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June 14, 2005

『カーニヴァル化する社会』鈴木謙介
衣笠真二郎

[ book , cinema ]

canival.jpg 東浩紀責任編集のメールマガジン「波状言論」にて鈴木謙介が連載していた文章を1冊の新書にまとめたものが本書である。著者は東京都立大学で理論社会学を修めてからすでに1冊の著書と共著を出版しているが、歳はまだとても若いといえる1976年生まれの人だ。彼の分析対象となるインターネットや若者たちと彼自身との距離は相対的に近いものであり、かつてインターネットヴェンチャー企業で経験したことや学生時代に模索した「研究動機(の捏造)」が本書を執筆するにあたってのリアリティを用意したというようなことを著者はあとがきで述べている。
 本書で論じられているのは、もっとも今日的で身近だがとても不可解なもろもろの現象である。フリーター/ニート、監視社会、携帯電話、そのそれぞれに1章が割かれ理論的な考察がなされている。第1章「「やりたいこと」しかしたくない──液状化する労働観」では、企業がフリーター/ニートに依存し搾取・排除しようとする構造的な問題が論じられ、若者はフリーター/ニートとしての「甘え」を避けることができないのだと著者はいう。以下、第2章「ずっと自分を見張っていたい──情報社会における監視」、第3章「「圏外」を逃れて──自家中毒としての携帯電話」においても、いわゆるマスコミなどでいわれる「社会問題」を構造的につくりだしてはそれに巻きこまれてしまう主体たちの像が説得的に描かれている。著者がそれらの動態に与えた言葉、「再帰性」や「自己への嗜癖」を見ればわかるようにそれらは「反省」や「超越(統一)」といった近代的な自己像と無縁であり、この営みには終わりが見えずただ「ハイ・テンションな自己啓発」を繰り返すカーニヴァルとして社会は空転し続けるということらしい。
 本書の結論として、「カーニヴァル化する社会」に対する処方箋を積極的に提案することを著者は選んでいない。規範的な命題を述べるよりも「カーニヴァル化するモダニティ」に視線を注ぎ問い続けることの意志が最後に示唆されている。
 本書の整然とした理論的考察を読み終えて、「カーニヴァル化する社会」の行方あるいは「祭りのあと」にいったい何があるのかを考えることに私はいまだ興味を持てないでいる。むしろ気になるのはそれとは別のもうひとつの「カーニヴァル」、それを文字っていえば「社会(理論)化するカーニヴァル」のほうである。社会問題を問い、理論的に考察することのちょっとした熱狂は、やはり今日的な言説の一部を確実に占めてきたように思う。その「カーニヴァル」はいまだに冷めやらないのだろうか。いつか来るその「祭りのあと」まで見とどけてみたい興味に私は駆られている。