2003/07/24(thu)
『エデンより彼方に』トッド・ヘインズ

 

 

 トッド・ヘインズの『エデンより彼方に』は、たとえばダグラス・サーク、たとえばレオ・マッケリーといった旺年のメロドラマのリサイクルである。エド・ラックマンのカメラも、エルマー・バーンスタインの音楽も、メロドラマの色彩と音響を正確にコピーしている。テクニカラーと見紛うような色彩、正確きわまりないフレーミング、常に耳に響き、特権的な瞬間になると自己主張を始めるクラシカルな「映画音楽」。フォルムの面では、トッド・ヘインズの「勉強家」ぶりが突出している。50年代のクルマが街を走り回り、電化され始めたブルジョワ家庭のインテリア、女たちが身に纏うドレス、そしてこの地で開催される前衛美術展に織り込まれたジョアン・ミロの作品。コネチカット州ハートフォードという生活水準の極めて高い北東部のアメリカの50年代。このフィルムが再現するのは、そうしたアメリカである。「スモールタウンもの」というジャンルに包含しうるフォルムとメロドラマの物語を結婚させる試み──それが『エデンより彼方に』である。
 シナリオの上でも、「泣かせ所」を外さない十分に練られた台詞──黒人庭師のレイモンドが女主人公のファーストネイムを初めて口にする部分など──が書き込まれ、主人公のキャシーを演じるジュリアン・ムーアにデボラ・カーほどの演技を望むのは無理にしても、かなりがんばって作っていることは認めよう。もちろん、同性愛や黒人差別──サークの『悲しみは空の彼方に』にはあるものの──といった主題が、背景にあるマッカーシズムとともに物語を稼働させるモーターになっている。こうした背景をフィルムの舞台と同時代に描いたとすれば、ジョセフ・ロージー的運命が待ちかまえていたことになるだろう。つまりフィルムの舞台とは同時代に不可能だったかもしれないモーターがこのフィルムには、それなりに仕付けられている。深読みすれば、ブッシュ一色になったアメリカの現在についての批評は、こうしたメロドラマの異化効果の上に可能になるかもしれない。
 だがすでにヘイズコードのない「自由な国」アメリカに対して、異化効果を込めた批評を行うことに効果があったろうか。少なくとも私の目には、このフィルムは現在からは遠い。Far From HeavenではなくFar From Present。かつて映画がこのような目眩くフォルムを現出させたことは本当だが、とりあえず今、『エデンより彼方に』を撮影する意味は、「スタイルの練習」以外の何なのだろうか。

(梅本洋一)

 

2003/07/24(thu)
『トーク・トゥ・ハ−』ペドロ・アルモドバル

 

 

 「奇跡」が起こるのか起こらないのか、あるいは起こるのであれば「奇跡」はどのように起こるのか。
 「奇跡」とはこのフィルムにおいてまず、植物状態の女性が意識を取り戻すことだ。看護士ベニグノは植物状態のアリシアを見つめ、声をかけ、手でマッサージを行いながら「奇跡」の到来を待つ。一方で、伊達男マルコの恋人リディアもまた植物状態に陥る。彼はリディアを見つめもせず、声を掛けもせず、彼女の身体に手を触れさえしない。もちろん、かつての恋人アリシアにも同様に何もできない。
 リディアは死に、そこに「奇跡」は訪れない。ではアリシアはどうか。彼女は意識を取り戻す。「見る」「話す」「触れる」の三原則を忠実に守ったベニグノのおかげで……、とは実際いかなくて、「奇跡」は見事にここでずらされてしまう。
 確かにアリシアは意識を戻すが、しかしその前に小さな「奇跡」の誕生と堕胎を経験せねばならない。妊娠と死産だ。植物状態のアリシアへのレイプ疑惑がベニグノにかかるが、しかし彼はレイプなど絶対していない。なぜならアリシアが交わったのは、映画だからだ。
 映画と交わってしまった女性アリシアは最強である。意識を取り戻すことなど、彼女にとってはもはや「奇跡」ですらなく、朝飯前の事柄となる。では『トーク・トゥ・ハ−』において「奇跡」など、やはり存在しないのだろうか。
 そう。「奇跡」はここに存在しない。『トーク・トゥ・ハ−』はわれわれを、「奇跡」が起こりうる軌跡のスタート地点に引き戻し続ける。ラストでマルコとアリシアとか再び「遭遇」すること。映画と交わった女性と、映画を拒否した男とのリマリエッジ。間違ってもそれは「奇跡」ではない。フィルムのラストは、またもや同じ問いを続けるのだ。「<奇跡>が起こるのか起こらないのか。起こるのであればどのようにして起こるのか」。だが、この反復を可能にしたのは何よりもベニグノの死である。「見る」「話す」「触れる」の三原則を忠実に実践したシネフィル・ベニグノ(彼はアリシアの目となり耳となってたくさんのフィルムを見続けた)の死。マルコとわれわれは、ひとりのシネフィルの死によって、再び映画という問いの前に立たされる。
 だから『トーク・トゥ・ハ−』には「奇跡」などない。あるのは、映画に遭遇する「奇跡」ではなく、そこに至るまでの困難な「軌跡」だけだ。いや、それこそを奇跡と呼びたい。

(松井宏)

 

2003/07/17(thu)
『ラクダと針の穴』ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ

 

 

 今月の東京日仏学院では、ヴァレリア・ブルーニ=テデスキとマチュー・アマルリックの作品が特集されている。ともに俳優としてだけでなく監督としても活躍している二人だが、『ラクダと針の穴』はテデスキの監督デビュー作であり、また自伝的な作品である本作でみずから自分の役(フェデリカ)を演じてもいる。
 フェデリカは金持ち過ぎることに悩んでおり、そのために色んなことがうまく行かないと感じている。それで彼女は神父のもとに告解をしに行く。それは不幸なのか、それとも単なる状況なのかと彼女は彼に問うだろう。しかし、神父はそれに対して何ら解答を与えるということはなく、ただそれを曖昧に聞き入れているだけだ。彼女はその後も何度となく彼のもとに行くが、それは自分の罪を告白するためというよりも、彼を相手に話がしたいだけのように見える。ある時彼は彼女に向かってこう言う。「僕は精神分析医じゃない」。彼は深層を探るような人間としてこの映画には登場していないということだろうか。
 ところで、この映画にまず見られるのは人々の顔、表情である。人にはそれぞれ異なった表情があり、またひとりの人間にも多様な表情がある。笑顔をはじめとして、泣き顔や怒った顔、あるいは困り果てた表情、等々。テデスキはそれらをたんねんに記録して行く。しかし何よりもテデスキの見せるさまざまな表情が印象に残る。テデスキはこの映画において自分を顔、あるいは表情として定着しようとしたのではないだろうか。
 ここで注意していいのは、その表情が内面の表象としてあるのではないということだ。そうあるのはむしろ突然差し挟まれるアニメーションの方だろうが、しかし、そこではテデスキは終始無表情で、その厚みを欠いた画面がただ単に展開しているだけだ。つまりこの映画には、その都度彼女に訪れる出来事や彼女を含めた周囲にある状況があって、そこに彼女がいる。その時見せる彼女の表情や何でもない仕種がこの映画の魅力と言えば魅力だろう。

(須藤健太郎)

 

2003/07/15(tue)
映画美学校 特別教養講座 アメリカ映画篇
「Too Late the Cinema」稲川方人

 

 

 ヌーヴェルヴァーグ以降の映画、そしてロバート・アルドリッチの作品群について、稲川氏は、『燃える戦場』の原題『Too Late the Hero』から、<Too Late the Cinema>と名付けている。何かに届いていない、遅れてしまっているという意識。この意識を抱えたままでしか、映画は作動しない。この遅れしまう<何か>が何であるかは説明できないけれど、ただ遅れてしまったという事実だけがどうしようもなくそこに在る。
『燃える戦場』の舞台となる戦場には、ジャングルとイギリス軍のそれぞれの陣地の間に、中立地帯である大きな草原がある。「ぽっかりとあいた空間」を取り囲む日本軍とイギリス軍の眼差しの下、二人の兵士はひたすらこの空間を駆け抜けていく。『アパッチ』では、バート・ランカスターと彼を追う男が、軍隊が取り囲むとうもろこし畑の中で、一対一で対峙する。敵と味方、勝者と敗者という関係は無効となり、そこにいる全ての人間が、二人の男たちを取り囲み、彼らの運動を見守っている。稲川氏は、決して網羅的なアメリカ映画史を語るつもりはない、と前置きしながら、ロバート・アルドリッチが活躍した50年代後半から60年代のアメリカ映画とは、映画の定型性=安定性が崩壊し始めた時期であるとしている。この安定期とは所謂ジャンル映画の黄金期であり、それ以後の映画にはジャンル映画は存在しない。我々はもはや、個としての映画(individualな映画)しか見ることができない。アルドリッチの映画は、<均質性>を手にすることも、<個>を手にすることも出来ずにいる。崩壊という運動の真只中にい続けるしかない。
 同時的に体験することができない。起こってしまった何かの残骸を、かろうじて目撃することしかできない。『ワイルド・アパッチ』では、若い将校のほんの少しの遅れが、取り返しのつかない事態を招いてしまう。ここでは、『アパッチ』とは逆に、追うもの(バート・ランカスター)と追われるもの(アパッチ)はどちらも死を与えられる。また、その死はまったく等価に描かれている。アルドリッチの描く「人と人、あるいは力と力との間にある何か」(稲川氏)は、共有され生き残った者に継承されていく。人と人、力と力との関係は、戦場の中央に「ぽっかりとあいた空間=空洞」の中で、その差異を奪われ消失していくが、そこに生まれた<何か>は、映画の中で、そしてアルドリッチの映画の全てにおいて存在し続ける。流れ去っていく<何か>を追い掛けること。何を追い掛けているのかわからないまま、映画は運動を続ける。そして我々は、決して<何か>に届かない。

(月永理絵)

 

2003/07/14(mon)
『マトリックス・リローデッド』 ラリー・ウォシャウスキー/アンディー・ウォシャウスキー

 

 

 映画を見ていて、うっとりする。ありえないなぁと思いながらも映画だもんと開き直って、運命のドラマに悔しながらもホロリとしちゃったり。運命とか、奇跡、偶然とか、起こりえないことが起こる時に何かしら、映画の力を感じたりもする。そして、『マトリックス・リローデッド』。この映画はある種の運命の連続が描かれているのだが、肥大した運命は映画を追い越してしまった。運命に乗っ取られた映画は、運命に操られている物語をかをいかに見せるかに全力を注ぐ。実写との区別がほとんどつかなくなった最先端のCGやデジタルエフェクトは、主人公のネオに戦うべき敵を与え、さけるべき弾が迫らせ、逃げるべき時間を完全な計算によって与える。したがって、滞りなく与えられた運命が彼の周りを滑らかに進んでいく。戦うべき敵は、ネオによっていかにして殴られるか、いかにネオを苦境に追い込むかであり、避けるべき弾は、いかに美しくネオを避けるかに向けて全力で動いている。それは、帰納法のように、なんだか逆算的だ。だから、「運命」というレールはもう意味をなさない。いかにして、運命を演出するかより、運命の道をいかに豪華に飾り付けするか。奇跡のようなキスでヒロインが目覚めても、それはおとぎ話ではなく、周到に飾り付けられた映画の中のかっこいいワンシーンでしかない。怠惰に続くシーンのスパイスであって、ホロリと泣いたりできない。目覚めるヒロインの顔の美しさより、いかにしてウィシャオスキ兄弟監督が起きあがる彼女を今までにないようなかっこよさで起きあがらせるか。ヒーローが現れるタイミングやその姿ではなく、そのときじっと見ているのは、きっと今までに見たことのない豪華さでネオは出てくるかなのだ。そして、そのシーンの集まりを期待して映画館に行くのだ。今までに見ることのできなかったアクションシーン連続である、カーチェイスや格闘シーンに惹きつけられるこの映画は、決められた運命をたどると言うより、運命に乗っ取られて、すっかり運命を放棄したシーンの集まりなのかもしれない。

(瀬田なつき)

 

2003/07/04(fri)
『BULLY』ラリー・クラーク

 

 

 その物語のあまりの展開の早さには誰もが驚く、というより呆れてしまう。ビッチーな親友を持つちょっと内気な女の子が、サンドイッチ店のちょっと内気な男の子マーティ(ブラッド・レンフロ)に一目惚れ。そこから物語が始まるわけだが、このふたり、ちっとも可愛くないし、かっこよくない。マーティはサーフィンだけはめちゃくちゃクールらしいが、それだってカメラはほとんど見せてくれない。と、そんな疑問の暇もなく複数のカップルの身体が互いに愛撫しあい、重なりあい、マーティは苛めっ子ボビーに殴られ鼻水たらしてすすり泣き、しかし誰かが泣こうが叫ぼうが、物語はその徴候を見せ聴かせるだけでひたすら億劫に立ち止まっている。立ち止まることだけが、唯一何かを動かすことができるかのように。ベッドがそのまま車のシートになり、留まることが移動することに重なりあう。確実に留まっている、しかも確実に移動している、そんなおかしな状態が常態となる。
 しかし、その確実さはあくまでも事後によって作られたとも言える。彼らとその物語は、フロリダに指し貫かれ、曖昧で互いに似過ぎあっているキッズたちだ。彼らにとってドアを開ける(オープンカーに乗る)のもドアを閉める(ベッドでのセックスや部屋でのたむろ)のも、同じ不確定性のなかでの行為でしかない。開けっぴろげのオープンカーに乗っていても侵入者など誰ひとりやってこないし、ドアを閉めていようが侵入者(親たち)はやってくる。リサとマーティのセックス中にボビーが閉められたドアを開け、嫌がるリサをレイプするが、しかしたとえそれがボビー殺害の原因に見えようと、断じてそれは原因とはなりえない。閉じたドアから侵入するのも、開いたドアから侵入するのも、ここでは同じ確率か、あるいは確率という概念が発生する以前の不確定性のうちで一緒に住まう。ドアが開いているから誰かが侵入した、などとは誰も言えない。ドアを開けてようが閉めてようが殺人は起こり、警察は侵入し、股が開いていようが閉じていようがセックスは繰り広げられる。
 マーティの彼女リサと苛めっ子ボビー、そして内気なマーティとビッチーなアリ。このフィルムでまともすぎるほどのまともな視線の切り返しが行われたのは、こうした全くありえないようなふたりの間でだった。視線の合致は、ときどき殺される者と殺す者とをつくりだす、ときどき殺す者の間に裏切る者と裏切られる者とをつくりだす。それはちょっとした必然でもあるし、ちょっとした偶然でもある。とても単純なことだ。
 いんちきクレイジー・マザー・ファッカーの親父の役は、確かラリー・クラーク本人だったはずだ。殺人を犯したリサからの電話に彼は言う「手紙を書く」と。『Kids』でエイズ映画を終わらせてスタートした彼からの手紙が、ハリウッドにおいてどこに配達され誤配されてゆくか。ガス・ヴァン・サントの『ELEPHANT』、そしてハーモニー・コリン……。そういえば『Ken Park』で再びラリーと組んだハーモニーはこんなことを言っている。「僕は別にラリーとケンカしたつもりはない、彼はそう思っているだろうけどね。ただ『Ken Park』は見たくないよ。ティーンという主題にはもう、うんざりしてるんだ。確かにその主題に関して僕は第一人者だが、でも今の僕にとってそれは少し食傷気味なんだ」(「Les inrockuptibles」No.395)。
 がんばれハーモニー。

(松井宏)

 

2003/07/02(wed)
『8Mile』カーティス・ハンソン

 

 

 カーティス・ハンソン演出のこのフィルムを見る者は、アメリカ映画に備わった確かな「伝統」を感じるだろう。「伝統」とは、ある意味で、規則を遵守することである。たとえば、このフィルムが「青春映画」であるとすれば、あらかじめ存在しているタイムリミットまで、主人公は濃密な時間を生きなければならない。そして、その濃密さは細部にまで至る徹底したリアリズムで際だつはずだ。プレス工場の一部の乱れもない作業。母の住むトレーラーハウスのソファ、台所、ドア、窓、カーテン──すべてを貫く「確かにそこにある」という感覚。「8マイル」という地図上の壁、トレーラーハウスの壁、工場の就労規則、どうしようもない家族の問題、そのすべてを信じ切ることのできない恋人の態度、そして何よりも、自分自身の自信のなさ。エミネム扮するラビットは、そうした壁に取り囲まれ、壁に取り囲まれた者は、壁の外側の世界を「想像」する。どこに向かっても自分の行く手を阻むような壁の中にあって、きっと壁の外側に出ることができれば、何か別の、もっと開かれた、そして「いま、ここ」とは異なる風が吹いているかもしれない。
 『8Mile』は、その風が単に外に吹いているのではなく、風を吹かせるのは自分自身なのだと気づく話だ。そしてその風とは、自分自身の声であり、自分自身の言葉であることに気づく話だ。エミネムの半自伝的な物語。エミネムというラッパーの存在なくしてこのフィルムは存在しない。彼の身体から発せられる声と言葉がその風となって、風は313(デトロイトの局番)から810(その郊外の局番)に向かって、つまりデトロイトから外に向かって吹き始める。その外に住むことで、黒人的な社会の中で白人であることの悲哀を味わっていた若者が、あえて810へと自らの拠点を移そうとする。
 壁に包囲されることで「死」しか選択肢のないダグラス・サークの窮極のメロドラマ『悲しみは空の彼方に』を見つめるラビットの母キム・ベイシンガー。白人の世界にあって、黒人であることの不可能性を噛みしめるサークのメロドラマとは異なり、ラビット=エミネムは、外に向かって進路を取る。近年のハリウッド映画の常套手段である、「いま、ここ」ではなく、「いつか、どこか」の物語を回避して、デトロイトの1995年冬に留まり続け、その場とその季節から別の時間と別の場所への脱出願望の全体がこのフィルムのモーターであり、そのモーターを回すのは、他でもないエミネムの声と言葉なのだ。

(梅本洋一)

 

2003/06/30(mon)
『アバウト・シュミット』アレクサンダー・ペイン

 

 

「About Schmidt」。見えないものをいかにそこに定着させるか。このフィルムはそれだけでできている。「金やパーティじゃなくて、本当に大事なのはお前が何かを成し遂げてきたという、そのことなんだ」。冒頭で親友がシュミットに言うのはそんなようなことだったはず。そんなものは当然目に見えないし耳に聴こえない。
「何かを成し遂げてきたという、そのこと」は、ここで「喪失」によって辛うじて示される。というか、「何かを成し遂げてきたという、そのこと」がある(あった)とかない(なかった)とかの概念が発生する以前に、シュミットにはとりあえず「喪失」が起こる。彼はかつてあった「そのこと」を喪失するのではなく、単に喪失という行為を見せるだけだ。それは制度みたいなものだが、しかしその行為によって、かろうじて「そのこと」がある(あった)のがぼんやり示されてしまう。それも制度みたいなものだが。
 「そのこと」には、例えば勇気とか自由とか愛とか入るのかもしれんが、やっぱりそんなものは目にも見えず耳にも聴こえない。とりあえず薄っぺらな「喪失」をすることで、かろうじてそれが「ある」とか「ない」とかの概念が生まれる。「ある」に「ない」が重なり、「ある」は穴だらけになる。穴だらけの勇気、穴だらけの愛、穴だらけの自由。モンタージュはここで、何かを生むことなく、単に穴を穿つ。それこそが常態なのだと、穴だらけのシュミットが言っているみたいだ。
 例えば、ンドゥグというアフリカの孤児に向けて書き始めた手紙、あれはいったい誰に向けて書いているのか? ンドゥグなんて本当にいるのか? あの慈善団体って本物か? そんなのはどっちでもよくて、偽物だろうが何だろうが、本当にいようがいまいが、どっちでもよい。穴だらけのシュミットにとって金を寄付するのも、手紙を書くのも、さらに穴を穿つ行為以外の何ものでもない。ラストでンドゥグから絵が送られてきたとしても、相変わらずそれが偽物だろうが本物だろうが、穴だらけの『アバウト・シュミット』においては、ひとつの可能性がたまたま実現されてしまった、という程度のことだ。喪失というのが何の感傷もない単なる乾いた行為であるのと同じように、その実現も単なる行為でしかない。相変わらずこのフィルムは穴だらけだし、まあそれでいいじゃん、とアレクサンダー・ペインは言うだろう。
 「シュミットについて」(About Schmidt)何かを知るというのは、「シュミットが尽きる」(A bout de Schmidt)のをただ見て聴くだけ、そういうことだし、それしかできない。そのなかで、愛とか勇気とか自由とかが、ときどき生まれたり生まれなかったりする。

(松井宏)

 

2003/06/27(fri)
『霊長類』フレデリック・ワイズマン

 

 

 原題<PRIMATE>が、人間と猿(エイプ)のどちらを指しているのかは明らかではない。というのも、この霊長類2種は、それぞれ均等な割合でフィルムに登場するからだ。動物実験の現場を取材しているのだから、それは当然のことかも知れない。
 人間たちは檻の外から猿を見つめて、その挙動を次々に言葉で分節する。
「正常位だね」
「落ち着く」
「胎盤を舐めてる」
「勃起している」……
 現に目の前で行為しているのが人間だったなら、決して発語されないような言葉が並ぶ。猿の行動を精確に写し取るべく動物学者が手に取った機材は16mmキャメラでなく、テープレコーダーだった。自分にマイクを向けて、観察した動作を逐一言葉に移し換え記録するのだ。何のために彼らはそこまで……、という疑問にフィルムはひとつも答えてくれない。彼らが真剣に仕事に従事する様だけがそこにある。そうして猿たちは言葉で切り刻まれてバラバラになり、脳のスライスだけになってもなお言葉に置き換えられてしまう。そこで私たちは否応なしに体験してしまう。あまりにも「自然に」響いてくる人間の声を。
 フィルムの中程だったろうか、文字通りおしめをはいた赤ちゃん猿の握力を計測しようとして、動物学者は小猿を鉄棒にぶら下がらせる。ストップウォッチ片手に、何秒持ちこたえられるかを測る。もう片方の手も鉄棒をつかまないように、左手の計測中、右手にモノをつかませておく。小猿が片手でぶら下がっているあいだ、動物学者は観察を続け記録する。小猿は耐えられなくなって手を離し、尻餅をつく、「○○秒ね」と動物学者が紙に記録しているとき、猿の左手はしびれてこわばっていたが、その手が言葉に移し換えられることはなかった。

(衣笠真二郎)

 

2003/06/24(tue)
『勇者に休息なし』アラン・ギロディー

 

 

 冒頭、カフェでの会話が長々とフィックスで撮られる。ひとりの男がもうひとりに向かって喋っている。バジルは自分の見た夢の話をしている。彼は「ファフタウ・ラウポ」(?)の夢を見たと言い、もう1度寝ると死んでしまうと言う。それを聞いていたイゴールはその話に興味をひかれる。
 ところで、二人がそもそもどういうきっかけで知り合ったのかは結局最後になってもわからない。その前に何があったのか想像するのが難しい。映画はいきなり始まったように思えるし、何の説明もなされないまま映画は進行して行く。気がついた時にはすでに何かが始まっていて、その発端についてはさっぱりわからないが、しかし1度巻き込まれたことには徹底して付き合うとでも言えばいいだろうか。とにかく、始まりを空っぽにしたままでどんどん展開して行くのがこの映画のひとつの特徴だ。だからここで行われる追跡劇等々のひとつひとつを確認することはできても、それらがどういった経緯で起こったのかは知ることができない。事件は唐突に起きて、何故かはわからなくてもそれは確実に起こっている。
 バジルとイゴール、そしてジョニーの三人の奇妙な関係のあり方がこの映画の主軸を成すとして、その発端にあるのが「ファフタウ・ラウポ」だとしても、それがいったいどういったものなのかも知ることはできないどう綴るのか、バジルでさえそれは知らないし、音で記憶しているだけだと言う。だが、その夢をいったん見て、それを聞いてしまった以上はそこから逃れることができない。彼は本気で寝ることを恐れ、つまりは死ぬことに怯えている。死ぬことが人生の終わりにあるとしたら、寝ることは1日の終わりに訪れる。バジルは終わりを回避しようとしているのだろうか。彼は寝ることと夢を見ることは違うと言う。夢を見ている間は寝てはいないと言う。映画の中で現実の場面と夢の場面があったとしてもそこには明確な区別が付けられているとはあまり思えない。それと同じように、バジルも現実に生きている時と夢の中で生きている時の区別をあまり付けていないのかもしれない。どちらにあっても彼は生きていて、そこに風景が広がっている。
「ファフタウ・ラウポ」のようなわけのわからない音の連鎖はアラン・ギロディーの中篇『貧者に注ぐ陽光』にも導入されていた。そこでもそれが説明されることのないまま人物がそこで関係を持ち、風景がそこに広がっていて、そこで生きていた。

(須藤健太郎)