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September 13, 2005

『チャーリーとチョコレート工場』ティム・バートン
田中竜輔

[ cinema ]

『夢のチョコレート工場』でメル・スチュアートは当然のように目もくれていなかったし、ロアルド・ダールの原作にも存在しなかったというウィリー・ウォンカの過去をティム・バートンは掘り起こしている。『夢のチョコレート工場』にあった遊園地のアトラクションのような工場の内部を現代の技術と莫大な予算でリメイクし、遥かにエキサイティングで楽しいフィルムを作り上げることはバートンでなくとも不可能ではないだろう。だが、バートンが選んだのはそれに留まることではなかった。必要としたのはジョニー・デップにある奇人を演じさせることなのではなく、その奇人に父親が存在することを語ることだった。
 たしかにウィリー・ウォンカの生まれ育った家はどこかの街に存在していたが、歯科医である父親(クリストファー・リー)が固く禁じたチョコレートを口にし、ウィリーが家出を決断した時、その家はどこかへ消失してしまう。フィルムの終盤でウィリーはその家に帰り着くのだが、その家が存在しているのは、その近辺に他の家がまったく存在しない荒涼とした場所、もちろん歯科医としての営業などがとても成り立つようなはずもない場所、この世には全く存在しないような場所、あるいは世界の終わりのような場所だ。そこでふたりの奇人が再会を果たす。まるで拷問器具のような歯列矯正具を息子に強要し、菓子を悪魔であるかのように忌み嫌う父親と、狂気のようなチョコレート工場で菓子にすべてを捧ぐ息子。彼らはまったく正反対の立場にありながらも、同じように世界には決して適合できずに今を生きなければならない人々だ。
 その間を結ぶのは、町の外れ——この歯科医院とほとんど同じような空間——に今にも壊れてしまいそうな傾いた家の中で、3世代の家族と共に暮らしているという極限の貧乏人の少年であるチャーリー(フレディ・ハルモア)だ。彼はこともなげにウォンカが受け渡そうとしたチョコレート工場よりも「家族」を選び(このエピソードも『夢のチョコレート工場』には存在していない)、そして「家族」を信じている。彼も、そして彼の家族もこの世界には決して適合できない存在であることは明らかだ。さらに、ウンパ・ルンパ(ディープ・ロイ)というどことも知れぬ国に住んでいた小人の詳細が語られたことについては言うまでもない。このフィルムの中心に位置するのはどこに身を寄せることもできずに、それでもこの世に生きていくことを誰よりも自覚している人々であり、そして頑ななほどに「夢」を信じている人々だ。
 人々は「チョコレート」にはほとんど見向きもせずに、その中に内封されている黄金のチケットを求め、あるいはたどり着いたその工場でもあらゆる細部を否定し、「科学的じゃない」とか、「意味がない」などと罵るばかりで、何がそこにあるのかなど見ようともしない。「チョコレート」という遥か昔の「夢」ではなく、その「夢」に添えつけられた何かを求めることしか眼中にない。それでもウォンカの「夢の工場」は、いつの間にか人々が求めなくなってしまった「夢」を作り続けることをやめようとはしない。「カカオ」をあがめる小人の力を借り、かたくなに「夢」を信じようとした人を捜し当てたその時に、失われてしまったはずの「家族」を「夢の工場」に取り入れなければならないと知り、傾いたままの少年のボロボロの家をそのままに工場に迎え入れるのは当然のことだ。新しい家が用意されているのではなく、そのままの、壊れかけた姿をそのままに受け入れなければならない。

 ティム・バートンのフィルムがこれまでもそうであったように、このフィルムもまた同じだ。失われた「夢」を再び生きさせるために、バートンは極彩色の工場に白い雪を降らせるだろう。傾いたその家が雪の重みで潰されまいかと心配することはない。屋根を突き破った空中エレベーターをものともせず、その家をすぐさま修理しだす人々と、そんな状況でもこれからの希望を失わないおばあちゃんがまだそこにいるし、このフィルムの語り部であるウンパ・ルンパがきっと支えてくれることだろう。でも忘れてはならないのは、僕たちもそこに住もうとするのならば、ウンパ・ルンパにならなければならないということだ。そうであるのならば、まだウィリー・ウォンカは、チャーリーは、そしてティム・バートンはチョコレートを作り続けるに違いない。