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March 27, 2005

『カナリア』塩田明彦
小峰健二

[ cinema ]

ナレーションに続いて耳をつんざくヘリコプターの轟音がわれわれ観客の鼓膜を刺激する。そして、草むらに身を隠すようにして上空を見上げているまだ年端もいかぬ少年が映し出されるのだが、ここで観客は奇妙なモノを目にすることになる。少年の頭に冠せられているそれは、あのオウム真理教の一連の報道で話題になった「ヘッドギア」である。しかし、観客がそのヘッドギアを目にした途端、それは少年の手によって投げ捨てられる。そして、少年は何かに急き立てられるように走り出す。これが『カナリア』のファーストショットである。

ナレーションにおいてすでに示されていたかどうかはっきり思い出せないが、「光一」という名を持つこの少年は児童相談所を脱走したということだ。半袖半ズボンの格好を見れば、その脱走がほとんど無計画だったことがわかる。夏とは言え、朝晩が冷えることぐらい子供でもわかるはずだ。そればかりか、少年は何も履いていない。素足なのだ。それを見ると、この脱走が何かしらの偶然によってもたらされたものであることが理解できるのだ。しかし、ここで観客は疑問を抱き、立ち止まらざるを得ない。なぜ少年はヘッドギアをしているのか、と。

少年が無計画に脱走してきたことはその格好から誰の目にも明らかなことだ。それはすでに触れてある。それにも関わらず、彼はヘッドギアをわざわざ着用して塀を越えるか、門番をかわしてきたのだ。まさか、児童相談所側がその着用、あるいは保管を認めていたわけでもあるまい。どこかに押収されていたヘッドギアを奪い返して、少年は外に出てきたのだろう。少年にとっては冷えから身を守る上着よりも、逃走に最低限必要な靴よりも、教団の教えに今なお忠誠を示しもするヘッドギアのほうが必要だったのだ。しかし、少年は呆気なくそのヘッドギアを投げ捨てる。無論、上空のヘリからも目立つ白いヘッドギアは、逃走には相応しくないと判断したのかもしれない。無差別テロをおこしたカルト教壇「ニルヴァーナ」の信者であることを端的に示す「身分証明書」としてのヘッドギア。そんなものを被っていては、祖父に引き取られている妹を取り返す大阪から東京までの道程が困難を極める。それくらいは理解しているとばかりに、少年は何の躊躇いもなくヘッドギアを投げ捨てるのだ。しかし、先に触れた経緯を綜合すると、この動作はいささか奇妙に見えはしまいか。少し考えれば、逃走、あるいは妹奪還の旅に最低限必要なのが、靴であることくらい児童相談所脱出前にわかるはずだ。だが、少年はヘッドギアを優先し、なおかつその所有をすぐさま諦める。それでも少年はその後、とある廃校のなかで、武器になるドライバーと運動靴を偶然に手に入れるのだから観客は唖然とするほかない。先に述べたショットに違和を抱いた者なら、このあからさまに用意された「偶然」を目にし、一気に鼻白むだろう。そして、このファーストショットの「演出」の明らかな不自然さによってもたらされた「白け」は後を引き、この『カナリア』の物語に観客が乗れない一因を形作っている。靴を見つける偶然も、旅の同伴者となる少女との出会う偶然も、その少女が以前児童相談所に少年と同時期にいたという偶然も、元信者の兄貴分伊沢と道ばたで再開する偶然も、少年と少女がたまたま入った食堂で少年の母親が自殺したというニュースを目にする偶然も、その時外は大雨であるという偶然も、何か不自然なものにしかうつらない。あの不自然なファーストショットが尾を引き、映画全体のバランスを崩しているのだ。

無論、『カナリア』はフィクションである。フィクションに偶然はつきものである。塩田明彦もことあるごとに『カナリア』のフィクション性について語っている。しかし、その饒舌は逆に、この不自然で脆弱な映画を庇う「弁護」に聞こえてならない。

渋谷アミューズCQNほか各地にて全国ロードショー中