演劇のフラジャイルさ

――そうするとまさしく『親密さ』は、これまで濱口監督が述べられたような俳優の存在をめぐって、俳優さんたち本人のレベルでも、撮影のレベルでも更なる実践が行われた映画であると言えると思います。『親密さ』の前半部における劇中劇のリハーサルの問題は、まさにそういった演出における抑圧と、役者さんが自分でかける抑圧をどう考えるかという点だったのではないでしょうか。

濱口『親密さ』の際に製作条件は、「ENBUゼミナール」という映画・演劇の学校があって、そこの俳優コースの人たちを使って、授業の一環として映画を撮るというものでした。いわゆる役者の卵みたいな人たちで、演技の経験は少ないんだけれども、彼らとともにいい映画を撮れないとは最初からまったく思わなかった。『親密さ』の構成自体は最初の授業に入った頃からもう決めていました。三ヶ月何かを教えなければいけないということで、演劇をやってもらうことは決めてたんですが、でも演技について教えることはない。僕が演技のことを何も知らないからです(笑)。だから、普段の自分がやっていることを引き延ばす口実として、演劇の稽古をしてもらうことにしました。稽古の間、その脇にキャメラを置きながら考える。そのためのエンジンのようなものとして劇中劇『親密さ』の脚本を彼らに渡して、舞台がある程度煮詰まったところで、映画の台本を渡すという感じでした。

もともとの構想は、3ヶ月という授業や稽古のための時間と、5日間という決められた撮影期間があったのですが、3ヶ月間でドキュメンタリー的に撮った彼らの稽古風景の切り返しショットとして5日間でフィクション部分を撮るというものでした。ただ、実際はほとんど稽古のドキュメンタリー部分は使っていません。彼らが実際に言った通りの言葉を一度脚本に起こして、それを少し物語の流れに変えていくというような作業はしましたし、実際にドキュメンタリー部分として撮ったものと、演じている部分として撮っているものを切り返した箇所も一部ありますが、『親密さ』全体はフィクションとして、彼らに演じてもらったものを撮っています。

――まさしく『なみのおと』でとられた方法論の前段階のような作業があったんですね。つまり、実際にあったことを記録しつつ、それをフィクションとして意識的に撮り直すという……。

『親密さ』

濱口そうですね。『なみのおと』の場合は、実際に一度話を聞いて、それを改めてキャメラの前で話をしてもらうというかたちを取りました。同じようなことを一度話してはいるものの、正確には同じ話ではないし、その場で初めて出てくる話もある。ただ、そのことは、たとえばインタビュイーがうっかり漏らしてしまう生々しさを撮るということが一番の目的ではなかったんです。キャメラの前で、ある種の空々しさに耐えながら話してもらうことが、とても重要なことだと思ってました。

――第2部では実際に劇中劇自体が撮影されます。実際の上演を4台のキャメラが撮り、それに加えてリハーサルを映し出した映像とともに構成されていると伺いました。正面を向き合っている人たちの切り返し、あるいはすごく離れた位置にいるふたりが隣り合っているように喋っているといった撮影が、いわゆる演劇をそのままに捉えるというよりも、もっと別のものを見出す契機になっているように思います。こんな質問をしてしまうのもどうかとは思うのですが、どうしてこのような方法を選ばれたのでしょう?

濱口あるとき村上淳さんの出演されている演劇を見に行って、その後一緒に見に行った人と演劇とは何なのかという非常に大きな話をしたんです(笑)。その人が「演劇、演劇性というのは、フラジャイルさ(脆さ)のことなんだ」ということを言ったとき、当たり前なのかもしれないけど目から鱗で、そのことがずっとヒントになっていた気がします。

演劇についての映画をそこまで知ってるわけではないですが、『オープニング・ナイト』(78、ジョン・カサヴェテス)を例外として、演劇を映像で撮るということに全面的に成功した映像を見たことはないです。それはなぜかと考えると、例えば舞台の記録映像なんかでは観客を手前において舞台を撮るでしょう。そのことが決定的なんだと思います。そうすると、この役者さんたちは観客がいないふりをしているということが明らかになってしまう。何言ってんだ、それが演劇だろ、という話なんですが、演劇の観客が慣習的に無視している観客と舞台の関係を、映像が無防備にさらけ出してしまうとき、決定的に壊されてしまう演劇性みたいなものがある気がする。演劇のフラジャイルさに対して、キャメラっていうものがきっと強過ぎるんですね。「あるものしか映さない」キャメラという圧倒的な記録装置によって、「あるものをないもの」にしたり「ないものをあるもの」にしたりする営み、つまり演劇という儀式の本質やそこに含まれた狂気が明らかになってしまう。だとしたら、映画で演劇を撮るっていうことは、そのフラジャイルさそのものを撮ることなんだと考えました。そう考えたときに、ああした撮り方になったんですよね。論理の飛躍はある気がするけれども、明らかに嘘だとわかっていること、空々しいことが、それでもなお観客の力によって信じられる体験。そういう体験の中にこそ演劇性があると思ったんです。

『親密さ』

――たとえば、アルノー・デプレシャンの『エスター・カーン めざめの時』(00)で演劇を見ている女の子が泣いている抜きのカット。あれがやっぱり演劇を撮る映画における成功のカットだと思います。つまり、演劇を見る観客のエモーションを撮ることで、演劇全体がそこに映り込んでくる。

濱口その通りで、「観客」というものが、演劇性にとって決定的な要素なんです。ただ、『親密さ』でも観客も撮るんですが、その観客がすごくエモーショナルな表情をしてるかと言えば、ちょっと違う。映画における観客のエモーションを、演劇における観客のエモーションというものとひとつにするやり方というのを探すようにして、舞台は撮っていましたね。

――『THE DEPTHS』以来、役者の自由というものをどのように見出すかということが濱口監督の探求だった思うのですが、『親密さ』はまさしくその実験の場になるわけですよね。その自由は獲得することができたのでしょうか?

『PASSION』

濱口ある意味できたと思いますね。それを目の前で見たような気はします。ただ、やはり人によるというか、役者個人によって達したレベルがそれぞれ違いますし、それぞれの役の置かれた環境が違う。そのことにもすごく左右されていたと思います。ただ、そもそも役者の自由っていったい何なんでしょうね。 『PASSION』を作り終わったときに、ここには足りないものがあると思っていて、それが以降、正面から役者を撮るショットとして現れた気がします。『PASSION』では役者たちをある関係の内部に置いて、その斜めの位置にキャメラを置いて撮ったわけですが、そのとき何かを「かすめ取っている」という感覚が強くあって、それは最後まである種の罪悪感として残った。「ここは良い顔をしているから使っちゃえ」みたいな窃視的な感じがあるわけなんですね。それは役者との共同関係において、やはり一段レベルの低いものだと思った。自由自由と言いながら、籠の中に入れて、自由の気分だけかすめ取っているような感じが、最後まで消えなかった。演じるということに対してこちらが十分に敬意を払ってない気がしましたね。演じるということの価値を、こちらがどこかで見くびっていた。つまり、演じること自体にではなく、そこからこぼれ落ちて来るものに価値を見いだす、という態度があったのかも知れない。

『親密さ』を通じて理解したのは、役者が役者になるには理由があるんだ、ということです。目立ちたい、とか自己表現したい、とかの向こう側の理由ですね。そして、演出する側はそれに敬意を払わなくちゃいけない。役者がキャメラの前に立つということに対して、こちらは敬意を払わないといけない。スカウトなんかは別かも知れないですけど、いわゆる役者が役者になるということには、こちらが勝手にどうこうしていいかどうか、躊躇うべき理由があるんですよ。ただ、その躊躇いは、まさにその敬意によってこそ越えられないといけない。簡単な言葉で言えば、信頼関係を結ぶということなんだと思います。それは、一緒に飲みに行ったりとか、仲が良いとかそういうこととはちょっと違う。

そうした信頼を結ぶためには、『PASSION』のように「かすめ取る」やり方を是としていると、やはりよろしくない。キャメラの正面を向かせたのは、それがある意味で「演じる」ということの最たるものだからですね。相手ではないものを、相手と見立てて演じるわけですから、これは役者の自由を最も阻害する足かせに思えるわけです。でもキャメラの前でこそきっと、自由になるべきなんですよ……。キャメラの前にいてなおと言うか、キャメラの前にいるからこそ役者が自由でいられるようなやり方を発見する必要がある……。キャメラを牢獄のようなものにしない、そういう演出の態度がきっとあるんだと今は思ってます。

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