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November 25, 2004

『DV1』『DV2』 フレデリック・ワイズマン

[ cinema ]

『DV1』は、DV(ドメスティック・ヴァイオレンス)という一つの崩壊を迎えた人々が再生に向うための治療を映したフィルムであり、『DV2』はその崩壊からその先の破滅へと向うか、幸運な再生へと向うかの分岐であるはずの裁判をめぐるフィルムだ。
『DV1』の登場人物は殆どその被害者であり、人々はその体験に対していろいろな角度から多数で討論する。勿論、カメラは彼ら一人一人の言葉に耳を傾けるために、頻繁に切り返される。そして『DV2』の主な登場人物にはDVの原告と被告に加え、そして更に裁判に関る「労働者」がいる。ある場所では、彼らは当事者達の資料を片手に、目の前にあるモニターの先に座る2〜30人の被告に対して、淡々と一方的に彼らを裁く。「あなたには前科が無い、釈放」「前科3回、全て相手は同じ、では保釈金は1万ドル」「接触禁止令を出す、これは警告だ、破れば逮捕する」云々。カメラは被告を一瞬映すだけだったりもする。裁判官だけを映していても殆ど事足りるからだ。被告は経験を喋る機会さえ無い。
もちろん、通常形式の裁判もある。一人の女性は、自分の夫の告訴を取り下げたいのだと告げる。すると、それまで淡々と彼らを裁いていた男は呆れたような顔でこのように告げる。「あなたはこの間、私に助けて欲しいと言った。それが今日になって「もういい」と言う。私にはわけがわからない」。その身振りがまるで二流のコメディ俳優のようで私にはとてもおかしかったが、彼は真剣だ。何に?「仕事を終わらせるために」、だ。

『DV1』では、DVを通過した人々がそのDVそのものについて、「DVとは何か」について思考する経過を見ることが出来る。実際にDVによる通報があり、被験者と警察との禅問答のような会話が続いて終わるラストシーンはその思考の虚しさを示すのではなく、むしろその不条理に対する人々の姿勢の正しさを浮き彫りにするだろう。
だが、『DV2』では人々の姿は滑稽でしかない。DVが流れ作業で解決されるものではないことを『DV1』に映る人々は良く知っているからこそ、思考を続ける。ところが『DV2』に映る人々は、DVがシステムで解決可能だと頑なに信じているだけだ。そこに「思考」はなく、浪費される「仕事」しか存在しない。
『DV1』の冒頭では、DVのための施設があるフロリダ州にある巨大なビル、中心に向って段々と高くなる幾つかのビルが並列する風景から、そのカメラは細部に向けられる。その両脇に店が並ぶ典型的な地方都市の道路、そして各々の小さな住宅。『DV2』の終わりではその逆の順に風景は流れていく。都市の全景から細部へ、細部から全景へ。そのような作業を通過した時、フロリダ州の「イメージ」はおぼろげながらに見えてくるかもしれない。それは全景と細部を「モノ」として持っているからであり、「形」を持っているからだ。だが、毎日のように裁判が行われてもDVという現象が増殖し続けるのは、全景を思考する人々がいる一方で、法廷という細部を追及するはずの場所において、DVという一つの「イメージ」が解決を前提として捏造されているからだ。DVはもちろん「モノ」でも「イメージ」でもない。形の無い「問題」であるがゆえに、思考するによって初めて解決への糸口の、ほんの僅かなほころびが見えてくるはずだ。
ワイズマンは勿論、そんな「イメージ」を捏造することなど考えもしない。ひとつの「モノ」である映画が不定形の「問題」に対峙するために、ひたすらカメラを回し続け、省略技法をギリギリまで引き伸ばす。『DV1』『DV2』の合計355分という時間は標準的なアメリカ映画3〜4本分に相当するが、あくまで最小限の数字であるだろうし、それは人々のたった一日の就労時間にさえ及びはしない。

田中竜輔