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February 8, 2004

『エレファント』ガス・ヴァン・サント

[ cinema , cinema ]

事件が起こったとき、それを事後的に語ることができるのは、そこにいなかった人々である。そこにいた人々は、そこにいたからこそ生き残ることができなかったのだから。学校の中に入らないで済んだ者、そしてそこから逃げだせた者たちによって、それらは語られる。『エレファント』で死んでいった者たちは、事件を語ることはできない。幾人かの生徒たちの名前が画面に登場する。同じ時間を過ごした彼らの行動を、個々の時間に分け隔てることによって、ひとつの事件を取り巻く状況が少しずつ広がっていく。
ジョンとイーライが廊下で出会うシーンで、ジョンの“回”ではジョンの後ろ側から撮られていたのに対して、イーライの“回”では、その反対から、つまりイーライの後ろから同じ場面が撮られている。ミシェルの場合、ジョンとイーライが話す様子が映されながら、彼女が近付くに連れ、彼らを映すピントが合わなくなってくる。もう三回目となる彼らの話を聞きながら、画面には走り抜けていく彼女の後ろ姿だけが映される。ふたりがすれ違った後、カメラが追い掛ける人物、それが現在の主人公となる。カメラは常に彼らの後ろを追い掛ける。時には監視カメラのように教室の片隅からじっと様子を伺い、時には円を組む彼らのまわりをぐるぐると回りつづける。だが、どんなときであれその“回”の主人公となる人物を見失うことはない。
実際に起こった事件を元にした映画は数多く作られているが、それらの作品によく見られるのは、当事者たちの記憶による再現、という手法である。『エレファント』は、このような手法からは遠く懸け離れている。何よりも、記憶によって撮られた映像ではない。ひとりひとりの名前によって分けられているといっても、それは誰かの視点から撮られたのではない。ただ彼/彼女が過ごした時間がそこに映されている。彼らは動き回り話しつづける。カメラが追い掛けるのは、彼らの行動ではなく彼らの過ごした時間の流れである。事件が起こるまでに何が起こったのか?あるいは何をしていたのか?という問いは保留され、時間を切り取ることにだけ専念する。彼らの動きが停滞したとき、カメラは自ら活発に動き出す。時間が滞ることがないように、何があっても、カメラは時間を追いつづける。
学校の中に入らなかった生徒たちは、銃声の響き渡る校舎をただ見つめている。ジョンの父親がどこからか姿を現し、同じように校舎を見つめる。「どこへ行ってたの?」というジョンの問いに答えを返すことはない。カメラの追跡を受けた息子と、追跡を逃れた父親。そのとき彼はどこへ行っていたのだろう。誰ひとりその答えを知ることはできない。

月永理絵