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■28日(木)
『ex-music』佐々木敦
あとがきから読んだのが悪いのだが、そこで著者が1989_2002もの長い間ずっと同じことをしてきたのだと驚きとともにうなだれているので、この分厚い本を手に私もぐったりとしてしまう。まるで辞書のような(厚さの)
この本には同じことしか書いてないのね、と。さて、読む前からやる気を削がれるところだが、ここで挫けてはいけない。
この中で著者は「『資料』的な役割は他に譲るとして」と何度か断わりを入れているのだが、もちろんそんなことはない。いくつかのパートが「〜を紹介したい」という見出しで始まったり、CDのライナーノートからの収録もあるようにそれは十分に役に立つようにつくられた書物である。なぜならここで書かれている事柄とは「音楽を外側に広げていく」作業だからだ。いまある音楽の輪郭を広げるにあたっては、つまり未知のものを音楽のいまある音楽の隣に並べていく作業である。知らないものを知る作業の傍らに置かれるべき本書が役に立たないことなんてないだろう。
そしてそれが最終的には「ボーナストラック」として様々な未分化の音楽に新たなジャンルを与えていく作業に至る。著者いわく、「凡人はジャンルを軽蔑し、賢人はジャンルを発明する」と。さてここでは13の新たに(?)名前を与えられた音楽がそのジャンルの解説と共にCDのコラムが掲載されているのだが、最後にもうひとつ「どうにも名付けようがない音楽」として「???」というジャンルが立ち現れる。ここのCD解説がやたらにおもしろい。その音楽がいかにいいかげんか、いかに無意味か、いかに理解不能かということが切々と語られているのである。きっとこれらは「音楽」の外側にあるのではなく、その内側にあってこそなお謎なものなのであろうと推測される。
あ、先に言っておきますが、きっとここだけ読んでも楽しくないです。490ページに渡る著者の広範な音楽の幅に付き合ってなお、理解不能ということに意義があるのです。もちろんここだけ読んでもなんのためにもなりません。
(中根理英)
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■28日(木)
『とどまるか なくなるか』瀬田なつき
「ユリイカ 11月号」に収録されたジャン・ドゥーシェによるロメールへのインタビューでは、自作を貫く倫理とそれらを支える論理的根拠が、ロメール自身の口から明快な口調で語られている。同時録音、ズーム、自然光、偶然性等々、彼の思考と作品の(当然といえば当然なのかもしれないが)その見事な符合にはすっかり納得させられてしまう。しかし、ひとつ気になるのは彼が頑なに守ってきたもうひとつの倫理、すなわち16mmフィルムという技術的選択については何も触れられていない点だ。単に聞かれなかったから答えなかっただけかもしれないが、思うにカメラが持つ即物性の前で、16mmか35mmかというヒエラルキーの成立を、彼は端から認めていないのではないだろうか?それは「写真においてもいくらか粒子の粗いものを好む」という彼の生理的な嗜好や、経済的な問題から自然と16mmという選択に落ち着くわけで、いずれにせよカメラを向ければ、やはりそこには現実が映されるのだ。
映画美学校製作による瀬田なつきの処女作『とどまるか なくなるか』は、デジタル・カメラとフィルムというヒエラルキーを粉砕する。主人公の少女を取り巻く親しい人々が次々に世界から消えていくという設定は、それのみで私たちに一切の想像力の行使を禁止する。彼らは消えたから消えたのだし、そんな時に残された少女が何を思うかなど分かるわけがないのだ。瀬田のデジタル・カメラは、あらゆる意味内容から切断された少女の身体の所作をひたすら即物的に追いかける。少女の唇と真っ赤なスイカの間に一筋の涎が橋を架けるとき、その官能性のかけらもないショットを前にして、やはり私たちは映画のおそろしさを確かめずにはいられないのだ。
渋谷ユーロスペースにてレイトショー公開中 12/6まで(http://1stcut.netfirms.com/)
(中川正幸)
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■26日(火)
ラグビー早慶戦
74対5という信じがたい点差で早慶戦が終了した。日本代表と少し昔の5カ国対抗国あるいは南半球3カ国(ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ)のゲームほど点差をついたゲーム。こういうゲームをミスマッチと呼んだものだったが、対抗戦という原則(忘れられてしまったが、リーグ戦のように、複数のティームが優勝を争うのではなく、毎年、同じ時期に行う定期戦)がある限り、これをミスマッチとは呼べない。それに慶應だって大学選手権に出場を決めている強豪ティームなのだ。現に前半は17対0。慶應が十分に対応可能な点差だった。
確かにSHの田原、SOの太田尾、センターの山下の3人は素晴らしい出来だったし、その陰に川上、羽生という往年の石塚武生を思わせる両フランカー(早稲田では両ウィングを除くバックスよりも小柄)の圧倒的なボールへの執着心とタックルがあったことは認めよう。敵よりも早くボールに寄り、ボールを連続支配し、BK陣の出来が良ければ、このくらいの差がつくのが現代ラグビーかもしれない。低く早いタックルで早稲田に対応していた慶應もディフェンスの足が止まれば、早稲田にトライの山を許す。後半のラスト20分の早稲田は生タックル付きの練習をしただけだ。こんなはずではないと慶應が考えている内にゲームは終わってしまった。慶明戦で慶應のディフェンスは良かった。BK陣に確実な切り札のない慶應はディフェンスを徹底的に鍛えて早慶戦に臨んだはずだ。ドリフトではなく、シャローで前に出るディフェンスは前半こそ早稲田を苦しめた。
では今年の早稲田のキャッチフレーズ──Ultimate Crush──そのままに圧勝した早稲田の勝因は何か? もちろん上記の個々の技術もあるだろう。しかしそれ以上に、このゲームの早稲田とそれ以前の早稲田を隔てているのは、ラインの深さだ。以前の早稲田なら、SHから離れてはいるが、低い位置に立つ太田尾のロングパスでスペースを作ったが、このゲームの早稲田は、対帝京戦よりもずっとラインが深かった。シャロー・ディフェンスで来る相手はあと数歩走らなければトイ面に届かない。深い位置に立ち、長いパスを放れる太田尾、そして深いが近い位置に立つ両センター。ライン際に位置する両ウィング。こうした布陣でノックオンせず、両センターがパスのタイミングを間違わなければ、両ウィングは確実にトライ・ラインを超える。慶應のフィットネスが落ちてくる後半になれば、これで抜けるはずだ。事実、この日の早稲田は両ウィングがトライの山を築いた。そして慶應が外側に対応すれば、ラック・サイドで勝負。これが早稲田、清宮監督の作戦だったろうが、その通りになった。インタヴューで彼が満面の笑みを浮かべていたのは点差のせいばかりではないだろう。
慶應はどうすればよかったのか? こうしたラグビーを前にして勝利を収めるためには、まずフィットネスに勝り、確実にタックルでトイ面に勝ち、スピードあふれるアタックで相手を振りきるしかない。前半こそいい勝負で後半に大差という外国ティームとかつてのジャパンのようなゲームの教訓がここにもある。では慶應にそれができたか? フィットネスに劣り(後半足が止まった)、トイ面を倒せない慶應には勝機はなかった。点差が実力差だ。
そして早明戦。明治の気合いが勝ればいい勝負になる(それでも早稲田は最低4トライ獲るだろうから38対20で早稲田か?)が、早稲田の出来が良く明治の気迫が空回りすれば早稲田が圧勝を繰り返すだろう。それから対関東学院戦。これはプロップの勝負だ。スクラムなどセット・ピースでイーヴンなら、ボールを動かして早稲田の勝ち。それも30点ほど点差がつくだろう。関東学院はスクラム、ラインアウトで圧倒しなければ勝機はない。
(梅本洋一)
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■26日(火)
『まぼろし』フランソワ・オゾン
シャルロット・ランプリングが亡き夫の預金を使えずにお金に困ってしまうように、「sur le sable」(砂の上)とは「文無し状態」とか「仕事がない状態」などを意味する。『まぼろし』の原題は「sous
le sable」(砂の下)だが、しかしある地点から「sur le sable」となる。それだけは確かだ。
sousからsurへの明確な転換がある。それまで砂の上で危ういバランスをとっていた画面が急に騒がしくなる。夫の捜索チーム(ジープ、ヘリコプター)が海岸に侵入するのだ。それはシャルロット・ランプリングにひとつの転換を要求する。海を見つめる彼女を捕えたカメラがぐるりとその前方に廻り込む。そして彼女はカメラに引っ張られながら海岸を歩き始める。ヘリコプターの羽音に囲まれながら、つまりsousからsurへの確実な転換がこのとき訪れる。
そこから彼女は夫を眼にし始める。それを幻影としても亡霊としてもいいが、とにかく彼女は「見る人」となる。では「見る人」の第一人者イングリッド・バーグマンのようにランプリングもまた「とんでもない状況の前で為す術なく見つめるだけ」の女性なのだろうか。しかし彼女は死んだ夫を見る、「見過ぎる人」である。
夫の死という現在を認められない彼女は、同時に盲目なのだ。だからこの状況において彼女は再度彼女自身を生き直す。新たな幸福を発見することなく、ただ盲目的に反復する。そこでは習慣的な身振りが、外見は同じまま全く新しいものとして現れる。まるで、記憶がその都度全く新しいものとして現れるように、彼女はただ記憶そのものとなる。美しくなった自分に驚くのは彼女自身。つまりこれはほとんど記憶喪失者に近い。「見過ぎる」ことと「見ない」ことしかここにはなく、しかもそれらは同じだと言っていい。
『夜と霧』の霧とは、われわれの視覚を曇らすもの。ただし霧を取り除いたレネは、そこに廃虚を発見してしまう。この状態を「sur le sable」と呼ぶ。あるいは五月革命を思い出してもいい。パリの石畳の下に砂浜を発見してしまった五月。われわれは常に「sur
le sable」の状態なのだ。つまり「見る」とは、「見過ぎる」ことか「見ない」ことかの間にしか既になかったのでは、と。
ただ確実なのは、とにかく「見過ぎてしまう」ことにヘリコプターが絡んでいることだ。あるいはヘリコプターの羽音。「ヘリコプター&実体幽霊もの」映画についての試論が、われわれにはいつか必要だろう。
(松井宏)
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■26日(火)
『8人の女たち』フランソワ・オゾン
雪に囲まれた邸宅。そこに集まる8人の女性。男がひとり死んでいて、犯人は8人のうちの誰か。
登場人物=容疑者は完全に限定されており、8つの選択肢の中にひとつだけあるはずの正解を探す。8つの中からひとつだけ選り分けるという分類作業がいかにして為されるかといえば、切り返しという極めて映画的な編集作業に基づくことになる。序盤のファニー・アルダンの登場シーン、それまで互いに嫌疑をかけあっていた7人は、いままで話に出た中で最も疑わしい人物の登場を一列に並んで見守る。切り返しによって登場人物たちは1対多、少数対多数の関係に振り分けられ、少数派となった者たちは、負債を言葉によって購わなければならない。そしてその言葉によって女たちは新たなパートナー、新たなグループと組み合わされ、編集しなおされる。
結局、シロかクロかという選別が為されなければならないのだ。だが一見してわかるとおり、8人の女優たちは、服の色髪の色瞳の色肌の色メガネの縁の色靴の色、いたるところにクロを忍ばせている。一軒の家を包み込んだ雪の白さよりは、誰もがクロに近い。一面を埋め尽くしたシロに完全に対立するクロは、8人の女が同居するにはあまりに狭すぎる。彼女たちひとりひとりにそれぞれ一度だけ割り振られるシャンソンのシーンは、完全なシロとクロとの距離を均等に8等分したかのように、見事なまでに「カラー」なのであって、だから美しい。
見る見られるという関係が、見られる者の隠れた罪を絶えず暴き出してゆく(見られる者はむしろ自らすすんで告白するのだ)が、決定的な罪、このフィルムにおける唯一無二の罪は決して暴かれない。誰かが何かを証言することに対して、また他の誰かが何かを証言する。このアクションとリアクションの連鎖がこのフィルムを運動させていくのだが、この連鎖の根底にあるエンジン(すなわち男殺し)の回りをぐるぐると回りつづけるだけでそこには絶対に至らない。前提のすべてを覆すかのようなリュディヴィーヌ・サニエの発言も、その後に続く決定的なアクションの前では、微塵も効果をもたない。この決定的なひとつのアクションが宙吊りにされていたことで、その他のアクションとリアクションとが連鎖して、このフィルムのそれまでの部分を8人の女たちが共有することを可能にしていた。だがダニエル・ダリューの歌から全員でのダンスシーンへと移る流れの中ではもはや映像は誰にも属さない。
たったひとつのどうしようもない出来事を前に、8人の女たちははじめて一列に並び、ひとつの画面の中に収まる。もはや編集によって視線の所有者は保証されない。世界のすべてでありしたがって世界のどこにもないこの屋敷で、誰も所有しないしたがって誰のものでもある視線で、私たちは8人の女たちをはじめて見る。
(結城秀勇)
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■23日(土)
「ビロードの夜」at 佐賀町食糧ビル内ライス・ギャラリー
http://www.a-rest.jp/emotional-site/
この国では悲痛なことに建物が死ぬということについて考えなくてはならない。朽ち果てる、失くなる、のではなくて、死ぬということについて。
建物の複製可能性ということについて考えてみたことがある。世の中にはそれこそ星の数ほどに素晴らしい建物があるのだから、それをそのまま複製することができたなら、世の中が素晴らしい建物で溢れてそれはハッピーなことじゃないだろうか、というようなことだ。でも例えば、自分の家のとなりに急にヴィラ・サヴォアができたりしてしまったら、それは単にテーマパークだと皆は言うだろう。そこに間違いなくヴィラ・サヴォアがあったとしても、でも多分そこにはとなりの女学校はないし、公園もないし、それにフランスの空だって持ってこれやしない。では外国の建築を持ってくるのが難しいのであれば、近所の素晴らしい建物を複製するというのはどうだろうか。しかし、それもどうも難しそうだ。今見えている、一見なにげない普通の建物ですら、その場所にそのように建つためには、恐ろしいほどにたくさんの状況や人の意志やきっかけが関わっている。その場所の歴史というような比較的多くの人が一般的に共有している事柄から、建築家の家族構成や大工のその日の体調といった凄く個人的な事柄まで、それはもう本当にたくさんの事情の積み重ねだ。もうほとんど誰も全体像を把握する事なんてできないそんな事情の海の中で、ほとんど奇跡みたいな風にしてなにか強い意志が生まれたときに、素晴らしい建物が生まれ落ちてくる。恐ろしく複雑な即興音楽のような、そんな作業は、決して再現することなんて出来はしないだろう。だれかが「それで行こう!」と発言するのがちょっと狂っただけで、もう同じ建物は生まれ落ちやしない。
建物が死ぬ。というのは、おかしい。建物は普通朽ち果てるものだ。朽ち果てるというのは、建物をつくりだした星の数ほどの事情が、少しずつ希薄になって、とうとう誰もその事情についてわからなくなって、それこそ樹木の芯がカスカスになるように、建物でなくなって、朽ちていくということだ。もう誰もギリシャ神殿の柱の遺跡からは星の数ほどの事情を読みとることなんてできやしないように。死ぬというのは、突然、星の数ほどの事情がまだ星の数ほどに少なくとも銀河団くらいには星の数存在しているときに、急に失われてしまう、ということだ。急激に失われる体温。急激に色あせる皮膚。誰かが悪いとかそういうのではなくて、急激に色々なことが失われることがあまりにも唐突だ。
2002年11月24日をもって、江東区佐賀町食糧ビルは死ぬ。不良債権化し、新築マンションが建つらしい。それも事情だ。しかし、どんな事情であろうとも、建物をつくりだした星の数ほどの事情をただ単純にコロスことはあってはならない。事情が建物を生むのではなくて、繰り返すけれども、事情の海に奇跡の光が差し込んだときに、建物が生まれるからだ。新しい事情は、新しい事情の海をつくり出すだけだ。それも別に、塩味の海が突然砂糖味になるほどの変化じゃない。ちょっとビターになるくらいの違いでしかない。もしかしたら、いままでの海のレシピと新しい事情が絶妙の味わいを奏でるかもしれない。新しい事情が、まだ朽ち果てていない建物、星の数ほどの事情の輝きとともに新しい命を生きていけなかったことを、本当に本当に本当に悔しく思う。
2002年11月17日ビロードの夜。降り落ちてくる震えを持った音色と瑞々しく生まれ落ちたテキスト(それはそれは素晴らしい弔辞だった)と建物の確かな肌触りに包まれながら、僕はこの悔しさを深く心に刻み込み、何者にかはわからないが復讐を誓う。この食糧ビルを生み落とした事情の星団が、このビロードの夜に皆の心に降り注ぎ、事情の海から素晴らしい建物を生み落とす奇跡の光となることを祈りたい。
(藤原徹平(隈研吾建築都市設計事務所))
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■23日(土)
『バレエ/アメリカン・バレエ・シアターの世界』フレデリック・ワイズマン
バレエと言うと、地面に対して限りなく垂直に立った一本の棒のようになった身体が何個も集まって、その軸を崩さないように跳躍したり、あるいは軸をきれいに傾けてみたりする、そんなイメージがあった。だから、この映画がぐにゃっと地面に崩れ落ちた何人ものダンサーの柔軟体操のシーンで始まるのには、驚いた。うつ伏せになった身体がくるくると丸まって反っていって、足が頭の後ろの方から降りてきて、ぺたりと地面に着く。まあ、何をやるにしても準備体操は必要なもので、この光景はバレエ経験者にはいたって当たり前のことなのかもしれないが、これらのべたっと地面に張り付いた身体をいかに立ち上げ運動させるか、ということが「バレエ」なんだというような気がした。このフィルムはそのプロセスをとらえる。
地面にへばりついた身体を立ち上げ運動させるシステムの一部として機能するのが、振り付け師たちである。彼らの中にはもはやダンサーと同じようには、跳躍したり回転したりできない者もいる。立ち上がることもできない者も、何を言ってるんだかよくわからない者もいる。そんな彼らとダンサーたちとの仲介役を果たすのが助手であり鏡だ。それらが振り付け師とダンサーとの言葉や視線のやり取りを「翻訳」してくれる。ときには明らかに「誤訳」だったりもするのだが、振り付け師もダンサーもそんなことは百も承知だと言うように、システムはおかまいなしに進行する。
そのシステムにも機能不全が起こる。公演の演目が他の劇場とかぶってしまうとか、振り付け師の言う通りに踊ることができないとかの事態が途中現れるが、それらの事柄よりも深刻なのはダンサーの身体に起きる怪我や不具合なのである。このフィルムの特に後半にかけて、何度も繰り返し医務室のような場所が映し出される。ある男性ダンサーは言う。「寝ていることもできない」。地面にべたっと根付くことのできないダンサーは、垂直に立ち上がることはできない。
不具合を起こしたシステムの一部は冒頭のシーンに辿りつくために、緻密な微調整を必要とするのだ。そしてそれは「気長に頑張るしかない」ものなのだが。
(結城秀勇)
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■8日(金)
『メトロポリス』フリッツ・ラング/アール・ゾイド@神奈川県民ホール
この日の注目は次の2点に絞られていただろう。すなわち、長らく散逸していたフィルムの収集・デジタル処理によって復元された『メトロポリス』の「最終完全版」の上映と、フランスのアヴァンギャルド・ロック界の雄であるアール・ゾイドによるライブ演奏だ。
『メトロポリス』「最終完全版」は日本での現行版と比べると約1時間長尺となっており、その「追加シーン」の大半は映画冒頭部分に集中していたようだった。初公開部分は、父親と息子の葛藤、母親の不在、その母親を父と争った科学者の来歴など、何かおぞましいオイディプス的雰囲気に満ちており、「SF映画の金字塔」であるとか「ドイツ表現主義の最高傑作」といった常套句からは良きにつけ悪しきにつけ「はみ出した」格好であった。
留保なく悪かったのはアール・ゾイドによる演奏であって、CDリリースされている『ノスフェラトゥ』の方は未聴なので断定的なことは言えないが、どうも彼らには映画に対する奇妙な「媚び」と(おそらくは無意識の)「軽蔑」があるように思えてならない。ところどころ耳を奪う音があるものの、総体としては映画の「太鼓持ち」に終始しており、『メトロポリス』やフリッツ・ラングに対して今更オマージュを捧げてどうするのかという思いの一方、噴水のシーンでは水のせせらぎが、鐘が繰り返し大写しになるシーンでは鐘の音が聞こえるといった具合に、無声映画時代の監督たちが払ってきた「聞こえない音を聞かせる」多大な努力を平気で蹂躙する無神経さには、ほとほとあきれてしまった。無声映画期の傑作群に音楽を付けることに意義があるとすれば、すでに評価の定まった作品の未だ知られざる表情を露出させることにしかないわけだし、そのためには演奏者による作品への批評的な距離感が絶対に必要になるのだ。そうでなければビデオに収録されている醜悪なイージー・リスニングと本質的に差異はない。グレン・グールドならば、自分が好まない作曲家の作品を自ら演奏することを通して、その欠点を衆目にさらして見せたではないか。今夏、アテネ・フランセで行われた『戦艦ポチョムキン』とDOWSERのコラボレーションで忘我状態を経験した私にとっては、余りに不満の残る内容だった。
(中川正幸)
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■6日(水)
「横浜港大さん橋客船ターミナル」FOA
それは、本当はとても大きな建築物で、実際とても大きいのだけど、行ってみるとそれが巨大な建築であるという印象はほとんどない。それどころか建築物だという印象すら希薄だ。それは丘か、渓谷か、鯨か、船か、何しろ建築物とは別の何かであろう。あるいはそれは「横浜港大さん橋客船ターミナル」と呼ぶしかないのかもしれない。例えばこの建築物には、階段がなく、代わりに坂道ばかりで、行き止まりがなく、代わりに寄り道がたくさんできるようになっていて、ほとんど壁がなく(EVシャフトも壁がない!)、代わりに床が起伏し場所が意味づけられ(大きくふくらんだ床の下はホールになる!)、柱はなく、代わりに床自体で空間を支えている(駐車場階を見るとそれは橋のようでもある)、というように非常に独創的に建築物が考えられている。そういう建築計画的構造力学的な配慮はもちろんすばらしいのだけれど、この建築物のデザインにおいて決定的なのは、どの建物にも普通にあるであろう「手摺」と「ウッドデッキ」だ。様々に起伏している巨大建築物の表皮(つまりは床)にはひたすらに「ウッドデッキ」と「手摺」が、室内と室外の隔てもなく、ベタベタベタと巡らせれている。普通そういうルールなりシステムを人為的に設定すると、その全体としては人工的で強固な構造性を表現してしまうはずなのだが、ここでは様々な曲率に無理矢理にでも追従させようとするために起こる矛盾や歪みや細部のディテール表現の結果、むしろそれらは何か非常に自由で柔らかい存在であるようにも感じられるのである。どこの空間にも連続性と非中心性が溢れてしまっている。そしてそれらは、風が削り出す岩壁の模様や水が削りとる洞穴のような、装飾性すら獲得することに成功しているのだ。
一度夜にでも全速力で駆けめぐり(最高の体験だ!)、あるいは寝ころんだり座り込んだりしてみて欲しい。貴方が自由に振る舞えば振る舞うほどに、この建築物のデザインが持つ意味の奥深さ、到達点の高さに気づかされるだろう。あるいはクイーンエリザベスが入港しているときにでも訪ねていっても良いかもしれない。かっての横浜が持っていた、港町としての、そして国境としての、「都市の煌めき」、「都市の骨格」をこの建築物が再建しつつあることに気づくはずだ。あらゆる意味で考えて、この建築が現代建築の最高峰に位置しているのは間違いないだろう。唯一口惜しいのは、これに隣接する赤煉瓦倉庫の改修が最低の出来である点だ。あれでは、ディズニーランドより非道い。再改修を熱望したい。
(藤原徹平(隈研吾建築都市設計事務所))
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■5日(火)
慶應対明治・早稲田対帝京
大学ラグビーもそろそろ佳境に入る。2週間後の早慶戦の前に明確なイメージを持とうとして関連ある2ゲームを見る。
慶明戦は、良いゲームだった。34対21という点差はラグビーのゲームにふさわしい。現時点で両校とも実力を出しきった。夏前は惨敗続きの慶應が実にねばり強いディフェンスで次第に明治に追いつめた。突出したところはないが、ディフェンスのねばり強さは、好感が持てる。明治はアタックでもミスが多かった。ということはミスを減らせば勝機があるということ。
早稲田対帝京。帝京のディフェンスは凄いと聞いていたが、ザルだった。このゲームまで3戦無敗とはいえ、相手が弱かっただけだった。前半の20分過ぎから早稲田FWがボールを支配し始めると、お手上げ。64対10というスコアは実力が段違いであることを示すだけ。
さて早慶戦の予想だ。40対25で早稲田。慶應のディフェンスは称賛に値するが、早稲田のワイドなアタックを止められるか? おそらく前半は、イーヴンか慶應のリードで折り返すだろう。最大限、前半で7対20(慶應リード)までなら早稲田が勝つだろう。つまり、後半の15分過ぎから早稲田がボールを支配し始め、4〜5トライは取るのではないか。もし慶應のFWがボールを支配し続け、後半にもフィットネスが落ちなければ、慶應にも勝機はあり、僅差で勝利を収めるかもしれない。慶明戦と同じくらいの点差だろう。だが、慶應は早稲田を3トライ以内に押さえられるだろうか? 早稲田は、これまで競ったゲームをしてこなかったので、慶應のディフェンスに対してボールをリサイクルし続けることができるかどうかが勝負。ラインアウトは互角。スクラムでやや早稲田。BKとHB団で早稲田。慶應が勝つのは容易ではない。
その前日に行われた東日本社会人の東芝府中対サントリーは愚戦。前半に大量リードを奪った(19対38)東芝が、そのリードを守れない。フィットネス不足とゲームを読む力に欠けている。何よりもディフェンスについての決めごとが少なすぎる。44対38というスコアはトライの取り合いを示している。ディフェンスから入るという鉄則がない限り、ジャパンのラグビーの「開国」は遠い。双方に代表メンバーを抱える両チームのゲームにディフェンスが不在なのは納得できないし、両チームとも同じようなオーストラリア型のラグビーを展開するのもつまらない。これは早稲田にも言えるが、オーストラリア型のラグビーはもうお手本ではない。サッカーでアリゴ・サッキの4−4−2を今模倣するように時代遅れだ。大男たちがボールをリサイクルしながら穴を見つけていくラグビーを小男たちが模倣しても時間の無駄だ。前回のワールドカップの反省から、あれほどジャパン・オリジナルの追及が叫ばれたのに、もう忘れられているようだ。
(梅本洋一)
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■5日(火)
『アバウト・ア・ボーイ』クリス&ポール・ウェイツ
ヒュー・グラントの顔ってヤサ男の見本って感じで何か苦手なのだけど、それがやたらとはまった映画。何でも原作が『ハイ・フィデリティ』と同じくニック・ホーンビィだそうで、妙に納得してしまった。
しかし最近この手のラブ・コメディ映画はひと昔前の歌で物語をひっぱる傾向があるのではないか。この映画はバッドリィ・ドローン・ボーイなんて今どきのミュージシャンが音楽やっているのだけど、物語の鍵になるのは30年も前の「killing
me softly with his song」だし。『ベスト・フレンズ・ウエディング』のディオンヌ・ワーウィックとか(因にその監督がその前に撮った『ミュリエルの結婚』はアバでした)、『ノッティングヒルの恋人』はコステロの新曲だったけど、エルヴィス・コステロって人自体がもうひと昔前のポップスの象徴といっても過言じゃないだろう。挙げればきりがないけれど、そういった映画に限って妙に素直に見てしまうのもおかしな話だ。
結局はコメディ映画のリサイクルという話と関係してくるのだろうが、これはミュージカル映画の問題にも関わってくるのではないかと思う。ひとつの要素としてはともかく、ジャンル映画としてミュージカル映画を成り立たせることは今ではほぼ不可能と言ってもいい。でも、だからこそ余計ミュージカル映画を撮りたくなる人も多いだろう。そんなわけでミュージカル映画のおいしい部分だけを使って、あとはコメディ映画の系譜になぞって撮る。こういった具合なのではなかろうか。だから、ラ−ス・フォン・トリアーあたりのひねくれた人(悪口ではない)は、そんなやり方がいやで、悲劇をやっちゃうわけだな。
しかしこういった手法の良質な映画はここ数年でかなり量産されてしまった感もあるので、そろそろ過渡期に入ってほしいところでもある。
(黒岩幹子)
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■5日(火)
『メトロポリス』フリッツ・ラング
久しぶりに桜木町に降り立つ。日曜のみなとみらいはひとであふれていて、神奈川県民ホールへ向かうバスを待つ間、実家から出て来て初めて桜木町駅を降り立ったときに、周囲の騒音から取り残されて、「これが都市というものか」と思ったことを、思い出した。
「神奈川国際芸術フェスティバル」の一環として上映される今回の『メトロポリス』のプリントは、「最終完全版」と銘打たれたものであり、現在ビデオ等で普及しているヴァージョンより30分ほど長い。当然未見のカットが多数表れることはもちろんとして、加えて存在したはずのシーンでありながらも現在その所在が不明なもの、フィルムが現存していない場面がインタータイトルによって説明される。よってストーリーにも大幅な変更があり、『メトロポリス』ってこんな話だったっけか、と思う程である。
ただもちろんそんなことはどうでもよくて(実際ストーリーにどんな変化があったか既にほとんど忘れてしまった)、ただ未見のカットが出る度に感嘆の息をつく。無論そのショットがただ見たことがないものであるからではなく、そこに写っているもののために、である。初見だった冒頭の徒競走のカットに驚嘆するのと、2度程見たことがある仕事に向かう労働者と仕事から帰る労働者が交差するシーン(まるで『回路』の亡霊のような動き!)に息を飲むのとは本質的な違いはない。
こんな当たり前のことに言葉を費やすのは、この『メトロポリス』という映画がこのようなヴァージョンの変更、世界各地で異なる編集をほどこされたり、色彩がつけられたり、音が付けられたり(今回の目玉であるはずのアール・ゾイドの音楽について私はふれていない)、といった事態を何度も経験しているからなのであり、この「最終完全版」の出現においてもそこに終止符が打たれるということにはならない。
かといって、このどこまでも変容を続ける1本のフィルムを、安易な比喩によって変容を繰り返す都市と結び付けることを、私は自らに禁ずる。これはどこにも(その本来の姿が)ないまま膨張する幻想の都市などではなく、眼前に迫る映像の連鎖だ。そもそも映画とは絶えず変化を続ける運動の記録なのだ。『メトロポリス』は都市そのものだ、などという代わりに、『メトロポリス』は映画である、とだけ言おう。
(結城秀勇)
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■2日(土)
ロード・トゥ・パーディション
サム・メンデスの二作目は『アメリカンビューティ』が現代を時代設定に社会的なテーマが物語りになっていたのと比べ、あまりにもクラシックな作風になってしまったため、CUTなどの雑誌でもやはりそういうことがインタビューでふれられていたりする。
なるほど、1930年代という時代設定ばかりでなくロ-ド・トゥ・・・とタイトルにある通り車が疾走するのを遠景で捉えたシーンが多く使われていて、ただひたすら車が走っているのを眺めることになり、そんな車の疾走を眺めているだけで具体的な作品名が思い浮かばないまでも古典的な印象をいとも簡単に据え付けられてしまうだろうと。ただ『ロード・トゥ・パーディション』ではクラシック映画を指標して撮られたのではなさそうであり、新世代監督がヒッチコックに還っているのではないであろうと感じさせられるのは、ジュード・ロウの役柄が、死体を撮影するカメラマンであり、かつ殺し屋として登場するところなのではないのだろうか。
なぜジュード・ロウ扮する殺し屋が引っ掛かるのかといえば、彼が殺し屋であり、かつ死体を撮影するカメラマンであるという設定、この死体を撮影するカメラマンというどこか強引でもあるような設定はそうでなくても話は語れるということ自体でそこがポイントであるかのようなものでもあるのだが、この映画自体がジュード・ロウなのではないかと考えてしまうのだ。『ロード・トゥ・パーディション』という映画自体がどれだけ格好良く人が死ぬ場面を撮影することができるかということにも賭けられているのではないかと考えてしまうほど、かなり派手に人が死にその数もかなりの人数なのだ。トム・ハンクスがマシンガンを乱射するシーンは「北野武てきな・・」と群像でもふれられている通り、銃声が消され、映像のみになった画面でまさにどこから弾が飛んでくるのかも分らないという状況で大量に人が撃ち殺され、逆にポール・ニューマンは銃声のみで画面にそれは映し出されること無く殺され・・
その後、トム・ハンクスはもう一人殺害した。入浴中を襲ったその殺害のシーンは、銃声のみでその殺害が演出されたあと鏡にもなっている扉がゆっくり閉まることによって、バスタブの中にある血まみれの死体が徐々に映し出された。もちろん、ラストのトム・ハンクスの死は、窓の外を眺める彼が突然背後から弾を撃ち込まれるのを窓の外から捉えた画面の美しさのみならず、息子との別れが感動的でもあるのだろう。そこにジュード・ロウ扮する殺し屋が写真家であった必然性があるのではないかと。だから、どうということでもないが。
ただ、『アメリカンビューティ』の、上司に突然逆らって自分から仕事を辞める主人公であるとか、左右対称の固定ショットで捉えられた食卓であるとか、似たようなものがあの映画からその後たくさん派生してきていたような気がし、そういったものの総称として「新世代監督」などと言ってみても無駄なことではないであろうとは思う。
(志賀正臣)
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