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April 24, 2004

『イン・ザ・カット』ジェーン・カンピオン

[ cinema , sports ]

微かに感じる違和感。それは、見えないことの選び方にある。バーの地下で若い女が男の股間に顔を埋めている。カメラが近づくと、女の顔が画面に映される。だが、このとき女の爪がくっきりと映し出される一方で、彼女が加える男の性器はきれいにぼかされてしまう。一カ所だけにピントが合わされその周辺部分が極端にぼやけてしまう、こうした効果が映画全体に渡って使われているのだが、あまりにもうまく使われすぎているのだ。その画はモザイク効果を使ったアダルトビデオとまったく変わらないのに、バランス良く使用されることでまるで一枚の絵のように見えてしまう。モザイク効果を目にしたときに感じる汚さや居心地の悪さを、あっさりと見過ごして、カメラはただきれいなものを追いかけていく。
もうひとつの違和感。初めてのセックスの後、メグ・ライアンの投げかける「一体これをどこで教わったの?」という問いに、M・ラファエロは話し始める。「あれは俺がまだ少年だったときだ・・・。」それはどこにでもありがちな、初めての女性経験話でしかない。だが、ここで感じる違和感は、メグ・ライアンが体験した彼のテクニックが、ずっと昔に経験した年上の女性からの教えによるものだ、と断言されてしまうことにある。彼の歳がいくつかは知らないが、結婚をしていたこともあるし、今までに何人もの女性とのセックスを経験してきただろう。これらの女性たちとの経験がいとも簡単に見過ごされてしまうのは何故なのか。たとえすべてのノウハウをその年上の女性から施されたとしても、今の彼のテクニックは、経験の中で少しずつ培われた結果でしかない。経験、そして時間の持つ重みが、ここではすっぽりと抜け落ちている。あるいは故意に見落とされている。
バーでのフェラチオ現場を目撃したメグ・ライアンは、そのときの男の顔を探し求める。暗闇の中に隠れた顔を、明るい場所で見つめようとする。なぜ女の青い爪を見ることができ、男の顔を見ることができなかったのか。なぜ男の性器は見えなかったのか。殺された女たちの肉体はどこへいってしまったのか。何故彼女たちが殺され切り刻まれたのか。たくさんの文字の羅列の中から、ある言葉が選び取られる。それは、無数にある顔写真の中から犯人の顔を選びだすかのように、途方もない作業だ。彼女の目には言葉が飛び込んでくる。彼女はそれを記憶し書きとめればよい。積み重ねられた言葉の山は、それが何時何処で選び取られたかを表すことはない。見えてしまったものと見えなかったもの、その間にある差異は明らかにされないまま、事件は解決される。

月永理絵