この黄緑の表紙には、いささか魅かれる。「MODE, in Fragments」と題された「リトルモア」冬号の特集はもちろん「MODE」。
かつて版型が小さかった頃の「リトルモア」は、驚きとともにやたら納得させられる対談の組み合わせが魅力だった。しかし、版が大きくなってからはそんな対談も消え、それこそ本当にfragmentsなのだ。
いいでしょう、大文字の「MODE」にfragmentsを対置させようとするならある程度納得しよう。今号には海外や国内の大御所デザイナーの名前もなく、東コレで慎ましく発表を続けている「under
cover以後」のデザイナー(LAD MUSICIAN、YAB-YUM、20471120などなど)や、東京カリスマ(!)スタイリスト(熊谷隆志、野口強)のインタヴューや作品が並ぶ。確かにfragmentsだが、何よりも大文字の「MODE」こそが既に長いことfragmentsなわけで(もちろん制度や経済的な面では強固に存在するけど、しかし今号でそれは何ら問われていない)、つまりどうしても各々の断片が勝負にならざるをえない。そしたらやっぱり負けるでしょう。「リトルモア」のfragmentsは、だって既視的であきあきな断片ばかりだから。
当然だけど、それらをいかに繋いで見せるかが重要になって来る。しかしここではそれを結ぶ論考も、結ぼうとする意志すら見えなくて、既視なものは既視なまま。これではfragmentsに同情してしまう。
ベンヤミンが『パサージュ論』で示すパリは、実際の都市であり且つ様々な言説で織られた架空の都市である。それこそがベンヤミンと都市と世界とを結ぶオルタナティブな地図となる。モンタージュとは、「繋ぐこと」だけでなく「壊して生成させること」をも可能にするのだ。
「Cin斬stes de notre temps」(現代の映画作歌)は終わり今や「Cin士a, de notre
temps」(映画、現代の)である。「MODE, in fragments」と題すなら、それくらいは肝に命じておいた方がいい。
「まるでパルコみたいにノスタルジックだ」。哀しいかなパルコ、miu miuのある一階フロアだけが人を呼び、上に行く程スカスカになる(「リトルモア」にも「夢のデパートメントストア」なるページがある)。このビルとこの雑誌を時代錯誤と言うのだろうか・・・。手前味噌ですが、やっぱり黄緑よりピンクでしょう!
(松井宏)
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