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May 5, 2004

『永遠の語らい』マノエル・デ・オリヴェイラ

[ cinema , sports ]

リスボン大学で歴史学を教える女性レオノール・シルヴェイラは娘を伴ってリスボンから船でパイロットの夫が待つボンベイへ向かう。マルセイユ、ニース、ナポリ、アテネ、アレクサンドリア、イスタンブール、アデン……歴史の聖地を訪ね、彼女は娘に当地の歴史について語り、そこで出会った人々に、母国語とは異なる言語で、その地の歴史を語ってもらう。マルセイユからは女性実業家のカトリーヌ・ドゥヌーヴ、ナポリからはもとスーパーモデルのステファニア・サンドレッリ、アテネからは歌手のイレーネ・パパスがこの船に乗り込む。彼女たちは毎夜、船長のジョン・マルコヴィッチのテーブルに招待され、晩餐を共にする。フランス語、イタリア語、ギリシャ語、英語が飛び交い、それぞれの母国語で発せられるディスクールが奇跡的に実を結び、「豊饒」な時間が流れているように感じられる。だがアデンを出向直後、この船にテロリストから爆弾を仕掛けられたことが判り、乗客、乗員は救命艇に避難するが、逃げ遅れたレオノール・シルヴェイラと娘が犠牲になる。
それだけの話だ。
各地を船で回ることや、母子の行き先がいちおうボンベイであることがこのフィルムのマクガフィンであることなど、当然すぎて書き記す必要もないだろう。重要なのは、絶対的に選択された寄港地であり、そこで語られる「歴史」=「物語」だからだ。船が波を切って運航するショットは常に同じ形で挿入されるだけで、それはこの船が運航していることを示したりはしない。舞台が船であることを伝えているだけだ。A Talking Pictureと題されたこのフィルムで人々はひたすら語り続ける。「永遠の語らい」だ。レオノール・シルヴェイラは私情を廃して、娘に「客観的な」事実──それも物語だが──を伝えようと語ることを止めないし、上記の4人の大スターは、少ない例外の時間はあるが、母国語に固執する。確かに人々は語り続ける。だが、レオノール・シルヴェイラと、大スター4人の語ることは、その位相がまったく異なっている。レオノール・シルヴェイラが語る「客観的な歴史」は、歴史学の教授であること以外、彼女の個人的な事情を含まないのに対し、他の4人が語るのは、4人それぞれの個人的な事柄である。だが、私たちは、この4人のスターの私生活のことを多少は知っているから、4人の語ることが完全な嘘であることがよく分かる。「客観的な事実」の周囲に何重ものフィクションがつなぎ合わされているのだ。
それぞれの寄港地で、レオノール・シルヴェイラが娘に語ることは、その地名の持つ歴史上の重要性を上書きする。私たちは、彼女の娘と同じように、ひたすら寄港地の風景を見つめ、ひたすら疑問を投げかけるだけだ。そのとき、寄港地の単なる魚市場、廃墟、丘、巨大な墓地に意味が重層される。それらの風景の持つ瞬間性に歴史性が加算されることでその風景が重くなればなるほど、船中の夕食で語られる言葉に意味が失われていく。船長を含めたここにいる4人は、今も生きていてそれなりに重要な人物なのだろうが、彼らが語る彼らの人生など、寄港地の風景に比べれば取るに足りないのだ。不思議なことに、このフィルムの最後の寄港地になるアデンでは、当地の歴史を語るレオノール・シルヴェイラの声が非在だ。過去から声を召還する必要などない。ここはまだ歴史の先端──つまり現代──の渦中にある。現代について、人は語る言葉など持つことはない。ジョン・マルコヴィッチのJump!という叫びが、爆発音というノイズに重なり、意味を持つ言葉など発せられることはない。

梅本洋一