2003/07/11(fri)
『僕らにとって批評は必要だ』「群像」8月号

 

 

 「僕らにとって批評は必要だ」。すこし大袈裟なタイトルを持つこの座談会のメンバーは3人。田中和生、永江朗、陣野俊史。真面目な文芸誌読者ではない者にとってもこのメンバーは少し意外だろう。
 彼らが語るのはもちろん、文芸評論における言葉の硬直性であり、誰もがそれを必要としていないという危機感であり、いかにそれを「開いて」いくかということであり……。いまや文芸評論に限らず言葉を扱う人間の誰もが口にする事柄だ。その意味で、彼ら個々人の仕事は別として、ここでの発言には大方賛成できる。しかし何かとても大きな間違いがこの座談会にはある。
 「いささかアカデミックな作家研究になっているか、一方で新聞書評的なジャーナリスティックなものになるか」(永江)。「現在流通している批評の中で、僕はポスト・モダン式のともう一つ、文芸の方の書評も含めて、そういういろんなジャンルのものを紹介する記事、より売ろうという広告の側におもねったものと真っ二つに分かれてあるような気がして」(田中)。ふたりがする二分割は、言葉は違えどほぼ同じであることは明白だ。彼らはそれらに対してどのような批評が可能かと問う。その可能性として3人はどうやら、作家との相互関係を構築することより
(もちろんそのことも本文中には触れられているが)、いかに「読者」へと文学を開いてゆくか、「読者」との掛け橋を作るか、を考えているようだ。
 だがまずここに大きな間違いがある。彼らは「読者」が無条件で存在することを疑わない。その「読者」の定義がどうであれ、文字を読むことができるという最低限の条件を備えた人間を「読者」としてしまうここでの態度は、それが絶対的無条件に存在しうるという態度をも引き寄せる。「読者」と「作家」(作品)との媒介。彼らは自分達の言葉が届くあて先が存在することに何の躊躇いも疑いも持っていない。
 それと関連して、「読者」が存在するこの公の場で彼らは全く演技しようとしない。「わたし(僕、僕ら)」との距離がこの対談には皆無だ。まるでその距離こそが「読者」との大きな溝であるとでも言うように、距離は抹殺され吐き気が出そうなほどの「日常性」が溢れかえっている。「今は自分の声を届けようとしたときに、主語が自分になっちゃうところに僕は違和感があって、読者の立場として、やっぱり主語は文学じゃないかと思っている」(田中)。この二分法は全くもって間違っている。もうおわかりのように、言葉を発する場において「自分」も「読者」も「文学」も、はたまた「主語」の存在さえナイーブに無条件に前提とされる。ここで言われる「自分」とは「日常性」のうちにありながら「読者」との掛け橋によって「文学」を生き延びさせようとする者のことだ。例えば、距離によって仮構されるべき「自分」、というより仮構されるべき「主語」がこの座談会では「キャラ」(しかも悪役キャラのみ)として一括され、あたかもある種の特別な存在の仕方(スガ秀実や渡部直己、斉藤美奈子などがここに括られている)だとでも言うように、ほぼどうでもいい風に扱われている。
 仮構された主語をキャラと呼ぼうが呼ぶまいがどうでもいいが、彼らはなぜ自分たちがこの場でキャラとしてあらざるをえないことを自覚しないのか。知らないのか、あるいは知らないフリをしているのか。どちらでもいいが、キャラというのは、ジャルゴンを扱うタコ壺人種を指すわけでは決してない。それはもっと根本的な、言葉を扱う者の態度の問題だ。書くこと、そして読むこととは、何かしらの場所に参入する(参入させられる)ことであり、キャラになる(ならざるをえない)ことである。そこで人は「読者」としてときどき生まれ直すことができる。その「ときどき」という確率を高めるためにジャンルの言葉を覚えるし、単語帳だってどんどん増やしていく。非常に単純なことだ。月並みな言い方だが、人は「読者」(というキャラ)に「なる」のだ。
 他にもいろいろ言いたいことはあるが、とにかく、この座談会はまるで豊かさに溢れている。彼ら自身のナイーブさがその豊かさだ。たとえそれが彼らのキャラだろうと、私にはそんなキャラなど必要無いし、私はその「読者」にもなれない。「僕らにとって批評は必要だ」。確かなことは、「読者」など予め存在するものではないこと(マーケティングにおいてはもちろん存在するが、それとこれとは話は別だ)。そして「批評」など、彼らが言う「読者」には必要無く、幾人かの固有名(キャラと言ってもいい)のみがそれを必要としていること。「文芸を通して世界を語る(永江)、あるいは「世界へ開く」と彼らは言う。しかし彼らが何と言おうと、その「世界」は「読者」に行き着くしかないだろう。何度も言うが「読者」など予め存在しないし、それは目的ではなく、「世界」へ向けての単なる方法でしかない。
 何だかとても不確実な「世界」へときどき触れるために、「自分」やら「読者」やら幾つかの固有名やらのキャラを作りだす。書くこと、読むこと、見ることとはそういうことじゃないのか。

(松井宏)

 

2003/07/04(fri)
『谷崎潤一郎と異国の言語』野崎歓

 

 

 『谷崎潤一郎と異国の言語』は、野崎歓による「魅惑」の描写でありなおかつ「魅惑」の体験そのものともいうべきまさに「魅惑」的な谷崎論である。一般に「大正期谷崎のスランプ」とされる諸作品を、外国語レッスンとしてのエクリチュールが教師の堕落・空洞化というテーマにそって展開されてゆくものとして読み解きながら、絶えず「謎のような塀の向う」たる「異国の言語」に誘惑され、意欲旺盛に邁進する若き谷崎の姿を描き出してゆく。この書物で取り上げられる谷崎作品は、『卍』を除けば、『独探』、『鶴唳』、『ハッサン・カンの妖術』、そして『人面疽』とあまり有名ではないものの、短めな佳作ぞろい。それらは、皆中公文庫の「潤一郎ラビリンス」という短編集に収められているので、この機会に本書とそれらを読み合わせて欲しい。谷崎の魔術的な「声」と野崎歓の生彩のある「声」とは、まるで深淵な谷と広漠たる野を行き来するごとく起伏に飛んだ眩暈く読書体験をもたらしてくれるはずだ。
「魅惑」の体験、それは、他者に魅惑され陶然となり、自らを空っぽにしてでもそれに同化したい、自己を他者に作り変えたいとさえ望むような体験だ。谷崎は西洋や中国さらにはインド、映画や関西といった「異なるもの」に「魅惑」され続け、創作の原動力として取り込んでゆく。けれども、その結果見出されるのが、独探、G氏や、インド人のように偽装された自己でしかないかもしれない。「とはいえ、その試行錯誤を支える思い込み、惚れ込みのいきいきと強烈なことに、われわれもまたつい惹き込まれてしまう。」(「あとがき」)そう、果敢に「魅惑の体験」に身を晒すことをやめない谷崎の姿は、もはやそれ自体「魅惑」的なのだ。「魅惑」はそれ自体「魅惑」的…。だから本書での野崎歓は、谷崎自身の「魅惑の体験を描写しながらも同時にそれに「魅惑」されてもいるのだ。谷崎の「魅惑」の体験に「魅惑」されて陶然となり、自らを空っぽにしてでも谷崎の「魅惑」の体験に同化しようとする。そこには明晰さと熱っぽさが同時に存在している。けれども、そうして見出された他者はやはり偽装された自己でしかないかもしれない。かくて筆者は、みずから描いた谷崎像を「フランス語教師を生業とし、あれこれの書物の翻訳にいそしんできた筆者自身をあまりに如実に反映」(「あとがき」)しているのではないかと自問することになる。けれどもやはり、「魅惑」の体験に身を晒す筆者の姿はそれ自体「魅惑」的であるのには変わりない。今度はわたしたち読者が「魅惑」されてしまう。
『谷崎潤一郎と異国の言語』では、「魅惑」は三重になっているのだ。谷崎が「魅惑」され、筆者が「魅惑」され、そして読者が「魅惑」される。「魅惑」が次々「伝染」してゆくのだ。是非実際に、本書に「魅惑」される体験を味わって欲しい。

(角井誠)

 

2003/07/02(wed)
どうなるのか、「カイエ・デュ・シネマ」?

 

 

 6月に入って「リベラシオン」紙の文化欄を賑わしているのは「カイエ・デュ・シネマ」にまつわる話題だ。ジャニーヌ・バザンが亡くなり、ジャン=クロード・ビエットが亡くなった。前者は、故アンドレ・バザン夫人であり、長い間「現代の映画作家」「現代の映画」という実に興味深いテレビ番組をアンドレ・S・ラバルトと共同制作し、ベルフォール映画祭を主宰していたことでも知られる。そして、ビエットは「カイエ」の論客のひとりにして、地味だが、これまた優れたフィルムを発表し続けた人である。確かに、ふたりの死は、「老人の死」であり仕方のないことかもしれない。
 だが、問題は、本家の「カイエ・デュ・シネマ」だ。「ルモンド」が親会社になり、「カイエ」の社長は、セルジュ・トゥビアナが去って以来(彼は、9月からシネマテーク・フランセーズの館長に就任することが決まっている)、代々親会社から出向してきている。今の社長はフランソワ・マイヨ。そのマイヨが「カイエ」の将来に関する重大な指針を出しているらしい。現「リベラシオン」文化欄主筆であり、元「カイエ・デュ・シネマ」編集長のアントワーヌ・ドゥ・ベックの筆になる記事は、「カイエ」の将来について今、非常に重大な時期を迎えていることを知らせている。2002年に「カイエ」の出版母体であるエトワール出版は、70万ユーロ(約9000万円)の赤字を出しているという。もちろんこの赤字の原因のすべてが「カイエ」のみに帰せるわけではないにせよ、数字としては、昨年の購読者が対前年比で13%ダウンだという。マイヨは、その原因を、ジャン=マルク・ラランヌとシャルル・テッソンの2人の編集長の不仲と、十分なレヴェルに達していない批評と、映画という遺産についてのイヴェントの不足などに帰している。もちろん出資元は、2000年に刊行され始めた新たなフォーマットの「カイエ」に多くの資金を注いでいるわけだから、このままの状況を許すわけにはいかない。そして、ドゥ・ベックによると、マイヨは、今いくつかのシナリオを提出しており、最悪の場合、「カイエ・デュ・シネマ」の発行をうち切るかもしれないとのことだ。また発行を続ける場合は、現在の2人の編集長に代わって、「ルモンド」の映画欄主筆であるジャン=ミシェル・フロドンが「カイエ」の編集長を務めることになるかもしれないという。もちろん、こうした指針に対して、現「カイエ」の編集長をはじめ、多くのメンバーが抵抗している。
 「カイエ」にも縁のある私は、ある意味で、「ルモンド」の指揮下にある新たなフォーマットに同意できない部分もあるし、最近の「カイエ」を読む限り、かつて私たちの目を開いたような批評が見あたらなくなったとも思うが、この雑誌の廃刊には決して同意できないし、フロドン主導の「カイエ」誌は、今の体制よりも期待できない。ダネー、トゥビアナ、ジュスと続いてきた──否、アンドレ・バザン以来続いてきた──「カイエ」が大きな変化の時期を迎えていることはまちがいない。ダネーが編集長に就任する直前2000部までに落ち込み、トリュフォーの資金援助によってかろうじて生き残った歴史のある「カイエ」。ここで、映画批評誌の偉大な伝統の火を消して欲しくない。「カイエ・デュ・シネマ」友の会の資本で、原稿料は安くとも、給料で暮らせなくとも、「生まれつつある映画の傍ら」に立ち続けることを栄誉と感じた時代の、自由な「カイエ」を思い出すのは、単に私のノスタルジーだろうか。そして何よりも、いくらすべての資本を握っているとはいえ、「カイエ・デュ・シネマ」は「ルモンド」によってそのすべての決定が行われるのはまちがっている。ヌーヴェルヴァーグ以来の映画批評の中心的な存在を新聞社一社の決定で消し去ることが許されるだろうか。ティエリー、ニコラ、フレデリック、そしてセルジュ、君たちはどう考えているのだろう? そして、私にこうした情報を伝える源になっているアントワーヌ、君はどうする?

(梅本洋一)

 

2003/05/30(thu)
『建築の終わり』岸和郎+北山恒+内藤廣

 

 

 昨年の2月にギャラリー間で開催された「北山恒展 On the Situation」の際に行われた連続鼎談の記録が出版された。共に1950年生まれの3人の建築家──この世界ではおそらく中堅と呼ばれる年代だろう──による自己形成期から現在に至る軌跡がそれぞれの言葉で振り返られている。70年代中葉、3人ともその影響下にあった磯崎新の『建築の解体』から2001.9.11のWTCの事件まで彼らの「建築」が語られる。
 もっとも饒舌なのは岸和郎。「建築原理主義者」を自称し、「保守主義者」であると自らを定義する岸。「意気地なしの風景」というキャッチコピーの下に、自らの建築の軌跡を多様に検証する内藤。そして、言葉数は少ないが、「状況」との距離を自らの建築の基礎に置く北山。彼らの言葉はそれぞれ彼らの建築を体現している。「美しい」岸の建築。「豪壮」な内藤の建築。そして確かな構造物を背後に隠蔽しながら「フレキシブル」であろうとする北山の建築。モダンの批判から出発し、ポストモダンの潮流に飲み込まれることを徹底して拒んだ3人の建築家の言葉たちは、ときに交差しときに平行線のまま屹立していく。話し言葉であるがゆえに、即興的に生まれてくるメタファー──それらの数々は本書を通読して発見してもらうしかない──が読む者を飽きさせない。
 妹島=西沢の透明な「美」と「みかん組」の仮構された便宜主義の間に彼ら3人の下の世代の建築が収まり、一見してその作風が伺える安藤忠雄や磯崎新など彼らの上の世代の建築家たちの作品あるなかで、その中間に位置する3人の建築家の仕事は、彼ら自身の自己形成期を見事に反映して、時代にも作品にも縮減されない位置にあるだろう。「建築の解体」から作業を始めた彼らにとって建築とは「与件」ではない。68年型の心性から創造活動を出発させた彼らにとって、作品を携えてメディアに乗ることは目的ではない。「〜ではない」から創造活動を産み落とすことは、つまり、否定から肯定を生み出すことは、限りない自己否定の連続であり、困難な道程であることは納得されるだろう。そしてこの困難さは、彼ら自身の作品が持つ聡明な単純さの背後にある、それを語る言葉の難解さと通底している。建築とは、そもそも「そこにある」という根源的な存在論なくして語れるものではない。ある土地に、意志を持って杭を打ち込むことによってしか建築は始まらない。だが、その絶対的な存在論についても彼らは批評的であろうとする。必要なのは、時代が要請する「価値」をまず疑うことであり、「価値」から距離をとることであり、「価値」を構成している諸要素を明晰に分析することであって、その「作風」は異なるものの、彼らの「作品」とは、その思考の過程そのものなのだ。

(梅本洋一)

 

2003/05/22(thu)
『わがとうそう』青山真治(新潮6月号)

 

 

 青山真治は環八になぜか拘っているようだ。主人公の秋彦の下宿が用賀にあるためだろうが、たとえば246でも駒沢通りでも用賀からは遠くない。世田谷通りでもいいだろう。だが青山は、環八をきちんと環八と記述する。近作の『軒下のならず者のように』でも確か「環八まで送っていこう」といった台詞があったように思う。環八とは東京の果てだ。多摩川という東京都と神奈川県の境界に沿って流れる川は、環八のわずかに外側を流れている。だから環八は、可視である東京の果てだ。東京で生活するとは環八の内側で生きるということだ。そして秋彦は、環八の内側で陰々滅々たる生活を送っている。本人はそれほど陰々滅々たるものだと思っていないかもしれないが、この小説を読む者の多くは、自らの多くの部分を共有しつつも、秋彦に同化できないでいるだろう。かろうじて東京に留まり、かろうじて自らの生活をつなぎ止める者の生に起伏があるとすれば、それは異性との関わりしかあるまい。同僚や上司との希薄な関係と、女性たちとの一見濃厚なふれあいが、いくらかのコントラストを与えているかもしれない。だが、そのコントラクトも所詮「いくらかの」ものであり、決して、強い「グラデーション」を形成するものではない。つまり、秋彦は、ほとんど生きてさえいないのだ。
 もちろん『わがとうそう』とは「わが闘争」であり「わが逃走」でもある。あるいは「闘争」と「逃走」とがほとんど等号で結ばれる地点──その地点とは言うまでもなく環八だ──に秋彦の生活がある。そして低次元で結ばれた等号が、もっと高次元での等号に結び直される瞬間まで延々と遅延される様が、そのままこの小説の全貌であるかもしれない。恵という女性とのセックスによって初めて異性との「等号」を体験した秋彦は、環八の外部に向かって運動を開始する。それほど長い時間のこととは思えないが、環八の内部での生が遅延され続けているから一層、外部への闘争=逃走に著しい強度が感じられるのだろう。登場人物たちが海へと向かう『ユリイカ』と同質の、周囲を囲っていた壁という壁が一斉に取り払われたような運動が、この小説にも準備されている。環八の外には文字通り「世界」があり、それも荒々しく呼吸する「世界」がある。『わがとうそう』の道程は、そうした「世界」を「実感」することに他ならない。「世界」との平穏な合一ではない。合一すべき「世界」とは決して平穏なそれではない。とりあえず私は、こうした「世界」への道程に感動した。

(梅本洋一)

 

2003/05/12(tue)
エレン・フライス、レティシア・ベナ写真展+セバスチャン・ジャマン『i0』

 

 

 恵比寿駅から徒歩5分の「trees are so special」にて、フランスの雑誌「purple」の共同編集長エレン・フライスと写真家兼イラストレーターのレティシア・ベナによる写真展が開催されている。毎週木曜日には雑誌10周年を記念した『i0』というフィルムも上映されている。
 「purple」は近年日本でも度々紹介される雑誌。現在国内外を含め死ぬほど数の増えた(その大半はどうでもいいものだけど)「ファッション雑誌」の、いわば元祖とも言える存在。元々美術雑誌からスタートしたというだけあって美術書としても十分価値がある。贅沢に配された太い白抜きによって写真と文字は最上の視覚性を獲得していて、さらにインタヴューやテクストも読みごたえがある。
 常連の大御所にはマーク・ボスウィック、テリー・リチャードソン、ウォルフガング・ティルマンスなどなど。つまりいわゆる「ファッション写真」の現在を形成するカメラマン達が名前を列ねる。もちろん彼らの写真は「ファッション写真」という語の響きから極めて遠い。というより現在の「ファッション写真」の中心は「ストレートフォト」との区別をほぼ無効にしていて、もし呼ぶとすれば「ポートレート」とした方が正しい。そしてそれは「purple」そのものの姿勢をも表している。
 「purple」の人脈はとことんミーハー魂をそそるものだ。僕もそんなミーハーのひとりだし。ただ僕らはハーモニー・コリンやソフィア・コッポラ、あるいはラリー・クラークのフィルムに少なからず驚いた(彼らもまた「purple」と同じ地図を形成している)。それは紛れもない事実だ。「アンダーグラウンド」や「アンチ」の死滅を冷静に見つめ、自分達の身体を現在の平面的な世界にどっぷり浸らせながら、がそれでも次なる「とうそう」を探ろうとする……。大袈裟に言えばそんなものを「彼ら」に感じるのだ。
 確かに大袈裟。けど、ガレルは『白と黒の恋人たち』にメディ・ベラ・カセムを起用した。小説家でもある彼はまさしく「purple」の常連だ。そしてオリヴィエ・アサイヤスは新作『demonlover』でクロエを使いソニック・ユースと共同作業を行った。名前を挙げただけで何だとも言えるけど、ただ「purple」は彼らのポートレートのみならず、「現在」と呼ばれる何事かのポートレートをも示してくれていると、少なくともその手助けはしてくれるはずだと僕には感じられる。
 nobody7号では、そんな「purple」で仕事を続けている日本人写真家・鈴木親さんとのインタヴューが載っている。「purple」とともに鈴木さんにもぜひ注目です。

(松井宏)

 

2003/03/24(tue)
「FOIL」創刊号

 

 

 テキスト無し、全ページ写真だけの雑誌「FOIL」が1ヶ月以上前にリトルモアから刊行された。創刊号のサブタイトルは「戦争反対 NO WAR」で、奈良美智と川内倫子がアフガニスタンに行って撮った写真が200ページ以上。1500円なり。
 「毎号、デザイナー、定価、判型、ページ数、ロゴマーク、参加作家が変化する、定型を持たない、日本初のヴィジュアル誌「FOIL」を出版します(中略)既存のファッション誌、カルチャー誌、写真誌とは違い、テキストはありません。<言葉>という枠を超えて、ヴィジュアルのみで構成します」。
 「FOIL」は写真集ではなくあくまでも雑誌として作られている。でも「<言葉>という枠組みを超えて、ヴィジュアルのみで構成」すると言われて「すげえ」と思うやつなんて今さらいないだろ。言葉とヴィジュアルとの対立の捏造なんて、たとえ嘘でも(きっと本気ですが、リトルモアは)しない方がいい。
 じゃあこの「ヴィジュアル誌」が、例えば丸々新宿で構成されることはあり得たか。あり得なかったと私には断言できる。「NO WAR」と「ヴィジュアルのみの雑誌」ってのはリトルモアにとってワンセットで、もし「新宿」がサブタイトルだったら「ヴィジュアルのみの雑誌」はあり得なかったはず。つまり「戦争」と「言葉という枠を超えたもの」との結びつきが、ここにある。かなり悪質。
 しかも、「言葉という枠」をなぞるような奈良と川内の写真がさらに悪質。戦争ネタで予め言葉を封じ込めておいて、で実際は戦争を巡る言葉と自分の作家性を巡る言葉にちゃっかり寄り掛かってる(彼らにとってその言葉は言葉ではなく、ぼんやりとしたイメージでしかない、ということの裏付け)。
 アフガンに行って写真を撮って、わざわざ「THERE IS NO WAR」って宣言してるのが「FOIL」だ。わざわざ自衛権を行使しに行ってどうするわけ? ブッシュと一緒でしょ、「FOIL」って。「<言葉>という枠を超えて、ヴィジュアルのみで構成します」−−これってブッシュの攻撃宣言に似てないか?

(松井宏)

 

2003/03/05(wed)
『備忘録』山本昌邦

 

 

 4年以上の長期政権になったトゥルシエ・ジャパンの総括は、すでに多くの書物や記事で行われている。そのエキセントリックな性格、解任騒動が起こると不思議に訪れる快勝の謎、中田英寿との確執の噂、そして最後の采配になった対トルコ戦の先発メンバー……。そのすべてについて、常に彼の傍らにジャージ姿で立っていた山本昌邦の他に最良の解答者はいないだろう。彼の『備忘録』についつい手が伸びる。
 この手の書物にはゴーストライターの影がつきまとうが、最初のページから、その朴訥な文体──ヴォキャブラリーが多いわけではないが、できるかぎりの誠実さを込めて記される文章──によって、彼自身が真摯に書いたことが感じられ、好感が持てる。監督がジーコになっても同様の──否、オリンピック代表の監督は誰あろう山本昌邦なのだから、彼の地位は上昇している──ポジションを維持する唯一のスタッフは彼であり、これからの代表の行方を考える上でも必読の書物だろう。
 トゥルシエについての山本のとまどい、そして迷い、怒り、同時に敬意は、この書物を通じて一貫している。相手をつけないパターン・プラクティスの徹底、フラット3という戦術への信念以上の信仰、ラスト・ゲームでの選手起用と交代への疑問、問題を抱えることでかえって勝利をたぐり寄せる性格。山本はまず驚き、次第に驚きに慣れ、自らの仕事をまっとうする。だが、監督とコーチという間柄を4年の長きにわたって続行しても、互いの距離が近づいた形跡はまったく感じられない。こうした書物で多く読まれるのは、最初感じていた違和が次第に解消し、最後には深い信頼関係という絆で結ばれ、最後は共に成し得た仕事に満足するという物語だ。だがコーチ山本は子どものようにギャアギャア騒ぐ監督に単に慣れていくだけであって、トゥルシエをそれほど信頼しているようにも読めないし、彼の戦術に心酔している様子もない。おそらくそれが事実だったのだろう。ある種の信頼関係を築けたのはトゥルシエとフローラン・ダバディの間だけであり、4年間、代表に選出された選手たちもまたおそらく本書の山本の心情を共有するだろう。われわれ読者にしても、山本から、「そう見えていても実はこうだった」と隠された真実を明かされることはほとんどない。噂通りのトゥルシエ像がこの書物で読めるだけだ。結局、監督としては、大した奴ではなかったようだし、自分より選手の方がジャーナリズムで大きく扱われると怒りを感じる性格だと山本に明かされると、そうだろうな、と同感するだけだ。
 ときに冷徹に向けられるトゥルシエへの視線に対して、山本が常に愛情と敬意を驚愕の眼差しを向けるのは選手たちに対してである。トゥルシエの理不尽な要求を簡単に実現してしまう選手たちの力、子どもの監督に対して徹底して大人として振る舞う中田英寿の姿、力を見せつけることでトゥルシエの嫌みな舌禍を容易く越えていく名波、小野などの選手たち。ドーハの悲劇の時代には想像もつかないほど選手たちは成長していた。考えてみれば、トゥルシエは、ローマのカペッロにもフルアムのティガナにもなれないし、ましてやアイントホーヘンやアーセナルの監督を十全に務められる実績も器もない。対ロシア戦でトゥルシエを「裏切る」ことで勝利を知った選手たち──これは推測ではなく事実だった!──に、トルコ戦で復讐するトゥルシエの姿は、この小心者の監督のラスト・ゲームにふさわしかった。だがすでに彼らがトゥルシエに復讐されたとしても、中田も小野も戸田も稲本も、そして中村俊輔さえも、トゥルシエの手の届かぬ彼方でプレイしている。山本は、先日のカタール国際大会で相変わらずジャージ姿で選手たちに補給する水のボトルを放っていた。

(梅本洋一)

 

2003/01/24(fri)
「リトルモア」vol.23, WINTER

 

 

 この黄緑の表紙には、いささか魅かれる。「MODE, in Fragments」と題された「リトルモア」冬号の特集はもちろん「MODE」。
 かつて版型が小さかった頃の「リトルモア」は、驚きとともにやたら納得させられる対談の組み合わせが魅力だった。しかし、版が大きくなってからはそんな対談も消え、それこそ本当にfragmentsなのだ。
 いいでしょう、大文字の「MODE」にfragmentsを対置させようとするならある程度納得しよう。今号には海外や国内の大御所デザイナーの名前もなく、東コレで慎ましく発表を続けている「under cover以後」のデザイナー(LAD MUSICIAN、YAB-YUM、20471120などなど)や、東京カリスマ(!)スタイリスト(熊谷隆志、野口強)のインタヴューや作品が並ぶ。確かにfragmentsだが、何よりも大文字の「MODE」こそが既に長いことfragmentsなわけで(もちろん制度や経済的な面では強固に存在するけど、しかし今号でそれは何ら問われていない)、つまりどうしても各々の断片が勝負にならざるをえない。そしたらやっぱり負けるでしょう。「リトルモア」のfragmentsは、だって既視的であきあきな断片ばかりだから。
 当然だけど、それらをいかに繋いで見せるかが重要になって来る。しかしここではそれを結ぶ論考も、結ぼうとする意志すら見えなくて、既視なものは既視なまま。これではfragmentsに同情してしまう。
 ベンヤミンが『パサージュ論』で示すパリは、実際の都市であり且つ様々な言説で織られた架空の都市である。それこそがベンヤミンと都市と世界とを結ぶオルタナティブな地図となる。モンタージュとは、「繋ぐこと」だけでなく「壊して生成させること」をも可能にするのだ。
 「Cin斬stes de notre temps」(現代の映画作歌)は終わり今や「Cin士a, de notre temps」(映画、現代の)である。「MODE, in fragments」と題すなら、それくらいは肝に命じておいた方がいい。
 「まるでパルコみたいにノスタルジックだ」。哀しいかなパルコ、miu miuのある一階フロアだけが人を呼び、上に行く程スカスカになる(「リトルモア」にも「夢のデパートメントストア」なるページがある)。このビルとこの雑誌を時代錯誤と言うのだろうか・・・。手前味噌ですが、やっぱり黄緑よりピンクでしょう!

(松井宏)

 

2003/01/19(sun)
『網状言論F改』東浩紀編著

 

 

 唐突だが、女の子から「キモイ」と言われたことがあるだろうか?私はある!と自慢してもしょうがないが、これは結構へこむ。「そっか、俺キモイのか・・・・・・」、人生を考えさせる衝撃的な一言である。
 言った方はそれほど悪意はないのだと思う。だって女の子すぐに「キモーイ」って言うから。中年男性を見れば「キモーイ」、ちょっと無口な人相手だと「キモーイ」、頑張って電話番号を聞き出して、勇気を出して電話してみても、運が悪けりゃ返ってくる言葉は「キモーイ」だ。そんなに気持ち悪がっててまっとうに社会生活を営めるのかと他人事ながら心配になってくる。公衆トイレとか入れるんだろうか?バイキンいっぱいいるよ?大丈夫?
 そんな気持ち悪がりの女の子たちからほぼ100%のキモイ支持率を誇るのが「オタク」である。東浩紀のオタク関連の仕事がどうも面白くないのも、ここらへんの問題を避けているからのような気がしていた。数十万の消費者を抱える巨大なサブカルチャーであるオタク市場がほとんど言説化されていない以上、まずは内部の交通整理からはじめるべきで、強引な仕事がひとつあった方がその後のリアクションもしやすいだろうという東の主張はわからないでもないのだが、しかし本当にそうなのだろうか?非―オタクからしてみるとオタクの言説化は十分にされているが、それがいつまでたってもオタクの内輪話の範囲を出ないのが一番の問題なように思える。『エヴァンゲリオン』ひとつで本を何冊出せば気がすむんだ?
 その意味で本書の中で一番興味深いのは、小谷真理、斎藤環との鼎談部分である。特にセクシュアリティの問題はオタク語りをオタク語りに終わらせない潜在性を持っていると思う。何故か?90年代に一番言葉を費やされたのは「オタク」と「ギャル」だから。要するに「キモーイ」と言う方と言われる方。「オタク」と「ギャル」はもの凄く相性が悪い一方で、その語られ方がとてもよく似ている。たぶん何らかの「断絶」を語るのにもっとも適した対象だからだろう。
 私は「ポストモダン」という言葉は使いたくないが、1970年以降にある種の「断絶」があったことには納得する。で、そこで徴候になるのはセクシュアリティの変化と輸入文化がなくなったことだと感じている(その意味で重要な年があるとしたら、1989年や1995年ではなくて、「プラザ合意」の1985年なんじゃないかとも思う)。その徴候をもっともわかりやすく示しているのはやはり「オタク」と「ギャル」なのだ。そして両者をつなぐのは、『エヴァ』でも『Air』でもなくて、宮崎駿なんだと思う。好き嫌いは別にして、「オタク」、「ギャル」の両方にやたら強い親和力を持っているから。宮崎は「オタク」も「ギャル」も大嫌いなんだろうけど、彼らを逆に意識するにつれて宮崎の作品がどんどん幼稚な構造になっていくのは、「断絶」以前のメンタリティを持ちながら、「断絶」以後の作品を作っていた証なのではないか?

(志賀謙太)