December2002
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■30日(月)『グレースと公爵』エリック・ロメール
□30日(月)『ゴスフォード・パーク』ロバート・アルトマン
■26日(木)2002年末のスポーツ
□23日(月)『交響』(「新潮」1月号)青山真治
■21日(土)『ブラッド・ワーク』クリント・イーストウッド
□21日(土)『過去のない男』アキ・カウリスマキ
■21日(土)『ゴスフォード・パーク』ロバート・アルトマン
□18日(水)アーセナルが危ない
■15日(日)『ザ・リング』ゴア・ヴァービンスキー
□13日(金)『8人の女たち』フランソワ・オゾン
■13日(金)『ガーゴイル』クレール・ドゥニ
□13日(金)smart−伝説カルチャーBOOK
■6日(金)新建築12月号『同潤会アパート建て替え計画』安藤忠雄
□6日(金)『8人の女たち』フランソワ・オゾン
■3日(火)ラグビー早明戦
□2日(月)『とどまるか、なくなるか』瀬田なつき
■2日(月)『チェンジング・レーン』ロジャー・ミッチェル


 

 
 

 

■30日(月)
『グレースと公爵』エリック・ロメール

 正しくフランス語を喋ること、これがグレースにとって最も重要なことだ。英語を母国語とする彼女は、あくまでゆっくりとフランス語を喋る。言い間違いの無いように。いつも言い間違いだらけのロメールの登場人物たちとは異なり、彼女にとってそれは死を、あるいはギロチンを意味するかのように恐れられる。周囲に飛び交うフランス語に正確に反応すること。しかし奇妙にもその意志こそが彼女の可能性を解き放つ。グレースはかろうじて民衆に−なる。
 しかし、彼女自身気付いてこそいないが、グレースは異和そのものとして<そこ>にある。フランス語発音される「グラス」(Grace)はコードネームだ。それは何かしら秘密(決して<何かの秘密>ではない)のように機能し、「グラス、グラス」と発音される毎に秘密は深まり、Graceは異質さの度合いを増してゆく。
 やがて公開裁判で彼女は英語を再獲得する。疑わしき手紙を朗読させられるのだ。秘密から発せられた英語はもはや英語ですらなく、誰の理解をも超えたものとなる。陪審員たちは英語を理解できないのではなく、彼女の発した言語を、そして彼女そのものを理解できなかったと言うべきだろう。
 「民衆」とは生まれたときから「民衆」なのではない。「民衆になる」−そこにしか「民衆」というものは存在しない。フランス語と英語の両方を捩じ曲げるGraceのように、それはどこまでいっても「秘密」なのだ。
 壮大なCG背景−それはナレーション以上でも以下でもない−のみが、「民衆になる」=Graceの場所である。貴族たちにも民衆たちにも理解不可能なCG=Graceは、私たちにとってもまた理解不可能である。ロメールはただそれを操作し、『グレースと公爵』として私たちの眼の前にゴロリと提出するだけだ。これこそは、しかしながら、ロメールが今までもずっと行ってきたことである。

(松井宏)
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■30日(月)
『ゴスフォード・パーク』ロバート・アルトマン

 田舎の屋敷に集まる人々。「上階」と「下階」で、それぞれに準備が行われる。
 ハンティング、パーティ、というイヴェントのために集まってくる人々。構造がよくわからない、たくさんの部屋がある屋敷。視界を遮る。「眼」が使えない、暗闇。
 イヴェントはあるが、集まる人々はそれが目的というわけではない。全員で何かを競うわけでもない。それぞれ別個に目的がある。屋敷の主人が、その中心となるのか。
 夜。ハリウッドからきた俳優が、ピアノを弾きながら歌っている。明るい、暖かそうな部屋の中で歌っている。それを皆が聞いている。漏れてくる音を、耳を澄まして聞いている。仕事をする手を止めて聞いている。視界を遮る屋敷の中で、その暗闇の中では、すべての者が何かを同時に目撃することはできない。彼の歌声は、その暗闇の中で、最も大きな、かがり火のように、光を燃やしていた。多くの者はそれに見惚れている。しかし、そのとき「何か」をしようとする者は、その「光」には目もくれず、闇の中を行く。
 「祭り」のようだ。「夏祭り」だ。「祭り」は「夜」に行われる。ところどころに「光」があり、そこには人間がいる。「夜」の中に「光」が浮いている。自分がいる「光」が届く小さな範囲の向こうは、闇に埋もれて見えない。誰がどこにいるかもわからない。他人から見えない暗がりの中で、殺人が行われ、秘密の話をし、セックスをしている。
 気が付くといつの間にかそこにいて、常に監視している「真犯人の」メイド頭は、常に闇の中を行っていた。「完璧なメイドに人生はない」と彼女は言う。俳優の弾き語りに耳を澄ますこともなく、かつて屋敷の主人の子供を生んだ彼女は、「下階」の、完璧な「影の者」であった。いかに最強であり、「本名」で呼ばれたとしても、人生はない。彼女はあの屋敷の「夜」・「影」、そのものである。屋敷を満たす「かたち」、そのものである。
 見送りのいない主人の遺体は、霊柩車というより、ゴミ収集車に運んでいかれるかのようだ。「祭り」の会場から撤去される。図書室にあった「証拠品」は、ただの残骸だ。
事件が解決したからでなく、「夜」が明けたので「祭り」が終わり、みな帰ってゆく。

(清水一誠)
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■26日(木)
2002年末のスポーツ

 スポーツ・ファンにとって年末はやたらと忙しい。フットボール、ラグビーだけでも1日に何試合あるのだろう? まあよい。全部見るから。
 まずアーセナルについての続報。決して自慢ではないが──単に自慢さ!──ベンゲルは私が書いたのとほとんど同じシステムを採用し、ミドルスブラ(ボロ)に2−0の快勝! そのシステムは4−2−3−1。3の中央(トップ下)にピレス。両サイドにヴィルトールとリュングベリ。ワントップにアンリ。2ボランチには、シウバとファン・ブロンクホルスト。面白いようにパスが回った。点差こそ2点だが、相手キーパーの当たりがなければ5−0ぐらいの力の差。これでこのチームは立ち直ったように見える。
 続いてラグビー。まず大学選手権1回戦と2回戦。対流通経済大、対東海大と早稲田のアルティメイト・クラッシュが続く。だが力がちがいすぎてプレイが軽くなっている。特に安藤のノックオンが多すぎる。関東学院は1回戦で自慢の両プロップが故障。2回戦の対中央戦でも前半終了間際までイーヴン。フォワードにスピードがない。慶應対帝京は、攻め手のない慶應が敗北。フォワード、バックス共に精彩を欠く。続いて社会人大会。来年からのスーパーリーグに向けて、どのチームも真剣勝負が続く。常勝サントリーを除いて良いラグビーを展開するのはリコー。23日もワールドにしぶとく勝った。SHの月田が見たかったが、出てきたのは後半も30分を回ってから。2度ボールにさわり、1度タックルにいっただけで、ノーサイド。ワールド、トヨタ、神戸製鋼……関西のチームは伸びシロがない。どのチームも良いメンバーを揃えていながら、面白いラグビーをしない。特に神戸は、レフリーがもっとシヴィアに見ればオフサイドやオブストラクションばかり。ミラーのゲームメイクはクレヴァーだが、スピードあるアタックがまったくない。特にバック・スリーの力不足とFWの老朽化が目立つ。「ロースコアに持ち込めばうちのゲーム」とヘッドコーチの萩本が言っていたが、本気だろうか? 早稲田のスローガン──アルティメイト・クラッシュ──と対極をなすようなコーチの談話。どちらのチームもアルティメイト・クラッシュをめざしつつ、僅差でノーサイドというのが好ゲームだろう。ミラーのクレヴァネスは認めるが、クリエイティヴィティは認めない。そして、どのゲームでも行われることだが、敵陣22メートル付近で得られたペナルティを常にタッチキックを蹴るのはどうしてだろう? 絶対にPGの決まる位置なら躊躇なく狙うべきだ。イングランドのウィルキンソンだから狙うのではない。「ロースコア」のゲームなら、PGこそ勝負を分けるはずだ。このゲームでも少なくとも前半に2回、ミラーがPGを狙えたはずだが、どちらもタッチキックを蹴り、東芝のディフェンスに阻まれた。神戸は勝っていたかもしれない。これといってトライを取るパターンがないなら勝負はPGだ。ディフェンスの強い相手ならなおさらだ。東芝は2本のPGを決め、トライ数で下回りながらも、勝負に勝った。つまりゲームにも勝った。
 最後にウィンター・スポーツ。ジャンプの日本チームのヘッドコーチにレイクプラシッド銀メダルの八木が就任した。だが、まだ船木、葛西など「昔の名前」ばかり。原田までW杯を転戦している。山田大貴はどうしているのか? オーストリー、フィンランド(カウリスマキの『過去のない男』なかなか良かったです!)、ドイツに比べると飛距離で15メートルはちがう。解説での語彙の豊富さには感心するが、八木の手腕こそ今シーズン問われているものだ。団体戦に出場できる4人のうち、少なくともふたりは船木、葛西、宮平、原田以外の選手が3月頃に選ばれていれば、彼の手腕を認めよう。
 さて年末から新年にかけての興味は、あと1試合あるアーセナル、そして、1月2日のラグビー大学選手権の2ゲーム(早稲田対法政、関東学院対帝京)──早稲田はアルティメイト・クラッシュを続けられるか? 関東は帝京に30点差以上つけられるか? 決勝の趨勢はそれで決まる。そして年末年始のヨーロッパジャンプ週間。これってジャンプ界のカンヌみたい。4つのジャンプ台を転戦し、総合優勝を決めるゲームだが、来ている観衆の数がちがう。人で埋まった黒い空間に真っ白なジャンプ台とランディング・バーンが浮かび上がる。

(梅本洋一)
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■23日(月)
『交響』(「新潮」1月号)青山真治

 しかし夫婦とは一体いかなるものか?もちろん妻−夫の関係が第一義ではあるが、だが「夫」とは妻帯者を指す以前に「労働に携わる男」を指すのではなかったか。農夫、水夫、人夫・・・。あるいは「ある成年に達した男子」か。だとすれば「婦」もまた「ある成年に達した女子」となるだろう。
 共にいる者同士がたまたま「成年に達した男子と女子」であれば、それを夫婦と呼ぼう。妻−夫あるいは母−父である以前に、「ある成年男子」と「ある成年女子」がそこにいる。
 そんな夫−婦の間にあるもの、それは恋愛感情だろうか。だが『交響』における夫−婦の間には「恋人同士の間では生まれることのない種類の<秘密>が芽生え始めていた」。
 突然だが、日記とはそれ自体「秘密」である。「世界」と「私」とのズレが日記を書かせるとしよう。しかしたかが日記ごときでそのズレが埋まるはずない。そのズレ=深淵=nothingを埋めようとする(=somethingにする)のが、病気がちな私小説だとしよう。そんなものひとつかふたつで十分であって、問題はズレ=深淵=nothingをそのまま示すことだ。だから『交響』はそこらの日記でも私小説でもない。
 somethingをsomethingとして保存提出するのでもなく、nothingを大いなるsomethingで埋めるのでもなく、nothingとなったsomethingをnothingの強度として扱うことが、問題である(つまり表象の問題)。
 例えば、ポルノ映像とはsomethingをsomethingとして追求する余りnothingに陥る映像だといえる。しかしこのときnothingとはそれを見る我々自身でもある。だから、画面上でセックスするのがJだと分かったとき、Jは「青山」の分身となり、「青山」はJの分身となる。nothingとsomethingとは確率の問題、作品と非作品とは確率の問題・・・。しかし。なんくるなる、それを受け入れよ。
 そう、例えばJの主演するAVを見た翌朝、「青山」は何種類も並ぶパンを前に崩壊を見る−「すでに昨日までに全種類食べたので、今朝はベストチョイスができるはずだった。しかしそんな気分ではなかった」。選択肢(消極的自由)が増えたにも関わらず、このとき彼は動機付け(積極的自由)を失っている。「あまりにも完全な消極的自由は、自由の反対物に変じてしまう」(大澤真幸)。積極的自由の空洞化をどうするのか。過剰な情報技術で埋めるのか、携帯電話の留守電の声で埋めるのか、あるいは「沖縄」(この<小説>の舞台だ)で埋めるのか。否。作家青山真治は「沖縄」を描写しない、「青山」は沖縄で何も視えない。そこで彼に視えるのはJというnothingと「青山」というnothingである。
 では「秘密」とは、いったい・・・。なんくるなる、とても単純なことだ。「そんな気分ではなかった」としても、パンを鷲掴みにしてプレートに載っけるのだ。それを食し、コーヒーを飲み、タバコを喫うのだ。この「鷲掴み」こそ、婚約者の手が導くものだ。携帯電話は手の中で鳴り震える、彼女は何も言わずに「青山」の手を掴む、その手(たち)はパンを鷲掴みにする(「掴」、なんてアナーキーな漢字なの!)。
 その動機付け(積極的選択)が何なのか、追求したところで結局すがるのは「私」の神話とかなんとかかんとか、である。では神話で埋めることなく、その深淵に耐えるのか。なんくるなる、その「深淵=秘密」を「深淵=秘密」のまま共有すればよい。なぜ自分がその相手を選択したのか分からないまま、しかし互いに互いの手を掴み、パンを掴んでいたことを<遅れて>知る、それでよしと肯定すること。
 そう例えば。「あれ結構気に入ってるやつ・・・、でも偶然・・・、オナニーした?」。AVでJとセックスしていたJの元恋人は言う。Jが出てるのにできるわけないじゃん、手は「私」のチンコを握るためではなく、J(JAPAN?)という、婚約者という、パンという「秘密」を盲目にまさぐるためにある。この手こそが『交響』に鳴り響く秘密、nothingをさりげなく「なんくるぐらし」に導く。 
 つまりだ。小説『交響』は、「秘密」を「秘密」として徐々に抽出してゆく。抽出してゆくというより、響かせてゆくと言おうか。その「響」(おと)を手にしながら我々が見るのが映画『月の砂漠』である(映画とはただ「秘密=深淵」だけでできている!)。そして、だからこそ、青山真治は小説も映画も必要とするのではないか、夫−婦のように。
 オリヴィエ・アサイヤスの新作『demonlover』に響くソニック・ユースの音のように(もちろん未見)、「それら音楽的な平面たち(音楽的なショットたち)はフィルムと同じ言語をしゃべり、それらは、その他諸々のマチエールと相互作用するウィルスのようなものだ」(ティエリー・ジュス)。Nothing=秘密でしかできていない『月の砂漠』のスピードに付いてゆくため、そのウィルスに肌を穴だらけにされるのをよしとするため、我々はせめて準備しておく必要がある。「ある男」と「ある女」になること、来年こそは『月の砂漠』公開ということで。

(松井宏)
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■21日(土)
『ブラッド・ワーク』クリント・イーストウッド

「うまくいってるときは、全てがつながって見えた。あの頃の感じが戻ってきたんだ。」「渋いね。」

 無関係に見える事象の間に直感的につながりを捏造し、それを立証する事実を求めて移動を繰り返す。イーストウッド演じる元FBIプロファイラーの捜査は、そんな演繹的作業の反復だ。無論その過程の中では数々のつなぎ間違い、つなぎ損ないが生じ、それらによって物語は継起する。「全てがつながって見える」とは、そんな誤解も含めた彼の直感が、彼自身を置き去りにしてはるか前方を疾走している状態のことだ。
 ところでこの映画には、その端緒から正確かつ極めて具体的につながれているものがある。開胸手術の痕が真一文字に走るイーストウッドの身体のことだ。「縫い合わせるひと」であると同時に「縫い合わされたひと」でもあるイーストウッドは、そのことによって、これまでの彼のキャリアからさらに幾らか隔たった位置にその身を置いている。
 というのも、彼のフィルモグラフィを貫く「消え去る」行為が、ここでは禁じられているのだ。何故なら、この映画において彼の身体は、既にある消失を内包してしまっているから。無論その消失とは摘出された彼の心臓であり、のち移植された女性の心臓である。いずれも当然画面上に供されることはなく、しかしその巨大な傷痕によってその不在を意識させずには置かない。不在が表面に対して不断に影響するような、というよりも、不在によってしか表面が形成されないような身体。イーストウッドの肉体はそんな虚ろな厚みを獲得し、「老い」も「消失」も「苦痛」も、「わが心臓の痛み」として身のうちに引き入れ、ただその痕跡のみを私たちに見せ付けている。

(中川正幸)
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■21日(土)
『過去のない男』アキ・カウリスマキ

 過去のない男、といっても男はまったく過去を持たないわけではない。名前、住所、ID番号(のようなもの)、それらの現在における自己証明として機能する限りでの過去がない。それらのものはいつだっていくらでも手に入るのだからくよくよすることはない、ということか。とりあえず1からやり直せば何でもできるから前向きに頑張りなさい、という程度のメッセージならこの映画を観るまでもなく本屋のビジネス書コーナーで2、3冊立ち読みすれば済むことである。
 むしろ、重要なのは過去である。それも男がなくした過去、つまりかつての妻とは離婚手続きの途中だったこととか、彼は昔ギャンブル狂だったこととかではなくて、男が「なくさなかった」過去の方である。どこかはわからないが暗闇の中を走る列車。どこかの工場の出口。物語の上ではより現在に近い事柄であるはずのそれらの過去が、原初のそして唯一の過去なのである。名前も身分も持たない男は自らを影に例える。その時点で彼は立派にアイデンティファイしているのである。すなわち、私は映画である、と。
 男はこのフィルムが始まる前までは、強い光を前に顔を仮面で覆い、事物を溶接していた。その編集作業の間、影は男の背後にあったが、後頭部を殴られ火花が飛び散ると、影は前方に映し出される。男は死に、影はもはやひとりの男の黒い影なのではなくて、世界の極彩色の影となる。それだけに川沿いの景色は穏やかに美しく、音楽は甘い。出てくる人間も好い人ばかりだ。
 ただ、それでもどこかすっきりしない部分があって、それがひとつの疑問になる。列車が駅に到着し、工場の出口を人が出入りする光景が果たして唯一の過去だったのかと。たしか始まりはふたつあったはず。しかもそこから分岐して現在に至る過去は無数にある。そのことをカウリスマキが忘れているというわけではない。もしそうだったらこのフィルムは撮れない。ただ彼にとっての始まりの映画の中での食肉解体工場のシーン、ああいう激しい美しさも私は観たい。やっぱり、重要なのは過去である。

(結城秀勇)
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■21日(土)
『ゴスフォード・パーク』ロバート・アルトマン

 今月『映画と国民国家』の日本語訳出版とともに来日したジャン=ミシェル・フロドン氏の指摘によると、イギリスで優能な監督や俳優が現れるとすぐにアメリカに引き抜かれてしまう、だからイギリスでは映画が継承的に根付いていかない、これが歴史的事実だそうである。イギリスでの成功者が必ずハリウッドでフィルムを撮る、もちろんそこでの使用言語は英国語ではなく、米国語になる。こうして、グローバルな文化に抑圧されながら、英国で英国語のフィルムが撮られることは例外的なケースとなる。
 アルトマンが『プレタポルテ』を全米公開するとき、配給側からタイトルにクレームがついた。曰く、アメリカ人はそのフランス語によるタイトルが読めない。そういった民主主義的理由で、アメリカ国内では"Ready to wear"という「米題」で公開された。言語や名前までも、絶大的な資本力に抑圧的から押しつけられるものなのだろうか、そういえば『ゴスフォード・パーク』でも従者たちは主人の名前をつけられて、本名で呼ばれることはなかった。
 しかし、従者の呼び名はともかく、『ゴスフォード・パーク』は徹底的に反=米である、と言ったら大胆すぎるか。とにかく現在のハリウッドの外に立ち、例外的な姿勢をとろうとしていることは間違いない。製作国はとりあえずアメリカとなっているが、キャスト、スタッフ、ほとんど英国出身の人々で固めているし、なによりも、ハリウッドではもはや過去のものとなったジャンル映画に敢えて挑戦しているからだ。
 英国上流階級の豪奢な休暇といった設定やその表層的意匠などはいうまでもなく、厳密な英国語による発声が、現在のハリウッドからの距離感を強めている。文字通りアメリカ、ハリウッドに存在しないものの数々が明瞭になってくる。そしてこのフィルムで決定的なのは現在との時間的な距離感だろう。もはや「古典時代」といえるかもしれない過去の時代の物語なのだ。そこに与えられた具体的な日付は、『ゲームの規則』が制作された1939年ではなく、1932年とある。それはまさしく『グランド・ホテル』が制作された年であり、そのタイトルは群像犯罪劇のジャンル名となった事実は周知のとおりである。『ゴスフォード・パーク』はジャンルの始祖の時代を、それに匹敵するほどの完成度で再現しようとしたフィルムということになる。
 結局、今日の例外であらんとして古典的完成を選ぶことになったアルトマン。そのフィルムで、殺人の動機が出生の因縁にあったように、いままで孤児のように生きてきたアルトマンがふと今になってみずからの出自を問うてみて、このようなフィルムを生んだのではないだろうか。

(衣笠真二郎)
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■18日(水)
アーセナルが危ない

 アーセナルが危ない。昨年はFAカップとプレミアシップの2冠を獲得し、今年はチャンピオンズ・リーグ制覇を目標とするアーセナル。今シーズンも連続腐敗記録と連続得点記録の更新を続け、絶好調と思われた。だが、対エヴァートン戦で敗れて以来すっかりおかしくなってしまった。チャンピオンズ・リーグの対ヴァレンシア戦ではなんとかドローに持ち込み面目を保ったが、プレミアシップ前半の天王山である対マンU戦に2対0の完敗。続く対トットナムのノース・ロンドン・ダービーをやっと1対1で引き分けたものの試合内容は悪い。いったいどうしてしまったのか? もちろん長いシーズンにはこんなこともある。週2ゲームが長く続くと疲労が蓄積し、クリスマス休暇を挟めば調子を取り戻せると考えることもできるだろう。
 だがどこかがおかしい。単に疲労ばかりが不調の原因ではないように見える。ビッグクラブの常としてアーセナルもほぼターン・オーヴァー制をとっている。センターバックにはキャンベル、シガンばかりでなく、キーオン。中盤にはヴィエラを故障で欠けば、レイ・パーラーかファン・ブロンクホルストが入る。そしてFWにはアンリ、ベルカンプばかりでなく、カヌーやヴィルトールがいる。ボロ負けはしないが、点が取れない。つまり不調の原因は中盤から前。ポケットビリヤードのようにボールがワンタッチで繋がる中盤がない。プレスをかけられれば攻撃が遅滞する。対トットナム、対マンUを見れば、アーセナルの攻撃の起点が停滞することこそ不調の原因であることが見て取れる。中盤の誰かが相手のボールをカットしてからの全体の動き出しが遅い。だからプレスがきつくなり、攻撃が遅滞する。ジウベルト・シウバとヴィエラのコンビネーションからサイドにボールを散らすスピードが遅い。ピレス、リュングベリの両サイドがウィングのような動きばかりをするので、攻撃が読みやすい。つまりあまりにシステマティックな動きであるがゆえに、ほんのコンマ何秒の差がアタックの成否を分けるのだ。こうしたシステマティックな運動に変奏を生んでいたのは、もちろんベルカンプの位置取りとパスだった。だが、持病を抱えているためか彼にも切れがない。
 アーセナルのように常に同じ戦術──横一列のBKライン、そして横一列の中盤──をとるティームは、完成度が高いがゆえに、もしリズムが崩れたときに攻撃のアクセントをつける方策がない。そして今のメンバーで、今の調子でそれが可能なのは、おそらくロベール・ピレスただひとりだろう。ベンゲルはぜったいにそうしないだろうが──それが彼の良いところでもあり、同時に欠点なのだが──この際、中盤をダイアモンドにしたらどうだろうか。底にヴィエラ(シウバ)、そして両翼にファン・ブロンクホルストとリュングベリ、そしてトップ下にピレス、FWはヴィルトール(ベルカンプ)とアンリ。ピレスのテリトリーを広げてやることで、スペースとタメが生まれるはずだ。逃げ切るときは、ときどき3バックにすることを厭わないベンゲルだが、アタックのヴァリエーションに無頓着なのはどうしてだろう。

(梅本洋一)
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■15日(日)
『ザ・リング』ゴア・ヴァービンスキー

 ナオミ・ワッツが目にするものに、死を招くビデオの水色がかったモノクロ映像が重なる。たとえばペンキ屋の仕事道具の梯子を見るとき、それがビデオに映っている梯子そのものでなくても、彼女はビデオの映像を連想してしまう。その繰り返しを見ていて、ナオミ・ワッツの連想によってつながっているだけだったビデオと現実(ビデオ≠現実)が、ビデオ映像だったサマラ(原作では貞子)がテレビから這い出てくるとき、ビデオ=現実へと変化するのかもしれないと思ったりする。
 それが要らぬ想像に過ぎないことは、テレビから這い出るサマラを見れば一目瞭然だ。サマラはビデオ映像と同じモノクロ色で、時折からだに電波が走るようにビリビリと揺れ動き、瞬間的に移動する。まるでビデオ映像の切り抜きなのである。テレビを伝って流れ、サマラが去った後も床に残ってぴちゃぴちゃと音を立てている水とは違い、サマラは(触れようとすれば手がからだをすり抜けてしまうような)実体のない存在だ。
 ただ、サマラがビデオ映像であり続けるのは『ザ・リング』では当然のことなのかもしれない。「DREAM WORKS」の文字にジジジとノイズが走り、タイトル、出演者・スタッフが(エンドロールまで)クレジットされることなくはじまり、ザーッというスナアラシで終わる『ザ・リング』もまた、1本の名もない<ビデオ>だからだ。『ザ・リング』は、ナオミ・ワッツが目にするものにモノクロ映像を重ねることを繰り返しながら、ナオミ・ワッツの介在によって死を招くビデオを再構成する。そして新たな<死を招くビデオ>となって、ラベルの貼られていない裸の状態でどこかのロッジのビデオラックに並べられる。
 映画館を出ながら、そんな光景を思い浮かべた自分がバカバカしくて、つい笑ってしまった。

(内山理与)
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■13日(金)
『8人の女たち』フランソワ・オゾン

 パパと呼ばれるマルセルなる人物は顔が出てこない。声すらない。自殺するとき孫のカトリーヌ(リュディヴィーヌ・サニエ)は彼がピストルで自殺するのを見て叫んだが、それは自殺したから叫んだんじゃなくて、パパが笑っていたからだ。なぜか。パパとは監督のオゾンだからだ。この映画は、オゾンが満足したから終わったんだ。
『8人の女たち』の見終った後に感じる底抜けの楽天性は、女優をただ踊らせ、口汚い言葉で罵り合わせ、絡ませるシーンがただ延々と続く映画だからで、それ以外は、何もない。本当に何もない。文字通り「女優の映画」だし、オゾンが見たいもの(撮りたいもの)があるだけだ。
 舞台となる雪で閉ざされた洋館は、まさに「舞台」で、女優たちのためにある。例えばメイドのルイーズ(エマニュエル・ベアール)がマルセルの死体を見つけたあとの階段とリビングのシーン。例えば電話線が切れているとわかるシーン。例えばラストシーン。まさに「舞台」だ。しかもタダの「舞台」じゃない。そこはオゾンの「舞台」で、彼女たちはオゾンの手のひらの中で、踊り、歌い、いがみ合い、罵り合い、体をぶつけ合う。その馬鹿馬鹿しさとおかしさと、艶やかさはオゾンの望むものだ。この映画で女優が取る行為はすべてオゾンのための行為であり、オゾンの「舞台」の中の行為である。足が悪かったマミー(ダニエル・ダリュー)が突然立ち上がったり、酔っ払ってトチ狂って「殺して!」と叫びまくるマミーの頭をギャビー(カトリーヌ・ドヌーヴ)が酒ビンで叩いたりしても、確かにおかしくはあるのだが、同時に自然とそれが受け入れられてしまうのは、ここがオゾンの世界だからだ。突然歌いだしても踊り出しても、それがおかしいはずなのに、その内容は非難しても、誰もその行為自体を非難しない。時にはコーラスに、時にはメインになり歌い踊る。オゾンはただ女優を美しく、汚く、醜く、艶やかに撮りたかっただけなのだ。
 だからこの映画は底抜けに楽天的なのだが、同時に不気味でもある。この映画はどこにも向かわず、どこにも開かず、ただ女優を、オゾンの望むままに映しただけで終わる。それだけで2時間の映画を作ってしまうオゾン・このオゾンの欲望しかない映画。すべての女優が同質化されて、オゾンの望むものがすべて吐き出されたときに終わる。ただそれだけの映画。
 無理やりに物語を閉じて「舞台」に幕を下ろしたとき、この映画が女優を望むままに映しただけの映画だと理解できるが、不気味さとはこの映画を作り出したオゾンそのものであり、観客にそれだけを見せるためにこの映画があることであり、それだけで映画が出来てしまうということである。

(百瀬郁男)
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■13日(金)
『ガ−ゴイル』クレール・ドゥニ

 雑誌「nobody」3号に掲載したインタヴュ−で、クレール・ドゥニは、ブレインマップ(脳地図)をつくるようにこの映画を始めたかったと話してくれた。アメリカ人の若いカップルが乗る飛行機から見下ろされる、デンバーの夜景がそれなのだが、脳の中に意味的な部分があるわけではなく、「あくまでも電子的交換、電位変化という絶えまない運動」であるように、この映画におけるデンバーの夜景もまた、デンバーを俯瞰したものではあるが、いくつもの光の配列が見えるだけで、「デンバー(の地図)」ではない。
 さて、後藤明生の『首塚の上のアドバルーン』という本もまた、開発の進む都心郊外(幕張)のマンション14階から街を俯瞰するところから出発している。そこから見える小高い丘−首塚をめぐる話なのだが、その小高い丘と首塚を結ぶ線は語り手が実際にその近くまで歩いていって得られる。つまり、14階から見る限りそれは「小高い丘」でしかない(例えばその前方に見える「黄色い箱」はテニスコートだと判明した後も、「黄色い箱」と記述され続ける)。そして筆者はその風景をクレーの絵と重ね合わせ、しかしある日はモンドリアンの絵と重ね合わせるのだが、それは街の風景の変化によるというよりは、14階からの風景(眼差し)の変化によると言うべきだろう。その14階からの視線(による地図)と同じように、首塚をめぐる物語も時を経るにつれて変化はするが、実はこの物語がその首塚についての話になることはなく、「14 階から見えた小高い丘が実は首塚であったこと」から常に話が始まり(結局その首塚の歴史は宙ぶらりんのままだ)、京都の新田義貞の首塚−『太平記』−瀧口寺−『平家物語』−…と、まさに電子的交換のような絶えまない物語の運動が連なり、最後は『仮名手本忠臣蔵』にまでいたる。「『仮名手本忠臣蔵』は、わたしにとってもう一つの不思議です。それはどんな不思議であるか?すなわち、マンションの十四階のベランダから見える、こんもりした丘の上で偶然に見つけた首塚からはじまったわたしの『平家物語』『太平記』めぐりが、めぐりめぐりめぐって、『仮名手本忠臣蔵』にたどり着いたという不思議なのです」もちろんその運動の連鎖、つまり点と点を結ぶ見えない線(関係)には、「意味」があるだろう。しかし、その意味は何らかの点、あるいは線が持っているものではなく、マンションの14階のベランダからこんもりした丘が見えた(見る)こと、という意味のない行為に含まれるのではないだろうか。
 なぜ性的な関係に及ぼうとすると、相手を噛み殺してしまうのか。そこに意味はない。だが、その行為が彼らを結びつけ、この物語を形成する。また、「絵にかいたような」セーヌ河と「ブレインマップのような」デンバーの夜景から出発したこの映画に、パリという場所の徴を求める必要がないのも同じことだ。ベアトリス・ダルが立つ荒野はパリの郊外ではなく、「no man's land」。ノートルダム寺院からアメリカ人カップルが見たのは、パリではなく、宙を舞う緑(のスカーフ)。そして私たちは、ヴィンセント・ギャロの最後の何も見ていない眼差しを見て、次の物語に進むのだ。

(黒岩幹子)
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■13日(金)
smart−伝説カルチャーBOOK

 1997年、宝島社から出版されたファッション雑誌「smart」は、当時のファッション小僧たちの欲求を見事に満たすこととなる。「メンズ・ノンノ」、「ファインボーイズ」の二大ファッションカタログ雑誌に彼らは少々食傷ぎみだった。そこに登場したのが、浅野忠信モデル&熊谷隆志スタイリングという、当時の最強カップルで巻頭ページを飾った「smart」創刊号である。「裏原宿」が完全に市民権を得て、「エイプ」や「アンダーカヴァ−」のTシャツにとんでもないプレミアがつく、そんな時期。「ポール・スミス」、「アニエス」、「A.P.C」を三大ブランドとしていた「メンノン」や、ダサダサのスタイリストを使って野暮なコーディネイトばかりを提案していた「ファインボーイズ」では、そんな時期をカヴァーすることはできなかった。「smart」は「裏原」と共に、音楽や映画などのカルチャーをファッション小僧たちに移植し、彼らの幻想の「ストリート」を作り出すのに成功したと言える。
 さて、そんな雑誌に連載されたコラムがまとめられたのが、この「smart−伝説カルチャーBOOK」である。全コラムを挙げはしないが、例えば「1966→1975 EARLY days of Japanese rock」、「考察HARD CORE」、「マルコム・マクラーレン全仕事」、「原宿1980」、「ロンドンナイトの歴史」、「革命家チェ・ゲバラ」、「全共闘の季節」・・・。などなど、とにかくユースカルチャーにおけるその時々のブームを、たくさんの事実を列挙しながら教科書的に教えてくれる、便利といえば非常に便利なコラムたちなのだ。私も何度か勉強させてもらった人間である。
 ここでのキーワードは一言、「ストリート」だ。決して外国人モデルを使わないこの雑誌は、東京(裏原)「ストリートカルチャー」のバックグラウンドをここで披露する。事実と固有名が簡素な文体でひたすら並べられるこのコラムたちは、「ストリート」の表層を支えるデータベースであり、そこに歴史性を付与しようと努める。様々な物語によって「ストリート」は神話化され、しかも裏原に出向けばその神話の断片が至る所で体験できる、それは見事な構造である。
 その意味で、このコラムたちはある一定の層に非常に役立っているだろう。観光地に行く際には、歴史をかいつまんだ観光ガイドが大いに役立つのは当然だ。同じように、この幻想の「ストリート」では情報の多さがまずものをいう。
 本気で言うが、私はこのコラム集を中学生あたりの教科書に指定してもいいんじゃないかと思う。「学校」「病院」「監獄」そして「ストリート」、今や疎外とも言えない程にあけすけで明るい疎外を「東京」でもたらすのがこの四つである。私は学校の教科書にうんざりする、そして「smart−伝説カルチャーBOOK」にもうんざりする、だからこれは教科書に指定すべきだと本気で考える。
 このコラム集は「ポパイ」前々号の「脱ストリート宣言」と対応している。つまり、「裏原」という「ストリート」なんて始めからなかったのだし、それを「脱」するもしないもない。自己循環的な啓蒙活動はもう必要無し。

(松井宏)
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■6日(金)
新建築12月号『同潤会アパート建て替え計画』安藤忠雄

 同潤会アパートは、関東大震災後被災者であふれかえる東京にそのスラム一掃を推進する宣伝塔的な役割を担い、鉄筋コンクリート造という極めて新しく人工的で強固な構造体によって颯爽と出現した。なるほど確かに現存するどの同潤会アパートも今ではすっかりレトロな雰囲気を漂わせ、街並みとの調和を声高に賞賛されもするが、元々は震災後の木造スラムのまっただ中に打ち込まれた未来へのシンボル、座標点、楔であったに違いないのだ。打ち込まれた楔は、楔を打ち込まんとした者たちの信念の強度を指し示すがごとく、実にしぶとく都市に残った。
「しぶとく残る」ことによって建築物が描き出す様相の多様さは、実に魅力的である。素材の風化によるその姿形の味わい深さという表相の魅力にとどまらず、様々な人がその楔を軸に描き出した像が相をなして堆積し、ある者は静かな都心の隠れ家を描き、またある者は先鋭的なアートの発信地を描くというように、それはすでに人々の中での存在としても単なるアパートではなくなってしまっている。煮込みに煮込んで煮込みすぎてしまったスープのように、複雑でいてかつ不思議に透明感のある味わいをしている。現代建築デザインにおいては、この「しぶとく残る」ことがもたらす多様さ、存在の多義性をいかにしてあらかじめデザインし得るかということが大きなテーマとなっている。それは、都市の再整備が大きな課題である日本においてはなおのこと重大で、地域主義や民芸的デザインに寄らない、歴史的遺産の継承という意味合いをも担うであろう。つまりすでに例えば大学の設計課題の講評会においては、単純で、巨大で、空虚で、図式的で、均質的で、暖かみのない設計に対しては痛烈な批判が浴びせられている。
 素晴らしい街並みを形成してきた都市遺産であるところの青山同潤会アパートに「しぶとく残る」ことを止めさせ、あたかもその「しぶとく残る」ことでもたらされた多様な相を再生するかのごとく喧伝しておきながら、自らの建築ボキャブラリーの全く退屈な組み合わせ・再現をしてみせるというのは、恐ろしく作家的な振る舞いであるばかりか、すでに自らの作品としての本質をも見誤っている。安藤こそが、木造スラムの中にコンクリートの楔を打ち込んだ強固な意志の固まりであったはずなのであるから。楔を打ち込む者は、楔しか打てない。ここで私が期待する結末とは、安藤が安藤にしか描けない圧倒的な楔を描き出し、極めて安藤的な圧倒的な敗北の道を再び選ぶことだ。そして、またあのアパートが「しぶとく残ってしまう」ことだ。

(藤原徹平(隈研吾建築都市設計事務所))
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■6日(金)
『8人の女たち』フランソワ・オゾン

 フィクションだ。『○○殺人事件』というタイトルではない。『8人の女たち』だ。そのままだ。画面に映る人間は8人の女優のみだ。確かに父親も出てくる。しかし後頭部しか映らない。“後頭部”父だ。セリフもない。単なる“後頭部”だ。屋敷の主人である“後頭部”父親は、監督かもしれない。観客かもしれない。この映画が「舞台劇のように見える」のならば、客席が存在するかのように人物たちが配置されているためであったり、その場にいる全員が同一画面内に入るように撮ったり、それはシルヴァニア・ファミリーの家のような「ドールハウス」という感じかもしれない。では8人の女優は「屋敷の主人」の「人形」なのか。そんなことはない。そんな造形ではない。顔のアップ、皺がある、肌は決して綺麗じゃない。正面からのショット、面白い骨格だ。美人でも骨格。アゴとかが気になる。胸とか脚とか。よくしゃべる、罵り合い。それぞれの声。
 屋敷内しか映し出されず、外に出ることはできなくとも、これがこの世界の全てだから外部はなく、閉塞感もない。全ては8人の女たちのために用意される。空間はあるが、移動はない。時間はあるが、流れない。「大雪だ」と言うので大雪になる。「秘密がある」と言うので秘密が発生。「アル中」でアル中。「毒殺」。「血が繋がっていない」。「妊娠している」といった瞬間、あの腹部は妊婦の腹部。罵り合い、驚愕しない「驚愕の事実」の暴露。「クリスマスの奇跡」で立ち上がり、ビンで殴って気絶させ、首を絞め、赤い服と緑の服がくんずほぐれつ胸↑胸↓/脚↑脚↓、キスをする。メイドはブーツを履いている。注射を臀部に挿すとき、唇をなめる。突然踊り、突然歌い、泣く。そのひとつひとつの火花が爆発、内燃機関となり、この映画を前進させる。それぞれが別々のものであり、だからこそ核融合のエネルギー。そして、手をつないで、8人がひとつになったとき、映画は終わる。

(清水一誠)
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■3日(火)
ラグビー早明戦

 38対20で早稲田という私の予想は見事に裏切られた。
 結果は24対0で早稲田。このゲームでも明治のシャロー・ファストのディフェンス(ドリフトで外側に追い出すのではなく、直線的にトイ面を倒す)が功を奏し、前半は、早稲田のFB内藤のワントライのみの5対0という僅差のゲーム。後半20分過ぎまではこの点差のまま推移した。以降、3トライ早稲田が連取し、結局は、早稲田の完勝に終わった。確かにゲームそれ自体は「伝統の」早明戦。特に前半の20分過ぎからは、明治がラインアウトからのモールに拘り、「押す」明治、「耐える」早稲田という図式は何十年も同じだ。明治のフッカーのダウンボールを早稲田ディフェンスが下から手を入れて5メートル・スクラムに持ち込んだプレイがなければ、ゲームはどう転んだか分からないという論評があった。
 だが、すでに書いたようにこのゲームは早稲田の完勝だ。スクラム、ラインアウトというセット・ピースで早稲田はまったく崩されなかった。そればかりか、明治ボールの5メートル・スクラムでは、早稲田のスクラム・ワークが明治を押さえ込み、ターンオーヴァーまで披露した。川上、羽生の両フランカー、そして両ロックのブレイク・ダウンでの早さと強さが早稲田完勝の原動力になった。もし早稲田が、前半に良い位置で得たペナルティをタッチではなく、PGを狙っていたとしたら点差はもっとついたろう。私の予想が裏切られたのは、明治が健闘したからではない。早稲田が私の予想以上に強かったことによる。このチームは、今までは大差の勝利が続いて見えなかったがディフェンスのよいのだ。早稲田のSOの大田尾が怪我で欠場していなければ、差はもっとついたし、FBの内藤ばかりでなく両ウィングもトライを挙げていたろう。
 すべてにおいて早稲田は明治を上回っていたが、完勝の原因を探ると、FWが予想以上に充実していることがある。早稲田の清宮監督は、後半に向けて、「FWで勝負をつけてしまえ!」を言ったと語っている。事実ひとりひとりの能力を超えたFWのシステマティックなポジショニングとスピードで明治を圧倒していた。このチームは強い。
 順当に行けば、今シーズンも大学選手権の決勝は早稲田対関東学院の再戦になるだろう。早稲田が勝ち──それもUltimate Crush で!──を収めることも、このチームにとっては最終の目標ではなく、単なる過程ではないのか。つまり、清宮とキャプテンの山下大悟の目標はもっと上にあるのではないだろうか。そのためには、スクラムなどセット・ピースのさらなる安定、より早いブレイク・ダウン、そして両ウィングの奮起が要ることは当然だ。もっと強い相手との苦しいゲームが必要だ。清宮も同感だろう。このチームにはまだまだ伸びしろがあり、もし順調に伸びれば、学生のレヴェルを大きく越えるはずだ。

(梅本洋一)
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■2日(月)
『とどまるか、なくなるか』瀬田なつき

 スーパーでお菓子を抱き締める幼い少女の姿が、この世界の崩壊過程を告げる。『イタリア旅行』、『ストロンボリ』、あるいは『大いなる幻影』(黒沢清)、『ユリイカ』__、一本のフィルムによって何度も露出されてきた崩壊過程が『とどまるか、なくなるか』を満たし、主人公リカは映画の登場人物となる。
 母親(洞口依子)の包帯姿は精神分析的な主題を笑い飛ばし、世界の遠近法と少年少女たちの神話は退散する。フライパンの上で焼かれる卵は、光によって焼かれるフィルムそのものとなり、つまりリカとなり、映画というものにとても近い何かとなる。お菓子を陳列棚から引き剥がす幼い少女に、なんとも笑いに満ち満ちた<アナーキー>さを発見したリカは愕然としたはずだ。「アナーキー・アズ・女子中学生の私さえも追い越されるほど<アナーキー>なこの世界って、一体どうなってんの?」。そのとき彼女は走ることができなくなり、さらにスキップすらできなくなり−つまりスピードは飽和した−、ついに歩行を始める。我々を常に先行し、我々の眼からその姿を隠しているかに思われた「世界」(それにおいていかれまいとして、我々とリカはスピードを必要とした)はそこになく、穏やかに崩壊してゆく「世界」と呼ばれうる何事かがあるだけだ。リカはそこを歩き、そこを見つめ、時にはストレートパンチで応戦する。
 殻をやぶり生まれた生卵は、その誕生の瞬間からフライパンの上で生きることを余儀なくされる。形は変わらずとも、その細胞は熱によって破壊され目玉焼きへの過程を生きざるをえない。しかし我々とリカはそれを見つめねばならないし、それこそが我々とリカとの生きる時間でもある。
 ただ残念なことに、瀬田はその時間に耐えきれずついフライパンにフタをしてしまう__。しかしだ。そのフタが半透明だったことも忘れてはならないだろう。それはリカと瀬田と我々がこの「世界」に「とどまる」(そのとき「とどまる」は「生きる」と同義だ)ための、そして映画の登場人物となるための小さな決意であるし(フィルムの始まりと終わりは「半透明」だったはずだ!)、あるいはもしかしたら、「とどまる」ための新たな戦略かもしれない。
 「なくなって」たまるか、「とどまる」しかないんじゃ。そんなリカと瀬田と我々との決意とも言えるフライパンの上の卵を見たければ、ユーロスペースのレイトショーに足を運ぶのがいい。早く行かないと目玉焼きになっちゃいます。

渋谷ユーロスペースにてレイトショー公開中 12/6まで(http://1stcut.netfirms.com/)

(松井宏)
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■2日(月)
『チェンジング・レーン』ロジャー・ミッチェル

 ふたりの男のツイテない1日が速いテンポで描かれていく。が、そのテンポに反してその1日は長く感じられる。もちろん誰よりもその1日を長く感じているのは主人公のふたりだろうが、一生の問題でなく2時間程度の映画を見に来ただけの私たちにとっては、1度の車線変更をきっかけに無駄にからまっていく糸を見るのは苦痛に近いものがある。何しろその無駄に絡まった、ひとつの書類を巡るふたりの攻防は、事実上は結局のところ徒労となるのだから(たとえその攻防の本質が良心を巡る自分との戦いだったとしても)。
 だが、私たちを苛立たせる一番大きな要素となっているのはたぶんこの物語ではなく、主人公を始めとする人物の顔である。皆疲れた顔をして、それ以上に「そんな情けないツラしないでくれよ〜」って表情がでかでかと映し出される。しかもそれは決して長時間の、あるいは連発したアップで強調されるわけではなく、せかせかと切り返されるコマの流れの中でせかせかと現れる。ベン・アフレックが車で事故るシーンなんかはその顕著な例で、車が回転する−アフレック−車はまだ回転する−アフレック−車はまだまだ……。すごい単純な構造だが、ここまでベン・アフレックのバカ面が巧く機能した映画はない。
 さんざんな1日が終わった後も、結局道路を挟んで父親とその家族が対峙し、その見つめあう表情を交互に捉えるという、いたってシンプルな方法でラストを迎える。そう言えば、この監督の前作、『ノッティングヒルの恋人』の『ローマの休日』を引用(?)したラストシーンは、せかせかと記者会見場に駆け付ける様を時間を割いて持ってきておいて、あとはヒュ−・グラントとジュリア・ロバーツの表情でひたすら引っ張るというものだった。
 これといって目をみはる演出はないものの、この監督は落としどころ、絡まった糸をふとほどいて観客を安心させるタイミングを妙に心得ているのかもしれない。別に安心したくないやいと突っ張っていたいのだが、一方でほっとしてしまう自分がもどかしくもある。

(黒岩幹子)
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