Report from Cannes 01 | 5月16日

 槻舘さんから遅れること3日、5月16日13時にカンヌ到着。移動のTGV車内では昨日寝つけなかった分を盛大に取り戻したものの、軽い頭痛に襲われながら、初夏の日差しを全身に浴びて会場を目指す。

 プレスパスを受け取って、さ、とりあえずはホテルへ荷物を置きに向かって、カフェで一息ついてカンヌに到着した感慨を味わってみるか……なんてわけにはいかない。絶対に見ておきたかったモレッティの新作のカンヌ最終上映が、なんと到着から1時間後の14時開始なのだった。重い荷物を担いでヒイコラ言いながら、上映会場である映画館「STAR」へと向かう。

 コンペティション作品、ナンニ・モレッティ『Habemus Papam』。ローマ教皇就任をめぐるコメディ、だととりあえずは言えるだろう。相変わらずモレッティらしいスキャンダラスな題材である。その責任の重さゆえに、誰もが選ばれたがらない新教皇の座に、なし崩し的に新任されてしまったミシェル・ピコリが、民衆への演説直前にして「無理無理、そんなのできない!」とパニックに襲われ、モレッティ扮する精神分析医のカウンセリングを受けるも、自らの存在を世界から消し去るための逃走へと踏み切ることとなる。
冒頭、赤い衣服を纏った司祭たちがノソノソと列を為して歩み、教皇選出の投票の最中にペンで机を叩いたり、一票一票の読み上げに表情を歪めたりするその一連のシークエンスの「紋切り型」なギャグの演出に、あるいは彼らを取り巻く憲兵隊や教皇のボディ・ガードたちの姿に、『アウトレイジ』(北野武)のヤクザたちの姿を思い起こさせられる……というよりも、これはまったく同じ「ファミリー・ビジネス」なのだと気づく。要するにモレッティのこの新作が映し出すのは、「宗教」や「信仰」それ自体に関わる真価やら欺瞞やらではなく(もちろん無関係ではないが)、そういった組織の空疎な構造と、それに寄生することでしか自らの生を肯定できない、「普通の人々」の「生」、そのヴァリエーションなのだ。
かつて「演じる」ことに自らの「夢」を見たピコリは、しかしいつの間にか自分自身がすでに何かを演じることでしか生きられなくなっているという、当然の事実に直面し、当惑する。彼にとっての「生」とは、彼が暗唱するチェーホフの台詞の中にあったのだということに。舞台の上に立たずとも、バルコニーに座っているだけで万雷の拍手を受けざるを得なくなってしまう「持つ者」、否、「持たされてしまった者」の悲劇は、けして特権階級の専有物ではあるまい。
その傍らで、今作モレッティが演じるのは教皇=ピコリの精神分析医である。その身振りは、前作『カイマーノ』でのようなシリアスな役回りではなく、たとえば『親愛なる日記』や『エイプリル』といった作品におけるような、コミカルな趣に特化したものだ。けれども、かつての作品で自身の身体が「映画」それ自体の化身であるかのような身振りというのは控えられていて、むしろ本作においてはモレッティは周囲の人々の身振りを相対化させることに、つまり「演出」の側に執心している。ピコリに逃げられてしまった後のモレッティは、「教会」という「演劇」に安住してしまった人々を「リハビリ」へと導くこととなる。そう、つまり『神々と男たち』における「生活」ではなく、『神の道化師 フランチェスコ』の「運動」の方へと彼らの肉体を解き放とうとする。モレッティは神の奇跡を信じてはいないかもしれない、しかし彼は「映画」の奇跡を、ロッセリーニの名の下に今もなお信じ続けている。

モレッティの傑作に感動しつつ、さすがに荷物を持っての移動は限界なのでホテルへと向かう。その後、再び会場に戻るとテレンス・マリック『ツリー・オブ・ライフ』の招待券を求める人々の雑踏に揉まれる。熱狂はわからないでもないけど(というかもちろん見たいけど)、この日からパリでは一般公開も同時に始まる作品なのに……。ここが映画「祭」の場であることを再確認する。

一昨日パリに到着した坂本安美さんにおよそ一年振りにお会いしたり、偶然お会いしたドミニク・パイーニ夫妻にご挨拶したりしながら、おそらく今年の監督週間の目玉、アンドレ・テシネ『Impardonnables』への長蛇の列に並ぶ。会場はもちろん満員。
……が、これにはまったく乗れず。ひとことで言えば「疑似家族」をめぐる「関係」を徹底して映し出すフィルム、だと言えるだろうか。スピーディーで的確な切り返しや、大胆なジャンプ・カットの巧みさには舌を巻くものの、あたかも「結果・結果・結果」と連鎖して「過程」が失われてしまっているかのような、語りの側面には静かな過激さが潜んでいるのだけど、どうにもそこに映り込む人々の姿がボヤけてしまっている。この「手法」の選択によって、本当に重要な瞬間こそがすっ飛ばされてしまっているかのようで、腑に落ちないのだ。こんな感覚を最近どこかで感じたなと思ったが、そう、つい最近パリでも公開されたトラン・アン・ユンの『ノルウェイの森』だ。あっちはあっちでやたら思わせぶりな構図やら編集やらに喚起される、「意味」やら「意図」やらの過剰さにゲップ気味だったけれども、こっちはこっちで画面それ自体への執着の薄さに空腹感を覚えてしまう。
海沿いのロケーションと、そこに漂う客船やら小型ボートやらといった小道具が実に魅力的だったのと、何よりも自然音を中心としたハードコアな音響(録音だけで3人の名前が並んでいた)の作り込みには心躍ったのだけれど……。同行したジャン=フランソワ・ロジェのご子息クレモンくんも、ご不満の様子であった。