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June 25, 2004

『デイ・アフター・トゥモロー』ローランド・エメリッヒ

[ cinema , cinema ]

『インディペンデンス・デイ』と同様に、世界滅亡の危機に見舞われる「ザ・デイ」をエメリッヒは描く。しかし、それは適度な危険のほのめかしと、それをもとにしたちょっとした教訓話に収まってしまう。
温暖化の揺り返しで一気に寒冷化が進む北半球で、洪水と吹雪に人々が逃げまどう。合衆国を南北に二分する線が引かれ、北部は見捨てられ、南部の住民も土地を捨てて更に南へ逃げることになる。その絶対的な危機でニューヨークに取り残された主人公デニス・クエイドの息子が生き延びるために行うこととは、父を模倣し反復するという極めて映画的な事柄なのだが、残念ながらそれはストーリーのほんのわずかな要素を占めるに過ぎない。結局、「アメリカ壊滅か?」と思われた絶対的な緊急事態も、意外に多くの生存者とあまりに都合の良い副大統領の反省によって、相対化されてしまうのだ。
途中、観測用の衛星から眺める映像が挿入される。ヨーロッパ、アジア、北アメリカの各大陸をそれぞれ大きな3つの気圧の渦が覆っている。見ようによっては巨大な3つの「6」の文字が並んでいるようにも見えなくない不吉な映像だが、それを見ている衛星のクルーはあまり危機感がなく、「なんだかわからないが大変だ」という感じである。もし地球上の人類が滅亡したとしたら、彼らこそ最後の人類として、かつ故郷の土地からまったく切り離されてしまうことになるにもかかわらず、彼らにはまったくそういった想像力が欠けている。それは彼らに限ったことではなく、NASAや閣僚の面々もそうで、たとえ大統領が死ぬという事態があっても、「我々はこの失敗を忘れずに__」などという白々しい台詞によって締めくくる。結局、観客の視線は衛星のクルーと同じで、別に必要でもないし、滅びようと知ったことではないようなものを、でも助かれば良いよねという感じでながめるしかない。
「我々はこの失敗を忘れずに__」。その台詞に、ある種の重みを持たせたいのなら、描くべきなのは「明後日」という一点ではなくて、「明日以降の日々」であるのは明らかだ。

結城秀勇