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November 3, 2006

『父親たちの星条旗』クリント・イーストウッド
梅本洋一

[ book , cinema ]

 泥沼化するイラク戦争、自民党の首脳による核装備論議容認論、北朝鮮による核実験──かつて西谷修が言った戦争の棚上げに当たる冷戦時代が終結し、グローバリズムというむき出しの資本主義の時代になると、見えなかった戦争がはっきりとその姿を見せるようになる。日本の教育基本法改正についての議論でも「愛国心」の問題がその中心になっているが、なるべくその輪郭を薄くしようと自らに課してきた国民国家が、戦争が可視化された時代に、自らの存在を強烈に主張するようになっている。「愛国心」に溢れる行動とは、国家という忠誠の対象に対して英雄的な行動をとることである。そうした行動を実践した人を国民国家の権力を握った者は英雄と呼ぶだろう。
 そうしたときクリント・イーストウッドの『父親たちの星条旗』は、極めて政治的なフィルムであると言うことができる。硫黄島の擂鉢山に偶然、星条旗を上げてしまった小隊の生き残りたちが、合衆国の英雄として帰国してからの居心地の悪さと、戦争そのものがもつまったき不条理。このフィルムでは不条理が「リアル」に、居心地の悪さが極めて「フラット」に示され、戦争が内包する虚しさを描ききっている。戦場のことなど戦場を体験した者にしか理解し得ず、「銃後」にある者たちにとっては、それが単にヒロイックな行動に見えない。単なる不条理がヒロイックなものに転換するはずはない。それは嘘であり、偽装でしかない。このフィルムは、そのことだけを示しており、だからこそ見る者──つまり「われわれ」は不条理を英雄的な行動を単に混同している──を深い絶望へと誘う。そこにあるのは、殺される前に殺そうとする行動だけであり、その理由を欠いた不条理を英雄的な行動と呼ぶのは単なる矛盾だ。
 このフィルムの前半が、アラン・ドワンの『硫黄島の砂』のリメイクだと言ったところで何も言ったことにはならない。リメイクである理由を、台詞や登場人物たちの行動の同一性として指摘したところで、かえってこのフィルムを映画内に幽閉するだけだ。映画にはもっと大きな力がある。戦争の映画は不条理しか描かない。『硫黄島の砂』も米海軍の全面協力の下に撮影されたから物語は、硫黄島に星条旗が上がる「英雄的な」シーンをもって終わろうとするが、実際の終わりは、小隊を率いるジョン・ウェインの不条理な死だ。優秀な兵士であればあるほど、家族から遠ざけられ、大きな哀しみを湛えながらも「英雄的」行動を完遂するジョン・ウェインも、単に流れ弾に命中して即死する。『父親たちの星条旗』の登場人物たちも、偶然、流れ弾を逃れた人々に過ぎない。いかなる理由があろうとも、戦争は正当化できない。単に不条理である。空しい。『最前線物語』(サムエル・フラー)で小隊長に扮するリー・マーヴィンは、戦争でもっとも重要なのはサーヴァイヴァルすることだと言った。生き残ること、生きながらえることによって、少しでも不条理に抗するしかない。その意味で、逆説的に、このフィルムの登場人物たちはヒーローなのかもしれない。星条旗を上げたからではない。単に生き残ったことで。