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November 26, 2004

菊地成孔クインテット・ライブダブfeut.カヒミ・カリィ@代官山UNIT

[ cinema , music ]

ジャズという音楽が生まれたとき、それがジャズ以外の何ものでもないとその存在自体が証明するために必要な、だが決して必要であると召喚されて始めて姿を現すものではなく自然とその体に纏っているものがある。それはおそらく対極するものとして二種類あり、そのどちらもが正しいのだろうがジャズという音楽に神が存在するとしたら彼が力を貸すのは間違いなくいかがわしさをたっぷりと湛えた黒い極の上に立つものに対してであろう。それは時間という厳然な選別装置によって確実に証明されている。歴史に名を残す巨人たちと呼ばれるものたちを思い出してみると彼らが魔術や幽霊に魅入られ、魅了され続けた人間であることは周知の事実だ。そして彼らが「ジャズ」ということばを不意に口にしたとき、それは彼ら以外の何者かが口にした「ジャズ」ではなくそのものがキラキラとデコレーションされたホイップクリームケーキのような嘘っぽい楽しさとともに姿を現す瞬間になるのだ。
そして菊地成孔はジャズと呼ばれるからにはもちろんブルーズという名の悲しさが不可欠であるとはっきりと自覚している。ジャズとは他のどの音楽よりもパフォーマティブなものでならないと強く意識している。彼が伝説的なジャズメンたちと似通った悲しさをまとっているかどうかはっきりとしたところは伝記がその物語を語るまで分からないが、そんなものを待つまでもなく今やこの21世紀ではインターネットでほぼ毎日更新される彼のホームページの「速報と更新」という名の日記によって日常の出来事の細部とまでは行かなくとも大まかな部分は把握することは可能であるし、文筆家でもある彼の文章からは必然的にエモーションが伝わってくる。つまり彼のファンであれば、いやそうでなくとも演奏を聴く前に彼のホームページを一週間分でも覗いてみればブルーズの根源を知りながらサックスの響きを聞くことが可能となる。そこではその音に身体を任せながら頭ではある物語を想像することが可能であり彼のブルーズの追体験が出来る。
だがそのような追体験などは全くもって必要のないものだ。真にジャズであること、パフォーマティブであること。それは何よりも彼がサックスという共鳴装置によって発せられた音にただ耳を澄ませればいい。‘Over the rainbow’というには余りにも悲しいアレンジのそれから始まり自曲の‘Elizabeth Taylor’に‘Kinski’、カヒミ・カリィに歌わせたビリー・ホリディの‘Crazy, he calls me.’これらは全てライブ・ダブというジャズでは到底考えられないサウンドアレンジによって音がリアルタイムで何重にもなりデコレーションされていく。そしてその音とデコレーションされたエコーを同時に聴きながら伝わってくるのはもちろんある悲しさ、ブルーズというジャズそのものである証だ。キラキラと輝きながらも悲しく響くエコー。悲しさとはジャズにおいては嘘っぽいほどにキラキラとしているものだと初めて感じることができるだろう。コンセプチュアル・アートにも似た変わったアルバムにおいて姿を現した彼のジャズであるが、それは間違いなく「ジャズ」以外に他ならないのだ。

三橋輝