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September 5, 2005

『赤信号』セドリック・カーン
藤井陽子

[ cinema , cinema ]

 プラスとマイナスの磁石の、どちらかを球に、どちらかを半チューブ状のレールにして、そのレール上に球を滑らせると、球は何の摩擦も受けずに猛スピードで滑走する。それを新幹線に応用すると、もっと速く、もっとなめらかな走行を実現できる。問題は、それを止まらせる方法がないということだ。
 うそかほんとか知らないが、そんな話を聞いたことがある。

 セドリック・カーンの『赤信号』はこの滑走運動を思わせる映画だ。端整で、なめらかで、速く、美しい。
 撮影監督パトリック・ブロシェによるところが大きいのだろうか、なめらかなカメラワーク、画面の構図、その捉えるもの捉えるものが幾何学的とも言っていいような端整さとバランスを持って、色彩やトーンはすがすがしいほどに調和がとれている、そのことに妙に目がいってしまう。エレーヌとアントワーヌが病室で抱き合った時の、ベッドの淡い青、アントワーヌの濃紺のシャツ、白い壁、ふたりの肌の色。流れるのはドビュッシーの「雲」である。とても端整で美しい。心地いいとすら言える。しかし、そこには何も澱む余地がない。
 車の走行。それは速い。決してだらだら走ったりしない。猛スピードか、急停車かだ。「中断」、それはしょっちゅう起こる。この映画の中断は、滑走するものを2本の指で軽くつまむだけで容易く起こるだろう。そして指を弛めればまた滑走しだすだろう。酒場の前における急停車、電話口での中断につぐ中断(繰り返される「Ne quittez pas」の声)、中断は映画全体に散在しているが、そのせいで滑走するものに澱みが生じることはなく、むしろ中断は滑走をさらに鋭くするために機能しているように見える。滑走はますますストイックになって、無駄なく端整で美しくなめらかなものだけが先端に残る。ジョルジュ・シムノンの原作にはあったと思われる物語の筋は、おそらくこのために大きく省略されているはずだ。その速度のなかでは、「牛」は酒場の天井で逆さに吊るされてしまうのだ。
「赤信号」──そんなに速く走ると危ないよという手遅れのシグナルか、あまりにも速いのは止まっているのと同じようなものだということか。
 私はこの映画があまりにもなめらかなことが妙に気になる。私はもっとざらざらしているものが好きだ。上映後のレクチャーで稲川方人さんが指摘していたが、『赤信号』の移動は、ロード・ムーヴィーの移動とは決定的に違う。そこには風景がなく(走っているのは深夜のハイウェイだ)、「移動する」行為は目的ではない(車は本当には「走っていない」)。そこに、緊密した空間のなかのふたりの人間の意識と摩擦が、はっきりと浮かび上がっていたように思う。しかしやはり気になってしまうのは、それすらも、なめらかに素早く運ばれていることなのである。私には、彼らのしている移動も中断も、どうしてもひとつの滑走運動に収斂されていくものに見えてしかたない。それがこの映画のひとつの大きな魅力であることは間違いないし、その点では成功していると言えるのだが。
円滑な滑走のためには、多くのざらざらしているものを削ぎ落とさなければならない。そしてそれは必然だ。
 僅かなひっかかりは残すものの、あるひとつの運動を、ここまでストイックに映像に映し出しているセドリック・カーンは、とても興味深いと思う。