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July 9, 2006

『チーズとうじ虫』加藤治代
黒岩幹子

[ cinema , cinema ]

 病気になった母親との暮らし、その死後の暮らしを映したドキュメンタリー映画。
 この映画を見ながら、数年前に見た大橋仁の『目のまえのつづき』という写真集のことを思い出した。そのなかには、自殺未遂を起こした父親が救急隊員に運ばれる様、大量の血に染まった布団、病院の待合室、意識を取り戻した父親の眼……そんな写真がおさめられていた。
 この『チーズとうじ虫』という作品も、「目のまえ」に立ち現れた肉親の生死をカメラで捉えようとしているという点では、その写真集と同じ主題を抱えていると言える。さらに、「ドキュメンタリー」という映像作品であるとは言え、いくつもの短い映像の断片がつなぎ合わされ、章題のごとき役割を果たすクレジットで分類されたこの作品は、映画というよりも、さながら一冊のアルバムのようなつくりをしている(監督の経歴を見ると、スチール・カメラマンのアシスタントをしていたそうだが、その経験が影響しているところもあるのだろうか)。
 だが、私が前述の写真集のことを思い出したのは、おそらくそういった類似点からではなく、むしろ決定的な相違を感じたからだ。『チーズとうじ虫』で被写体となる母親は血を流すこともなく、苦痛に顔を歪めることもない。彼女は料理をし、油絵を描き、三味線の練習をし、食事をして、車を運転する。そしていつもカメラ(の向こうにいる娘)に笑いかけている。癌保険の申請用紙やカツラといった物によって、彼女が癌を患っているらしいことを知ることはできるが、その病魔が彼女の身体を蝕んでいく様はほとんど映されることがない。母娘が「死」について語り合う言葉も美しい花々や雪景色の映像に被される。母親は病んだ身体を晒すことはなく、唐突に死体となり、通夜の席に横たわるのだ。
 死に近づいていく母親の姿を撮ることができなかったのか、撮りたくはなかったのか、どちらかはわからないが、とにかくこの監督はその映像を他者に見せること、記録として残すことを選択していない。そしてその空白を埋めるかのように、母親の遺品であるキャンバスや手帖、彼女が暮らした家の各部屋の映像を並べていく。つまり、母親がいない空間を映すことによって、その死を示そうとしている。
 が、もちろんそれはひとつの方法に過ぎず、また、取り立てて記すべきものでもないのだろう。むしろ、この作品で興味深いのは、作り手のそういった姿勢や方法とは無関係に存在するものがあることだ。それは、被写体である母親の姑であり、撮影者の祖母の存在だ。この老婆は老婆であるがゆえにただその身体を晒すだけで、母親よりも死の近くにいるように感じさせるはずだ。が、一方で彼女はまったく死の気配を見せない。それはなぜかと考えると、おそらく彼女は何のために孫がビデオカメラを回しているのかを知らないだけでなく、カメラの存在自体をほとんど意識していないからではないだろうか。義娘がカメラの前で絵を描いたり、三味線を弾いたり、様々なことをやってみせる脇で、老婆は常にただじっと座っているか、じっと座ってだらだら洗濯物を畳むかしかしない。果たして監督がどこまで意図しているのかはわからないが、同じ姿勢で同じことを繰り返す祖母のほうが不思議とこの人はこの先もまだまだ生きていくのだと思わせる。
 祖母は母親の死後、孫が撮りためたビデオを見せられる。おそらく彼女はそのとき初めて孫がカメラを回し続けていた理由をおぼろげながら知ったに違いない。老婆がその映像にじっと見入るとき、私は彼女の顔に初めて死の影を見たような気がした。


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