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March 18, 2005

『LEFT ALONE』井土紀州
中村修吾

[ cinema , cinema ]

『LEFT ALONE』を見ながら、わたしはヴィム・ヴェンダースの『まわり道』を思い出していた。『まわり道』は前作『都会のアリス』に続いてリュディガー・フォグラーを起用して撮られた、ヴェンダースの長編第4作だ。ゲーテの教養小説『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』を翻案して脚本を書いたペーター・ハントケは次のように述べている。「主人公は、彼(ヴィルヘルム)ではなく、他の人たちです」。ハントケの発言を引き継ぎながらヴェンダースは、「すべてはヴィルヘルムを通して知覚され、フィルムに取り込まれます」と述べる。『LEFT ALONE』のスガ秀実の姿は、『まわり道』のリュディガー・フォグラーの姿とよく似ている。『LEFT ALONE』の主人公は、インタヴュアーとしてこのフィルムに登場すると同時に、映画が撮られる契機となった著書『革命的な、あまりに革命的な』を著したスガ秀実ではない。主人公は、アップで捉えられた松田政男、西部邁、柄谷行人、津村喬たちである。そして、彼らはスガ秀実を通してフィルムの中に取り込まれる。
『まわり道』の原題は“Falsche Bewegung”(間違った動き)であった。フィルムの終盤、リュディガー・フォグラーは山頂に登り、奇跡的な体験を期待するものの、何も起こりはしない。彼がなしていたことは結局、「間違った動き」なのであり、おそらく彼はその後も「間違った動き」を続けていくだろう。そして、ヴェンダースは『まわり道』に続いて、別の「間違った動き」である『さすらい』を、またもやリュディガー・フォグラーを起用して撮影することになる。『まわり道』についてペーター・ハントケは、「動きそのもの」をシナリオに取り込みたかったと述べている。ヴェンダースが『都会のアリス』、『まわり道』、『さすらい』のロードムーヴィー3部作で撮り続けていたものも、眼前で展開される「動きそのもの」であった。わたしには、井土紀州に『LEFT ALONE』を撮らせたものもまた、ヴェンダースが眼にしたのと同じような「動きそのもの」であったように思われる。
ヴェンダースのフィルムの登場人物たちを「間違った動き」へと駆り立てたものが何であったのかについて、わたしには答えるだけの余裕がない。しかし、スガ秀実を「間違った動き」へと駆り立てるものが何であるのかについては答えることができそうだ。すなわち、それは彼が近年提唱し続けている持続する「68年革命」説にほかならない。井土紀州からのインタヴューに答えてスガは自身の宙吊り状態を述べているが、スガを宙吊りにし続けているのは、「68年革命」であるだろう。スガの提唱する「68年革命」説の要諦は、マイノリティ運動の視点が導入された1970年の7・7集会を契機にニューレフト運動がシフトしていき、以後、差別問題やエコロジー問題が運動の課題となり、それは現在まで続いているというものであった。スガが述べているのは、現在存在しうる差別問題やエコロジー問題の視点は、遡れば「68年の思想」にその起源を持つのであり、そうであるからこそ、そして、それが現在までも持続しているからこそ、「68年」は革命的であったのだ、ということである。しかし、「重力」02号で「68年革命」について語り、膨大な著作を参照しながら『革命的な、あまりに革命的な』を書き上げ、『思想読本 1968』というムックを編集してもなお、スガ自身は「68年革命」から逃れることはできていない。『思想読本 1968』の鼎談では、「68年革命」論の仕切り直しの必要を述べてもいるのである。また、「68年」が革命的であったかどうかについては、「?」であるといった発言さえ彼はしている。
『LEFT ALONE』において捉えられているものは、「間違った動き」を続けるスガ秀実の「動きそのもの」である。おそらく、スガ秀実は今後も「68年革命」から逃れることは出来ず、「間違った動き」を持続していくだろう。