10/28(月) 『マーヴェリックス/波に魅せられた男たち』代田愛実

マーヴェリックスの波は、塊であった。ゴゴゴ、ドドド、ズズズ、といったオノマトペで表現されるであろうその波の音は、ピチャピチャとか、ザァザァといった一般的に水を連想する音とは全く異なっていた。流れるのではなく厚みと重みと弾力と硬さを持った物体として平行移動し、我々観客の目前に屹立した。それはまさに、主人公の目の前にそびえ立つ、壁であった。

唐突だが、革命的になること即ち創造することについて、『絶望論 革命的になることについて』(廣瀬純、月曜社、2013年刊)にはこう記されている。
" 不可能性の壁を屹立させ、逃走線を描出せよ。" 

今日偶然、カイエ・デュ・シネマ・ジャポン27号を手に取った。 冒頭の記事で、樋口泰人氏が、新レーベル「BOID」――" 徹底して個人的なレーベル" ――を立ち上げたことを報告している。"始めた理由など、うまく説明はできない。ただ、怠惰な私が何かをし始めなければならなかったくらいには、状況は十分悪かったのだということだけは言える。" もちろん世の中にCDや書籍というコンテンツは大量に溢れている、と前置きした上で、でも" 状況が悪い" ことを読み取ってしまった、だからこそ見出した1つの逃走線としてのレーベルの立ち上げ。革命的になること、すなわち創造し始めること。その発端がここに書かれていた。

この作品の主人公も、波の距離や間隔と計ることから始め、やがて自ら壁を生み出し、逃走線を描き出す。
あの凄まじい波を不可能性の壁と置くことも出来る。だが主人公には、もう1つの壁がある。 父親からの手紙が、絶望であるはずの手紙が、彼には開けられなかった。
パドル、パドルばっかりじゃねーかとからかわれたり、思いを寄せる幼なじみに避けられたり、フロスティに罵倒されたり、といった主人公の不遇は、彼の絶望がまだまだ足りないことを示したのではなかったか。本当の問題、恐怖のありかは、まだしまいこまれていた。
マーヴェリックスを目前に控え、数年放置していた父親からの手紙を開ける。そこに書かれていた言葉はわからない。しかし、その手紙を読んだことが、彼に別の手紙を書かせ、いよいよ壁(波)に向かわせたということになる。" 「絶望」あるいは不可能性の壁" は遂に屹立し、逃走線が綺麗に伸びる瞬間であった。彼は革命的であり、同時に、創造するに至ったのだ。

主人公が勝利を勝ち取る瞬間は、はっきりいって、地味だ。巨大な波を乗りこなしたり制したりするのではなく、波との根比べ。波=壁がゆっくりと隆起し、自らのバランスを崩して砕けてゆく中で、自分は崩れずに耐えること。"4本の柱"によって自らを支え続けること。壁がくだけ、波しぶきになった後、その中から姿を現すという、何とも地味な勝利。だがその地味さが、この作品の、あるいはカーティス・ハンソン作品の持ち味とも言える。1人の人間が、やっていることはおおまかには変わらないはずなのに、どこか――魂と呼べるようなもの――が変化してゆく様が、カーティス・ハンソンの作品にはいつも描かれていたのだから。
そして、彼にサーフを教えた友人。
「このために生まれたと感じる瞬間があるかい?」 「ある。TVを観ているとき。」
この一見能天気な少年なしには、主人公のあらゆる不遇は生きなかったに違いない。愛すべき魅力的な友人である。

 

代田愛実