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March 13, 2004

『簡単な生活』松尾清貴

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初めて耳にする作家だ。おそらくこの作品がデビュー作であり、巻末の略歴からすると著者は27歳だろうか。その27歳の新人が1923年の初秋、あの歴史的大災害が起こったときの東京を舞台に書いた小説が「簡単な生活」である。
<簡単な生活>とは何か、そしてその舞台としてなぜ当時の東京が選ばれたのか。この作品に対してまず問われるべきはそんなところだろうか。恐らくこの作家(小説)はそういった問いに対して明解な答えを持っている。少なくとも筆者があくまでも現在について物語ろうとしているのは確かだ。
それよりも私が気になったのは、あの出来事が起こる以前と以後をどのように描いているかという点だ。
まず以前。神田の居酒屋で働く主人公は、常連客である絵師の「下手物となんら変わりがない」絵が突然売れ出したことを受けて「実にまずい世の中だ」と思う。その後すぐにその絵師を含め、主人公の周囲の数人が姿を消す。殺傷沙汰だ。その事件について主人公が雇い主と交わす会話はこの小説のテーマがはっきりと明示される部分でもある。その後、彼らは自らがいる場所(「ぼくがここにいる証」)を守るために、「見えない敵」との闘いにその身を落としていく。
そして、その時が訪れる。
ではそれ以後は?ここで以後は描かれない。地面が揺れ続けるなかでこの物語は終わる。<その時>が終わる前に、主人公はあるものでもないものでもない<あるべきもの>があることをを見つけ、同時にそれを失う。そして(歯の)痛みだけを残してこの物語は終わる。
私はこの終わりに驚いた。その驚きはこういう方法があるのかという単純な発見と、<その後>をあっさりと切り捨ててしまうことへの違和感なのだと思う。不思議なことに主人公が<あるべきもの>を失った後(ページにしてわずか2ページ半)、その後においてこそ私は地面が揺れるさまを感じた。
「見上げると蒼穹はどこまでも高く、ここで何が起こっていてもまるで関心がないように見えた。歯が痛い。歯が痛い……」
いずれ痛みすらも消えるだろうか。消えてもなお語り続けることはできないだろうか。

黒岩幹子