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June 2, 2004

『シティ・オブ・ゴースト』マット・ディロン

[ cinema , sports ]

高飛びした保険金詐欺集団のボス(ジェームズ・カーン)を追って、マット・ディロンはタイ、続いてカンボジアに向かう。親同然のその男は地元の実力者と関係を持っており、ディロンは組織との利害抗争の中に巻き込まれていく。デヴィッド・リンチ作品を手がけるバリー・ギフォードとの共同脚本であるこの映画はどうしようもない迂回をもってそれだけの物語を語る。
ほぼ全編カンボジアロケのこの映画の肝は、むしろニューヨークで展開される冒頭のシーンにある。台風の襲来によって根こそぎにされる街の映像がテレビのモニターに映し出される。そこがアメリカのどこなのかは全くわからないし、その後の展開にもさして関わりはない。そのどこともわからない街が嵐に見舞われる映像が、「9.11以降」というよりは「『ガンモ』以降」の映画としてのこの作品の正当性を主張する。全面的に展開されるカンボジアの自然や町並みに対して、ニューヨークの屋外はほとんど描写されることはないが、わずかに映し出される小雨の降る街角でちらりとこちらを振り向くディロンのあのどうしようもない暗さは、『ミスティック・リバー』のボストンにも通底している。
『ペイチェック』のベン・アフレックのような、つるりとした似非アクション俳優といった風情を見せるディロンだが、彼がいつもの生々しさを取り戻すのは、何度か挿入される眠り(あるいは気絶)とそこからの目覚めのシーンにおいてである。地元のシクロ運転手によって「あそこは悪い場所だ」「あいつは悪い奴だ」と直感的に看破される悪の明白さと、にもかかわらずそれにたどり着くまでの迂回の長さは、目覚めてからさっきまで見ていた夢を思い出すような感触を与える。ひとりの登場人物がクメール・ルージュ政権下の生活について語ることはあるものの、それ以外においてそこがカンボジアである必然性は何ひとつない。要はそこがカジノ(=夢)の生起しうる場所であり、それが流産する場所であることが大事なのだ。全てが終わって私たちの頭に残るのは、冒頭の嵐であり、その影響である小雨がまだ降っていることなのだ。
夢が生起し、流産するまでの長い時間を、ディロンは矢継ぎ早に音楽を詰め込んでいくことで持続させている。それは徐々にオフの音源であるのかオンの音源であるのかが判然としなくなっていく。DJと化すドパルデュー。カーンのカラオケ。それらを見るだけでも、この映画を見る価値がある。このマット・ディロンの処女作にはできる限りをつぎ込んだ清清しさがあり、ここまでやれることは全部やったという映画はなかなかない気がする。

結城秀勇