言葉は言葉としてあれば伝わる

——まず、今回の企画がどのように始まったのかについてお話し頂けますか?

堀禎一(以下堀):『魔法少女は忘れない』のあとに、一度改めて映画と自分の関係を見直したいと考えていまして、それがこの作品の前に撮った「天竜区」シリーズだったんです。で、この作品の作業がひと段落したころに「R-15で一本撮ってみないか」というお話を頂きまして、非常にタイミングが良かったので「ぜひやらせてください」と返事をして、まず脚本家の尾上史高くんに話をしました。「何かやりたいことある?」って聞いたところ、少し前に企画が通らなかった脚本があると返事があって、それを見せてもらったら面白かった(笑)。それを骨子だけ用いることにして、ふたりで設定も物語も変えていくことになりました。

——撮影は長野の上田だと伺っていましたがその場所は脚本の段階ですでに決められていたんでしょうか。

堀:いや、具体的な場所は決めてなくて、なんとなく「天竜区」の撮影で通っている水窪に近い町をイメージしてはいました。ちなみに最初に撮影をしたのは、ファースト・シーンでもある病室のシーンですが、そのシーンは伊那の病院で撮影させていただきました。病室の窓外を流れる川は天竜川です。そのシーンを最初に撮ったのはスケジュール的にたまたまそうなっただけではあるんですが。撮影全体としては時間の猶予もなかったので、事前のリハーサルはなしで、移動を含めて撮影は6日間だったと思います。

『夏の娘たち 〜ひめごと〜』

——西山真来さんを主人公の直美に選ばれたことは、堀さんの強い要望だったと伺っています。

堀:尾上くんと脚本を書き直しているときに、すでに主人公の直美は西山真来さんを想定していました。アテ書きですね。そこにははっきりとした理由があって、以前から僕には「女優さんというのはこういうもんだ」というイメージがあるんですよ。日本映画だったら原節子さん、ロマンポルノだったら宮下順子さん、あるいは外国映画ならダニエル・ダリューさん、みたいなね。容姿はどういうものでもいいし、おっとりとしていても気が強そうな雰囲気でもいい、でもご自分のお芝居を大切にしていて、ご自身の演技をしっかり持っておられて、そこにその人自身をお持ちになられている人、そういう女優ですね。西山さんに『へばの』(2008)を見たときからそうしたものを感じていて、近年では坂本礼さんの映画が二本(『乃梨子の場合』〔2015〕『夢の女 ユメノヒト』〔2016〕)あったのですが、その上映の際にご本人ともお話しする機会がありまして。この人と仕事をしたいなと以前から考えていたことが実現したわけですね。もし断られてしまったらそこで終わりでした(笑)。

西山真来(以下西山):私はもともと尾上脚本のファンでもあったので、お断りするという選択肢はなかったんですが、最初に脚本を頂いた段階ではわからないところがすごく多かったんです。私が演じた直美には、ふたりの男の人から結婚するひとりを選ぶという大きな選択があるんですが、「なぜその選択?これはぜんぜんわからないぞ?」と思ってしまった。それで堀さんとお話しするなかで「ちょっとわからないですよね?」みたいなことを言ってみたら「え?わかりやす過ぎるでしょ?」って返されてしまって、それ以上何も聞けねえ……みたいな感じにもなりました(笑)。ただ、実際に撮影を始めてみると、ひとりで脚本を読むだけではおさまりよく理解できなかったことが、ほかの人と一緒に声に出してみると「あ、それはそれしかない」みたいにだんだんと理解できていくような言葉たちだったということに気づいたんですよ。

——この映画の登場人物たちの関係性はその血縁、地縁がやや複雑に絡み合っています。劇映画としては前々作にあたる『東京のバスガール』(2008)でも義母との関係というものが異なる形で扱われていましたが、本作では病室のシーンにおいてその関係自体がいきなり話題にされます。

堀:尾上くんが最初に渡してくれた脚本から大きく変えたのは主人公を男性から女性にしたところで、逆に変えていないのは、この映画がお葬式から始まって結婚式で終わるという構成と近親姦と近親婚を巡る物語であるという部分です。ある地方都市を舞台に、ある血縁関係についての物語を扱うとなると、どうしても主人公がいて、そのお父さんやお母さん、あるいはそのおじいさんやおばあさんまで、すべてのバックグラウンドを考えることになり、すると必然的に複雑になりますよね。でもそれ自体を重要であると感じてほしかったわけではなく、西山さんにお伝えしていたのは「この人にとってはこれが普通なんだ」ということです。直美が普通の人であるということではなく、直美にとってはこういう環境が子どもの頃から普通だったんだと。
脚本を固めているときに考えていたのは、お父さんたちではなくお母さん同士の繋がりが深いような家同士の関係を描こうということでした。いわゆる家父長制度に基づく家と家の繋がりではなく。家父長制と一口に言ってもそう単純なものでなく、それぞれの家によりそれぞれの事情と歴史があるわけですから、あらゆるヴァリエーションとニュアンスが存在します。今回の話に絞れば、要するに、志水季里子さんが演じる直美の義母にしても、直美がもしかしたら自分の夫の子供かもしれない感づいていて、そのことをどことなく速水今日子さん演じる直美の実母と共有している、でもそのことでこのふたりの女の人同士が対立するわけではなく、むしろとても仲がいいというふうに描きたかった。夫ではなく、直美を介して、あたかも実の家族であるかのように、子供たちは実の姉弟妹であるかのように幼年期から、このふたりの母が子供の頃から、もしくは若い頃からそれぞれの方法でさまざまな事柄を受けとめながら、それでも事を荒立てることもなく、ずっと過ごしてきたような関係として見せたかったんです。

西山:演じる上ではもちろんそうした義理の父だとか実母といった情報は脚本、つまり文字から判断することになるので、そのイメージを通したうえで演じている相手を見ることになるんですけど、たとえば病院での最初の部屋の撮影が始まってみたら、そうした先入観はなくなって、ただたんにその場所にいる人たちというふうにしか認識していませんでしたね。でもそこに何層ものレイヤーがあるような感じはあったんですが、それも「あ、この呼吸だ」という感じにわりとみんなで共有できた。あとは卓球のラリーみたいに、ポンポンと言葉を交わし合えばよかった。
この映画では、演じていた自分を遠くに感じました。自分の感覚じゃないところに行動の選択があるような気がして、「ひろちゃんじゃなくて義雄くんだ」と直美が決断する場面も、私じゃない違う人が発見したことのような感じがしたんです。私は誰かに書いてもらった言葉を読んでいただけなのに、それだけで何かが起きている。言葉を書いている人は、もちろん何かが起きることを見てその言葉を書き起こしたわけじゃないのに、「そんなことがなんでわかったんですか?」と思いましたね。

堀:役者さんがどういうふうに捉えてくれたかはわからないけど、脚本というのは言葉です。それが何かを示すものであるよりも、言葉として独立していたらたぶん伝わるんじゃないかと思っています。演技の世界がどうなっているかは僕にはわからないけれど、その場面がどういうものであるかわざわざ説明しなくても、それぞれの言葉が言葉として成り立っているなら伝わるはずだとね。役者さんのお芝居とか関係なく、それがそれとしてちゃんとかたちになっていれば、それを受け止めてくれる役者さんがいれば、それぞれの受け止め方で何らかの形にしてくれるだろうということです。

——以前、加瀬亮さんがご自身の出演された『自由が丘で』(2014)について、ホン・サンス監督の書かれた脚本がとても信頼できたというお話をしてくれたんですね(「NOBODY ISSUE42」所収)。いわゆるリアルな言葉じゃないんだけど、言葉としてとても美しく感じたと。それと近いものがあったのではないかと思います。

西山:はい、この映画の脚本に関しては「あ、言いたい」という感じが最初からありましたね。

——決して役者さんの素を撮るということに力点があるわけではないと思うんです。アドリブみたいな要素はあったんでしょうか。

堀:アドリブはほとんどないですね、基本的には台本に書かれたものを一言一句そのままやっていただいています。きちんとしたキャスティングさえできれば、あとは僕が特に何もしなくても役者さんたちの存在感だけで、ちょっと複雑な人間関係だって表せないはずはないと思っています。僕は自分自身が映画に向いているとか、才能があると思ったことなんかないんです。どちらからというと逆で、自分の想像やイメージを役を演じて下さる方々が超えてくれるときほど気持ちいいんです。自分の手から離れていってくれるほど嬉しいです。

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