウラもオバマのこの言葉はとても嬉しかったらしい。「ぼくの父はブラガのファンでね。昔はファシスト時代の馬蹄型のスタジアムが本拠地だったんだが、お金がなくてゲームを見に行けなかったと言っていたね。だから、このスタジアムの設計をオファーされたときはとても嬉しかったよ。(……)岩を掘ったんだ。60メートルぐらい掘り進んだ。そこに同じ量のコンクリートを流し込んだ。そうやってスタジアムを作った」。

 別の記憶が甦る。昨シーズンのチャンピオンズリーグだ。何とスポルティング・ブラガがポルトガル・リーグで好成績を収めてチャンピオンズリーグに出場し、幸か不幸かアーセナルと同じプールに入った。ブラガのユニフォームはアーセナルのコピーだ。創設者たちが昔ハイバリー(アーセナル・スタジアムが出来る前の本拠地。渋くていいスタジアムだった)を訪れて感動し、俺たちもこんなチームを作りたいとユニフォームを同じにしたということだ。フットボールのやり方も去年のチームはアーセナルに似て、ショートパスを繋いでポゼッションを高めて、ゴール前でスピードアップするやり方。残念なことに、ロンドンのアーセナル・ホームのゲームでは、6-0でコテンパンにやられた。コピーが本家にはやはり勝てない。でもブラガに戻ると、アーセナルがもう勝ち抜けが決まっていたこともあって、2-0でアーセナルを敗った。夜のゲームで、岩肌は見えなかったけれども、山の中で照明に照らされたグリーンのピッチが奇妙に美しかった。

 そのソウト・デ・モウラの講演会がぼくの勤務先であった。彼はブラガの競技場について、そして最近のプロジェクトについて語った。有名なミラノの『City Life』プロジェクトにも彼は参加している。「最初に参加している3人の建築家のタワー・マンションがもう完成していた。リベスキント・タワー、イソザキ・タワー、そしてサッハ・ハディッド・タワーがそれ。見ているとリベスキントのものが傾いていて危ないよね(笑)。ぼくのは、ちょっと端の方に、3つのタワーよりもちょっと低くした」。ずっとポルトを中心に仕事をしてきた彼のプロジェクトも、最近はこのようにイタリアやスイスにも広がっている。各プロジェクトの紹介を聞いてみると、安藤忠雄、妹島和世などの日本人の建築家も同じプロジェクトに参加している。映画では、「作家主義」に対して、「作家名主義」という言葉ある。多くの匿名的な作品群から共通点を探し出し、それが共通の映画監督の作品であることを確認する作家主義と、すでに巨匠のレッテルを貼られている人の作品をプロデュースするのが作家名主義。現代建築の大きなプロジェクトは、ほとんど「作家名主義」みたいだ。「ぼくがポルト以外で仕事をするのは、ぼくの意志で始まったことじゃない。グローバルな世の中なので、その結果に過ぎない。だから、ぼくは、高層をやるときにも、かつての仕事と同じようにアプローチしていく」。彼はそう言って、皮肉めいた笑顔を向けてくれた。彼のブラガのスタジアムについての話で印象的だったのは、ブラガのスタジアムの建築過程をスライドで見せてくれて、最後に、ギリシャの円形劇場のスライド見せて、「同じアイディアだよ」と説明してくれたことだ。ギリシャ時代に円形劇場に集まって芝居を見る人々と、今、スタジアムでフットボールを見る人々の同質性。そしてブラガのスタジアムとギリシャの円形劇場の形状的同一性。

 休憩時間に外でタバコを吸っている彼と言葉を交わした。「ブラガのサポーターなんですか?」「君は?」「ぼくはアーセナルのファンなんです」「いいフットボールをするよね。でも今年はどうなの?」。彼はタバコを吸い終わり再び講演会の場所に入っていった。ぼくも一緒に中に入り、彼を中心に取り囲まれている椅子に腰を下ろした。今晩、円形劇場の中心にいるのはソウト・デ・モウラその人だった。

 

ふたつの愛

2011年9月7日

 いつだったか「nobody」のためにカトリーヌ・ドゥヌーヴのインタヴューを翻訳しているとき、ドゥヌーヴがどんな音楽を聴いているか、という質問があった。マデリン・ペールーを聴いている、と彼女が言っていた。早速、ぼくも彼女の『Careless Love』というCDを買った。ドゥヌーヴはペールーの名前を娘のキアラ・マストロヤンニから聞いたと言っていた。キアラは当時、音楽プロデューサーのバンジャマン・ビオレを結婚していたので、新譜に関してはすごく詳しかったらしい。

 『Careless Love』はとても良かった。タイトルになった曲はすごく古い曲で、前世紀初頭のニューオリンズ・ジャズにルーツを持っている(http://www.youtube.com/watch?v=tP87IH_FEn4)。それ以降、ずっと歌い継がれている。ぼくが持っているCDだとディック・ミネが歌っているのがあったし、プレスリー・ヴァージョンも知っている。ボブ・ディランやルイ・アームストロングを歌っているということだ。このCDは、他にもレナード・コーエンの『Dance Me to the End of Love』(http://www.youtube.com/watch?v=Pl-cVgAU8K8)など有名な曲も多く入っているカヴァー・アルバムだ。そんな中でペールーが、カナダ人らしく一曲だけフランス語で歌っている曲があった。『J’ai deux amours』(http://www.youtube.com/watch?v=3GZRTm9-tz0)だ。「わたしにはふたつの愛がある/わたしの故郷とパリ……」で始まる美しい曲だ。覚えやすいメロディーなので、つい口ずさんでしまう。知られているように、このシャンソンは、もともと1930年にジョセフィン・ベイカーが歌ったものだ。カジノ・ドゥ・パリのレヴューで歌われたものだが、ちょうど同時期に植民地博覧会が行われていて、この黒人シンガーが歌う唄は、大ヒットした。ペールーといい、ジョセフィン・ベイカーといい、フランス人でない女性歌手がパリで歌うにはうってつけの歌なのだろう。

 「わたしの故郷とパリ……」か。そんなことを考えていたら、「東京人8月号」の『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』が、姉妹編の『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』と一緒に文庫化されたという記事が目についた。恵比寿の有隣堂(近隣の本屋では好きな本屋だ)まで自転車で走って、早速、この2冊を買い求めた。前者は1963年初版、後者は1985年初版。どちらも著者は昨年88歳で亡くなった石井好子さん。『巴里……』の初版の装丁は本屋で何度も見たことがある(http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/4766000285/ref=dp_otherviews_z_0?ie=UTF8&s=books&img=0)。当時、「暮らしの手帖」の編集長だった花森安治が石井さんに、「たべものの随筆を書いてごらん。あなたは食いしん坊だから、きっとおいしそうな料文章が書けるよ」と誘って、同誌に連載が始まったそうだ。装丁も花森安治による。この本で石井好子さんはエッセイスト賞を獲得した。この本が出版された当時、ぼくはまだ小学生で、こんな本は読んでいない。だが、この本はロングセラーになっていて、書店でよく見かけた。読んでみると、石井好子さんの文章がとてもいい。花森安治の編集者としての直感に脱帽。ぼくも食事に関する本を一冊出しているけれども、その本を書く前に読んでおくべきだった。石井さんの本を読んでいたら、ぼくには食事の本なんて書けなかったかもしれない。完全にぼくの負け。どの料理の件を読んでも、食べたくなる。そして作りたくなる。「バタをたくさん入れたオムレツ」(バターでなく『バタ』なのがいい)なんて誰でも作ってみたくなるでしょう! 生きることにおいて食べることの大事さが見事に語られていて、40歳代になったばかりの石井さんの人生が込められている。それにしても、なぜ食事についてのエッセーを書くと、ぼくも含めて自伝的なものになってしまうのだろう。食べているシーンを描写すると、ぜったいにそのときの雰囲気や時代まで描写しなければならなくなり、そのシーンの中にいる食べ手=書き手が浮かび上がるからだ。食べるということが抽象性とは正反対の極めて具体的な人生の時間について語ることだからだ。そして、生きるための、生きていくための力が食べ物から与えられるから。

 もちろん、『巴里の……』の22年後の続編に当たる『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』も読んでみた。文章の質が格段に上がっている。『巴里の……』が「青春篇」だとしたら『東京の……』は、「熟年篇」だろうか。その22年の間に、石井さんは、妻子ある男性と恋をし、4年の間、文通だけで愛を育み結婚した。そして、『東京の……』を書き終わる頃、ご主人が急死し、時を経ずに、石井さんのお父上である、戦前は朝日新聞の記者であり、戦後は大政治家だった石井光二郎が亡くなっている。石井さんは、戦後すぐに親の勧めで最初の結婚をするが、すぐに離婚し、サンフランシスコからパリに渡っている。まだサンフランシスコ講和条約締結以前のことだ。精神的にも経済的もお父上のお世話になったにちがいない。そして、石井さんが歌手になったのも、戦後すぐのことで、進駐軍周りのビッグバンドジャズのシンガーとしてのことだった。そのバンドには森山久(森山良子の父)やディーブ釜萢(ムッシュかまやつの父)がいた。『石井好子──オムレツとシャンソンとエッセイと』(河出書房新社)にはムッシュかまやつのエッセーが掲載されているが、石井さんはムッシュのことを「ひろし」とずっと呼んでいたようだ。なんだが笑ってしまった。ムッシュのことを「ひろし」と呼ぶ人が他にいたろうか? その後、石井さんはサンフランシスコの音楽学校に通い、帰りにパリに寄るが、そこでシャンソンに出会い、ミュージックホールで歌うようになる。

 『東京の……』の最後に収められたエッセーのタイトルは「トゥール・ダルジャンのいりたまご」だ。『巴里の……』は、石井さんが最初に巴里で下宿したロシア系のカミンスキー夫人の家庭的なオムレツから始まっている。そしてラストを飾るのがトゥール・ダルジャン。正直に告白するが、ぼくは石井さんが生涯を賭けたシャンソンがあまり好きではなかった。若い頃は、なにか人生訓みたいに聞こえて、特に警句に満ちた歌詞が嫌だった。石井好子のシャンソンもテレビで見聞きしたが、チャンネルを変えたことも多かった。今よりもっと直情的で幼稚だったぼくは、何よりも自民党の大立て者を父に持ち、その経済力とコネを背景に、トゥール・ダルジャンみたいな場所で食事をする「おばさん」が許せなかったのかもしれない。でも、今、「トゥール・ダルジャンのいりたまご」を読んで素直に感動したと書きたい。大事な人たちの相次ぐ死の後で、60歳を越えた石井さんはこう書く。「私も『もう年だ』などとはいうまい。『もうダメだ』と人生を投げることはやめよう。そしてアメリカやフランスの往年のスターたちに負けずに第三の人生に向かって歩いて行こう」。

 『東京の……』の出版から5年後、石井さんは、パリのオランピアでリサイタルを開く。1990年のことだ。かつて30台を迎えたばかりの石井さんは、オランピアで歌うことが憧れだった。それを68歳で実現した。『石井好子──オムレツとシャンソンとエッセイ』には、そのリサイタルのプログラムが掲載されている。「Ishii Yoshiko, Merci Paris」と題されたリサイタルだ。客席にはイヴ・モンタンも駆けつけていたという。開幕は石井さんが最初に聞いたシャンソン『聞かせてよ愛の言葉』Parlez-moi d’amour、そして『愛の賛歌』を経て、ラストの曲は、J’ai deux amours!『ふたつの愛』だ。

 

夏休みの終わりにリゾート・ホテルについて考える

 2011年8月31日

 一ヶ月間お休みをいただいた。まるでフランスの雑誌のようだ。7月号の次は9月号。つまり、みんなヴァカンスに出かける。パリの街のパン屋さんも7月が休みのパン屋さんと8月が休みのパン屋さんがあって、7月が休みのパン屋さんには、近くの開いているパン屋さんの住所が書いてある。

 ぼくらも旅行に出かけた。1泊2日だ。まるで「日本人」! 多忙なんで仕方がないか。行き先は日光中禅寺湖。湖畔にある中禅寺金谷ホテルに泊まった。ここに泊まったのは14年ぶりのことだ。日光も14年ぶりということ。最近、旅行は日光のような国内の伝統的な保養地ばかり行っているような気がする。箱根、葉山、軽井沢、川奈、妙高赤倉、志賀高原、蓼科……。

 パリに行っても仕事ばかりなので、マルセイユやラロシェル、クールシュヴェルやメジェーヴがすごく懐かしい。ヨーロッパのリゾートに1ヶ月ぐらい滞在するのはいい気持ちだ。本当のヴァカンス。9月になると雨が降って、On rentre à Paris !(もうパリに帰る)っていう気分になる。トリュフォーの『突然炎のごとく』でも南仏でヴァカンスを過ごし、9月の雨が降るとカトリーヌ(ジャンヌ・モロー)がそう言っていた。実感だよね。

 なんでぼくらは日本でのひどく伝統的な保養地ばかりに行くのだろう? それに泊まるホテルも、箱根だったら小田急ハイランドホテル、葉山だったら音羽の森、川奈ホテル、赤倉観光ホテル、奥志賀高原ホテル──伝統的なホテルばっかり。けれども、ここ最近──そう10年ぐらい前からかな?──思うのは、どこに行っても寂れていること。地方都市の商店街のシャッターストリート化と同じように、廃墟になった土産物屋や潰れたホテルによく出会う。今回も、中禅寺湖畔の菖蒲が浜にあった日光プリンスホテルが潰れていた。でも、それらのホテルの立地する辺りは、ランドスケープとしてどこも絶景だ。たとえば川奈ホテルから134号線を熱海の方に走れば、ほとんどモナコ近辺と遜色ない。中禅寺湖畔から男体山を眺めると、マジョーレ湖畔から見た山々にも似ている。まだ泊まったことはないけれど上高地帝国ホテルからの眺めなんてスイスと同じ! 土産物屋が廃屋になっていても、大規模な旅館が潰れていても、それらのランドスケープは変わらない。それに、どのホテルも、それなりに優れたレストランがあって、おいしいものが食べられる。

 ではなぜ寂れてしまったのか? もちろんバブルの崩壊があって、皆、貧しくなってしまったこともあるだろう。円高で、かなりお値段も張る日本のリゾートホテルよりも海外に行った方が安いということもあるだろう。バブル時代に施行されたリゾート法が大失敗して、リゾートの乱開発が自然破壊をもたらして、リゾート本来の目的と正反対に作動したこともあるだろう。急峻や山々が多い日本でゴルフ場を作るのは、宅地の開発と同じ手法だし、ゴルフ場の会員権が株券のように扱われた時代もあった。それにリゾート地とテーマパークとはまったく折り合わない構図なのに、リゾート法だとその相反するふたつを一緒にしてしまった。それで失敗した観光地も多い。

 大倉喜七郎が惚れ込んだ川奈のゴルフコースのような場所は日本には多くない。(川奈ホテルもいつの間にかオークラ系からプリンス系になってしまった。)やはり彼が建てた赤倉観光ホテルがある赤倉温泉スキー場のような、眼下に野尻湖が見える絶景の地のスキー場も少ない。奥志賀高原にしても、1967年にほとんど自然を残したまま開発したスキー場で、しばらくの間、奥志賀高原ホテルとロッジしかなかった。お金のなかった学生時代のぼくは、ホテルには泊まれず、いつも奥志賀高原ロッジに泊まっていた。奥志賀にあったスキースクールで、大雪の降った翌朝には、かならず焼額サイドのシュプールのないパウダースノーを滑った。奥志賀スキー場の隣に西武が焼額スキー場を開発し、プリンスホテルを三つを建つまでは、奥志賀高原スキー場はすごく静かだった。リフトの上から東側を見ると、そこは真っ白な秋山郷で、正面には妙高山が見え、その向こうに北アルプスの山々が望めた。いつの間にか奥志賀高原ロッジはなくなってしまった。奥志賀高原ホテルにせよ赤倉観光ホテルにせよ、西武系スキーリゾートのフラッグシップである苗場スキー場の苗場プリンスとは正反対の小さなホテルだ。室数も50程度。苗場プリンスの1000室を越える規模には遠く及ばない。でも、赤倉観光ホテルにも奥志賀高原ホテルにも、素敵な暖炉を備えたロビーがある。つい最近までどちらのホテルにも冬でも泳げる温水プールがあったのだが、閉鎖されてしまった。山岳リゾートホテルにもプールが欲しいよね。中禅寺ではなく日光の金谷ホテルにはまだプールがある。

 だんだん考えがまとまってきた。素敵なリゾートホテルの条件は、まず居心地の良いロビーがあって、そこでしか食べられない料理を出すメインダイニングがあること。それに小さくてもいいからプールが欲しい。そして何よりも絶景の地に建つ一軒家の素敵な建築であること。そうした条件が整っていれば、部屋は豪華じゃなくてもいい。寝心地の良いベッドがあればシャワーしかなくても構わない。そう考えると、第2次大戦直前に、鉄道省国際局がバックアップして建てた国策の「国際ホテル」は、かなりそんな条件が整っている。アイディアを出した大倉喜七郎の趣味なのかも知れない。

 

いくつものパッサージュ

2011年7月24

 

 東横線の中で『旨い定食 途中下車』(光文社新書)を読んでいた。著者の今柊二さんの本は定食関連に限って何冊も読んでいる。「定食関連」と書いたのは、彼が書いたガンダム関連の本を読んでいないからだ。行ったことのある店もあったし、行ったことのない店もあった。行ったことのある店については、彼の感想に同意する部分もあったし、「そうかな?」と思う部分もあった。でも、この本を貫いている彼の姿勢は共感できる。

 どんな姿勢か? たくさんの定食屋さんが沿線別に記述されていて、たまたま東横線に乗っていたぼくは、東横線の部分(冒頭だ)から読んでいったが、私鉄沿線の駅でぶらりと降りて定食屋さんと古本屋を回る彼の姿勢が良い。がつがつしていない。めざす店に一気に向かうのではなく、まず駅についての記述から入り、街の雰囲気に触れ、そして定食屋さんに出会う。私鉄沿線の小路の商店街の雰囲気、なかなか良いよね。たくさんの人々が行き交っている。彼自身もベンヤミン風に書けば「遊歩者」なんだ。私鉄沿線の商店街を作っている小路は、ガラス張りの天井こそないものの(もちろん武蔵小山のパール街みたいにガラスの天井がある商店街も存在しているけど──アーケードって言うんだった!)、まるでベンヤミンが死ぬまで書き続けた「パッサージュ」みたいだ。

 そんなことを考えていたら、すごく悲しくなった。本家本元のパリのパッサージュのことを思い出したからだ。

 セーヌ左岸のぼくのアパートからは右岸にあるパッサージュはけっこう遠い。もともと映画館などパッサージュにはあまりなかったから(といっても当時ドミニク・パイーニがやっていたステュジオ43はモンマルトル通り43番地にあったので、いろんなパッサージュにも近かったが)しばらくの間、パッサージュと縁がなかった。パッサージュは、むしろ劇場の記憶と結びつく。サッシャ・ギトリが長いこといたエドゥアール七世座周辺を散策したり、オペラ・コミック座周辺を歩くと、至る所にパッサージュが走っていた。後にパッサージュ・パノラマにある映画専門の書店にも行くようになった。パッサージュを歩くと、パリの成り立ちが本当によく分かった。グラン・ブールヴァールと劇場、そして商店街を形成するパッサージュ。80年代も後半になると、たとえばギャルリー・ヴィヴィエンヌに進出したジャン=ポール・ゴルティエのブティックのように、そうしたパッサージュにも新進のデザイナーの店が現れはじめた。

 さっき「すごく悲しくなった」と書いた理由? 確かにパッサージュを歩いているとハッピーにはなるけど悲しくはならない。別の「パッサージュ」のことを思い出したからだ。パリでパッサージュの走るのは旧オペラ座の裏当たりばかりではない。バスティーユからレピュブリック周辺にも多くのパッサージュが走っている。いちばん愛着があるのはパッサージュ・ドゥ・ラ・ブールブランシュ。雪玉小路とでも訳すんだろうか? そこに30年近く存在していたのは「カイエ・デュ・シネマ」編集部だった。80年代末期から今世紀になるまでいったい何度通ったことだろう。左岸のホテルに宿を取って86番のバスでフォーブール・サンアントワーヌで下車し、目の前のパッサージュに入り、中庭を抜けたところに「カイエ・デュ・シネマ」はあった。いつも迎えたくれたのはクローディーヌ・パコ。出版局長でカイエのゴッドマザーでもあった。とてもタフなネゴシエーターだったけれど、タイトな話が終わると、ときどき一緒に昼食に行った。当時カイエの編集長だったティエリー・ジュスも一緒のことが多かった。タフでタイトな話を忘れて、彼女たちといつも通ったレストランも「ル・パッサージュ」という名前のアンドゥイエットがとてもうまい店だった。そのレストランは、カイエの事務所から歩いて10分近くかかるパッサージュ・ドゥ・ラ・ボングレーヌにあった。そのレストランではいろいろなことを話した。カイエの企画のこと、ゴダールのこと、カラックスのこと、ロメールのこと、エドワード・ヤンのこと、デリダのこと、ドゥルーズのこと、北野武のこと……。昼食を食べ終わるともう午後4時頃になったことも何度もあった。いつもクローディーヌが奢ってくれた。

 悲しいのは、そのクローディーヌ・パコが亡くなったからだ。カイエの最新号の冒頭はクローディーヌの追悼文がある。彼女を雇ったセルジュ・トゥビアナの追悼文。彼女は1951年の生まれ、つまりカイエが生まれた年に彼女が生まれた……ちょっと涙ぐんだ。そしてディエリー・ジュスの書く追悼文のタイトルは、”9, passage de la boule blanche”。彼にとってもカイエとは雪玉小路の同義語なのだ。アンドレ・テシネの『野生の葦』についてクローディーヌの話したとき、彼女はこんなことを言っていた。「私の息子も映画に出てくる男の子の同じようにラグビーをやっているのよ」「ポジションは?」「第2列」「じゃ大きいんだ!」「頼もしいわよ」……。考えてみればクローディーヌ自身がカイエ・デュ・シネマにおけるパッサージュのような人だった。

 

日本映画の風景をめぐる状況について

2011年7月6日

 

 3.11以降の日本映画。たとえ、それらが3.11以前に撮影されたにせよ、3.11を体験したぼくらの眼差しは、それらを同じものとして捉えてくれない。イーストウッドの『ヒアアフター』が何かの前兆のように公開され、3.11という重要な日付を過ぎ、次第に3.11をめぐる様々な映像がぼくらの視界に入ってくる。真っ黒い壁のような津波が仙台空港を襲う映像、まるで大空襲後の東京のような、原爆後の広島のような三陸地区の市町村、そして、建屋が吹き飛ばされ白い蒸気を上げ続ける福島原発。それらは映画を越えた事実でしかない。事実が映画を越えてしまったとき、それが撮影された時刻に関係なく、映画は「事後」の相貌を見せ始める。惨劇の後、惨劇の模様ではなく、惨劇の後という意味においての「事後」。たとえばセルジュ・ダネーならば、アウシュヴィッツ以降の映画、つまり『夜と霧』以降の、『ヒロシマ・モナムール』以降の映画と言った。映画には、確実に「事前」と「渦中」と「事後」が存在する。

 おそらく「日本映画」を包む風景は、3.11以前から崩壊を始めていた。地方都市のシャッター・ストリート化、「16号線的風景」、「ファストフード化」……。その崩壊にさまざまな言葉が与えられてきたにすぎない。シャッター・ストリート化の反対物として、都心の高層化があり、「ヒルズ」的なものや、ショッピングモールがあるのだろう。だが、それらは決して崩壊の反対物ではなくて、スカイラインが奇麗に揃っていた銀座に、先回扱った松坂屋の跡地にビルが建ったり、統一感のあった表参道の同潤会アパート群の後に表参道ヒルズができたりすることは、やはり何かの崩壊と同義語なのだ。日本のどの場所でもよいが、映画を撮ろうすれば、否応なしにその「崩壊」と関わらざるを得ないことになる。

 そして、「崩壊」の風景が、「事後」の風景として決定的なまでに定着しているのは、東京からさほど離れていない千葉、そして山梨という地名を持つかも知れない。真利子哲也の新作『NINIFUNI』が見せる外房の海岸、あるいは空族の『サウダーヂ』の山梨の風景は、その何もなさにおいて、あるいは、その空白性において、明らかに「崩壊」であり、「事後」の風景そのものだった。ベストセラー漫画を原作にしたフィルムや、ライトノベルの映画化とは別に──つまり、マーケティングの原則のみに則った映画とは別に、現在の日本の風景と誠実に接することで映画を撮ろうすれば、この「崩壊」の「事後」の風景はぜったいに映ってしまうし、その風景を背景に人物を立たせることなしに、現在の日本で映画など成立するはずはない。

 だが、「事後」の風景が見せる「何もなさ」に伴う、どこまでも抜けのよい風景の中にいる登場人物たちが背負っている関係性は、その抜けのよさとは正反対に、絶対的に閉塞している。豊かで多彩な出会いをいくつも経験できる人間関係は、その風景の中で欠落している。共に暮らしていても、蓋tりの間には決定的な行き違いがあり、「何もない」風景の彼方にクルマを走らせても、その果てに街があるわけではなく、そののっぺりした何もなさは永遠に続いていくようだ。人と人が出会うことさえ不可能なほどに「何もない」「誰もいない」風景の中で、登場人物たちが途方に暮れている。あるいは、出会いなどあっさり諦めて、言葉もなくクルマを走らせるだけだ。それぞれの街が持っている固有名の重さはどうでもよいものになり、地名の持っていた単一性も唯一性の必然ではなくなる。陸地とか海岸とか一般的な名詞しか持たない地ばかりが風景を構成するようになり、固有名の必然は消滅する。気仙沼も宮古も釜石も同じだ。そこは「事後」の世界がどこまでも広がっている海岸に過ぎない。

 小津安二郎の北鎌倉、成瀬巳喜男の柳橋、川島雄三の品川──日本映画の黄金時代を形成した映画作家たちは、決まって固有名のある場所を描いたものだ。彼らの土地への執着こそ、彼らの映画を成立させるエンジンだったと言ってもいい。ぼくらは、横須賀線の北鎌倉を通ると『晩春』を思いだし、浅草橋駅の陸橋を総武線が通ると、ここの駅で下車した田中絹代とともに『流れる』を思いだし、山手線が五反田から品川へと右に大きくカーヴを切るとき『幕末太陽伝』の冒頭を思い出したものだ。だが事後の世界には、そうした特権的な固有名と豊かに戯れる映画が生まれることが不可能になった。

 思い出してみれば、すでに今世紀に入った直後、「小説家」青山真治は、そうした「何もない風景」なくしては創造することのできない小説『死の谷95』を発表していた。東京と海を隔てた千葉県の「何もない風景」がこの絶望的な小説のエンジンだった。聞けば、もともとこの小説は映画のシナリオとして記されたものだという。『東京公園』で「まっすぐに人を見つめる」ことで、希薄化され続けた他者との関係性をもう一度結び直す決死の行動は、そのフィルムのためにだけ実現されたわけではない。いくつもの迂回路を経て、いくつもの断絶や、いくつもの絶望を経て、ようやくたどり着いた行動だったことになる。三浦春馬が住んでいる日本家屋から、彼が井川遙を追う公園までどうやってたどり着いたかは分からない。彼と小西真奈美が歩く夜の公園まで、ふたりがどんな経路を辿ったかは分からない。だが、その途中には、いつ果てるとも知れない「何もない風景」が広がっていたことはまちがいない。その間にある風景は、『NINIFUNI』の宮崎将がクルマの中から見つめていた誰もいない荒れ果てた海岸だったかもしれない。

 日本映画は極めて困難な場所にあると言わなければならない。困難な場所にある、とは、「シネコンが映画を殺す!」といった意味のない常套句の中に収まるような経済的な困難ではない。経済的には、日本での映画のシャアとしては、日本映画が外国映画を凌駕しているのだから、むしろ日本映画は好況とさえ言えるかもしれない。困難な場所とは、文字通りの、場所、つまり、日本映画が撮影しなければならない日本という場所の困難さだ。ヒットする日本映画は、宮崎アニメだったり、ミリオンセラーのマンガやライトノベルが原作だったり、いずれも「何もない風景」や「誰もない風景」と無関係に成立するものが多い。もし映画作家が誠実に自らの周囲に展開する、3.11以降、宮古や気仙沼のような「何もない風景」に眼差しを向けるとしたら、そこには人と人が関係を結ぶことさえ困難な場所を見つめるしかない。多くの人々は、そうした風景から目を背け、そうした風景があることを知りつつ見ないふりをしようとして映画館に逃げ込んでいるのかも知れない。最近の、野心的で、しかも誠実でもある映画作品は、人々があえて目を逸らそうとするそうした風景を意思として見つめることを選んでいる。

 

横浜松坂屋に続いて銀座松坂屋もなくなる

2011年6月9日

 

 松坂屋は空いているな、といつも思っていた。銀座のデパートでは松屋が好きだ。大きくはないけれども、なんとなく買いやすい。7階の「デザイン・コレクション」をゆっくり見るのも長年の習慣になった。紳士服の5階も、ブランドの選択がかなりよいと思う。改装後の三越も行ってみたけれども、新館と旧館の2つの建物が一体化していないし、以前のほどよい大きさの三越の方が好きだ。

 そして松坂屋! 今日の主題だ。友人のひとりはデパ地下は松坂屋がいちばんだ、と言っていた。まさか! あそこは何もないじゃん。いや、いちおう何でも揃っている。すごいものは何ひとつ置いていない。それに空いている。だからいちばんだ。特に松屋の地下は混んでいるし、けっこうテナントが変わるでしょう。松坂屋は買うものさえ決めておけば、売り場が空いているからすぐに終わる。早い。だから松坂屋がいい。

 つまり、空いているから買いやすいっていうことだ。松屋にも三越にもないけれど、松坂屋にあるのは資生堂パーラーくらいかもしれない。子どもが小さい頃は、彼を連れてオムライスを食べに行った。でも、本物の資生堂パーラーも、ほぼ松坂屋の正面にあるよね。希少価値というわけではない。やばい! 今、調べてみたら松坂屋の資生堂パーラーは、20092月に閉店! ちょっと年取ったボーイさんなんかはどこへ行ったのかな? これで松坂屋は、ホントに何もなくなった!

 銀座松坂屋は建築としてなかなか素敵だ。長谷部鋭吉という人が1952年に設計した。全面ガラスと金属によるカーテンウォール。モダニズムそのものの四角い箱ではあるけれども、今は青木淳の意匠が全面を被っているけれど、本当は伝統的な百貨店建築である松屋や、三越よりもずっとモダンだ。この空間をそのままリノヴェーションする方法も見つかるだろうし、その中にはきっと魅力的な解答もあるだろう。

 もちろん、松坂屋サイドでも空いているのは困るわけで、いろいろ工夫はしてきた。まず高層ビルで再開発っていう最低の解も世に問うたことがあった。確か2002年頃だった。森ビルが中心になって松坂屋の周囲まで地上げして超高層という案だった、でも周囲の商店街から総スカンを食った。松坂屋の裏にある、ぼくが贔屓にしているバーも、この再開発で閉店になるはずだったが、今でも生き延びいている。銀座には銀座としての街の生業があるってわけだ。銀座は六本木じゃない。ショッピングモールなんていらない。俺たちはもともとストリートなんだ。正しい意見だ。で、松坂屋は、ラオックスやフォーレバー21をテナントにした。大家さんとして稼ごうとしたわけだ。これもイージーな解だね。立地がいいのだから、それを活かして店子を募る。

 でも、ラオックスは銀座になくてもいい。秋葉原でいいよね。フォーレバー21だけは人が入っているようだった。近くにH&WやユニクロもZARAもあるから、相乗効果だったのかも知れない。でもフォーレバー21だけが混んでいて、従来からの売り場は相変わらず。並ばなくてもよいデパ地下はそのまま。渋谷の東急フーズショーなんかとえらい違い。

 でも森ビルは諦めていなかったんだね(http://blogs.yahoo.co.jp/guntosi/60671875.html)。昨日、銀座松坂屋が2013年に閉店されることが発表された。再開発地域は2002年と一緒。でも今回は、「銀座ルール」(http://www.ginza-machidukuri.jp/rule/district_rule.html)を守って56メートル。地上12階、地下6階で、大駐車場、駐輪場、多目的ホール(地下1階)、6階までが店舗、7〜12階までが事務所。ちなみに設計は谷口吉生。松坂屋とその別館(裏にある壊れかかっているけど、リノヴェーション意欲がそそられる建物)、さらにその周囲のビル(このひとつの地下にぼくの贔屓のバーがある)を巻き込み、最終的には13の地権者が合意して銀座松坂屋がなくなることになった。地権者を説得して、大規模な再開発をやるという森ビルの方法だ。この方法自体、不動産屋のやり方そのものだ。六本木ヒルズも表参道ヒルズも同じやり方。すごく手間がかかるけれど、地権者が全員了解している。森社長はこの方法を自画自賛している。今まで銀座にクルマを止めるのも大変だったし、ましてやチャリの駐輪場まで作って、「みんな」に協力しているんだぞ、というわけだ。大きなお金が動いて経済も活性化する、だからいいことなんだ、という論理。

 溜息が出てくるなあ。横浜松坂屋も取り壊されてショッピングモールになるらしいし、銀座松坂屋も無くなって、巨大なビルになる。東京R不動産が支持を集める世の中なのに、まだバブル期の残像を引きずっているようなやり方に溜息が出てくるなあ。今ちょうど『ジェイコブズ対モーゼス』(アラン・フリント著)という本を読んでいる。この本の書評に柄谷さんはこう書いていた。「本書は、一口でいうと、1950年代から60年代にかけて、モーゼスという人物が強引に推進したニューヨークの再開発を、ジェイコブズという主婦が阻止した事件をあつかっている。(……)モーゼスは60年代に、ローワーマンハッタン・エクスプレスウェイを建設しようとして、再び、ジェイコブズの反対運動によって挫折し、完全に没落してしまった。彼女がいなければ、モーゼスは勝利したかもしれない。そうすれば、ニューヨークは地下鉄やバスのない自動車化した都市になっていただろう。しかし、本書を読みながら、私が考えていたのは、日本においてなぜ原発建設を止めることができなかったのか、止めるにはどうしたらいいのかということである」http://book.asahi.com/review/TKY201105170210.html)。原発だって、福島の人も最初は納得してつくったのだけれども、結局、ひどいめに会っている。もちろん、銀座松坂屋と原発を比べるのは飛躍しすぎとぼくも思うけれども、さっき日立の社長が、新興国のニーズがあるから、これからも原発をつくるぞ、と言っているのをテレビで見た。儲かれば何をしてもいいんだ、とむき出しの資本主義でものを言うのは、3.11以降──もちろん、それ以前だって──決定的にまちがっている。

 それより、かつての空間が、何らかの理由で、銀座松坂屋や横浜松坂屋のように、今のぼくらにそぐわないものになったとしたら、その空間を壊して再開発するという解ではなく、その空間をどうやってリユースして、今のぼくらにふさわしい空間に変貌させることができるのか、というもっと難しい解を探す魅力的な時間を持ちたい。

 

ロッテ・レニアと『Speak Low』

2011年5月31

 

 大学で長い会議が終わった夜、職場の同僚をクルマに乗せて、ある駅まで送ったときのことだ。キーを差しこみ、エンジンがかかると、CDが回り始めた。突然、『Speak Low』が流れた。そのアルバムは、ダイアン・シューアの『Love Songs』というアルバムで、そのころクルマの中で毎日聴いていた。『Our Love is Here to Stay』や『September in the Rain』という大好きな曲も収録されていた。ダイアン・シューアは、生まれながらに盲目のジャズシンガーだ。ダイアナ・クラールみたいにセクシーじゃないけれど、彼女のヴォーカルは極上だ。

 同乗していた彼は、ぼくに言った。「男しか乗っていないクルマには似合いませんね。それに家族の待っている家に帰る時に聴く曲じゃない。仕事が終えて愛人の部屋へ急ぐときにはピッタリだけど」。正しい。「愛を語るときは、小声でね」で始まる歌詞は、シェイクピアの『空騒ぎ』の台詞から取られたものだ。確かに、妻子の待つ家庭へ帰るのに、『Speak Low』は合わない。「まあ、いいじゃない。夜の第3京浜には合っていると思うけど」。「ええ、まあ。でも、この曲、確か、クルト・ワイルですよね。クルト・ワイルのメロディー・ラインっていいですね」。フリー・ジャズや現代音楽の専門家である彼の耳に、ぼくがクルマで聴いている曲を聴かせるのはちょっと恥ずかしいことだったけれど、「クルト・ワイルのメロディー・ラインがいい」という彼の指摘はちょっと嬉しかった。

 あれから何年経ったろうか。それからクルト・ワイルの楽曲をよく聴くようになった。たとえば、ここ20年くらいクルト・ワイルと言えば、必ず彼女を思い出すといってもいいくらいの、ウーテ・レンパーが歌うワイル。彼女も『Speak Low』は歌っているけれども、レンパーだったら、『マック・ザ・ナイフ』などのブレヒト=ワイル時代の曲の方がいいだろう。レンパーのドイツ語によるワイル──ヴァイルと書いた方がドイツ語っぽくていいかな──を聴いていると、正調・ブレヒト=ヴァイルも聴きたくなる。もちろんロッテ・レニアの出番だ。(http://www.youtube.com/watch?v=iJKkqC8JVXk)  ロッテ・レニアは、クルト・ワイル夫人だ。Youtubeなどでロッテ・レニアのパフォーマンスを見ていると、ヴァイマール共和国時代のベルリンが思い浮かぶ。ブレヒトやマックス・ラインハルトが活躍し、多くのキャバレーがあって……。たった15年間のことだったが、ヴァイマール文化がなければ、今のぼくらの文化なんてぜったいあり得なかったろう。ブレヒトやワイルばかりじゃない。グロピウスやミースのバウハウス、パウル・クレーなどの絵画……数え上げればきりがない。乳母車一台分の紙幣でやっとパンが買えたという例え話があるほどのインフレで、生活は大変だったろうし、そのことがナチの勃興の一因にもなっているわけだが、それでも、ヴァイマール文化の果たした役割の大きさは計り知れない。

 ウィーンに生まれたロッテ・レニアは、女優を志してチューリッヒの演劇学校に通い、後に、ベルリンに出る。そして、オーディションの末、『三文オペラ』のジェニー役を得る。ヴァイマール末期、ロッテ・レニアは、ブレヒト=ワイルの舞台の中心にいた。そして1933年、この年にベルリンを去った多くのアーティストたちと同じように、彼女もパリを経由してニューヨークに亡命する。ワイルはニューヨークでグループ・シアターの人々と知り合い、後でミュージカルになる『ジョニー・ジョンソン』をポール・グリーンと一緒に作っている。いろいろ調べてみるとロッテ・レニアは大変な女性だったようだ。周知の通り、クルト・ワイルとは1度離婚して、もう1度結婚している。クルト・ワイルとロッテ・レニアは、ワイマール時代のベルリンからナチの勃興によってアメリカに亡命していたのだが、ロッテ・レニアは、ワイルとの最初の結婚のドイツ時代にも、そして2度目の結婚をしたアメリカ時代にも、何人もの愛人がいたらしい。クルト・ワイルとの2度目の結婚は、クルト・ワイルが亡くなった1950年まで続くが、『ジョニー・ジョンソン』のポール・グリーンは、ロッテ・レニアの「最初のアメリカ人の愛人」と言われている。『Speak Low』が生まれたのもそんな頃の話だ。ワイマールのベルリンから、パリを経由してニューヨークへ移住するという大変な時期に、クルト・ワイルは同じ女性と2度結婚し、2度目の結婚直後に、ロッテ・レニアはもうアメリカで最初の浮気をしている。「愛を語るときは、小声で」というとってもロマンティックな曲は、そんな公私共々「激動」の時代にできたということだ。

 クルト・ワイルが亡くなった年、彼が音楽を担当した映画が封切られた。『旅愁』だ。監督は、やはりウィーン生まれのウィリアム・ディターレ。ジョセフ・コットンとジョーン・フォンテインが演じる甘い甘いメロドラマ。主題歌を歌っているのはモーリス・シュヴァリエ。あの『September Song』だ。ここでもまたメロディー・ラインが極めて美しいラブソング。激動の時代をかろうじて生き抜き、妻に裏切られ続けても、ワイルは、ラブソングを書き続けた。ケン・ラッセルが、クルト・ワイルの名曲を歌うロッテ・レニアを1962年に映像に収めている。(http://www.dailymotion.com/video/x6gtsw_lotte-lenya-sings-kurt-weill-ken-ru_music

 ぼくと『Speak Low』をクルマの中で聴いたのは、一昨年に亡くなった大里俊晴だ。彼とクルト・ワイルのことをもっと話したかったな。

 

やっと『トゥルー・グリット』を見た

2011年5月20

 

 やっと『トゥルー・グリット』を見た。試写を見逃し、封切りからすでに2ヶ月以上経過していると、上映している映画館を探すのも一苦労。丸の内東映で朝1135分から1回だけ上映されている。最近、超多忙で銀座にも出ていない──といっても2週間くらい前に行ったけど──ので、遅い昼食にすれば見ることができる。早速、出かけた。

 『これでいいのだ』と『抱きたい関係』が通常上映されていて、『トゥルー・グリット』はポスターさえ出ていない。コーエン兄弟という「作家主義」的固有名も神通力がもうないだろうし、ジェフ・ブリッジズが『クレージー・ハート』で最近いくら頑張っているにせよ。ジッちゃんでは客を呼べない。さらにたくさんノミネートされていたオスカーもひとつも取れなかった。客も十数人。それもぼくが若い方。もちろんガラガラで寂しい限りだが、東京の映画館では、こんな風景が当たり前だ。それにさっきこのフィルムのオフィシャル・サイト(日本版)を見たら、「試写会中止のお詫び」から始まっていた。最終の試写会が3.11だったらしい。

 『ホテル・シュヴァリエ』でナタリー・ポートマンのファンになってしまったので、『抱きたい関係』も『ブラックスワン』も見たけれど、「なんだかなあ」と中原昌也の口癖を真似たくなった。この女優さんも「女優さん」したいのかな? 『ホテル・シュヴァリエ』では、ただホテルの部屋にいて、ちょっとだけ服を脱いでいけば見事な存在感を出せたのに、小津や成瀬の映画の彼女ではない舞台の杉村春子みたいに演ると、「すごいなあ」と思う人もいるかもしれないけど、演技にしている女の人という側面ばかりが目立って、ナタリー・ポートマンその人の良いところがぜんぜん見えなくなってしまう。『ブラックスワン』を見ていると、彼女はきっと背の低いことにすごいコンプレックスを持っているんだろうな、とか、こんなフロイトみたいな演出して、「深いな」を喜ぶ「浅い」人たちが多いんだろうな、とか、いろいろ思い悩んでしまった。

 それに比べると、ジェフ・ブリッジズはやはり凄い。デブなだけ。飲んだくれているだけ。そこにいるだけ。つまり、『クレージー・ハート』と同じ。映画っていうのはフィクションなんだけど、「そこにいる人」が「そのまま」見えてしまうわけで、徹底的にドキュメンタリーなのだ、ということが分かるね。共演しているマット・デイモンも、さすがに最近はイーストウッド・ファミリーだけのことはある。立派にジェフ・ブリッジズに対抗していたね。ナタリー・ポートマンだって、無理しなくていいんだ。君がそこにいるだけでかなりいいんだよ。

 「そこにいる」のは人ばかりではなかった。『トゥルー・グリット』を見ていると、「そこにある」ものの存在感も際立っている。帽子の布の質感。古い拳銃の引き金の重そうな存在感。ゆったり流れている川の水。樹木の大きさ。しばらく映画でそんなものたちを発見したことがなかった。『センチメンタル・アドベンチャー』で、クルマのホコリを払うと、見事な質感のボンネットが見えたのを思い出す。イーストウッドは『グラントリノ』でも同じことをやっていたね。イーストウッドを除くと、今、アメリカ映画の中で、そんな「質感」が出せる例外的な人材が、コーエン兄弟なのかもしれない。昔のアメリカ映画だったら、そんな「質感」なんて当たり前に出せていたのに。

 ぼくらがそういったアメリカ映画──もちろんアメリカ映画ばかりじゃなくて、ルノワールの映画でも、トリュフォーの映画でもいいんだけど、つまり、映画と単に呼んだ方がいいなら、映画の「質感」についてはっきり意識したのはいつからだったろう? もちろん、後からジョン・フォードの『捜索者』や、ニコラス・レイの『夜の人々』を見たときでもあったけど、そのとき、ぼくらはすでに蓮實重彦の批評を読み込んでいて、そうした映画の「質感」に敏感になっていたはずだ。「いつから」というぼくの疑問は、蓮實さんを読む前に、そんなことを朧気にでも感じたのはいつごろからだったろうか、ということ。かすかすの同時代に『ハタリ』だって封切りで見たことがあったけど、小学生のぼくが見たのは、アフリカの大自然の中の猛獣狩りであって、サバンナの草原の質感ではなかった。

 はっきり思い出すのは、あの頃だ。そして、あれらの作品だ。まずトリュフォーの『恋のエチュード』。『大人は判ってくれない』や『突然炎のごとく』のヌーヴェルヴァーグ的なるものから、トリュフォーがちょっとスタイルを変えた時期だった。後から思えば、それはネストール・アルメンドロスの力もあったと思うけれども、ラスト近くに見えるベッドの上の真っ赤な血だった。すごく即物だな、と思った。映画というビロードみたいな保護装置がすっかり外されて、生身の何かに触れたときのような感じ。『恋のエチュード』と、確か前後して見たアメリカ映画の1本にもそんな感じがした。南北戦争時代のアメリカで逃げ惑う少年たちの話だった。食べ物がなくなって、草原を走るウサギを捕らえた少年たちは、ウサギを「さばいて」料理する。それも後になって見れば、エルマンノ・オルミの『木靴の木』で豚を捌くところが詳細に演出されていたのも思い出される。そして、何と、ウサギを「さばいて」見せてくれたのは、『トゥルー・グリット』で、ただのデブのマーシャルを演じていたジェフ・ブリッジズだった。1972年の映画『夕陽の群盗』でのこと。監督はロバート・ベントン。ハーヴィー・シュミットの唄『トライ・トゥー・リメンバー』が本当に美しく使われていた映画だった。

 『トゥルー・グリット』のコーエン兄弟は、確かにそんな「質感」が十分に伝えてくれるし、このフィルムは決して悪い作品ではない。だが、『夕陽の群盗』にあって、『トゥルー・グリット』にないもの、それこそ『トライ・トゥー・リメンバー』みたいな素敵な主題歌だった。

 映画が終わり、銀座に出ると、五月の陽光が眩しいくらいだった。『トライ・トゥー・リメンバー』を口ずさみながら──この歌は9月の唄だけど──、光に溢れた横断歩道を数寄屋橋の方へ渡った。

 

 

大友良英さんの講演の記録を興味深く読んだ

201158

 

 大友良英さんが、芸大でとても興味深い講演をしている。公演ではない、講演だ。音楽家が公演よりも講演をするのはよっぽどのことだ。タイトルは『文化の役目について:震災と福島の人災を受けて』だ。全文を大友さんのサイトで読むことができる。(http://www.japanimprov.com/yotomo/yotomoj/essays/fukushima.html)ぼくも、それなりにいろいろ考えてきた。もちろん、勤務先の大学の組織が「都市イノベーション研究院」という名前の新しい大学院で、そこには北山恒さんを始めとする建築家や山田均さんを始めとするシビルエンジニアリングの専門家がたくさんいるので、いろいろな方々の発言を聞いたからでもある。都市における建築や基盤を研究し提案する組織だから当然かも知れない。北山さんは東北大学の建築科(今でも建物は立ち入り禁止らしい)の学生たちとヴォランタリー・スタジオを立ち上げようとしているし、山田さんたち土木系の人たちは、いち早く現地に行って調査をしている。そうしたとき、ぼくら「文化系」はいったいどうしたらいいのだろう。とりあえず、いろんな人たちはどうしているのだろうと新聞やテレビやネットで発言を追っていた。メディアには出ないけれども、友人のboidの樋口泰人は、南相馬に物資を持って行ったし、ウチの近くのカフェ「ノルド」を経営している遠藤さんも、南三陸町に物資を運んだ。

 そんな中で尊敬する音楽家の大友良英さんが、福島について発言している。それが4月28日に行われた芸大での講演だ。岩手や宮城の三陸沿岸には道路が開通し、仮設住宅も建ち始め、まだ問題は山積だが、とりあえず「復興」や「再生」にシフトしようとしている中で、福島の原発の問題は、現在進行中で、たとえばフランスの雑誌の「アンロック」は、La guerre de Fukushimaという特集記事を組んだし、ニュースで見るヨーロッパの反原発デモのプラカードにはNo More Fukushimaと書かれていた。まだたくさん避難している人が残っているどころか、やっと原発の建屋の中に人が入った段階で、本当にどうすれば終息に向かわせることができるのか、まだ方法さえも見つからない段階であって、東電が公表した工程表なんかは、文字通り、絵に描いた餅であることなど、みんなが知っている。Fukushimaというトンネルは、まだ出口も見えない。

 大友さんは、横浜出身だが、その後に親の仕事の関係で福島に移転し、大学に入るまで10年間ほどを福島で暮らしたのだという。まず講演の枕でこんな話をしている。「周りのミュージシャンなんか、普段、「人のために」なんてひと言も言ったことがないヤツらばっかりなんですよ。音楽だけはいいけど、みたいなしようもないヤツらが、みんな、「人のために」とか言い出したんですよね。オレもその1人なんですけど」。つまり、どうすれば福島のみんなのためになるのか、ということを考え始めたということ。

 まず現状はどうなのか? テレビはゴーストタウンになった避難勧告地域を映し出す。そして大友さんはこう語る。「オレは良く知ってるんだけど、それは昔からだよ、と思うんだよね。そんなもの、日本中の地方に行ってごらんよ。人はいないし、シャッターも閉まってるよ。放射能のせいじゃないよ、と思うんだけど、報道でそうやってしまうと、まるで、それまで活気があったところがゴーストタウンになったように見せられてしまう。テレビマジックですよね」。もちろん住民たちが避難しているのは事実だけれど、それ以前から、人がそんなにいるわけではない。地方のシャッターストリート化は原発に始まったことではない。地方には、それぞれの文化があって、なんて語れない状況は、ずっと前から始まっている。

 大友さんは放射能をナイフに例えている。ナイフで一発で人を殺すなら、みんなはそれをひどく恐ろしいことだと思うだろうが、放射能というナイフは見えない。状況が見えない。見えないナイフと闘うことを余儀なくされている。三陸地区ならば、その「見えないナイフ」はもう存在しないが、福島にはナイフがある。それもどこにあるか見えないし、どのような経路でナイフが襲ってくるのかも分からない。だから逃げるしかない。「放射能のとても厄介なところは、見えないんですよね。空を見ると、青空はすごいし、すてきだし、夜は、本当に東京なんかよりよっぽど月もきれいで、空気を吸い込むと空気もおいしいんですよ」。見えない刺客が迫ってきている。フィルムノワールみたいに。

 小学校の校庭の土に堆積した放射能の測定値の問題で、専門家が政府の顧問を辞めた問題が大きく採り上げられているが、菅首相が言ったとか言わなかったという、これから20年はこの地区に住めないという問題も、あながち嘘とは思えない。もちろん、原発を穏やかに停止させるために、英知を絞って建屋の中に入り、放射能放出の原因を突き止めて、それを封じ込めるという問題があるけれども、それを解決しても、福島=Fukushimaという地名は、チェルノブイリと同じようにネガティヴなものになってしまった。大友さんは、それをポジティヴな固有名に転換するために、文化という豊かな未来を語るものが必要だと主張する。「福島がクリーンエネルギー特区になって、今まで効率が悪いと言われていた風力発電とか太陽発電とか、効率のいい技術に変貌して福島から出たとしたら、それだけでも多分、福島という名前はポジティブなイメージに変わると思うんですよね」。

 だから大友さんは、福島でライヴをやり、まず福島から「発信」する作業から始めている。東京という極めて一極集中性の強い発信基地から離れて、福島からも発信する作業。確かにその作業は、福島という固有名をネガティヴなものからポジティヴなものへ転換する有効な機会になるだろう。考えてみれば、原発以前から大きな問題になっている地方のシャッターストリート化は、東京への文化的活動の一極集中にも大きな原因があるだろう。このコラムの前々回で、「松島に美味しいブイヤベースを食べさせる素敵なオーベルジュを作る」ことを提案した。日本で一番美味しいイタリア料理もフランス料理も、和食も、全部、東京で食べられるし、大友さんを始めとする素晴らしいミュージシャンのライヴがいつも見られるのも東京だし、映画だって、舞台だって、全部、東京だ。ぼくだって東京に住んでいなければ、仕事はないだろう。大阪に出張しても、京都に出張しても、ぼくは、東京から文化を運んでくる役割を受け持っている。東京以外で開催されている映画祭で唯一成功しているのは、山形ドキュメンタリー映画祭だが、その映画祭が成功している原因は、東京でも集められない面子や作品が山形に集結しているからだ。

 

 福島にそんな例がないのだろうか? 探してみると、素晴らしいフランス料理店が南会津の湯野上温泉にあった。「シェやまのべ」だ。避難地域ではないが、そのレストランは食べログでも4.04点(http://r.tabelog.com/fukushima/A0707/A070701/7000084/)すごい高得点だ。調べてみても、地方のリゾート地でこんなに高い評価のレストランは本当は少ない。このレストランのシェフである山野辺宏さんは、銀座のレカンやフランスで修行し、葉山のマーレ・ド・茶屋のシェフを務めて、故郷のこの地にレストランを開業したそうだ。4人テーブルが2つと2人テーブルが2つだけの完全予約制レストランだそうだが、常に満員だという。食べログの写真を見ても、すごく美味しそうだ。地方の矜持そのもののようなこうした場所を、このレストラン以外にも、美食以外の分野でも創造してみること。大友さんの言う、ネガティヴなものからポジティヴなものへ転換には、まずそうした行為が必要だと思う。



 

山本理顕さんの言う「閾」からいろいろ考えてみた

 2011年4月28

 大学の同僚の山本理顕さんの最終講義があった。理顕さんが最近、熱心に考えている「地域社会圏」が中心でとても興味深く聞いた。そのときに配られた小冊子に理顕さんが「atプラス06」に書いた記事「建築空間の施設化──「一住宅=一家族システムから「地域社会圏」システムへ」が採録されていた。この最終講義とその文章はエコーのような関係になっていた。

 最終講義の方は、建築が社会の関係性を創出するという建築原論から、個々の関係の間にある「閾」について語られ、それが「地域社会圏」にハンナ・アーレントを介して接続されていた。「atプラス06」の方でも、やはりハンナ・アーレントがアジャンスマンになっているが、現代社会における建築の置かれた立場についての解説に重きが置かれている。インフラの整備に伴い、建築はインフラの先端にある「施設」に過ぎないものになり、建築家は、「施設設計者」に成り下がってしまった。社会の中の、人間たちのビヘイヴィア(アーレント)が画一化され、住宅は住むための施設に、ホテルは泊まるための施設になることで、これまた画一化され、画一化されることによって「官僚制」が担保されていく。アーレントばかりではなく、フーコーの権力論の展開に近い現代社会の描写になっていた。問題なのは、施設設計者の役割しか与えられていない建築家は、いったい何が提案できるのかということだ。建築家・山本理顕の作業とは、施設設計者としての役割しか与えられていない地位への徹底した反抗であり、反転攻勢だったように思う。

 そんな文章の中に、小田原市の多目的ホール(結局、市長が代わり、廃案になってしまったようだ)を設計した理顕さんを批判した井上ひさしの文が引用されている。「多目的ホールといった発想は貧弱です。必ず無目的ホールに堕落します。(……)世界のいい劇場はみんな、一見平凡な型をしています(そこに劇場の本質があります)。へんてこりんでいいのは演目だけです」。『こまつ座』の機関誌「the座」のために世界の1000もの劇場へのアンケート取材を行い、日本で一番劇場に詳しいと井上ひさしは豪語して、上記の発言に繋がっているようだ。ぼくの好きな世界の劇場には、パリのオデオン座のように、19世紀の首都(ベンヤミン)が生んだもっとも劇場らしい劇場もあるけれども、ナンテールのアマンディエ劇場のように「へんてこりん」な劇場もあるし、ピーター・ブルックが長年演出の場所に選んだ、平凡な劇場が焼け落ちた廃墟のようなブッフ・デュ・ノールのあるし、20世紀末の演劇史に偉大な名を刻み込んだ太陽劇団が常打ち小屋として使用したヴァンセンヌの森の中にある昔の弾薬庫だった大空間もある。もともと演劇史は劇場史と軌を一にしていて、ギリシャの円形劇場、ローマの半円の劇場、ルネッサンスのイタリア式劇場、シェイクスピアで名高いエリザベス朝式劇場などの空間的な造作が、演目をも支配したことは演劇史の常識だ。ぼくも、そうした演劇空間(セノグラフィー)の歴史を、かつて一冊の書物にまとめたことがあった(『視線と劇場』弘文堂、1987年)。井上ひさしは、そうした演劇史にまったく無知だったとしか言えない。むしろ空間は「へんてこりん」で良いのだが、演目はむしろ古典的な(平凡な)ものが良く、それを「へんてこりん」な空間でどうやって作り上げていくのかが演出というものだ。20世紀後半の演劇史は、既存の演劇空間への反撥として記述されるはずだ。日本でも、唐十郎の紅テント然り、佐藤信らの黒テント然り、喫茶店の2階を演劇空間にした初期の早稲田小劇場然り、そして街頭演劇を目論んだ寺山修司然り。それらの演劇実験に比べれば、井上ひさしの「こまつ座」の舞台など、従来の劇場構造にまったく疑いを持たない保守的な舞台にすぎない。

 つまり、劇場は施設ではない。舞台空間という生み出す、創造の源なのだ。一番有名な例は、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』のバルコニーのシーン(「なんであなたはロミオさまなのでしょう」とジュリエットがバルコニーを下から上がってくるロミオに言う件)だろう。エリザベス朝の舞台には、かならずバルコニーがあって、上層を下層のふたつの演技空間があった。だからこそバルコニーのシーンが想像できたことになる。つまり、エリザベス朝の「へんてこりん」な舞台空間がなければ、『ロミオとジュリエット』なんて生まれなかったろう。劇場という空間は、舞台にとって決定的な要素なのである。