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March 16, 2004

ドラマ・リーディング 『家』作:ニコラ・マッカートニー 演出:三浦基

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世田谷パブリックシアターではここ数年ドラマ・リーディングがたびたび行われている。後に舞台化されるためのプロセスとしてのそれもあるが、今回はドラマ・リーディングのためだけに、海外の劇団と協力してその国の作家を招いている。『家』の作家ニコラ・マッカートニーは、スコットランドのトラヴァース・シアターとの協力のもと、世田谷に招かれた。彼女はかつて自分の劇団を主宰し演出もしていたとのこと。
青年団所属で、かつて文化庁の奨学金をもらって2年間パリに滞在していたという三浦基の演出がどういったものだったかとか(もちろんドラマ・リーディングではあるが)、あるいはスコラ・マッカートニーという、日本で1冊の翻訳も存在せず、その名前すらほとんど紹介されていない作家の戯曲がどうだったかとか、果たしてここで語る必要があるのだろうか?私は、ないと考える。自閉症の娘を鏡に、その姉と母親と伯母の不安を描いてゆくこの戯曲に魅力を感じることなど不可能だ。作品の質のことではない。何の文脈もなしに、たった1回のみのドラマ・リーディングによって提出される舞台および戯曲に、われわれはどう対処してよいかわからない。すごく単純なことだ。
簡素なパンフレットには作家と演出家の経歴のみが書かれ、批評のひとつも、コメントのひとつすらも載っていない。世田谷パブリックシアター(以下「世田パブ」)はいったいこの企画をどのように考えているのか?これはドラマ・リーディングという形式にも関わってくるだろう。アフタトークで三浦はこう語った。「ドラマ・リーディングは欧米では基本的に出版者が企画するもの。その作家を売り出すために行われます」。彼の言う通りだ。そして、だからこそドラマ・リーディングなど不要である。きちんと準備をして上演をすべきなのだ。世田パブにその経済的余裕も時間的余裕もないのなら、ドラマ・リーディングなどやるべきではないと思う。
つまり世田パブは、まるで自己満足のためだけに「ドラマ・リーディング」という妥協産物をつくり出しているようにしか見えない(何本かの戯曲からニコラ・マッカートニーの『家』を選ぶなど、もちろん多くの人間の努力があるのは確かだが)。かつて世田パブ前ディレクターの松井憲太郎氏は雑誌「nobody」4号のインタヴューでこう語った。「この劇場で演劇の通時的な歴史を踏まえながら、日本におけるスタンダードの軸を提出したい」と。ではドラマ・リーディングなる企画はその意図に沿ったものなのか?いや、たとえそれが日本への紹介の第一歩であるとしても、ニコラ・マッカートニーの『家』がどのような文脈で選択されたのか、なぜ説明がどこにもないのか。そして、セノグラフィーもアクションもほとんど皆無なこの「演出」に、われわれはいったい何を見ればよいのか?
世田パブが患っている「ドラマ・リーディングの病」(これはきっと「ワークショップの病」とも関係するだろう)は、われわれ演劇の観客の病でもある。私は、たとえ高名な演出家のものだろうとドラマ・リーディングなど見たくも聴きたくもない。現代の戯曲作家を紹介するのは演劇にとって非常に大きな政治的態度である。その態度は、周到な準備のもと、演出家の最大限の努力とともに提出されるべきだと思う。それこそ劇場の役目であり、その後にやっとわれわれは演劇の観客になれるのだ。
ところで世田パブの現ディレクターが野村萬斎だってこと、いままですっかり忘れてた。そんなこと誰も知らないだろう。いや、知る必要もない。

松井宏