存在としての分厚さ

——『ハッピーアワー』を神戸で作ることになったいきさつについて教えてください。

濱口竜介(以下、濱口):2013年の9月から2014年の2月まで5カ月ほど、「即興ワークショッップ in Kobe」という『ハッピーアワー』制作の前段となるワークショップをデザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)で行いました。そこに、アーティスト・イン・レジデンスという形で呼んでいただいたのが神戸に来ることになったきっかけです。その準備のために、2013年の4月頃から神戸に住んでいます。

——ワークショップは最初から映画を作ることを前提にされていたということでしょうか。

濱口:そうです。当初は、ワークショップの後に、ひと月ほどで撮影をして終える予定でした。最初はワークショップでやったことを何がしか撮って終わりかなと思っていたんです。それが実際には、2014年の5月頃から12月までだいたい8カ月くらい撮影にかかりました。第一稿、第二稿は脚本上では2時間半くらいだったんですけど、改稿を重ねていくうちにだんだんと長くなって5時間を超えてしまったということなんです。

——ワークショップの参加者の方たちの中から、映画の配役はどのように決められたのでしょうか。

濱口:ワークショップには老若男女17人の参加者がいて、本当に17人全員に魅力を発見したんです。その中で、誰をメインキャラクターにするのかなかなか決められない状況がありました。決まるまでの経緯はいろいろあったんですけど、やはり彼女たちの年齢という要素は、決定に大きく作用したと思います。参加者の中に当時30代後半の女性が4人いたんですけど、この年代の女性は、社会的に弱い立場にあるように思いました。まず出産に関するタイムリミットをすごく意識しなきゃいけない時期でもある。でも、社会の側からの彼女たちのサポートはまったく万全ではないから、彼女たちは自分のキャリアをどうするのかについて選択を迫られる。そして否応なく、いわゆる「容貌が衰える」時期でもある。でも、女性においてそのことが特に問題になるのは、明らかにこの社会が男性社会だからです。20代の頃には求められなかったような形で、自分の体と社会から選択を迫られているんだと思います。本当は彼女たち個人の選択とは言い切れないものなのに、社会は素知らぬ顔をしている。彼女たちはサポートなく放り出されている。そういう、すごく微妙な年代ではあるわけですよね。この年齢の演技経験がない女性がワークショップに来るということは、僕は相当なことだなと勝手に想像しました。また、彼女たちはワークショップの中でも年長者であって、この人たちがメインになってくれたら、ワークショップ参加者全体のまとまりどころになるんではないかと思いました。年長者であり、しかし一方で社会的には弱い立場に置かれている彼女たちをサポートする形で、全体がまとまっていくんではないかという考えです。そのことでワークショップで培った信頼関係というのを壊さずに、そのままいけるんじゃないだろうかと思ったんです。

——『ハッピーアワー』を見たときに、出演している方たちがこの映画で過ごす時間を生きているというのを強く感じました。映画の登場人物たちが自らの人生を作品の中でも積み重ねっていっているように思ったんです。

濱口:彼女たちがどう思っているかはわからないですけど、これで私の人生が変わったとかそういうことではないかもしれません。ただ明らかに変わったようにも思います。それは社会的な立場とかそういうことではなくて、ワークショップから身体表現の講師として参加してくれたダンサー・振付家の砂連尾理さんがワークショップの終わりに言ってくれたのは「みんな存在が分厚くなってるね」ということでした。曖昧だけど、とても腑に落ちることを言われたように思いました。その存在自体の厚みみたいなものが増しているという気は確かにしました。その厚みをそのまま映画に持ち込んでもらっているのだと思います。

——最初はおぼつかない感じで人々が映画に出ているというように感じます。ただ、それがだんだんと気にならなくなってくるんです。たぶんそれは、彼女たちの演技がうまくなっているということではないようにも思います。この映画で彼女たちが女優になる瞬間を目の当たりにしているということではないんですよね。

濱口:そうだと思います。よく映画の序盤と終盤では彼女たちの演技が全然違う、そこにドキュメンタリー的な女優としての成長もまた映っている、と言われることがあります。ただ『ハッピーアワー』は基本、順撮りですが、冒頭のシーンは撮影が始まってから3、4カ月か経ったときに撮影したものです。ですから、事態は彼女たちの演技が時とともにうまくなっているということとは本質的に異なると思っています。そもそもこの映画で彼女たちがしていることが普段観客の目にする「演技」とはモードが違うということなんです。そこで演者が初心者だという前情報を持っていたりすると、最初は「演技が下手なんだな」と、それが時間が経つにつれて「成長していっている」と解釈するんだと僕自身は思っています。ただ、時間とともに変化しているのはどちらかと言えば観客の眼差しと、映画の側においては強いて言うなら「テキスト」のありようです。彼女たちは序盤から一貫して素晴らしいと僕は思います。

——実際には出演者の方たちをどのように演出したんですか。

©2015 神戸ワークショップシネマプロジェクト

濱口:具体的な演出はたったひとつ、「本読み」でした。『ジャン・ルノワールの演技指導』というジゼル・ブロンベルジェが監督した短編がありますね。ブロンベルジュがルノワールの演出を体験する。この中でルノワールが監督の彼女に本読みをさせます。そのときに「電話帳を読むみたいに」読むよう言うんですね。感情をすべて排し、イントネーションや抑揚を排して読むんだと。それを何度も、何度もやりなさいと。この映画の中で、彼女が冒頭と最後に同じ場面を演じるんですけど、それが全然違うものになっていて、これがもう凄いんです。それを見たことが「本読み」という演出に惹かれた最初です。その後ジョン・カサヴェテスも、ロベール・ブレッソンも、小津安二郎も撮影前に本読みをしていることを知りました。小津の場合は、最初に小津自身が演者の前ですべてのシナリオを読み上げるという形の本読みをしていたそうです。この本読みという演出が演者にどう作用するものなのかわからないけど、これだけ自分の敬愛する作家がすべてやっているのであれば「きっと大事なことなんだろう」というぐらいの軽い気持ちから採用しました。撮影の最初からずっと、それこそ感情を排して、抑揚とかイントネーション、ニュアンスを排したかたちで読むということをやっていました。そうすると、みんなその撮影の中盤を過ぎるとこの「本読み」のプロフェショナルになってくるという感じはありました。彼女たちは演技のプロフェショナルではないかもしれないけど、本読みをして現場に立つということに関しては8ヶ月の撮影期間を通じて、ものすごくプロフェッショナルになっていくように見えました。最初はなんでこんな風に読まされているかわからないというところもあって、すごくたどたどしかったり、ニュアンスを加えてきたのを取ってもらうといったやり取りもありました。ただ、ひたすら本読みをしていると、そのときの声、テキストを読み上げる声というのがすごく分厚く感じられてくるんです。

——それは、ひたすら出演者と本読みをして、台詞として大丈夫な状態になったら撮影に入るという形でされていたということでしょうか。

濱口:そうです。現場では、もちろん「ここちょっと動いてもらっていいですか」というような指示はある程度出すんですけど、他のことは一切指示しません。基本的なやり方としては、撮影現場に台詞も何も覚えずに来てもらって、そこで本読みをしながら覚えてもらいます。ただ中には20分とか30分あるような長いシーンもあるので、そこは事前に2日間ほどひたすら本読みをしています。暗記をするだけではなくて、その読んでいるときの声の分厚さというものを、本を閉じてもそのまま残るまで行うわけです。抑揚を欠き、感情を欠き、ただものすごく言葉を分厚い声で言えるぐらいになるまで本読みをします。このように本読みを徹底するのは特に中盤からですが、そうすると、シーンが驚くほどの次元に達するように思えました。本番は受け取ったものに対して素直に反応して全然構わないし、ニュアンスが加わっても構わないと指示しています。彼女たちのように本読みをしてテキストを覚えた人たちは、本当に一言一句そのテキストのままに話すんです。『ハッピーアワー』を編集しているときに映像としてはOKだったけど、声としてはNGといった場合、別のテイクから声の「OKテイク」をもってきてハメ替えるということをよくしました。このとき、基本的に映像と台詞ぴったり合うんですね。つまり、すごく一定なリズムになっているんです。そして、この「OK」の声は映像の見え方を変えてしまう。それこそ一段厚みを加えるように見えて、驚きました。

——濱口監督の他の作品以上に、台詞のひとつひとつが強く響いてくるというのはとても感じました。単に台詞を言っているのとは違う、登場人物がそのときの彼らのままに素直に話しているようにも聞こえます。ただ、この方法はプロの役者の方たちと仕事をするときはまた違うものになるのではないでしょうか。

濱口:『ハッピーアワー』の後にプロの役者さんたちと撮影をする機会がありましたが、それは全然違うものでした。同じように本読みをしていても、そのときの声が全然違うということがあるんです。例えば舞台などで鍛えたような発声としての大きさとか声量とか安定感とかそういったものは役者さんたちのほうが優れています。ただ根本的に何かが違うんです。役者さんたちの場合は意味で覚えています。同じように本読みをして撮影をしていても、本番ではテキストの台詞そのままではなく、意味としては間違ってない別の台詞が出てくるのを聞いて、そう思いました。そのときにテキストではなくて意味を覚えているとそのシーンが、発展しきらないということはあるような気がしました。もちろん役者さんたちは経験がありますから自分なりのやり方で乗り越えることができるのですが、同じやり方を職業俳優と仕事するときにそのまま持ち込むことはできないんだなとは思いました。

そのことを自分なりに分析すると、『ハッピーアワー』の彼女たちはテキストをテキストのまま覚えているわけですから、最初はまっさらな状態なんです。そのテキストを言うとまずその本人がその言葉を聞くことになり、それを更に相手が聞いてその場に固有のニュアンスが生まれることになります。ニュアンスが生まれることで、以降もお互いにそれに即した反応が表れます。その反応を、そこに参加している演者全員が、テキストはそのままに自分の身体の素直な反応で返していったときに、そのシーンが自由に、その場に応じて発展していくということが起きるのではないかと思いました。

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