『共喰い』公開 監督・青山真治インタヴュー
「惜別の歌/新たなはじまり」

欲望を抱いた人間を撮る

佐藤央2010年の夏前頃だったか、神戸映画資料館さんから映画を一本撮ってほしいというお話をいただいたことがきっかけで、この『MISSING』の企画がはじまりました。その段階で僕のなかで決まっていたことは、小出さんに脚本をお願いするということだけでした。というのは、小出さんとは普段から親しく付き合わせてもらっていて、日々のやり取りのなかで、それぞれの映画観とでもいうようなものに刺激を受け合って自分の考えを更新していけるという信頼関係がすでにできていたことがひとつ。もうひとつは、小出さんの映画を見た方なら一目瞭然だと思うのですが、小出さんの映画のなかにつねにある、画面に刻み込まれた核としたテーマと言うのか、ごつごつとした垂直的なものがありまして、うまく言えませんが、小出さんが持っているそういったものを自分が撮る映画にミックスさせれば面白いものができるんじゃないかな、と思ったからなんです。当初僕が持っていたアイデアと言えばそれくらいのもので、実際の制作にあたってはゼロからこの映画をどのようにするかというところから話していきましたよね。脚本の出発点って何でしたっけ?

小出豊僕が以前から考えていた強い欲望をもった人物同士の関係を書きたいという提案を佐藤くんが快く受け入れてくれたのがはじまりでした。

佐藤そのなかで、欲望を持った女性がひとりではなくふたりいるという話になった。欲望が欲望を高めていくような話になればいいなと。そうやってまずは欲望を持った人物を描くということが決まって、ではその欲望は何に対する欲望なのかを決めようと。この映画は製作的には大変小規模なもので、大がかりなことはとてもできない。なので、欲望の対象は現実的に撮影が可能なものということで、その女性たちが子どもに対して抱く欲望ということになりました。理由は明らかにしていないけれども海で子どもを失った母親と、かつて地震で子どもを失った母親のふたりがいると。

小出そうそう、欲望を抱いたきっかけを考えていると、つい喪失の補填という流れになってしまう……。気を抜くと喪失ばかりにフォーカスし、欲望にきちんと対峙しないことがどうやらあるのです。もちろん、欲望を持った人間だけを描くのが映画ではありません。一見しただけでは変化を見てとれないゆったりした時間を流すのも映画だし、喪失を回復する物語が映画と相性が悪いと断言もできません。ただお話をいただいたとき、僕は強い欲望に支配された人間の関係を書きたいと思った。人生のなかでいろいろな別れがあってとても悲しいことだけど、いまの自分の存在を脅かすほどのことじゃない。それほど「いまここにいる」とか「いまなにしたい」ということはパワフルなことですよね。だって、僕らは何も欠損してないでしょ。喪失感ばかりを漂わせる物語は害悪とすら思う。

佐藤登場人物たちがどうしてこのようなアクションをしていくのか曖昧なまま、設定や状況だけがつくられている映画が現在ではむしろ主流となっているのかもしれません。欲望というものがどのようにアクションを喚起していくのか、そこをしっかりと定着させる映画をつくりたいというところが企画の出発点であり、小出さんとの共通意識としてありました。

場所から喚起される映画的イメージ

©神戸映画資料館

佐藤限られた予算で撮影しなければいけなかったので、神戸市新長田のみなさんの協力を多く得て、海や港をメインに撮っていこうとなりました。ロケーションの選定に関しては、これはお金のない映画ばかり撮ってきたという現実条件が作用しているところもあるのですが、僕は基本的に場所の豪華さなり特異さに目が行くようなロケーションよりも、なんてことのない場所でも、人物の芝居なり存在なりがはっきり見える場所を選ぶことにしています。たとえば、かつて息子を海で失った母親に、他人の子どもが「お母さん」と呼びかけて彼女が振り返るという、いわばこの映画の主人公でもあるふたりが出会う冒頭の場面も、普通の港で撮っています。

小出この振り返りが最初に浮かんだキーイメージです。「お母さん」と呼びかけられる機会を奪われた女性は、死んだ息子が呼びかけるはずがないことを充分わかりつつも、もしかしたらと奇跡を信じて振り返る。悲劇的ですね。ただ、振り返るその悲壮な顔が面白くってしょうがない近所のワルガキがいたら、こんなことも滑稽に転がるかもしれないと希望が持てました。それに、ロケ場所から抱く人物のイメージは佐藤くんと共通していましたね。きっと、ろくでもない人が船で生活しているに違いないとか。

佐藤これは思い切り僕の偏見なのですが、良いアメリカ映画というのは、たいてい港や川などの水辺にアル中の爺さんが住んでいる(笑)。そういった人間は、その近辺のコミュニティの大人たちからはたいてい忌み嫌われているけれども、コミュニティから疎外されていたり、独自の価値観を持っていたりする一部の大人や子供たちにとっては、コミュニティ内では決して良しとされないことを教えてくれる存在にもなる、「先生と教え子」となるような関係を結ぶこともある。いわば学校のような場になっていたりするんです。

小出ある集団の周縁って、他集団との接点でもあるからね。

佐藤コミュニティの考えにはそぐわない子供たち独自の価値観を許容したり、ときには「それでいいんだ」と背中を押してやったりする、「人生」を教える存在。僕は映画のなかのそういう人物が好きなんです。たとえば、『狩人の夜』(1955、チャールズ・ロートン)でも、子どもたちが殺人鬼に追われて逃げて川のほとりに住んでいる爺さん(ジェームズ・グリーソン)に助けを求めに行ったりします。

小出『フォートブロックの決斗』(1958、リチャード・フライシャー)でも日焼けと酒やけがごちゃまぜになった赤黒い顔のお爺さんがふと現れて主人公と一緒に呑むことになるんだけど、彼がやにわに「大切なものを失うな、後悔で眠れなくなっちまうぜ」とか忠告してくるんだよね。主人公がその後まさにそういった選択に迫られる物語になっているので、老人の予言めいた忠告はともすると物語世界から浮いてしまう台詞になりがちなんだけど、そういう顔色から発せられる言葉には妙に説得力がある。

佐藤この映画のなかでも海辺に住んでいるアル中の爺さんがーーこの人は堀尾貞治さんという人で、「具体」という戦後日本の美術シーンに一石を投じたグループのひとりである現役の美術作家ですーー、主人公の子どもに芽生えたある大事な感覚を肯定する場面がありますが、帰る家を失った少年と海辺で生活をする老人の関係がそのようになれば良いなと。この場面はこの映画のなかで、自分でも気に入っているシーンでもあります。

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