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July 30, 2005

『アイランド』マイケル・ベイ
月永理絵

[ cinema , cinema ]

 ここ最近カート・ヴォネガットの小説を何冊か読んでいて、そのせいかSFというジャンルが気になって仕方がない。だが「SFとは何か」という問題を考えても仕方がない。そもそもカート・ヴォネガットの小説の何がおもしろいかと言えば、その特異な言い回しや簡潔な文体の連続がつくり出すテンポのよさである。ただ、異様なシチュエーションでこちらをあっと言わせ、恐怖心や憧れを感じさせてくれるような未来の世界に出会うと、思わずSFという言葉に夢を抱きたくなるのだ。
 そんな軽い期待で見に行った『アイランド』だったが、始まって5分で、クローンたちが着るユニフォームのかっこ悪さにがっかりした。SFというジャンルがあるとすれば、小説以上に映画で重要となるのは、使われる小道具や街の風景だ。「未来」という曖昧な設定があるだけで、好きなように、街や人々のファッション、乗り物や武器をデザインできるのに、この映画ではそんなことは何も考えていないようなのだ。
 街の風景で言えば、未来の都市でありがちな、空中にまで延びた線路や、その線路の隙間を縫って入る車やバイクがここでも登場する。しかしその風景はあまりに陳腐だし、驚いたことに、ジェット・バイクと呼ばれる空を飛ぶ乗り物は、せっかくの機能を活かすどころか、ただ全速力で空を駆け抜け、ビルに突っ込んでは落下するというアクションをくり返すだけなのだ。ユアン・マクレガーとスカーレット・ヨハンソンの逃亡劇は、追ってきた車をどう振り切るかではなく、何かもっと大きなものを車にぶつけ破壊することで逃げ切るという一連のアクションで構成されている。とにかく大雑把で凶暴なシーンの連続で、一体近未来の設定を使った意味がどこにあるのか、途方に暮れた。
 どうやって逃げ切るかという頭脳戦よりも、ただ全力で広い大地を走り抜け、力任せに相手をやっつけていくだけという行動は、中学生程度の頭脳しか持たないというクローンの設定に通じているのだろう。ラストシーンで、呆気に取られた顔でなんてことはない現実の風景を見つめるクローンたちの姿を見て、『アイランド』でのSFというジャンルは、新しい未来像やかっこいい風景をつくるためではなく、陳腐な風景に感動する存在を設定するために利用されたのだ、と妙に納得した。SFというジャンルは、「何だってあり」という代名詞でしかない。そんな便利さをどこに使うかということが、それぞれの作品に反映されるだけなのだ。

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