May2002
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□24日(金)「relax」6月号
■24日(金)『KT』阪本順冶
□23日(木)南青山の風景
■20日(月)『ハッシュ!』橋口亮輔
□20日(月)『ウィークエンド』ジャン=リュック・ゴダール
■20日(月)『ROLEER BALL』ジョン・マクティアナン
□20日(月)『愛と希望の街』大島渚
■18日(土)代表23名の発表
□17日(金)『バーバー』ジョエル/イーサン・コーエン
■17日(金)『愛と希望の街』大島渚
□17日(金)日本対ノルウェー戦
■16日(木)『トゥーランドット』アラン・ミラー
□16日(木)『KT』阪本順治
■14日(火)『バーバー』ジョエル/イーサン・コーエン
□10日(金)『人コロシの穴』池田千尋
■10日(金)『孤高』フィリップ・ガレル―青山真治対談(5/7東京日仏学院)
□8日(水)『害虫』塩田明彦
■5日(日)『そして愛に至る』(『和解の後で』)アンヌ=マリー・ミエヴィル
□5日(日)『ウィークエンド』ジャン=リュック・ゴダール
■5日(日)『ビューティフル・マインド』ロン・ハワード
□4日(土)『害虫』塩田明彦
■1日(水)細野晴臣&WORLD STANDARDインストアイベント
□1日(水)リュック・ボンディ演出、チェーホフ作「かもめ」
■1日(水)テアトル・デ・ソレイユ番外公演


 

 
 

 

■24日(金)
「relax」6月号

「リラックス」は「趣味の良い」雑誌である。グラビアに登場するアイドルのチョイスを見るだけでもそれは明らかで、スピリッツやヤンマガのグラビアのチョイスとはまるで趣が違う(例えば今月号は宮崎あおいや長谷川京子)。そんな「リラックス」の今月号の特集は「Suburbia Suite 2002」と「家具」について。確か、ここ最近、パリ、NY、東京など都市の特集が続いていたが、予告を見ると、何でも次号は「家族」が特集として挙がっているので、都市から生活そのものに視点を移していくという狙いなんだろうか。
 さて、そういった狙いを踏まえて、ちょっと引っ掛るのが、「Suburbia Suite 2002」という特集。直訳すると「郊外(居住者)の部屋」となると思うが、内容はひと昔前の南米や北欧のレコードを中心としたレヴュー、そして「音楽と生活」といったお題で書かれたと思われるコラム。つまりこの特集のテーマは「心地よい音楽を聴いて、快適な生活を送りましょう!」といったものらしい。それで、何でSuburubia?というのが不満だったのだが、レコードのチョイスをやった橋本徹という人がSuburbia Factoryという会社(団体?)の人らしいので、そこから取ったのだろう。因にこの人は、カフェブームの発端でもある、あのカフェ・アプレミディの代表だそうで、なるほどなと納得。
 たぶん、この橋本氏の中では、「郊外のイメージ」=「快適な生活」という図式があるのだろう(この特集の前文では「快適」ではなく「上質」という言葉になっていたが、彼にとっては「快適」=「上質」であるようだ)。カフェ・アプレミディのインテリアにしても、正に我々が安易に描きがちな「郊外の部屋」といった趣であり、また、そういった「空間」があのカフェが人気である理由でもあるだろう。明け方に、本やCDや靴下やらで足の踏み場もない部屋でこんな文章を書く私が、「快適な生活」についてあれこれ言うと見苦しくなる恐れがあるので、とりあえず止めておくとしても、その「郊外」の安易なイメージを心地よい音楽と結び付けることは批判したい。きっとこの人は『ガンモ』とか見ても、「趣味の良い映画だ」と思うだけなんだろう。郊外は決して穏やかで、心地よい場所というだけではなく、クレール・ドゥニが描くような"no man's land"であることを無視してはならない。今我々にとってより重要なのは、郊外をユートピア的なイメージとして持ち上げることではなく、郊外が孕む残酷さに目を向けることではないか。
 最後に、大場正明氏が「サバービアにつづくハイウェイ上の孤独」という題で、アメリカの郊外生活の歪みを描いた3冊の小説について書いた文章の最後を引用しておこう。「この3册の小説から浮かび上がってくる画一的で表層的な生活の閉塞感とアイデンティティの喪失感が、そのまま現在の日本に当てはまると思うのは、恐らく筆者だけではないだろう」

※「サバービアにつづくハイウェイ上の孤独」は大場氏のサイト(http://c-cross.cside2.com/index.htm)に掲載されています。

(黒岩幹子)
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■24日(金)
『KT』阪本順冶

 次々に現れる登場人物。画面下に階級・役職、名前の自己紹介テロップが加えられる。そして、チラチラ現れる日付・時間、地名・キーワード。現れる具体的な固有名詞を舞台となる1973年にトントンと置いていく作業が、自分の頭の中で行われる。当時の事件の背景が次第にクリアになっていく。
 しかし、冒頭ではっきりと確定されたはずのおのおの立場は、当然のように事件に迫るにつれて曇っていく。不安定に揺れる無記名の手持ちカメラの視線、顔が映らない低い声、ガムテープでぐるぐる巻きにされた人物、密告。裏切り。渦中の人たちは冒頭のテロップにあった立場を放り出し、金大中拉致事件の中心に突入していく。先に打ってあった具体の釘に、紐を掛けていくように、グランドパークホテル、部屋番号、駐車場、対談時間、…その中を登場人物が動き、物語の輪郭を繋げていく。しかし、実は、過去との照合作業よりも、目隠しされた相手の足に「安心」と指でなぞる行為、電柱の横で立ち小便をする後ろ姿のほうが、一本一本の釘を深く打ち込む。
 女性の見開いた眼、男、直後の銃声で物語は終わる。バーンと響く銃声は、結ぶ紐のない釘を撃ったのかもしれない。1973年8月は確実にあった。空白の時間なんて存在しない。

(瀬田なつき)
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■23日(木)
南青山の風景

 その小さなワゴンでは、毎週火曜日に店番をしながら、道行く人にCaffe@IDEEのパンや、TREEの盆栽や、Rojakのカレー、古本を売りながら、雑誌nobodyを紹介している。勿論ドリンク類も扱っている。そこから見える風景は、目の前の道をビジネスマンや近くのOL、IDEEへと足を運ぶ人々の姿、細い道路を窮屈そうに走るタクシーや高級車。四月からワゴンに入るようになって、その風景は毎週相も変らぬものとなっていた。ところがある日、一つのことに気づいた。向かいの通りにあった一軒の家屋がない。あるのはただ家屋の基礎部分のみ。その基礎部分を解体するショベルカーが一台、さっきからこちら側までその振動を伝えていたのだ。小さなワゴンはその振動で揺れる。あまりにも生々しい振動。
 IDEEの樹木に水をやっていたおじさんに聞くと、数日前から工事を始めているらしい。そのおじさんがぽつり、「あっちのは一年以上工事しているよ。一体いつできるんだろな」。それはその家屋から二件隣のテナントビル(おそらく場所的に有名ブランドでも入るのだろう)のことで、確かに外観は出来上がっているのだが、内装はまだ手をつけていない状態。どうやら某有名ブランドのビルができるらしいその家屋跡の工事と、あっちの工事、どちらが早く出来上がるのだろうか。意外にも数日前から始めた工事の方が早かったりするのかも。
 昼も過ぎた頃、数人の女の子たちが目の前の道路に飛び出してきた。一人は大きなカメラを持ち、一人はレフ板を手にし、二人の前にすっと立つもう一人の女の子。どうやら何かの撮影をしているらしいのだが、車が通らない瞬間を狙い、道路の真ん中に立ち、急いでシャッターを切っていくその姿は、何か微笑ましい。やがてモデルの子は、作業が終わり瓦礫が山積みになった解体現場へ足を入れ、その瓦礫の上に腰掛ける。またパシャリ。撮影後、ワゴンに足を運んでくれた彼女たちによると、どうやら美容院のカットモデル撮影だったとのこと。
 青山の小さな家屋が解体され、その跡地で小さな撮影が行なわれる。小さなワゴンから垣間見た小さな風景。そんな風景が違和感なく感じてしまえるのは、そこがきっと青山だから。原宿でも、渋谷でも、そして六本木でもない場所。つまり青山は人口が集中する場所ではない。通りかかる場所なのだ。青山通りという交通のメインストリートを一本入ると、そこには雑然とした小さな道路と、足早に行き交う人々と、その日だけ出会うことのできる風景とがある。それは次の日にはもうないものかもしれない。けれども、彼女たちが写し撮った数枚の写真のように、それはまたどこか別の場所でさりげなく、存在しているのだろう。そしてこれは珍しく蒸し暑い五月のある一日の話。

IDEE ( Caffe@IDEE/Rojak/Tree) http://www.idee.co.jp
(和田良太)
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■20日(月)
『ハッシュ!』橋口亮輔

 3人の主要な登場人物がいて彼らにはそれぞれ“職業”があって、それはペットショップの店員であり、歯科技工士という観客にとっては馴染みの薄いものであり、土木研究員であり。一体その職務が何の役に立っているのか、実は本人もよく判っていなかったりもする。その彼らにもうひとつ、お仕事がやってくる。それが一体何の役に立つのか、何の為にそうするのかが“判りやすい”と同時に、多分ものすごく判りにくくもあるもうひとつの“お仕事”、つまり“子供づくり”を、彼ら3人はこれから始めようとしている。「家族なんて、空気みたいなもんで気が付いたらそばにいるものさ」などと、よく聞く紋切り型のセリフに逆らって、彼らは彼らなりに出来れば最もよい方法で、この“お仕事”を全うしようとしている。
 “子供づくりに参加すること”というのが、この映画に登場する上でのある種の規則のようである。“母性”を半ば放棄した“父親たち”は、既に死んだ故人として登場人物の口から語られるか、フィルムの途中でいなくなるか、若しくはただそこにいるだけのような幽霊のような人物としてメーターを止めたままタクシーを運転する。だが“父親”がいないからと言って、そのことは何もこのフィルムには“女”しか登場しないと言っているのではない。
 これは“子供づくり”についての映画であると同時に、“母親”についての幾つかのポートレイトである。これから“母親”になろうとしている彼女が犯されているのを見るのも、中年女のたるんだ脇腹の肉を見るのも、それが幾つかの世代における“母親”なのだという意味では同じである。でもその母親のポートレイトの中には、“女”しか映っていないというわけじゃあ決してない。
 「あんたみたいなあばずれが、母親になんかなれません」
確かに御もっとも。子育ての大変さは中年女の皺に刻まれているようで痛々しい。だがその中年女に無言で殴りかかるあばずれ、こちらもまけじと痛々しい。それを淡々と、引きで撮るカメラはどちらに加担するでもなく、ただの中立である。ここでの幾つかの“母親のポートレイト”のすべては、痛々しくないカメラの視線と、何も排除出来ない“優柔不断”を絵に描いたような田辺誠一演じる登場人物とによって、映画に、そして恐らくフレーム外にも、否定されることなく受け入れられているんだろう。

(澤田陽子)
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■20日(月)
『ウィークエンド』ジャン=リュック・ゴダール

『ゴダール映画史U』のなかでは『魔人ドラキュラ』と『鳥』と『ドイツ零年』とが、『ウィークエンド』と並べて語られている。「『ウィークエンド』にも妖怪が登場します。妖怪というのは永遠にあらわれつづけるのです」(奥村昭夫訳)。それから『ドイツ零年』の子供を「妖怪になりたくないと思いながらも怪物になってゆく」者と話している。
 このモンスターは貨幣の流通のなかでしか生まれ得ない。
 
『ウィークエンド』が主にどこで撮影されたか、正確には分からないけど、あのゲリラ集団は<セーヌ・エ・オワーズ県解放戦線>と名乗っていたのだから、なにはともあれヤツらはRIF(イル・ド・フランス地方圏)内に生息していることだけは確かなようだ。
 1964年、パリ首都圏を対象とする制度改革が行われ、パリ市は市であると同時に県となり、周辺に7つの県(イル・ド・フランス)が新設された。パリ周辺のこうしたニュータウンが建設されたのは、そもそも1960年代のパリの過密対策としてだったという、ド・ゴールのフランスは調子が良かったようだ。もちろんそれに伴い都市部と周辺部とを結ぶ道路や鉄道が徐々に整備されてゆく。
 1967年は、68年5月の前年、ではなく、まずこうした環境を背景に考えた方がよい。コリンヌとロランは週末にニュータウンへと車を走らせる、僕らは多摩ニュータウンへはあんまり行かないけど。

 クレール・ドゥニはnobody第3号のインタヴューのなかで、1960年代の<テラン・ヴァーグ(郊外)>の発生とモンスター達の誕生とが同時だと、つまりヤツらは<テラン・ヴァ−グ>でしか生まれ得ないと話している。

 ジャック・リヴェットは1981年を『北の橋』において生きる。ジスカール・デスタンからミッテランへと政権交代する年、1981年パリの街では公共事業が増加し、<テラン・ヴァ−グ>もまた増殖する。工事用のクレーンが至る所で炎を吹く、そのモンスターにカラテで応戦するのがパスカル・オジェとフランソワ・ステヴナン、ドン・キホーテ。
 ここ2002年の東京でも、建設中のビルの上に聳え立つクレーンを見て、「これモンスター!」と叫ばない者はいないだろう。

『共産党宣言(共産主義者宣言)』、「妖怪がヨーロッパに出没する。共産主義という妖怪が」(金塚貞文訳)。共産主義者とはもちろん、員数外のルンペン・プロレタリア階級ではなく、「現状を止揚する現実の運動」のなかにいる者、つまりまずもって貨幣の流通に身を置くものである−「プロレタリア階級は大工業のもっとも独自な生産物である」。妖怪は貨幣とともに誕生する。

 1991年、ジャン=リュック・ゴダールは、壁崩壊後を『新ドイツ零年』において生き始める。浜辺に聳え立つクレーン(削岩機)に向かって、モンスターに向かって、ドン・キホーテは絶望的に突っ走る、ではなく、絶望的に突っ走らされる。「西はどこ?」−そう尋ねまわるレミ−・コーションに誰も答えないのは、そこが馬鹿馬鹿しい程に「西」だからだ。それはどんな「主義」によっても踏破されないし、目指されるべきものでもない、単なる環境である。「お帰りなさい!」−どこへ行っても「お帰りなさい」だ。<テラン・ヴァ−グ>に方向はないが、それでもレミー・コーションはただひとり、何とか愚鈍さとして存在する。

 例えば、クレール・ドゥニの新作『ガーゴイル』(今秋公開)において、何故ベアトリス・ダルが<あんな風に>燃えてしまったのか、『ウィークエンド』で<実際に>燃やされるエミリー・ブロンテを見ながら考えることも、僕達に課せられてるのかもしれない。
 だって僕もあなたも、妖怪にならなきゃいけないんだから。

(松井宏)
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■20日(月)
『ROLEER BALL』ジョン・マクティアナン

 週末の大手シネマコンプレックスは、カップルで盛況。目当ての『アザーズ』も完売。仕方なく他の作品に目をやると、“『ダイ・ハード』ジョン・マクティアナン監督”と宣伝文句が書いてある作品を発見。それが『ローラーボール』だった。
 物語は至って平凡で単純であり、どこかで観たような・・・と思ってしまうものだった。それでもまぁいいとしよう。焼き増しされた物語なんて幾らでもあるし、監督はそんなこと百も承知だろうから、構わない。“ポスト・キアヌ・リーブス”と呼ばれる主人公クリス・クラインが、ポストと言うより似ているだけじゃんと突っ込みたくなることも黙っていよう。けれども、どこか釈然としない。疾走感溢れるはずのカット割が、疾走感のかけらも失ってしまっていることが問題ではないだろう。ならば何が、釈然とさせてくれないのか。
 それは恐らく「観客」と呼ばれる対象だった。ホーム&アウェイ方式で開催されるその“ローラーボール”会場は、五万人の観客が押し寄せ、世界中に流されるその映像の視聴者は20%を越える。そう解説者は叫ぶし、コントロールセンターのモニタには表示される。が、そんな「観客」などどこにもいないのである。モニタの数字は瞬く間に上昇を見せるが、その先に描かれる「TVを観る視聴者」は、とあるバーで観戦する数十人の男たちのワンカットのみであった。これでは各国の実況アナウンサーがいる理由も分からないし、本気でペドロビッチ(ジャン・レノ)は巨額の富を得ようとしているのかも分からない。さらには一体全体どうしてこんなスポーツが行なわれているのかという根拠すらあやふやになってくる。
 一向に見えてこない対象に向かって行なわれ続けるこの物語は、最後までその対象を明示することなく幕を閉じる。それはまさにこの映画が、同日公開の『スパイダーマン』完売の隣で、満席になることもなくひっそりと公開されていた現実と余りにも類似している。「これは世界の誰もが望んでいる映画なのだ。だからまず、豪華俳優陣、音楽陣を揃えなければならない。そして驚くべきキャメラワークと過激なセットを用い、想像を絶する映画にするのだ」と誰かが叫んだかは分からないが、その後ろできっと「やりすぎですよ」と囁いている人物がいるに違いない。
 映画のラスト、対象と物語の核を失ったまま繰り広げられる「スペクタクル」に対し、「観戦者」は「革命」を起こしてしまう。しかしそれは一切の主張を失った「革命」であった。それまでゲームに金を賭け、熱狂していた数百人の労働者(それでも画面にはほとんど出てこない)は、突然権力者に牙をむく。忘れてはいけない。彼ら労働者も、オーナーも、プレイヤーも誰もが富を狙っていたではないか。言うなればみんな共犯ではないか。それでも「革命」と呼ぶのか。一向に姿を見せない労働者たちに呟いてみても始まらないのは分かってるのだが。

(和田良太)
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■20日(月)
『愛と希望の街』大島渚

 二つの風景がある。ひとつは少年と母親、知恵遅れの妹は暮らしている六畳一間の家とそれを囲むもので、工場や廃材置き場、砂利道などが絶えずその風景の中には存在している。そしてもう一つは幾つもの部屋とそれと同じ数だけのドアを持つブルジョワ一家の家、もしくはそれを取り囲む閑静な住宅街。このひとつの街の中には、全く表情の違う二つの風景がある。それがたとえ同じ街の同じ場所であったとしても、靴磨きをする少年が見るのはひたすら歩く人々の足であり、ブルジョワが車の中からフロントガラスを通して見る風景は全くの別物である。その二つの風景の間には一本の線路がある。警笛がなり、線路の上を電車が走る時、人、あるいは車はその動きを阻まれることになる。唯一、その動きを阻まれる事なく対峙する二つの空間を移動することのできる鳩も、銃によって撃ち殺されてしまう。少年とブルジョワ娘の淡い親交も、恋人達の関係も一本の線路、あるいは電車によって隔てられているのである。そう、ここは愛と希望の断絶された街なのだ。
 この大島渚特集の組まれている東銀座の地下にある映画館は、ちょうど地下鉄の真下にあるのか電車が通るたびにその音と振動が伝わってくる。しかも、それがやけに映画と合っている。映画の音であるのか、現実の音であるのかしばしば分からなくなる。そんな錯覚に陥りそうになりながら、ふと今も電車(もしくはより多くの電車が)が走っているということに気付かされる。一体この電車は何を断絶しているのだろうか?

(田村一郎)
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■18日(土)
代表23名の発表

 23名の代表が発表された。号外まで出た。話題はもっぱらゴンと秋田の当選、そして俊輔の落選だ。イタリアでのバッジョ、ブラジルでのロマーリオを引くまでもなく、これは「国家」的イヴェントだ。トゥルシエの選択は、驚くべきものではない。ゴンと秋田はノルウェー戦がいかにトゥルシエにとってナイトメアだったかを示している。鈴木と柳沢では点が取れない。久保は何度チャンスを与えても爆発しない。だからゴン。フラット3が破られ、1対1に弱い宮本と中田浩。だから秋田。左サイドは小野とアレックスで十分(小野一人でも十分)。だから俊輔は(そして名波も)要らない。その意味で、市川と小野を入れ(市川は最終的には外れたが)、カズと北沢を外した岡田のときの方が驚いた。トゥルシエは穏当というか単純な人物だ。
 とは言いつつも、個人的には、名波と稲本を並べたボランチ、小野と中田を並べ、両サイドに清水のアレックスと市川を配置し、西沢(あるいは高原)のワントップで、3-6-1(フラット3の正否はともあれ)フォーメーションがベストだと思っている。最近の代表のどんなゲームを見ても、欲しいのは名波だった。名波、小野、アレックスの左サイド、稲本、中田、市川の右サイド──カッコいいでしょう! レバークーゼンみたい。両サイドから長短織り交ぜたパスがポケットビリヤードのように交換されゴール前にボールが運ばれるシーンは夢と消えた。ディフェンス? 左右のバランスがとれれば大丈夫だ。こんな中盤ができればロシアやチュニジアクラスならボールとられないと思うけど……。
 今回の23名の中では、パルマのセミレギュラーとアーセナルの2軍と2流のオランダのクラブチームのレギュラーを除けば、福西と森島に期待するしかないだろう。結局、俺も代表を応援しているのか?

(梅本洋一)
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■17日(金)
『バーバー』ジョエル/イーサン・コーエン

一体全体、何をすればいいのかわからない。かっこだけ真似してもなぁ。
タバコに火をつけたところでまったくもって何にも変わりはしない。
ぼんやりとした夢は人任せ。儚くも崩れ、憎悪は他人の背中にのしかかる。

真実などいらないんだよ、映画だからな。
犯人など誰でもいい。でっち上げればいいのだ。
信用できない?ならば、名前を挙げてやる。
ラングならいいのか、ニュージャーマンシネマではダメなのか?
じゃぁほら宇宙人のせいにしよう、それならいいだろう。
何、見えなければ信用がいかないのか?
見えなければ満足できないのならば見せてやる。
それもちょっとね。
じゃぁ無かったことにしようか。
世界との関わりを欠いた世界へ旅立とうか。

一瞬世界が見えていた。その記憶さえ忘却されて
世界は私との関わりを無視して進んでいるというのか。
ドアを開け外に出る。街を歩く人々は一体何を考えてたっけ?

こんなことでは、何も書いたことにならない。
一般には、泣き言はあまり聞きたくはないものである。
それでも人間か?誰かが罵ってたっけ。

(松井浩三郎)
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■17日(金)
『愛と希望の街』大島渚

『鳩を売る少年』が、原題である。そのものズバリ。誰が見ても納得する。一方、『愛と希望の街』。どうなんだろう。愛も希望もないじゃないか。なるほどこれは、松竹が勝手に決めた題名である。そのことの是非はともかく、『愛と希望の街』と名づけられたこの映画が『鳩を売る少年』のことであるのは間違いないが、だからといって、これが『愛と希望の街』ではない、と言い切れるだろうか。世の中には監督の意志とは無関係に、前篇と後篇とが逆の順番で映写されてしまう映画さえあり、それさえ受け入れてなお屹立する映画がある。監督の意志とは無関係の題名を冠されたこのフィルムもまた『愛と希望の街』でありうる。
 これは手の映画であるから。

 手と手の間、金銭が行き交う。小銭や札の移動の瞬間、クローズアップになった手と手は限りなく近づくが、貨幣を仲立ちにしてその距離がゼロになることはない。もしふたつの手で両側から支えられれば、動くことのない貨幣はたちまちその価値を失う。
 鳩は両手でしっかりと抱かれている。そうしている限り鳩を売ることは出来ない。動物の死骸の絵ばかり描いている主人公の妹は、抱かれた鳩が唯一の友達だ。フィルムの中頃唐突にあらわれる鳩の死骸は、他の抱かれた鳩のショットと違いを持たない。ふとした拍子に手が弛んだ時、鳩は飛び立ち、はじめて少年は鳩を売ることができる。
 金銭も鳩も間に挟まずに、唯一手と手が触れあう瞬間。教師の千之赫子と渡辺文雄の別れのシーン。彼女のきつく組み合わされた両手を彼のふたつの掌が包み込もうとするとき、深い感動を生むはずのクローズアップされた手と手は、しかし力ない逆回転のようにすぐに離れてしまう。からっぽの手と手でも繋がることが出来ないのか。否、千之赫子の堅く握られた両手の中には、もしそうしなければならないのならそれを売るしかない何か、が隠されている。死んだ鳩、道端のネズミ。
 最後富永ユキは兄の渡辺文雄に少年から買った鳩を銃で撃ち抜かせる。彼女がしっかり両手に抱いていさえすれば、その鳩は死んでいるのと同じなのだ。なのに何故、宙に放ち撃ち殺すか。彼女にはこのフィルムの中ではあらわれない愛を体現する意志があるから。そのためにはからっぽの手と手が必要なのだ。『愛と希望の街』=『鳩を売る少年』には愛が映りこんでいたりはしないが、間違いなく愛についての映画である。

(結城秀勇)
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■17日(金)
日本対ノルウェー戦

 様々なサイトを覗くと「一喜一憂する必要はない」「森島を使えば……」などと自らを慰めるような発言が渦巻いている。だが、とりあえずこのゲームは完敗。フラット3の弱点が徹底して露呈したゲームになった。インタヴューでトゥルシエは、「遠征で疲労が溜まっていた。このままのやり方を変えるつもりはない」などと発言していたが、顔は紅潮し、落ち込みは相当なものだったように見えた。確かにチーム全体の運動感もなく、選手たちの体も重いように感じられたが、それは、疲労によるものというより、ここまで完膚無きまでにやられてしまっては、手の施しようがないという絶望感に似ていた。解説の風間八宏の「これをクスリに修正を!」と繰り返す声が空しく耳に響いた。ゲームの途中で修正を行えない監督と選手たち。終盤の服部と小笠原の投入は、トレーニングのためか?「オトマティスム」は応用が利かない。だがそれが今のこのチームの現状だ。小野がときに見事なプレーを見せても、シュートまでゆくことはなく、中田は空しくパスの出しどころを探し、稲本のシュートは枠に飛ばない。ワールドカップ開幕まであと2週間あまり。決勝トーナメント進出どころではなく、予選全敗という98年のフランスの反復が現実味を帯びてきた。この症状を前に処方箋を提出できる人がいるだろうか。

(梅本洋一)
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■16日(木)
『トゥーランドット』アラン・ミラー

 1998年に中国・北京の紫禁城で公演された、プッチーニ原作のオペラ「トゥーランドット」。フィレンツェ歌劇場の指揮者と一流歌手が顔をそろえた舞台に、演出家として中国の映画監督チャン・イーモウが選ばれた。この映画は、そんな「国際的」な「融合」による歴史的一大イベントと呼ばれた舞台のメイキング・ドキュメンタリーフィルム(一部ビデオ)である。
 しかし、「融合」なんてどこにあるのだろうか。スクリーンに映し出されているのは、言葉の通じない人達が、通訳を介して、対立した意見を繰り返し、衝突し、「妥協する」と言いながらも不満げな表情を浮かべる。15世紀の明朝の宮廷衣装を身にまとった豊満な体のイタリア人女性が、自分の衣装を「こんな醜いもの着たくない」と文句を言う。中国を訪れたことのない作家が作り上げたそのオペラを、現代の映画監督が演出をし、15世紀に建造された紫禁城で、フィレンツェの歌手達が歌う。その世界は「齟齬」に満ち満ちたものである。一つの作品を集団で作るというのはそういう事なのだろう。照明についてのチャン・イーモウと照明担当の意見は結局最後まで解決する事はない。「融合(=溶けて一つになる事)」なんてありえないし、そんな事はお構いなしに時は経ち、初日を迎えれば舞台の幕は開かれる。オーケストラによって音楽が演奏され、歌手達は歌い、京劇役者は舞台を舞う。そして、会場は拍手に包まれる。
 そんな拍手の音と同時に聞こえる「全てが今ここに終結した…何一つ問題もなく。」という言葉がやけに空々しく感じられた。

(田村一郎)
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■16日(木)
『KT』阪本順治

 2002年5月6日。フランスではシラク大統領が極右の候補者を大差で押さえ、大統領選に再選。ミャンマーではアウン・サン・スー・チー氏が自宅軟禁を解かれ、軍事政権は国民の自由な政治活動を容認する声明を発表。韓国では金大中大統領が自らの息子が絡む疑惑に謝罪を示し、与党からの離党を表明。
 ネットニュースで幾つかの速報を見ながら、つい数時間前に観てきた一本のフィルムの事を思い出す。上映時刻の20分前に劇場へ着いた瞬間目にしたのは、年配の客の列。いつもなら空いているその劇場で、開演前の列、しかもこの客層の高さ。驚きとともに、納得をしてみる。そのフィルムは1973年8月8日に起こったある一つの事件をテーマに据えていたからだ。その事件は数々の謎を残し、事件の被害者はその後も過酷な運命を強いられ、そして現大韓民国大統領となる人物である。リアルタイムでその謎に遭遇した人々には気になるテーマであったろう。
 フィルムはラジオから流れる三島由紀と「盾の会」事件の中継報道から始まり、TVに映し出される金大中拉致事件に関しての日本政府見解発表で幕を閉じる。つまりそれは誰かが記憶を再生し、回想する映画でもなければ、現在に於いて過去の謎解きをする映画でもない。ただメディアが報道する「事実」の間に隠された「真実」を記録したフィルムなのだ。したがってここでは日付が重要なものとなる。いや日付だけが重要なのだ。日付はいつも歴史の項目の先に在る。事件が起きた1973・8・8。金大中が大統領となった1998・2・25。このフィルムを目にした2002・5・6。世界は、歴史は日付から始まる。事は後から起こるのだ。だがしかし日付によって記されるこのフィルムの中で、日付のない空白の時間(拉致された日本から、解放された韓国までの移動)は、最後まで記されることはなかった。ただ一発の銃声のみがこの一つのフィルム(事件)に一つの終わりをもたらしただけであった。
 2002年5月8日、中国の日本総領事館に北朝鮮人亡命者が逃げ込んだ。そこでは事件が闇に葬られないよう、記録映像が使用され、事件の一部始終を世界に発信した。映像が、事件の全容を捉えるために予め用意され、そして思惑通りに翌日のトップニュースを飾る。そこにはカメラがまずあった。それから起こる事態に備えて。事件(歴史)の隣に映像があったのではなく、映像によって事件(歴史)が作られたのかもしれない。事実、その映像がもたらした影響は大きかった。ひたすらに眼差しを向け続けた人物の思いが、一つの歴史を記したのは確かだった。

(和田良太)
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■14日(火)
『バーバー』ジョエル/イーサン・コーエン

 主人公である理髪師(ビリー・ボブ・ソーントン)は、自らを「亡霊」と呼び、「自分は生者の世界に取り残されているのだ」と嘆く。しかし、彼が連れられた処刑場の極度の抽象性と、彼の脚の毛を剃る「シャッ、シャッ、シャー」という音の驚くべき生々しさに触れるや、事態は全く逆であったことに気付く。すなわち、このフィルムにおいて生者とは彼一人であり、彼を囲む世界のすべてが、かつてあったものの痕跡、すなわち亡霊なのではないのか。亡霊たちの住まう世界に取り残された、非亡霊的存在としての自分。脚の毛が剃られる音は、彼の哀しみの徴なのだ。
『バーバー』の舞台となる1949年は、ハリウッドにおけるスタジオ・システムの崩壊と、それに伴うジャンル映画の消滅の初年度として記憶されている。このフィルムにおけるブラック・コメディ、犯罪映画、西部劇、SFといった異ジャンルの、いささか乱暴にも思える異種交配は、やはりノスタルジーへと収斂されているのだとしか思えない。いくつかの個別具体的作品からの引用は、この印象を補強し、確信に至らしめる。そうした時、亡霊とそうでない者を隔てる溝は、かつてのハリウッドと現代を隔てる距離と等号で結ばれ、刑場に引き出された理髪師の哀しみはこのフィルムの作家のそれと重なってしまうのだ。「失われたもの」を「失われつつあるもの」にすり替えることで生まれたこの鵺(ぬえ)のようなフィルムは、その作家がこうした不誠実に対して意識的であるがゆえに一層、「実行可能だが、実行しない」という現代的な倫理を逆説的に表出させている。

(中川正幸)
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■10日(金)
『人コロシの穴』池田千尋

 助監督として参加した映画美学校の卒業制作がクランクアップした。作品ができていく過程につきそう。当然フレームの外が見える。フレームの外、単純にフィルムに映っていない部分である。照明機材やカメラ、スタッフ、他にもオーディションや弁当の予約、機材の搬送、撮影スケジュール、現場の雰囲気ナドナド。それらが、いったいどの程度作品の出来に貢献しているかは分からない。ただ、バザンのミイラコンプレックスから始まった私は、フレームの外と対面することで、困惑した。
フレームに区切られた空間、そこは、役者があり、小道具があり、セリフがあり、カチンコの音ともに存在する。反対にそのフレームのちょっと外側には、シナリオを持ったスタッフが取り囲み、録音マイクがにょっと突き出て、照明が陰を、フィルターの入ったレンズが夕暮れを作る。そして完全なるフレーム内の舞台作りが行われる。つまり、フレーム内は物語中でしか有効でないのだ。かつてあった空間・時間ではなく、そこにはかつて作った舞台が映されている。さやさや揺れる木々の根本には必死に大きく体を動かす人たち。水面にぷかりと浮かぶ物体の下には巻き付けられた竿。フレームの内外、フレームの境界をあざとく消すことで生まれる映画のリアリティ。「映っている?映っていない?」舞台はそんな風に作られている。限られた時間、予算、場所。フレームの外では本当らしさをいかに作るかに直面している。
私たちの世界をカットすることで作られるフレーム。カットとカットをつなぐことでできる新しい世界。映らないものは、見えないのだろうか。見えないものは映らないのだろうか。見えるものは本当なのか。本当って何なのだろう。

(瀬田なつき)
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■10日(金)
『孤高』フィリップ・ガレル―青山真治対談(5/7東京日仏学院)

 夕方の青山通りは混んでいる。人通りも多いけど、それ以上に自動車の数が半端じゃない。渋滞。その上、タクシーが割り込み、バイクが横を抜けて行き、通行人が車の前を横切る。走り難いこと甚だしい。『孤高』の上映時刻は6時半。ビタイチ動かない渋滞に巻き込まれている僕は時計を見やる。6時17分。間に合うわけがない。遅刻もいいとこだ。
 そういうわけで映画を見ることはできなかった。しかし、上映15分前に会場に着いたという友人も定員オーバーで入れなかったというから、渋滞に巻き込まれなくても見れない事実は変わらなかったろう。満員御礼。「人が入れる空間がある限りは入っていただけます」という日仏関係者の方の御尽力で、ステージの脇に座って対談を聞くことができた。目の前にガレルの横顔。青山真治はほぼ真正面にいる。やー、いい席じゃん、ここ。遅れて得した。会場を見回す。本当にぎりぎりいっぱい人が入っている。満員御礼。凄いね、これは。
 対談は「ガレルが来日する前には必ず何かが起きる。97年の時はドゥブレ法の審議があり、今回は総選挙で極右政権が第一回投票を勝ってしまった」という青山の切り出しで始まった。それに対し「第一回投票の開票から第二回投票のまでの期間は悪夢だった。朝から晩まで、テレビを通じて我々の生活にファシストの豚が介入してきた」と答えるガレル。「『孤高』は何よりもジーン・セバーグについてのフィルムであり、また「秩序」を信じない、編集室のゴミ箱から拾ってきたフィルムの切れ端を繋いだような映画にしたかった」と語るガレルと、「しかしその映画を、その無秩序やバラバラなフィルムの質感や当時のジーン・セバーグの困難な状況もすべて含めて、現代の私たちは「これもまた映画なのだ」と思って見ることができる」と言う青山のやりとりはとても興味深かった。なかでも印象に残ったのは「70年代、我々の世代は革命を諦めたわけではない。革命によって生み出される死者の数を憂慮して、それを中断したのだ」というガレルの言葉だった。
「革命は戦争ではない」。日本人の僕たちの世代は、その言葉を真の意味で知らない。「革命」も「戦争」も経験していないからというのはもちろんだけれど、それはあまりにも語られなさ過ぎたし、僕たちも学ばな過ぎる。「革命」や「戦争」を美化したり、逆に卑下したり、物語化するということではなくて、それを僕たち自身の問題として考える訓練が足りない。日本で68年世代を代表する作家が村上春樹と高橋源一郎であるという事実は、そのことを象徴的に物語っているかもしれない。
「私たちはテレビに映る人と豚の区別もつかない」と青山は言っていた。それはまさに僕たち自身の問題だ。ガレルの言う「悪夢」が、日本では日常になっている気がする。「悪夢」のあいだに途切れ途切れ、中断された革命の音が響く。もちろん当時の事実関係や歴史を学ぶのも重要だけれど、その途切れがちな音に耳を澄ますことが僕たちには必要なのではないか。僕は『ギターはもう聞こえない』のヤン・コレットの顔を見つめるように、あるいは『月の砂漠』の三上博史の顔を見つめるように、強い照明の当ったガレルの横顔とガレルに視線を注ぐ青山の顔を見つめながら、そんなことを思った。これもまた映画だ。

(志賀謙太)
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■8日(水)
『害虫』塩田明彦

 登校拒否、援助交際、レイプ、自殺未遂、離婚再婚、ヒッチハイク、暴力、流血、友人の噂、同級生や小学校の先生との恋愛。まず、少女はただひたすら巻き込まれる。まるで、不穏な響きの言葉が彼女を包囲しているかのようである。蒼井優も言っていたがつまり、「あまりにも災難に遭いすぎている」。だが、少女自身は自分の環境を不幸だとか、他人に愚痴ったりはしない。彼女はただただ健気で鈍感である。母親も、義理の父親も、新しい恋人も、無言で受け入れる。そんな少女が、自分の意志で目指し会いに行った元教師はタイムオーバーで再会することはない。少女は、リンゴを残して去っていく。以上より思ったのが、これは『シンデレラ』に似ている。ヒロイン像を兼ね備えた宮崎あおいもそうだ。
 このフィルムが『シンデレラ』に収まらないのは、始まりも終わりもないからである。王子様を見つけても、家を退治しても、起承転結で言えば、起起起起。それらは、物語を展開することはない。ひたすら、このフィルムで映されるものは、周囲である。こぼれ落ちるビー玉。ずらっと並ぶ熱帯魚の瓶。後部座席で眠る少女の隣のリンゴ。冷蔵庫から取り出される瓶入りヨーグルト。突風に吹かれ舞い上がる髪の毛。ポケットにつっこまれた手。屋根の足場を歩き回る二人。文字によってのみ介される手紙。中心部分は映されない。羅列されるシーンは、何かのきっかけなのか、結果なのかわからない。だが、宮崎あおいはひたすらハッピーエンドのきっかけを探し続ける。壊れてしまいそうな危うい少女の立場は、始めから終わりまで変わることなく、きっかけのみを提供する。まるで巨大な予告編のようであった。

(瀬田なつき)
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■5日(日)
『そして愛に至る』(『和解の後で』)アンヌ=マリー・ミエヴィル

 「あいつ何してるんだ?(Qu'est qu'il fait?)」
 「走ってるのよ。(Il circule.)」
 ロベールとカトスと「女」は車に乗っている、「女」は名前を持っていない、だから「女」だ。「対話か会話か」−3人のテーマはこのどちらかだという。フロントガラス越しの彼らの顔、続いてローラーブレードを履いた男が彼らの車にしがみつく。車の流れ(circuration)とローラーブレードの流れ(circuration)が重なりあう。バックミラーに映る男はえらく人相が悪い。「あいつ何してるんだ」/「走ってるのよ」−ロベールの言葉に「女」が応答する。そしてカメラは、車の流れとローラーブレードの流れがそれぞれ異なる方向へと流れてゆくのを俯瞰で捉える、上空から。
 ローラーブレードの男は車の後ろのしがみつくわけだ。二つの流れが合流する瞬間をカメラはとらえる。次のショットは彼の顔の映るバックミラーだ、そこで「女」の言葉がかぶせられる。つまりこの状態では、たとえ前方に男が見えていようと、絶対に彼には追いつけないということだ。追いつけない、つまり、絶対に遅れている。彼らの車は物理的には先行しているが、同時に、遅れてもいる。彼らが気がつくとき、男は既にそこにいた。
 このシーンにおいていつ和解が訪れたのか、と問うても仕方がない。和解は既に、いつのまにか訪れていた。ただあるのは流れ続ける運動だけ。そして「いつ和解が訪れたのか」と考えながら流れ続けるワタシがいて、そのとき既に他者が先行している。「和解の後で、話し続けるの」−和解の後で話し続けるワタシは絶対に他者に遅れている。そして言葉が積み重ねられてゆくなかでワタシもまたすぐに他者となる。ワタシは考える−ワタシは他者に遅れ続け、ただ積み重なるのは他者のみ。先行する和解に追いつくため和解を必要とし、先行する他者に追いつくため他者を必要とし、先行する言葉に追いつくため言葉を対話を必要とする。が、もちろん追いつけない、あるのはただ流れという運動のみ。
「同じ場所に留まれば、和解は不可能となるの」−流れを止め、言葉を発するのをやめる、それは他者を打ち消し、いかなる和解をも打ち消してしまうこと。車は走り続け、「女」(ミエヴィル)はロベ−ル(ゴダール)に応答する−「il circuit」。言葉は遅れ続けるが、ローラーブレードは走り続け、車は走り続け、そして言葉は走り続ける。
「言葉はぶつかり合い、積み重なり合い…」−言葉は先行する言葉と出会う、ただし追いつけない、車がローラーブレ−ドに追いつけないように。上唇と下唇の離れる音、舌が上顎から離れる音、咽の震える音…、言葉が生まれ出るとき、それらの音が既にある。「Robert」−ミエヴィルからゴダールへの呼び掛け。そこには咽から生まれる「R」という子音が既にある。咽のなかで、子音のなかで、言葉は先行する言葉と出会い損ね続け、ただひたすら積み重ねられ続ける。他者は既にワタシの咽にある。
「俺は母音の色を発明した(省略)、俺は子音それぞれの形態と運動とを発明した、しかも、本然の律動によって、幾時かはあらゆる感覚に通ずる詩的言辞も発明しようと希うところがあったのだ。俺は翻訳を保留した」(小林秀雄訳)
 ランボーはもちろん、「私は他者である」と言い、貨幣はもちろん流通(circulation)し続ける。ミエヴィルはもちろん言い続ける−「Circulez!(止まるな!)」。「Robert」の「R」にはもちろん愛がある、多分。

(松井宏)
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■5日(日)
『ウィークエンド』ジャン=リュック・ゴダール

「成功しようがしまいがかまわない。こぞって書くことが不快なんだ」
「つまりは批評の問題か」
「とは限らない」
 足並みをそろえている暇がない。延々と続く渋滞の車を、右側から左側から後ろから前から追い越して、「性急」に「遅刻」しなければならない。道路脇でこれ見よがしに横転している車を脇目に見つつ。あれらは渋滞の理由を「なぜなら…」と語りだしはしない。赤い液体にまみれた人たちの横を通り過ぎようが、雨が降ろうが、車が羊に変わろうが、やっぱり遅刻する。
 誰もが皆映画を撮らねばならない。「何があっても、大丈夫さ。たとえ鉛筆と画用紙を使ってだろうと。カメラとフィルムを使ってではないかもしれないが、それは小説ではなく、ちゃんと映画にはなるだろう」。スクリーンの前からカメラの後ろへ。スクリーンの前でならこぞって書けるのかもしれないが、そこでは他にやることがあるので、しかたなくカメラの後ろで、書く。そこには書いている私と、たまたまそこに居合わせた「この私」がいるので、「二人三脚」の格好で書いたりもする。
 質問の答えに理由付けはない。「これは映画か、人生か」。「どうして」「だって」と言う代わりに、鉄屑の中からジーンズやジャケットをひっぱり出してきては、サイズもデザインも自分には不相応なのかもしれないのを承知の上で、身に纏う。宇宙をさまよって盗みを働く。乳房と乳首のどっちが好きかなんてわからない。両方とも好きだ。
「じゃあ月曜日に」
「月曜日に」
「月曜日に」
ああ、またしても遅刻。

(結城秀勇)
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■5日(日)
『ビューティフル・マインド』ロン・ハワード

『トゥルーマン・ショー』と間を置かずして、『エドTV』が公開されたとき、その物語や設定の類似から両者は何かと比較されていたが、ロン・ハワード自身はこのようなコメントを残している。「これは『トゥルーマン・ショー』のような“トワイライトゾーン”的エピソードではない。実にリアルな現代の話なんだ」。
 ロン・ハワードはずっと「物語をリアルに語ること」にこだわっているようではある。物語が語られ続けていく上で、我々の脳裏に「?」というマークを浮ばせる隙を与えぬための緻密な描写を欠かさない。そして『ビューティフル・マインド』もそのようにして撮られたのかもしれないが、どういうわけかぼんやりとした「?」のマークが脳裏を掠めるのだ。
「今まであると思っていたものが現実には存在しなかったと分かったときの恐怖は…」とかいった台詞があったが、確かにそりゃかなりの恐怖だろう。あるものが実はないんだから。さて、ここで「あるものがない」ことと「ないものがある」こととは識別されるべきだ。幻覚とは「ないものがあると捉えてしまうことだが、その症状の自覚は「あるものがない」と知ることによって為される。しかし、「あるものがない」ことに怯えている人を、他者は「ないものがある」ことに怯えているように捉え、そこに何かしらの齟齬が生じている。では、観客である我々はどう捉えるかと言えば、「あるものがない」のだと捉えるだろう。だって見えるんだから。しかも、向こうはずっとこちらを見ているのだ(そういえば、主人公は「あるものがない」ことに怯え出す前に、まず「見られること」に怯え出している)。
 我々の脳裏に「?」を点滅させるのは、その齟齬、「あるものがない」と「ないものがある」という認識の差異が意識されぬまま撮られているからである。これは、この映画は誰の視点で描かれているか、という問題を考えるとはっきりしてくるだろう。この映画では、ないものを見せる演出が徹底して行われている。ならば、主人公の視点で描かれていると考えるのが一番自然だろうが、一方で、主人公は常に見られているように撮られているのだ。ならば特定の視点は存在しないってことなのだろうが、厄介なのは、「あるものがない」ことと「ないものがある」ことを分別せず、ずっと主人公に視線を送り続ける人がこの映画の中には存在してしまっていることだ、本当はないものとしてある人々が。そして我々もまた視線を送りつづける者であるために、「あるものがない」ことと「ないものがある」ことの分別がつかなくなっていく。見えるものを信じることを、この映画は許してくれない。奇しくもこの映画がまったくリアルに撮られ得なかったゆえに、ここで語られる物語は我々にとってリアルなものになってしまっている。

(黒岩幹子)
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■4日(土)
『害虫』塩田明彦

 パチンコ店でバイトを始めてもう2ヶ月が経とうとしている。それだけの期間、同じ場所で働いていると、さすがにその空間に体が順応してくる。その中でも特に最近は自分の聴覚の順応性に驚かされる。一度パチンコ店に入ったことのある人なら分かるだろうが(いや、入ったことの無い人でも容易に想像がつくだろう)、そこにはすさまじい騒音が鳴り響いている。トランス系のBGM、パチンコの玉がなだれ落ちていく音、店員の掛け声、数種類のサイレン。バイトを始めた当初、それまでパチンコ店に足を踏み入れたことの無かった私の耳は、それらの音が一斉に全て同じレヴェルで騒音として認識することしかできなかった。それが次第に、一つ一つの音を聞き分けられるようになり、現在にいたっては、我々店員にとって必要な音のみを感知する事が可能になる。トランスも、玉の音も感知せず、仕事をする上で聞かなくてはならない音のみを認識するのである。しかし、このことはパチンコ店という一種異常な空間がもたらす特殊性では全くない。それは、我々が日常において必要な音とそうでない音を本能で聞き分けているという事と殆どかわりの無い事なのだ。音とは「聞こえてくる」(そしてそれは同時に「聞こえない」)ものではなく、「聞く」ものなのである。
 床を激しく叩く音、机を引きずる音、人の泣き声、街中に響き渡る飛行機のジェット音。この作品の中で聞こえてくる数々の不快な音はまさに「聞く」音である。人はそこにサチ子のその後の運命を予期したりするかもしれない。しかし、それだけではない。スクリーンからは絶えず音が流れている。そして、それらの音はサチ子の日常をより生々しく伝えているのだ。スズメの鳴く音、稲穂がゆれる音、車の走る音、女子中学生の足音。そう、むしろそういった「聞こえない」音を「聞く」事で、我々は日常の新たな一面を発見することが可能になる。

(田村一郎)
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■1日(水)
細野晴臣&WORLD STANDARDインストアイベント

 去る4月3日にデイジー・ワールドディスク(細野晴臣主宰のレーベル)から同時に発売された「V.A/ストレンジ・フラワーズvol.1」と「ワールド・スタンダード/JUMP FOR JOY」。この2枚のCDを両方買えばイベントに参加できるという、タワーレコードの販売戦略にまんまと乗っかった私は、4月29日、みどりの日。人のごった返すタワーレコード新宿店に赴いた。
 17時定刻通りに、ワールドスタンダードのメンバーが登場。新譜からの1曲とヴァン・ダイク・パークスのカヴァー含めた計3曲のミニ・ライブ。体調があまり良くなかったからか判らないが、どこかに座って、お茶したり酒でも飲みながら、だらだらと聴きたくなって来る。こんな風に大型レコード店の真中で突っ立って、真剣に聴くためにある音楽じゃぁないよな、この聴き方はちょっと違うよな、と。
 “ワールド・スタンダード”とは、20数名のメンバーを含む大きなグループだということを今日知った。これだけ大人数のグループを率いているにも関わらず、鈴木惣一郎という人に対する私の勝手なイメージはと言えば、細野晴臣の後ろを三歩下がって歩いたり、たまに並んだりしてみながら2人同じ方見て歩いてる、って感じだった。90年代の細野晴臣を後追いすると、必ずと言っていいほどそこには“鈴木惣一郎”の名前がちょこんとクレジットされていたりする。85年に国立競技場で行なわれたはっぴいえんど再結成ステージで「さよならアメリカ、さよならニッポン」のバック・コーラスを務めていたというのだから、細野晴臣との付き合いはもう20年近くになるだろう。これだけ長く付き合っていて自分でも色々やってたら、先達を超えてやろう、とか、もうそんなの古いぜとかって、違う方向に走り出すものじゃないのかと思うのだが、ミニライブ後の2人のトークで細野晴臣が「今僕は高橋幸宏をプロデュースしようとしていて、すごく良くなりそうなんだけど、世界の坂本(龍一)くんにも曲書いてもらってて,,」と近況報告した時に発した鈴木惣一郎の「それってYMOじゃん!」って突っ込みの中には、小西康陽が「ティン・パン再結成とかって、すごい嫌だった」と言う時のような反発感情は無い。
 「あとは廃盤になった細野さんの『omni SightSeeing』を監修して再発出来たら言う事無い。」と言う鈴木惣一郎にとっても、5月末に発売されるはっぴいえんどのカヴァーアルバムはひとつの節目である、とのこと。「6月のライブで、“さよならアメリカ、さよならニッポン”を細野さんと演らせて貰って、そこで僕は一旦昇天しますよ(笑)。時代がひと回りしたって気がする。」昇天した後の鈴木惣一郎は、何処にゆく??
 カヴァー・アルバム「HAPPY END PARADE」は、omniな人々のomniな終止符になって、何年後かに振りかえった時に、2002年の「HAPPY END PARADE」以前以後という言い方さえ出来るかもしれない、などと言ったら、はっぴいえんども80年代のハリー・ホソノも知ってる人なら、ふふん、と鼻で笑うだろうか。「細野晴臣なんて、過去のヒトさ。」言たきゃ言えばいい。私は、暫し、デイジーワールドの方角を見て歩こう。


Daisyworld HP→ http://www.daisyworld.co.jp
WORLDSTANDARD HP→ http://www.quietone.net

(澤田陽子)
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■1日(水)
リュック・ボンディ演出、チェーホフ作「かもめ」

 チェーホフの憂鬱。憂鬱という言葉を広辞苑でひいてみた。「気が晴れ晴れしないこと。気がふさぐこと。」確かに、登場人物はみな、すっきりしない。明るい空間の中で、楽しそうに暮らしているのに、そこには停滞した空気がただよっている。奴らはよく、舞台上をうろうろする。間延びすることを恐れずにゆっくりと。何度もそんなシーンがあった。彼らは時間を浪費することを恐れていない。全ての人物は、キャラクターを誇張して演じられていた。コミカルで、愛くるしい人たち。それが下品で突拍子もなく感じなかったのは、全ての行動にしつこいくらい理由付けがされていたためだろう。うろうろゆらゆら。最後、トレープレフが自殺したことを、母親に告げようとする時も、途方にくれてうろうろ。その、運動の中途半端さによって、悲劇までの深刻さは生まれず、「なんとなく不幸」という雰囲気がつくられている。白っぽい、淡いパステルカラーの舞台に、明るい照明。劇中劇の幕に使われるピンクの大きな布が舞台中央で揺れている。そんな空間で作られる、「なんとなく不幸」な空気は、いつ終わるかもわからないし、解決するならラッキーぐらいの、諦めに近い感情。時間はまだまだある。そう思いこんでいる人たちには、悲劇は起こりようもない。ただ、ちょっと面倒くさいことがおきるだけ。ピンクの布がお馬鹿なひとたちと一緒にゆらゆら、平和そうに揺れていた。

(古川望)
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■1日(水)
テアトル・デュ・ソレイユ番外公演

 田舎の農場。その敷地内の3棟続きの倉庫が劇場だった。
 筋書きのある演劇ではなく、子供たちが踊る舞台。どこの国のものかはわからないけれど、古めかしい衣装を着て、全部で20人ほどの少年少女が、踊りを披露する。舞台装置は何もなく、白い木の床で、背景は大きな黒い幕1枚、天井には三角の屋根にそって、紋の入った真っ白な布が張ってあった。舞台は高くなっていて、まわりに階段状の段差がつけてある。舞台と客席の間に、蝋燭立てのようなものが一列に並んでいた。照明はのっぺりとしていて、中心にスポットがほんのりとあてられているが、くまなく明るい感じ。舞台脇で、大人4人がアコーディオンと太鼓を生演奏。ぱっと見能の舞台のよう。そう感じたのは、隣の棟の赤い壁に仏の絵が何十体とかかれていたり、舞台と関係ない場所の照明が、東洋っぽかったりしたせいもある。とにかく、舞台上の白(天井と床)が、神聖なまぶしさを放っていた。
 わたしはこの公演で、空間芸術というものを肌で納得できた気がする。少年たちは、四角い舞台で、くるくると模様をかきながら、やたらめったら速く、顔をしかめ、汗を撒き散らし、時には声を張り上げ、手足をならす。見せ場を奪い合うように、自分たちの技を我こそはと客席にアピールする。逆に少女たちはひたすら優雅だった。花を片手に、すその長い服を着て、舞台上をすべるように舞い踊る。子供たちの姿は、豊かさを祝福する儀式のように思えた。楽園、豊穣、祝祭、神。なにか大きな存在に感謝を表すこと。純粋な信仰とはこういうことなのだろう。
 ダンスだから、役の感情を演じる必要がない。それゆえ、子供たちの全開の笑顔には、ものすごいエネルギーがあった。本当に楽しそう。大人ではなく、子供だからというのもあるだろう。彼らの表情が、祝祭に強度を与えていた。
 舞台を中心に広がる空間が、まるで巨大な彫刻のように、イメージを形作っていた。子供たち、白い床、赤い壁、音楽、まわりの農場、そこにある様々な要素が、そこに集結していた。目に見えないはずのものを空間に出現させる。物質に近いイメージ像。
 他の劇場では絶対にできないことだ。あの場所あの時間にだけ現れた、偶然の幻のようなもの。奇跡に出会った気がした、とは言い過ぎだけど、あんなやりかたされたら、誰も、勝てない。

(古川望)
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