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June 20, 2005

『描くべきか愛を交わすべきか』アルノー&ジャン=マリー・ラリユー
月永理絵

[ cinema , sports ]

 一軒の家がある。そこに住むひと組の夫婦がいて、そこを訪れるまた別の夫婦がいる。映画は、この一軒の家をめぐって進んでいく。

 日仏学院での上映後、ラリユー兄弟による講演の中で、映画での眼差しのあり方について次のように語ってくれた。アミラ・カサールがサビーヌ・アゼマの前で服を脱ぎ始めるシーンについて、アミラ・カサールは誰かの眼差しを受けることを求め、その相手がサビーヌ・アゼマであったのは、彼女が求めていたのは性的な眼差しや男性からのものではなく、母親からの母性的な眼差しであったからなのだと。眼の見えないセルジ・ロペスが「僕はエヴァ(アミラ・カサール)の眼を通して世界を見ている気がする」と語り、サビーヌ・アゼマが「まるで恋愛のようね」と答える。相手の目を通して世界を捉えることが恋愛なのだとすれば、その眼差しの持ち主が変わってしまったとき、ふたりの関係はどう変化していくのだろう。
 その眼差しは何度も交換されていく。突然、何の前触れもなく交換が行われる。もともと何も見えないセルジ・ロペスが何かに触れるその手つきや、アミラ・カサールの目つきは、結局は性的な関係へとつながっているにせよ、性的なものとは別の何かを求めているように見える。それは母親的な視線であったり、とにかくその手が触れる対象によって変化していくのだ。誰かに見つめられることを望んではいても、誰にどんな風に見つめられるのかを、このカップルは確かに選んでいる。だがもうひと組のカップル、サビーヌ・アゼマとダニエル・オートゥイユは、そんな風に新しい誰かが新しい眼差しが介入するのを、家の中で静かに待ちつづけているのだ。待つ存在であるふたりと、あちこちを渡り歩くふたりとが出会い、新たな関係が築かれていく。彼らはいつも最後にはお互いを見つめ、愛し合う。そしてそれはいつもあの家、山麓の一軒家でしか起こらない。だからこそ、彼ら夫婦は家を残すことに決めたのかもしれない。家が建っている限り、どんな訪問者が訪れても、彼らの関係がなくなることはないだろう。
 何かが見えなくなるということは、別の何かを発見することでもある。エンドクレジットで鳴っていた音は、実は本編のあるシーンで使われていた音から人物の声だけ抜き取ったものだという。それは、サビーヌ・アゼマとダニエル・オートゥイユ、セルジ・ロペスが真っ暗な森を歩いていたシーンだとのこと。こうして彼らの台詞なしで鳴っていた音を聞くのはとても不思議だ。だがそれは確かにそのときそこで聞こえた音なのだ。彼ら3人の声が消えても、そこには驚くほどたくさんの音が聞こえていた。