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July 18, 2005

『流れる』成瀬巳喜男
田中竜輔

[ cinema , sports ]

 夫と子供を失い、ひとりで細々と生きている45歳になる梨花(田中絹代)は、とある古びた芸者置屋「つたの屋」に女中として勤めることになる。すでに抵当に入れられた家屋の内部に生活する女たちは、いつも何かに悩み、時にはその悩みを互いにぶつけ合いながら、日々を過ごしている。この家の家主である女は生活の中の些細な悲しみに全身を浸しながら、静かに時代との乖離を始めた芸者という職業に向き合っている。若く美しく奔放な女はいざこざの中で姿を消し、口論でその家を飛び出した中年の女は再び涙を流してその家に戻ることを選ぶ。芸者という職業に違和を感じる家主の娘は三味線の稽古の音が階下から聞こえてくる場所で、「カタカタ」というミシンの音を立てながら自分自身の生き方を模索している。やがてその場所は消えてしまうのかもしれないし、そうではないかもしれない。さまざまな思いに決着をつけることも、あからさまに状況への諦めを提示することもなく、このフィルムは静かな三味線の合奏の音色の余韻の中に終わる。

 冒頭で、梨花は「女中らしくない」という理由で「お春さん」と名前を改められることになり、彼女はそれを「何とでも呼んでください」とあっさり受け入れる。それ以後も、彼女は色々な雑務に追われ、あるいは女たちの不平や悩みに耳を貸すことになるも、彼女は一度としてそれに反抗したり意見することもなく、ただただ「はい」「かしこまりました」「気をつけます」などと返事をするばかり。彼女は徹底して人々の聞き役にまわるだけだ。本心を他の女に喋ろうとしないこの家の幾人かの女たちも、まるで自分自身に言い聞かせるかのように「お春さん」だけには自分自身について語ろうとする。
 彼女の姿はエドワード・ヤンの『ヤンヤン・夏の思い出』に生きた老婆に重なりあう。突然の脳卒中に倒れた老婆は、家族の文字通り完全な「聞き役」として存在し、あらゆる家族の言葉に対して意見を述べることなどなかった。何の反応を見せることもない決定的な「他者」の前で、家族は自分自身と向き合い、自分自身が口にする言葉を反芻する。直接的な内省としてそれを受け入れるのではなく、「他者」を経由して「自分自身」を異化させること。その役割を「お春さん」は静かに受け入れているかのようだ。
 そして同時に、彼女は「ヤンヤン」でもある。様々な場面で悲しみを背負いながらも家の中ではいつも気丈に振舞っていた女亭主が、大事な約束を破られてしまい傷心しているところを使いの途中ですれ違った彼女は、幾度も幾度も振り返りながら、彼女から何かを聞き出すわけでもなくその背中に視線を投げかける。あるいは、自分自身の将来をミシンの乾いた音に委ねようと足踏みを始めた若い娘に、そっとその背後から穏やかな視線で寄り添う。あの夏にカメラを抱えた少年のように「自分では見えないでしょ」と口にすることはもちろんないが、「お春さん」はそんな静謐な時間を経由することで、ひとりの未亡人である「梨花」が故郷に残してきたものたちに向き合うことを決意するだろう。

『流れる』を観たのは初めてだった。115分の上映時間に幾度涙が頬を伝ったのか覚えてはいないが、一番初めにそれを感じたのは幼い娘が注射を嫌がるシーンだったように思う。怯える娘の布団に寄り添い、彼女の背中から腕を回して優しく声をかける田中絹代の姿に深く感動した。それはまるで、映画が僕らの生を包み込んでくれるかのような感覚だったからだ。