——あなたの映画がすごく好きです。というのも、あなたの映画は私たちの住んでいる世界をそのまま肯定しているように思えるからです。

マティアス・ピニェイロ(以下、MP):映画は自分の周りにある様々なものを取り入れることができますし、それを偽る必要もないんだと思います。私の映画は、ただ自分の周りにある風変わりなものを混ぜ合わせて取り入れているだけなんです。

——あなたの映画はその多くが長回しで撮影していますし、画面の外部の音を積極的に取り入れていくようなところがありますね。

MP:私の映画はすべてを見せていません。世界の一片を見せているだけです。しかし、それはとても重要です。私は世界が映画よりも大きいと感じさせる映画が好きです。もっと何かがあるというように。私の映画はすべて、世界がこうであると言うのではなく、世界への疑問を投げかけています。たとえば特定のものをクロースアップして見せることをしますが、そのフレームの外にはより大きな世界があります。そして、それは何らかの形でこのイメージの中へと入ってきます。それは音を通して、ということかもしれません。音を映像の外で、映像の一端として見せるんです。だから、たとえ私がそれしか撮っていなかったとしても、それがこの世界なのですから、常にすべてを見せる必要などないんです。それに、すべてを映像の中で見せることなど決してできないでしょう。

——そのこととあなたの映画で長回しでの撮影が多いというのは理由があるのでしょうか。たとえば『ビオラ』などを見ていますと、狭い一室のなかで女性たちが複雑に動き回り、カメラはそれを追いかけて行ったり来たりしています。

MP:それは少しずつ、独学で覚えていきました。最初はふたつのショットにしようと考えているんです。ただ、ひとつめのショットを撮っているうちに「こっちにパンしたほうがいいんじゃないか?」、あるいは「カメラがこっちに動くあいだ、彼女にこのセリフを言わせるのはどうだろう?」などと考え出してしまうんですね。そうしてふたつのショットになるはずだったものが、結果的にワンショットになってしまいます。また、私のショットが長くなってしまうのは、あとあと編集で組み立てるよりも、カメラの前で何かが起こることを愛しているからです。私が好んでいるのは、観客たちとの間に何かが起こることです。カメラはその目撃者です。もちろんただ単に見せればいいというわけではなくて、何を見せ、何を聞かせ、何が起こり、何が映し出されるのかといったことは決めなければなりません。私にとって「カット!」と言うのは、目の前で起きていることに対してとても暴力的に感じます。カメラの前にどんなものがあろうと、何も動きを遮らずにいるほうが不思議とカメラはそれについていけるものだと思います。

『みんな嘘つき』Todos mienten

——撮影の段階では、最初に俳優に演技をしてもらってから、カメラの位置を決めるのですか?

MP:通常の場合、脚本に従って行います。撮影では、正しい振り付けや、身体と空間、カメラとの関係性さえ探ることができればいいんです。また、ペースやリズムといったものをどうカメラに向き合わせるのか探らなければなりません。私は彼らがどのように動けばいいか、床にたくさんのマークを付けます。まるでワルツを踊らせるように。

——まるで振付師のようにですか?

MP:そう、まさに振付師のようにですね。撮影では正しいリズムを真剣に探らなければなりません。シーンにとって何が重要になるかのアイディアは私が持っているので、俳優がどの位置でカメラと空間に関わらなければならないのか考え始めます。どの言葉やフレーズを見せたいのか、またどこに音のみ入れるのか、そのことについて考えます。私は、カメラの前にないもの(フレーム外のもの)に対してとてもこだわるほうなので、非常に多くの指示を出すほうです。すると、その「動き」と「音」に対する指示は、まるで振り付けのようになります。

——となると、テイクは何回も重ねられるんですか?

MP:はい。ときには20回ほど。

——20回!

MP:ええ。テイクをたくさん重ねます。なぜなら、それはまるで粘土で造形するように、モデリングすることに似ているからです。何回もテイクを重ねる度に、どんどん良くなっていきます。ときには間違うことだってあります。たまに最初のテイクが一番良いという事態も起こります。しかし、ほとんどの場合はそうなりません。私は本当にテイクをたくさん重ねます。なぜなら、多くの決断を調整することができるからです。しかし、撮影が簡単な映画なんてありません。だからこそ多くの集中力が問われるんです。

『ロサリンダ』Rosalinda

——俳優たちは独自にリハーサルしているのですか?

MP:いえ。常に私と一緒ですね。しかし、彼らとはもう4年ほど一緒に過ごしているので、リハーサルをする必要もないほどお互いをよく知り尽くしています。本読みはよくします。シーンを一緒に読んで、セリフを集めて、キャラクターについて考えをめぐらせたりと、一緒に行っています。なぜなら、それが楽しいからなんですね。私は映画にかこつけて、彼らに会うのが好きなんです。彼らに会う口実として、映画を一緒に作っています。

——あなたの映画にはマリア・ビジャールをはじめ同じ俳優が出演されています。俳優たちはみんな、昔からの知り合いなんでしょうか。

MP:ええ。マリアとはもう10年ほどになるのでしょうか。それに彼らはみんな私の友人たちです。友人にある女性を紹介されて友達になると、今度はその彼女がその場に居合わせた別の誰かを紹介して……というふうにみんながつながっています。全員劇団に所属して、劇団の座長もいます。ある意味でブエノスアイレスのアート界に属しているとも言えるでしょう。彼らの中には小説家や物書きや、教師などもいますし、新しい形式的なグループのようなものです。常に一緒にいるというわけではありませんがよく会っていますね。だから、映画を作るために出会ったというわけではなくて、映画を作る前からみんな知っているんです。

——では、具体的に彼ら俳優とはどのようなやり取りをしていますか?

MP:ただ、話し合いますね。そして、なるべく彼らの話に耳を傾けるようにしています。台本を渡すとき、私は彼らに多くのインプットを与えています。台本には多すぎるくらいに「私」を注ぎ込んでいますから、彼らに応えてもらうことが必要なんです。「これはあまり良くないね」とか、「これは良いね」、「あの部分がわからなかった」等など……。彼らの話に耳を傾けるようにすることで、台本をより良いものにすることができます。彼らはとても聡明な人たちだと思いますし、非常に優れた俳優で、私にはない多くの経験があって勉強になります。それはカメラマンや編集者に対しても同じことです。映画のあるべき姿――とても厳格にとか、会話を多くとか――を私から彼らに押しつけることはしたくないんですね。まぁ、私が映画の最高責任者ですので、一番力を握っていることにはなるのですが。むしろ私は映画のアイディアや、映画の流れを円滑に進める者のひとりです。彼らのほうがいろいろなことを知っていると思いますから、できる限り彼らと対等にいようと努力します。彼らはとても素晴らしいですよ。

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