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■31日(土)
『ニッポン零年』(河辺和夫/藤田敏八)、それから諸々と
滅多に行かないマンガ喫茶へ、深夜の渋谷で友人と3人連れ立ち、行った。特にマンガが読みたいわけでもなかったが、カラオケの苦手な人間が揃っていたし、今現在マンガ喫茶にはマンガだけでなく、DVDもゲームも、はたまたインターネットもあり、ソフトドリンクも飲み放題だし、飯だって食える、よってマンガ喫茶へ入ることとなった。
寂れた喫茶店を改装したマンガ喫茶しか体験したことのない私にとっては、これが結構な驚きだった。道玄坂のビルのワンフロアは、清潔感にあふれ、ボックス席が網の眼のように並んでいて、さらにはレディース専用シートや、リクライニングシートまである。毛布だって借りられる。整然とはめ込まれた黒のボックス席は、学校の視聴覚室のようでもあるし、監獄のようでもあるし、ベッドの並んだ病室のようでもある。途中かけだった『サイコ』を読破し、水木しげるの初期短編集を読み、ぐだぐだと喋りながら、極度の疲れに襲われる。ムシャクシャしようと試みるが、なかなか難しい。
『ニッポン零年』は68年の夏から冬にかけて、つまり10・21とその後辺りまでのドキュメンタリーとなっている。といっても十分すぎるぐらい演出が見えるフィクションでもある、がそんなことはどちらでもいい。
このフィルムはほとんどがアフレコだ、すぐに分かるし、パンフにもそう書いてある。口の開き具合と言葉とがずれてるし、全然違うことだってある。もうこれはナレーションである。しかも、どの映像とどのナレーションとをくっつけようが、ほとんど違和感がないだろう。つまり全て恣意的な組み合わせに思える。ゲバ棒もってヘルメットかぶってる男、フーテンの男、彼等の映像とナレーション(セリフ)は全て取り替え可能なのだ。このあらゆる組み合わせを納得させてしまう力とは何か、それは空虚である。つまり力ではなく構造と言い換える、すると、マンが喫茶の黒いボックス席で『サイコ』を読む私の映像に『ニッポン零年』のどのナレーションが与えられてもおかしくないことが納得できる。その風景は非常に「楽しい」。『ニッポン零年』は68年以後、非常に「楽しい」。この風景はあまりにはっきりと見え過ぎる故、『ニッポン零年』はありもしない目的をあまりにはっきり見せようとしてしまう故、それを「mission
: visible」と呼ぶ。
さて、「mission : invisible」と名付けられた指命がある。『すでに老いた彼女のすべてについて語らぬために』。ここでは朗読されるテクスト(『五勺の酒』、『思い出すことなど』)そのものも挿入されない。様々な映像とナレーション(テクスト)との組み合わせは、同じように空虚、つまり構造をなぞっているのか。否、ここには自由を求める青山真治がある。相も変らず目的なんてない、しかし目的が見えないのはこのフィルムが手段としてのみならず、目的そのものとしてもあるからだ。つまりそこに目的は、ある。
だから、『すでに老いた彼女のすべてについて語らぬために』の風景は変様してゆく。ふぬけた水色の空を飛ぶグライダーや、ふぬけた海の青さや、ふぬけた緑の木々、それから功徳秋水と菅野スガ子の写真が、テクストによって変ったと、だからこそ堂々とここで言っていいと思う。そのときに「退屈さ」が作動する。「退屈さ」なんて受動的なものじゃなく、どうしたって能動的なものなのだ。
よって。『路地へ』、『すでに老いた彼女のすべてについて語らぬために』、『焼跡のイエス』の3本立てを見た人間は言う−−「ムシャクシャするんじゃ」。
(松井宏)
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■27日(火) サントリー対サラセンズ
まずラグビーはバスケットボールではない。サントリー対サラセンズのスコア42対61はやはりラグビーにはふさわしくない。トライが4点で、ディフェンス側のルールがもう少し有利だった頃、好ゲームは20点をめぐる攻防だった。トライが5点になった現在、それは30点をめぐる攻防だ。6ネイションズやトライ・ネイションズを見る限り、その原則は守られている。
ゲーム前にサントリーの土田監督は、47対48ぐらいの試合でウチが48だと嬉しい、と語っていたが、やはりまずディフェンスだろう。しのぎあって、やっとトライを獲ったり、ペナルティを決めたり、膠着状態を打破するドロップ・ゴールが決められる。それが好ゲームだ。30点をめぐる攻防というのは、3トライをあげて、相手を2トライにおさえるゲームを指す。6トライを奪いながら敗北するのはゲームではない。まだシーズン・イン前だから互いの練習マッチとしてはこのスコアが適当だという意見はやはり正しくない。最初はディフェンスから入るのが正解だ。抜き合い、トライを奪い合うのがゲームでもあるけれど、あまりに簡単に抜け、あまりに簡単にトライがとれるのなら、単に互いにアタックの練習をしているだけだろう。フットボールで言えば、6対4のゲームなど面白くないに決まっている。
サントリーの収穫としては栗原、小野澤は確実にトライがとれることが確認された程度。ジャパンの底上げを考えるなら、どうやってサラセンズを30点以内に押さえ込むのかという方法を考えるべきだ。後半大型FWが走り込んでボールをつなぐとたちまち点差が開くゲーム内容をどう変化させるのか──それこそ大西鐵之輔以来ジャパン・ラグビーが追求してきたテーマではないのか。
(梅本洋一)
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■26日(月) 『JLG/自画像』『フレディ・ビアシュへの手紙』
ジャン=リュック・ゴダール
先日アテネで『2002年映画と旅』を見直した。このフィルムは本人の言うようにミュージックビデオなわけだけど、黒沢清のはやっぱりゴダールのそれ。『JLG』と『フレディ・ビアシュ〜』を見ながら、そんな凄く単純なことに気がつく。
自伝ではなく自画像。とにかく世の中「自伝」だらけだ。至る所「西」だらけ(『新ドイツ零年』)、至る所「政治」だらけ、同じように至る所「自伝」だらけである。この相対化は別名市場化とも呼ばれ、エセ・ポップとも呼ばれる(あるいは、僕はピチカートファイヴとも呼ぶ)。ゲーム、ゲーム、ゲーム。「自伝=意識」は全ての思惑を超えて「政治」へと直結され、ゲームの枠は強まるばかりなのだ。
『JLG/自画像』の風景(=自然)をもし、「いささか美しすぎる」と言うのなら、その美しさの対象はきっとゴダールの自伝であり、あなたの自伝だ。それでも「美しい」と言いたいのなら、それは風景の残酷さに、露呈してくる自画像に、それを露呈させるゴダールの残酷な手に向けるべき。
この風景って、どうしてこんなに貧しいのに、どうしてこんなに過剰なんだろうか。こんな風景を作り出せる人は、例えば黒沢清ということになる。『大いなる幻影』なんてその典型だ。過剰さと貧しさとを行き来する武田真治は、だから時々消えてしまう。「例外の死を望む、それが規則なのだ」ということ。その例外は別名ポップと呼ばれる。
と、いうわけで、9月に店頭に並ぶ「nobody第4号」の特集は、黒沢清とピチカートファイヴです。黒沢清の他にもたくさんの例外達がウジョウジョいます。そんな彼等に『JLG/自画像』の最後の台詞を送ります−−「ひとりの人間、だれとも同じ人間、自分でしかない人間」。ではお楽しみに。
(松井宏)
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■23日(金) 横尾忠則 森羅万象展@東京都現代美術館
横尾展が始まった。ここのショップで働いているのだが忙しすぎて展示自体はちゃんと見れていない。だから展覧会評というわけにはいかないのだが、ぱらぱらとできたばかりのカタログ、山ほど出版されている横尾関連書籍を前にして思ったこと。
このカタログには横尾忠則の年譜とともに数々の有名人と撮影された写真が多数掲載されているのだが、これがさっぱり横尾忠則の軌跡がわからないのだ。おそろしくかっこいい若き横尾忠則はジョンやヨーコと肩を並べ、はたまたどこか異邦人のような顔つきで引田天功やらサンタナやらとも写真に収まっている。その一方で数々の本で特集されている唐十郎や寺山修司らとの数々の逸話。「あの時代」を語る時に必ずといっていいほど聞くやつだ。60年代ねぇ、と「前衛」といわれていたものを少しばかり考えてみるものの、やっぱりよく分からない。今ここに残っているものはそんな「神話」とは切り離された「作品」たちばかりだ。そんな時代の隙間を埋めるべく、所狭しと400点以上もの作品を壁一面に並び立てたのだろうか。
いつもより年齢層高めのお客さんたちは、そんな「神話」の残り香を味わいに来たのだろう。一方では横尾忠則の大ファンだという蜷川実花を好きなのだろう若い女の子たち、彼女らが見ているものはきっとまた違うのだろうな。そういえば今回、横尾展にあわせて「60年代復権!」という特集を組んだ雑誌は「装苑」だった。
(中根理英)
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■22日(木) 『ヒミズ』古谷実
どんな映画も小説もそしてマンガも、その中で何をやっても構わないみたいにあらゆる人が思っているとしても、“始まり”があって“終り”があるという規則からだけはどれも永遠に絶対に逃れられない。そして人の人生の物語も死という“終り”だけは避けられない。当たり前のことですが。
川沿いに深夜、「パン」って乾いた銃声(マンガだから聞こえないけど、味気ないほど乾いた音だろう)が響き、中学生の主人公が草むらにうつ伏せに倒れている、というのが、『行け!稲中卓球部』でデビューした古谷実の最新作『ヒミズ』の“終り”だ。主人公の死でもって、このマンガのエンド・マークはやって来る。今年3月まで週刊ヤングマガジンで連載され最終巻(第4巻)が先月発売された。
主人公住田には“誰にも迷惑を掛けない普通の大人になる”という彼の人生における目標があり、彼なりの“普通”の定義に従って日々をやり過ごそうとするのだが、母親に捨てられた数日後、川沿いのボロ屋に姿を現した父親を殴って殺す。その翌日から“普通であること”に挫折した彼のオマケの人生がスタートする。オマケ人生の目標は“悪い奴を殺してから自殺する”こと。
彼の周りは狂ったように騒がしく、色んな事件が起こって色んな登場人物が色んなことを言うが、その台詞がどれも自信満々で堂々としているから、こう聞こえるのだ。“普通ってのはこうだろ”と。
「社会に貢献する、少しでも困っている人の為にがんばる」
「お前のように人に迷惑をかけるバカは一秒でも早く死ね」
「なぜ自首して刑に服し罪を償おうと思わない。それから人の為に何かを始めればいい。」
「お前は今“病気”だ。」
「私の夢は心から愛する人と守り守られ楽しく過ごす事。最期はニヤニヤしながら死んでいけることです」
「正しい判断の積み重ねが“普通”という未来を手に入れる一番良い方法だと思っていた。」
誰かの“普通”と他の誰かの“普通”に歪(ヒズミ)が生じているから、このマンガには沢山の血が流れる。結局誰の言い分が正しいのかを“主人公の自殺”というこの物語の“終り”の中に見出すことは禁じなくてはいけない。この“自殺”自体に過剰な意味はないからそれを探そうとしても無駄だし、意味の空虚を埋めるために誰かが言葉を費やす必要は無い。ただそれが避けられないことだったから死んだということだけ。「パン」って乾いた銃声(だからマンガだから聞こえないけど、不気味なくらい乾いた音なのだ)を聞いた後で改めて気付くのだ。あらゆる全ての台詞が、“普通”と、“真実”について、私達に語っていたってこと。別に誰の言い分も間違ってはいなかったんだろうな、ってことに。もし登場人物たちの矛盾する言い分にもあなたが諾と頷けるならば、それは“普通”をはかるものさしみたいなもの(“常識”と呼ばれるもの?)自体が、あなたの中にも外部にも、どこにも存在しないということなのだ。
(澤田陽子)
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■21日(水) 『ゴースト・オブ・マーズ』ジョン・カーペンター
『ゴースト・オブ・マーズ』がこれまでのカーペンター作品に輪をかけてパンクなものに思えるとしたら、それは見境なくやりたい放題だからなのではなく、逆に、境界、境目のようなものに強くこだわって撮っているからではないだろうか。視線の所在や時間の進行(後退)が執拗に分断され、そしてそれらが互いに作用しあっているように思える。簡単に言えば、「俺の見たもの(見方)とお前の見たものは同じじゃないんだぜ」ってことか。そして、それはゴーストにおいてもまた然り。
時間の進行と言えば、時刻表マニアなんかが存在するように、列車は正に時間軸に沿ってある乗り物だと言えるだろう。この映画での列車は、時間に正確にとはもちろん言い難いが、時間を伸び縮みさせる装置として働いている。それは、この列車が時速という概念とともにあるのではなく、時間と速度が剥離していて、互いが自在に、しかも巧みに交錯させられているからではないだろうか。『バック・トゥ・ザ・フュチャー』シリーズの最後で列車がタイムマシンになったときは「なるほどな」と思ったものだが、実はそれなんかより『ゴースト・オブ・マーズ』の列車のほうがタイムマシン(意味は違ってくるけれど…)ってことになるように思えてしまう。
で、結局なんでパンクなのかって?まあ単純にコスチュームがパンクだからかもしれんが、この映画自体がパンクのコスチュームのようにできているってことになるんじゃないのか。ボタンなんて要らねえ(かけ違えると却ってダサイから)、びりびり破けてても自在に繋げられる、安全ピンがあれば!っていう…。ただし、これにはかなりのセンスが必要となってくるわけで、そうするとやっぱりカーペンターのおっさんはかなりセンスがいいってことなんでしょう!
(黒岩幹子)
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■20日(火) プレミアリーグ開幕
プレミアリーグが開幕した。もちろん注目は、マンU、アーセナル、リヴァプールの3強。そのうちアーセナル対バーミンガム・シティはライヴで、マンU対ウェストブロムウィッチはディレイで観戦。どちらも1部リーグからの昇格組とのゲームで、調子を見るのには絶好のゲーム。だが、マンUはもたもたしてやっと勝利を収め、選手交代枠を目一杯使い、交代で入ったスールシャールが78分にやっと決勝点を上げた。それに対してアーセナルは絶好調。ほぼ9割方ボールを支配し、めまぐるしくパス交換が行われ、アンリ、ヴィルトールが立て続けにゴール。圧勝と思われたが、ベルカンプが膝の怪我で退き、注目のジウベルト・シウバが入るとボールは回るが、シュートまで至らないケースが続出。ベルカンプの偉大さを改めて思い知らされた。だが、リュングベリ、ピレスが復帰してくれば、ベルカンプ不在でも前線での多様なパス交換が可能になるだろう。やはりアーセナルはカッコ良い!
稲本潤一がフラム対ボルトン戦で、後半24分から出場した。このゲームはフラムの圧勝で、稲本の全貌が見られたわけではない。ボランチよりは前でプレイするのは稲本向きかもしれない。
(梅本洋一)
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■20日(火) 『Osmosis
Jones』ファレリー兄弟
ファレリー兄弟の日本未公開作をDVDで見る。半分実写で半分アニメ。実写部分は不潔な駄目なシングルファーザー、フランクとその愛娘の日常生活。アニメ部分はフランクの体内で繰り広げられる、彼の不潔さが招いた致死的なウィルスvs白血球オズモシス&風邪薬ドリックスの攻防。悪趣味な描写がいくつかあるものの、動物虐待ネタなどの毒のあるシーンもなく、ファレリー兄弟の作品の中でも一番純粋に楽しめるのではないだろうか。しかもこの作品では兄弟のしようとしていることがとても分かりやすい形で出ているようにも思える。
面白いのは、フランクというイメージ、その外側と内側の関係性だ。外側つまり実写部分ではほとんどストーリーらしいストーリーもなく、愛娘を休暇に何処に連れて行くかといったようなたわいもないことが展開している。一方、内側つまりアニメ部分の体内は複雑な社会を構成しており、オズモシスは社会的な嘲りや束縛を跳ね返しながらウィルスに立ち向かって行くという立派な物語が存在する。そしてオズモシスの活躍いかんの結果が、外側のイメージとしてのフランクにおいて、病状として現れるのである。つまり、外側=イメージをつくり出すのは常に内側=物語なのである。
例えば『メリーに首ったけ』のポスターに使われていたキャメロン・ディアスのあのヘア・スタイルを思い出してもらえば良いと思うのだが、あの突飛なヘア・スタイルがいかに出来上がったのかというプロセスを見せること、言い換えるなら、あるイメージが出来上がるまでの物語を語ることこそファレリー兄弟の興味なのだろう。そして物語を丁寧に語れば語るほど、突飛なイメージすら受け入れることができ、その突飛なイメージが突飛であるほど、言うなればクリシェに対するオルタナティブとして機能するのである。そうしたオルタナティブなイメージを作り上げること=クリシェなイメージの解体に兄弟が熱心なのは、毎度登場する障害者ネタのギャグなどを見ても、明らかだ。
つまり兄弟は作品のショッキングな見かけによらず、恐ろしく地味な作業をしているのだ。それは「何事も外見=イメージで判断してはいけませんよ」という新作『愛しのローズマリー』のめちゃくちゃ地味なメッセージにも通じるもので、そのことを証明するために、ひとつひとつのイメージがどのようにできあがったのかという物語をじっくり検証しているのである。この作業自体が恐ろしく地味で果てしないわけだが、兄弟のそうした態度には、冗談ではなく、「アメリカのメディアにおけるアラブ」のイメージをひとつひとつを地味に検証してゆくエドワード・サイードの態度に似たものすら感じてしまうのである。
(新垣一平)
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■20日(火) 『デュエル』ジャック・リヴェット
前日に見た『快楽』(マックス・オフュルス)の垂直方向へと厳密に構築されたダンスホール。縦横無尽に人物が駆け巡り、駆け昇り、駆け降りる。そこでは迅速に回転する両足が必要とされるのだ。
冒頭の玉乗り、それからバク転。『デュエル』に必要なのはスプリント用の筋肉ではない、全身にまんべんなくついた筋肉とそれを絶えず統御しておく訓練である。緊張と弛緩がたえず繰り返されている状態をキープし続けなければ、118分続く鬼ごっこから脱落してしまう。相手が前に出れば引き、下がればこちらが押す。気付かぬ間にオニは交代していて、クルクルと回る。追い詰めたと思っても決して駆け出したりしてはいけない。
『デュエル』のダンスホールは駆け回る程に広くはない。『快楽』のように垂直方向に移動する舞台装置もない。ただ、鏡張りの柱が遠近感を狂わす。私達が見ているのは太陽の女=ビュル・オジエなのか。はたまたその光の反映で光っている月の女=ジュリエット・ベルトなのか。誰も座っていなかったはずのピアノが画面から外れて再びフレームインすると、当然のように演奏準備をして待ち受け、おもむろに弾きはじめるあのピアニストはいったい何者か。ジャン・バビレのように瞳を潰されたくなければ、この映画は見てはならない。
まさか目を使って見てはいけない映画だったとは。やはり冒頭の教訓に従い筋肉を使って見ることにしよう。しかも見習うべきはバク転ではなく、玉乗りの方である。完全に自分のみで一瞬だけ空中に留まるよりは、誰かに手を引いてもらってでも不安定な球体に支えられてでもより長く滞空している方がいい。そこに快楽があるかどうかはわからないが、これは避けられぬ決闘なのである。
(結城秀勇)
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■20日(火) 『骨』ペドロ・コスタ
リスボンのフォンタイーニャス地区は、びっしりと立ち並んだ石壁の建物の間を細い道が入り組んで走る、いわゆるスラム街である。であるから、子供の嬌声や家族たちの話声などの生活の音は、ガス自殺しようとして、部屋の窓やドアあらゆる出入り口を塞ぐような真似でもしない限り、遮断することはできない。私がポルトガル語を解さないからかどうか、室内に常に侵入してくるこの街の声は不思議と楽しそうに聞こえる。しかし、そんな楽しそうな人々は一切画面に現れない。子供は楽しそうに遊んでいるのではなく、父親の情事の妨げになるような来訪者を通さぬ様、命じられた門番の役割を忠実さを持ってというより投げ遺りな態度で遂行するのみだ。彼には無駄口を叩くことは許されない。あの楽しそうなはしゃぎ声は何処から来るのだろう?
無駄口が禁じられているのは子供だけではない。大人たちもまた言葉に出来ない事実の前で沈黙している。周囲のざわめきの中、沈黙によってひとりひとりが切り離され孤立している。ざわめきを形成しているのは集団であるはずなのに、その集団を形作るためにどうしても必要な無駄な言葉が何処にもない。登場人物の孤独と沈黙を切り取る楽し気なざわめきは、あるはずのない声なのである。街の声はクロティルデやティナたちの世界に由来するのではない、映画によってあらかじめ排除された者達、亡霊たちの声なのだ。それらの声は、ティナの部屋の全ての音をかき消す音楽や耕耘機かと聞き違うようなバスのエンジン音と同じ機械仕掛け、ひとつの装置である。孤独をつくる装置、ただしそれが機能することで本当の孤独からは逃れられる装置。
バスのエンジン音がうなりをあげる度に手と手は重ね合わされる。ざわめきの中見つめ合うふたりが、交わす言葉を見つけられずにどちらからともなく笑い出してしまう。無駄話のない世界では、周囲のあるはずのない声を遮断してガスのもれるシューという音とふたりきりになってしまうのを避けることで、かろうじて人は生きている。
(結城秀勇)
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■19日(月) レイモンド・ペティボン展 @東京オペラシティアートギャラリー
すごく素朴なことを言うと、僕は、フジロックでソニックユースの生演奏を初めて聴いて、ビックリした。決して熱心な聴き手ではない、でも、いい歳したおじさん達がギターと一生懸命遊んでるのを見て、それだけで十分だと思った。あんまり楽しそうじゃなかったし。しかもキム・ゴードンはホントに踊りが下手だし。
ということで、レイモンド・ペティボンの仕事で一番有名なのといえば、ソニックユースのアルバム『GOO』のジャケ。57年生まれの彼は、マイク・ケリ−なんかとよく一緒に扱われる、いわゆる「L.A」のアーティスト。彼の周辺のL.A.のアーティスト連中や、N.Yの連中やらの関係だとか地図だとかは、今月のスタボや流行通信なんかで、ふんふんへぇ〜と何となく掴むことができる。
さてペティボン、この人の作品は主にドローイングである。マンガのキャラクターや、砂漠を走る鉄道(西部開拓時!)や、野球選手、などといった大衆文化と宗教や文学のモチーフなどがグルグルと並べられている。例えば、もうちょっと「美術寄り」のジェフ・クーンズといった「ネオ・ポップ」、つまりウォ−ホールを発展させたような人達と、ペティボンは一線を画してるように思える。
いってしまえば、怪物チャールズ・マンソンなのだ、彼のオブセッションは。ついでに、天気予報士ウェザーマン(そのまま『ウェザーマン』というビデオ作品がペティボンにはある。確かソニックユースなんかが出てて、ひたすらノイジーな音が全編から聞こえてくる・・・)。アメリカのニューレフトが生んだ怪物ウェザーマン。トム・ヘイドンは「ウェザーマンはニューレフトのイドだ」と言ったそうな。
こうなってくると、下向いて憑かれたようにギター弾いてるおじさんたちと、キム・ゴードンの踊りの下手さってのが、僕にも納得できる。そして、パティ・スミスが「People
Have the Power」をラストに歌うかわりに、サーストン・ムーアは「トリップに連れてってやるよ」とボソッて言わざるをえないわけだ。しょうがない、バッド・トリップはもう始まってる。東京の「天気」はまだ分からない、これからだ。
(松井宏)
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■18日(日) 「パティ・スミスライヴin苗場」
過去の思い出となりかけてますが、書きます。フジロック2日目。グリーンステージに響き渡るペット・ショップ・ボーイズ、“ニューヨック・シティ・ボーイッ”のコーラスに後ろ髪を引かれながらレッド・マーキーに移動。場内混み混み、老若男女入り混じってステージをじっと見つめる。10分ほど待って、細身のジーンズとTシャツ、ジャケットを羽織ったパティ・スミスが登場すると、いきなりフロアは大盛り上がり。パティがトランペットを一吹き、お約束過ぎー、な上に、観客喜び過ぎー。
実際、僕は去年のフジロックでのステージは見ていないけど、パフォーマンスとしてはほとんど変わらなかったのだろうと思う。ヒット曲ガンガンやって、ジャケット脱いで、ブーツ脱いで、目隠ししてギターをかき鳴らす。80年代、90年代なんて時代はなかったんじゃいかと思わせる不変っぷり。この後で聴いたソニック・ユースと比べたら、音響という点では原始的とすら言ってしまいたくなる。
それでもパティ・スミスは完璧だった。痩せぎすな身体も、手を腰のあたりで小さく振るダンスも、低い位置に構えたギターも、あまり声量のない歌声も、すべてが完璧、かっこよすぎた。それはロックンロール職人の安定した仕事ではなくて、ロックンロールを生きてきた人が体現するパフォーマンスだった。
現代性?そんなものロックンロールに必要なのか?パティが顔を横に向けて、優雅に唾を吐き棄てる。その立ち振る舞いにロックンロールの亡霊は宿っていた。
(志賀謙太)
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■14日(水) 『さすらいのカウボーイ』ピーター・フォンダ
「おまえの女房ってのは、どんな女なんだ?」「中肉中背で、瞳の色はブラウン」
7年ぶりに再会したハリー(ピーター・フォンダ)の妻の瞳は、彼と同じようにブルーだった。妻のその他の身体的特徴について、ハリーは極めて正確に記憶している。何故、よりによって彼は瞳の色だけを覚え損ねていたのか。
最もロマンティックな解釈は、フォンダ自身が10歳の時に自殺している母親のプロジェクションとして、この10歳(!)年上の妻が登場していると見なすことだろう。これはあながち間違っているようにも思われないが、それにしても釈然としないものは残る。
瞳それ自体は極めて具体的なものだが、映画の中にあってそれは、抽象的な事柄(=視線)を発生させる唯一の装置である。ところが、瞳を写しただけでは視線は生起しない。「見るもの」と「見られるもの」とのしかるべき対応関係があって初めて視線は成立する。確か『イージー・ライダー』の時もそうだったと思うのだが、ピーター・フォンダという人はそうした視線の力によってショットを継起させることに、まるで信を置いていないようだ。冒頭に、流しっ放しにしていた釣り糸に少女の水死体が引っかかるという、いささか恐ろしげなエピソードがあるのだが、このシーンにおいて最も不気味なのはその編集にある。事態に気付いた3人の男が流される少女を見つめている横顔が続けざまに映し出され、それだけでも十分映画的文法に逆らっているのだが、挙句彼らが見つめている少女の死体が画面に現れるのはその数カット後、しかも幾つもの映像と重ねられ、半透明と化した姿でである。こうした「視線の不成立」は、「7年の別離」「為されなかった旅」「切断された小指」といった「空位の主題」へと変奏されながら、夫の遺体を抱えて帰ってきたウォーレン・オーツと視線を交えるよりも一瞬早く背中を向ける妻の姿を捉えたラストまで持続されるのだ。
シネセゾン渋谷にて8/3よりレイトショー公開中>>http://www.crest-inter.co.jp/line_up/sasurai/index.html
(中川正幸)
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■13日(火)
アーセナル対リヴァプール
02-03シーズンのプレミアリーグ前哨戦のコミュニティ・シールドは、前年度のリーグ優勝チームとFAカップの覇者との対決だが、アーセナルが2冠を達成していたので、今年はリーグ2位のリヴァプールとの対戦になった。
点差こそ1−0だったが、リヴァプールのキーパー、ドゥデクが当たりに当たっていたから、ゲームはアーセナルの一方的なものになった。リヴァプールもW杯で活躍したセネガルのディウフのデビュー戦になり、オーウェン、ヘスキー、ディウフの3トップ気味の布陣だったが、まだまだチームになっていない。W杯に参加できなかったジェラードの動きとパスは目立ったが、全体的なフォーメーションはできていない。
それに対してアーセナルは、圧倒的な印象を残した。4−4−2のシステムは昨年通りで、このゲームには左サイドにヴィルトール、2トップにベルカンプとアンリ。ポケットビリヤードのようにパス交換が行われ、あるときはローレン、コールの両サイド、ある時は、ヴィーラとベルカンプの間をボールが動き、必ずフィニッシュまで持っていく。
圧巻は、後半エドゥーに代わってジウベルト・シウバが入ってから、パス交換の空間性のスケールがぐっと増した瞬間だ。ヴィーラあるいはシウバで常にサイド交換が行われ、ヴィルトール、パーラーの両サイドハーフあるいはローレン、コールの両サイドバックが常に攻撃に絡む。センターバック2人を残して、8人の間を面白いようにパスが回る。シウバからのスルーパスをベルカンプがマイナス方向に流し、そこに再びシウバが走り込んで左足のインステップから見事なシュートが決まった。とりあえずW杯の間、これほど見事なパス交換とシュートは見たことがなかった。フットボールは楽しい! ドゥルーズの多様的な単一体という概念が思い出されるくらいにリゾーム的なフットボールが展開されていた。
(梅本洋一)
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■3日(土)
「フロイトの長椅子に横たわるエイゼンシュテイン」DOWSER
@アテネフランセ文化センター
「本日はエイゼンシュテイン監督の『戦艦ポチョムキン』を上映し、これにDOWSERが音をつけてくれるという趣向でして、、、」
映写室に向かってゆっくりと手が振られ、オープニング・クレジットが流れ出す。演奏が始まるまでの無音の時間、DOWSERのふたりはじっと画面を見つめている。画面から片時も目を離さないこと、それは最後まで変わることがなかった。彼らの頭の中で如何なる分析が行われているのかは私には思いもよらぬことだったけれど、その分析の結果として聞こえてくる音が『戦艦ポチョムキン』をズタズタに切り裂いていく様は、圧倒的な残酷さで私を打ちのめしていった。強固に連結されたショットとショット、そこに映されたヒトやモノの間に亀裂を穿ち、その間隙を縦横に駆け抜けていく無数の音。個々の映像は分析され、寸断され、明滅していく。私を(そしてもちろんメンバーのふたりも)含め、その場にいる誰もが一度ならず見ているはずの「古典」である映画が、まさに誰も見たことのない表情で目の前に展開される。
上映が終わったあとの数秒間も、勝利を告げ知らせる凱歌のように、強烈なノイズは鳴り止まない。演奏を終えて疲労しきったメンバーが、それでも客席に向かって軽く会釈してくれるまで、私は最早立ち上がれなくなっている自分に気付かなかった。
(中川正幸)
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