青山真治への手紙

 2011年3月23

 

 青山、俺を泣かせないでくれよ!

 『東京公園』を試写で見た。まだ緑豊かな代々木公園の中でカメラを構える三浦春馬。コンタックスのアナログ・カメラのレンズが向けられる先に、乳母車を押しながらスックと歩く井川遙。初めて青山と組む月永雄太のキャメラが捉える空間を目にしただけで、このフィルムが備えている無限大の力を感じる。秋の代々木公園を背景にモノクロの写真がたくさん並べられてスクリーンを被っていく。すごく奇麗だ。試写が始まる前に読んでいたプレスシートに青山のインタヴューが載っていて、『シルビアのいる街で』を観て、自分もこういう作品がやってみたいな、と言っている。ここまで見ただけでも『シルビアのいる街で』よりもずっといいよ。だって『シルビアのいる街で』は、映っている映像が、まるで映画作家の心象風景に見えたけど、この映画の映像は心象風景じゃない。代々木公園という外部と、乳母車を押す井川遙という外部がきっちりと映像に収められている。小路幸也の原作(読んでいない。明日、本屋に寄って買うつもりです)のラストには『フォロー・ミー』に捧ぐ、とあるらしい。トポールが、ロンドンの街をさまようミア・ファーローを尾行する映画だ。だが、トポールは、だんだん身を隠して尾行するのをやめ、ミア・ファーローを追い越して、彼女にロンドンの街を発見させようとする。

 確か中学生のころだったか、私立探偵のことをprivate detectiveというのだけれど、private eyeともいうと習ったと思う。「私的な目」、なるほど「私立探偵」にふさわしいなとも思った。だってみんなが見ているものと、ちょっと異なる自分だけの標的を見ているわけだ。尾行という仕事について、こんなに適切な表現はない。

 ずっと後になって演劇史を勉強していた大学院生のぼくは、フランス演劇が専攻のくせに、指導されていた安堂信也さんの差し金で現代イギリス演劇の授業を取るように言われた。担当していたのは東京女子大から非常勤で来ていたコールグローヴ先生だった。ぼくの他にその授業を取っていたのは、全員英文科の大学院生で、授業も英語でやっていた。毎週シェイクスピアの戯曲を1本ずつ英語で読んできて、それをピランデルロ、イプセンやストリンドベリと比べたり、同時代のジョン・フォード(映画の人じゃない方)やクリストファー・マーローたちと一緒に読んだりする授業で、大変だったけどすごく面白かった。「ヨウイチ、キミハサッキカラchangementチェインジメントトイッテイルガ、ソレハフランスゴデ、エイゴデハchangeダケデイイノダ」などと、とりあえず英語だろうとフランス語だろうと知っている外国語を全部ごちゃ混ぜに喋る変な奴がぼくで、英文科の諸氏からは物笑いの種だったろうが、ぼくなりに必死だったんです。

 書きたいのは、ぼくのおバカな大学院生活なんてものじゃなく、そのコールグローヴ先生の授業で、ある回に、Peter Shafferって人のPublic Eyeという戯曲を読んでこいという宿題が出たことだ。「センセイ、ソレハマチガイデハナイデスカ? ソレハPrivate Eyeデアッテ、Public Eyeナンテヒョウゲンハナイノデス」とウメモトくんは中学の時に偶然知ったに過ぎない知識をおバカなことにアメリカ人の英米演劇の大家の前でひけらかしたのでした。おお恥ずかしい!コールグローヴ先生は、寛大な人で、「ヨクソンナヒョウゲンヲシッテイルナ! デモ、コノギキョクハPublic Eyeナノダ。Private Eyeノヒョウセツナノジャ。ダカラ、Shafferガ、Private Eyeトイワズニ、Public Eyeトヨンダリユウヲ、カンガエテキタマエ」と仰った。ぼくは紀伊国屋の洋書コーナーに走って、ピーター・シェイファーの戯曲集を手に入れ、早速、この一幕物を読んだ。知っている話だった。なんだ、これ『フォロー・ミー』じゃん。トポールが探偵で、ミア・ファーローが暇でロンドンに馴染めないアメリカ人の人妻役立ったやつ。トポールは、妻の浮気を疑った、ファーローの夫に妻の尾行を頼まれるのだが、ある日、役柄が入れ替わり、トポールの後をファーローがついていくというもの。映画と戯曲ではいくつか差異があった。それはともあれ映画は1972年、そしてこの戯曲のロンドン初演は1962年。ファーローの役を舞台で演じたのは若い日のマギー・スミスだった。

 コール先生(当時、彼のことをみんなそう呼んでいた)の宿題について考えてみた。もちろん探偵は当初Private Eyeとして姿を現さないのだが、ある時から決心して姿を現すことにする。だからPublic Eyeになった、みんなに見える存在になった、というのが正解だろうし、もともとPublic Eyeは2部作で、他方はPrivate Earというタイトルで、共にマギー・スミスが演じていた。でも、そんな解答じゃ単純すぎる。もっと良い答はないのか? 舞台版じゃちょっと分からないけれど、映画版だと、トポールが姿を現してPublic Eyeになった瞬間から、ロンドンの街全体が見えるようになる。私的な空間から、とても広い大きな空間へと映画が変わっていく。つまり、風景が私的な心象風景から、もっと広くて多くの人たちを同時に包み込むようなものに変容して、その中で、人々もまた変わっていく。だからPublic Eyeになるんじゃないか。といったようなことを、つたない英語で述べたぼくはコール先生にちょっと誉められて有頂天。おお恥ずかしい!

 青山、俺を泣かせないでくれよ!

 三浦春馬の義理の姉を演じる小西真奈美がいい。阪本順治の『行きずりの街』の彼女も良かったけれども、この映画ではもっといい。一緒に見ていたNobodyの高木佑介は、あんな女性に人生をめちゃくちゃにされたい、と言っていた。男なら、みんなそう思うかも知れない。大島の絶壁を正面に見据えて涙を流す彼女の横顔が良い。「姉さんを撮りたい」という三浦春馬に、「化粧をしてくる」と言って、メゾネットの上階に上がり、再び降りてきて、こちらを見据える彼女にぞくぞくする。振り向く彼女の眼差し。ファイダーを通じて小西を正面から見据え、しばらくして、ファインダー越しではなく、生身の眼差しで彼女を見つめ、その三浦春馬を見つめ返す小西真奈美がすごくいい。決定的な瞬間を携えて、そして、それを乗り越えて、並んでソファに座るふたりの眼差しが良い。

 それにしても、青山、いつから女性をこんなに美しく撮れるようになったんだ? 今までは、どちらかと言えば、浅野忠信、光石研などの男性を素敵に撮ることに秀でていたけれども(もちろん、『月の砂漠』のとよた真帆や『サッドヴァケイション』の板谷由夏という例外はあった)このフィルムに登場する主要な三人の女性──小西真奈美、榮倉奈々、井川遥──の姿を最高に美しくフィルムに残せただけで、この映画は大成功だ。まるで成瀬巳喜男のように……否、ちょっと違う。このフィルムの中の榮倉奈々はすごいシネフィルで、いろんなことを映画の比喩で表現するんだが、『東京公園』を考えると、どうも映画の比喩がピンと来ない。

 確かにこの映画は最初の方こそ、ちょっと複雑な物語を、適切なモンタージュで語りながら、映画が繋がっていくのだが、次第にモンタージュの力よりも、ショットそのものの力とショットの内部にいる俳優や女優たちの力の方が大きくなっていき、だんだん長いショットが増えてくるようだ。台詞だって、最初は不自然に聞こえていたけれども、少しずつ不自然さが感じられなくなり、あえて不自然な台詞を自然に語る語り口が記憶に残るようになる。多くは順撮りで撮影されたそうだが、最初は勝っていた編集による映画の論理が、ゆっくりと俳優、女優の論理に場所を明け渡し、最後には、風景の中にいる俳優たちを見つめながら、彼の言葉に耳を傾けているぼくらがいる。三浦春馬と一緒に彼のバイト先の店長を演じる宇梶剛士の話に一緒に耳を傾けるぼくらがいる。

 榮倉奈々の演技はどうだ! 三浦春馬に救いを求めて、彼の家にやってくるシーンを涙なしで見つめることのできる人などいないだろう。ぼくらもまた、三浦春馬と一緒に彼女を静かに受け入れようと思う。目の前にいて、変わっていく人たちをしっかり正面から見つめ、彼ら、彼女らの変化を、しずかに肯定して受け止めようとするぼくらがいる。おそらく、これは映画監督の眼差しと同じかも知れない。否、映画監督の眼差しばかりではないだろう。人と風景の前に立って、その微細な変化をも見逃さない繊細な眼差し。

 おそらく、こうした論理は映画だけの論理を越えている。素晴らしい映画とは、映画だけの論理を越えて、常に別の何かと結びつき、映画の領域を広げてくれるものだ。青山真治の次の仕事は舞台演出だと言う。この映画を見ていると、彼が次第に舞台演出に接近する様を見ているようだ。 

 それにしても、このフィルムを見ていて、ぼくはいっぱい涙を流してしまった。青山、ありがとね。舞台も期待しているよ。