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May 21, 2004

『エレファント』ガス・ヴァン・サント

[ book , cinema ]

『ストレイト・トゥ・ヘル』の狂騒のなかで狂騒の果てるゼロ地点をただひとり見透かしてしまうジョー・ストラマーならば、そのゼロ地点からノッペリ広がり続ける静かな砂漠でのレッスンのため、安物のオイルをポマード代わりに来る日も来る日もリーゼントをセットしつづけるだろう。エモーションの果てた地点でいかにエモーションを生産するのか。それはポマードのなくなった砂漠でいかにリーゼントを維持しつづけるかという、ジョー・ストラマーにおける命題と同じ意味を持つ。このときリーゼントとは、形式の問題であると同時に、それを越えて、不定形な複数性を獲得してしまうだろう。つまりこれこそエモーションの問題となる。
『エレファント』には複数の視点が浮上する。それらは、だが浮上して不定形なまま、連続して私たちを襲って来る。そのどれかひとつにでも焦点を絞ろうとすればたちまちすべての視点が消え去ってしまう。だからそこでできることといえば、複数の不定形のどれかに言葉を与え、そこにあった複数性が消え去り、またもや別の複数の不定形が浮上してくるさまに脳みそを委ねることだけだ。そうすることでやがて、言葉を与えようとする意志が、言葉を与える行為そのものに追い抜かれるはずだ。カメラを向けようとする意志が、カメラを向ける行為そのものに追い抜かれるはずだ。『エレファント』はそうして、葉っぱを吸ったときのような極めて冷静な状態のまま、少年少女のウナジを追いつづける。
ガス・ヴァン・サントはエモーションの果てた地点をひたすら滑走する。形式の果てまで行き着いたその場所で、不定形の複数性を獲得し、そこから何もかもが生産されているような、ありうべからざるエモーションを垣間見せてしまう。少年少女にピンマイクが付けられ、ミシェルの声が身体が、イーライの声が、ジョンの声が身体が、連続して私たちに襲い掛かり、しかし焦点を合わせた途端にそのすべてが消えてゆく。
ピンマイクによって彼ら全員に等しく与えられた法としての物語は、だがその果てまでガスに連れていかれることで骨抜きにされるだろう。残るのは、ジョー・ストラマーがオイルでベタ塗したリーゼントと同じ、名指しようのないエモーションだけだ。「ホワッツ・アップ、ジョン?」−そこから再び、微かな物語が動き出すのだ。

松井宏