日本映画の風景をめぐる状況について

2011年7月6日

 

 3.11以降の日本映画。たとえ、それらが3.11以前に撮影されたにせよ、3.11を体験したぼくらの眼差しは、それらを同じものとして捉えてくれない。イーストウッドの『ヒアアフター』が何かの前兆のように公開され、3.11という重要な日付を過ぎ、次第に3.11をめぐる様々な映像がぼくらの視界に入ってくる。真っ黒い壁のような津波が仙台空港を襲う映像、まるで大空襲後の東京のような、原爆後の広島のような三陸地区の市町村、そして、建屋が吹き飛ばされ白い蒸気を上げ続ける福島原発。それらは映画を越えた事実でしかない。事実が映画を越えてしまったとき、それが撮影された時刻に関係なく、映画は「事後」の相貌を見せ始める。惨劇の後、惨劇の模様ではなく、惨劇の後という意味においての「事後」。たとえばセルジュ・ダネーならば、アウシュヴィッツ以降の映画、つまり『夜と霧』以降の、『ヒロシマ・モナムール』以降の映画と言った。映画には、確実に「事前」と「渦中」と「事後」が存在する。

 おそらく「日本映画」を包む風景は、3.11以前から崩壊を始めていた。地方都市のシャッター・ストリート化、「16号線的風景」、「ファストフード化」……。その崩壊にさまざまな言葉が与えられてきたにすぎない。シャッター・ストリート化の反対物として、都心の高層化があり、「ヒルズ」的なものや、ショッピングモールがあるのだろう。だが、それらは決して崩壊の反対物ではなくて、スカイラインが奇麗に揃っていた銀座に、先回扱った松坂屋の跡地にビルが建ったり、統一感のあった表参道の同潤会アパート群の後に表参道ヒルズができたりすることは、やはり何かの崩壊と同義語なのだ。日本のどの場所でもよいが、映画を撮ろうすれば、否応なしにその「崩壊」と関わらざるを得ないことになる。

 そして、「崩壊」の風景が、「事後」の風景として決定的なまでに定着しているのは、東京からさほど離れていない千葉、そして山梨という地名を持つかも知れない。真利子哲也の新作『NINIFUNI』が見せる外房の海岸、あるいは空族の『サウダーヂ』の山梨の風景は、その何もなさにおいて、あるいは、その空白性において、明らかに「崩壊」であり、「事後」の風景そのものだった。ベストセラー漫画を原作にしたフィルムや、ライトノベルの映画化とは別に──つまり、マーケティングの原則のみに則った映画とは別に、現在の日本の風景と誠実に接することで映画を撮ろうすれば、この「崩壊」の「事後」の風景はぜったいに映ってしまうし、その風景を背景に人物を立たせることなしに、現在の日本で映画など成立するはずはない。

 だが、「事後」の風景が見せる「何もなさ」に伴う、どこまでも抜けのよい風景の中にいる登場人物たちが背負っている関係性は、その抜けのよさとは正反対に、絶対的に閉塞している。豊かで多彩な出会いをいくつも経験できる人間関係は、その風景の中で欠落している。共に暮らしていても、蓋tりの間には決定的な行き違いがあり、「何もない」風景の彼方にクルマを走らせても、その果てに街があるわけではなく、そののっぺりした何もなさは永遠に続いていくようだ。人と人が出会うことさえ不可能なほどに「何もない」「誰もいない」風景の中で、登場人物たちが途方に暮れている。あるいは、出会いなどあっさり諦めて、言葉もなくクルマを走らせるだけだ。それぞれの街が持っている固有名の重さはどうでもよいものになり、地名の持っていた単一性も唯一性の必然ではなくなる。陸地とか海岸とか一般的な名詞しか持たない地ばかりが風景を構成するようになり、固有名の必然は消滅する。気仙沼も宮古も釜石も同じだ。そこは「事後」の世界がどこまでも広がっている海岸に過ぎない。

 小津安二郎の北鎌倉、成瀬巳喜男の柳橋、川島雄三の品川──日本映画の黄金時代を形成した映画作家たちは、決まって固有名のある場所を描いたものだ。彼らの土地への執着こそ、彼らの映画を成立させるエンジンだったと言ってもいい。ぼくらは、横須賀線の北鎌倉を通ると『晩春』を思いだし、浅草橋駅の陸橋を総武線が通ると、ここの駅で下車した田中絹代とともに『流れる』を思いだし、山手線が五反田から品川へと右に大きくカーヴを切るとき『幕末太陽伝』の冒頭を思い出したものだ。だが事後の世界には、そうした特権的な固有名と豊かに戯れる映画が生まれることが不可能になった。

 思い出してみれば、すでに今世紀に入った直後、「小説家」青山真治は、そうした「何もない風景」なくしては創造することのできない小説『死の谷95』を発表していた。東京と海を隔てた千葉県の「何もない風景」がこの絶望的な小説のエンジンだった。聞けば、もともとこの小説は映画のシナリオとして記されたものだという。『東京公園』で「まっすぐに人を見つめる」ことで、希薄化され続けた他者との関係性をもう一度結び直す決死の行動は、そのフィルムのためにだけ実現されたわけではない。いくつもの迂回路を経て、いくつもの断絶や、いくつもの絶望を経て、ようやくたどり着いた行動だったことになる。三浦春馬が住んでいる日本家屋から、彼が井川遙を追う公園までどうやってたどり着いたかは分からない。彼と小西真奈美が歩く夜の公園まで、ふたりがどんな経路を辿ったかは分からない。だが、その途中には、いつ果てるとも知れない「何もない風景」が広がっていたことはまちがいない。その間にある風景は、『NINIFUNI』の宮崎将がクルマの中から見つめていた誰もいない荒れ果てた海岸だったかもしれない。

 日本映画は極めて困難な場所にあると言わなければならない。困難な場所にある、とは、「シネコンが映画を殺す!」といった意味のない常套句の中に収まるような経済的な困難ではない。経済的には、日本での映画のシャアとしては、日本映画が外国映画を凌駕しているのだから、むしろ日本映画は好況とさえ言えるかもしれない。困難な場所とは、文字通りの、場所、つまり、日本映画が撮影しなければならない日本という場所の困難さだ。ヒットする日本映画は、宮崎アニメだったり、ミリオンセラーのマンガやライトノベルが原作だったり、いずれも「何もない風景」や「誰もない風景」と無関係に成立するものが多い。もし映画作家が誠実に自らの周囲に展開する、3.11以降、宮古や気仙沼のような「何もない風景」に眼差しを向けるとしたら、そこには人と人が関係を結ぶことさえ困難な場所を見つめるしかない。多くの人々は、そうした風景から目を背け、そうした風景があることを知りつつ見ないふりをしようとして映画館に逃げ込んでいるのかも知れない。最近の、野心的で、しかも誠実でもある映画作品は、人々があえて目を逸らそうとするそうした風景を意思として見つめることを選んでいる。