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November 23, 2006

Boris with Merzbow Live (11/18、新大久保Earthdom)
田中竜輔

[ music , sports ]

「どでかい音」、それが重要だ。もちろん大きい音だけあればいいというわけではない。だが、「どでかい音」にしか出来ないことがあるということを、それがどれほどに圧倒的な事柄であるということを、知るべきだ。BorisとMerzbowとのコラボレーションによるライヴを見た実直な感想のひとつとして、ただそれだけのことをとりあえず記そうと思う。
 乾いたクリーントーンによって奏でられるギターの野太い旋律、それに織り重なる高音域のノイズにこのライヴは始まった。はじめのうちは音を生成するプロセスの形態の差であるデジタル/アナログの対立や、楽曲の枠組みとしてのフレージングといった、音楽の「要素」とでも言うべきものがはっきりと聴き取れていたように思うのだが、ライヴが進むにつれその区別はどんどん曖昧なものとしてあらざるを得なくなっていった。  
 それぞれの楽器が持つはずの独立した音色が、それぞれの楽器が奏でているはずの独立した旋律が、その圧倒的なヴォリュームの中で溶解していく。その音像の中に明らかに異質な音色として響き渡るドラムのアタックが、その曖昧なものとなった音の群れに亀裂を入れる。だからといって、その亀裂によって音が統制されるのかといえばそれは全く違う。そのアタックそれ自体が、亀裂によって分散したはずの音像をさらに肥大化させてしまうものでもあるからだ。様々な空間系のエフェクトがドラムにかけられていたが、それによってこの亀裂はますます両義的なものとなる。
 奏でられる楽曲はたしかにある。だが、もはやこれほどのヴォリュームの中では、楽曲、あるいは演奏という制度は、もはやその構造だけの問題に留まることはできない。ギターが、ベースが、ドラムスが、それぞれを区別するはずの境界線上において鳴り響いている。さらにはそこに触媒のような存在として、Merzbowのノイズが混入する。例えるのならば、音と音とが共食いを始めているかのような状態であり、その中でノイズはひたすらにその闘争を煽り立てる。
 しかしその捕食の標的となるのは「音」ばかりではない。というのも、ここに存在する圧倒的な音塊はその場所にいるものすべての耳を、つまり「聴く」という「行為」を丸ごと飲み込んでしまうからだ。このライヴの序盤ではまだいつものように機能していた私の耳は、その中盤に至る頃には既に正常な働きを失っていた。だが、それでも容赦なく音は襲いかかって来る。その音の暴力の中に、敢えて身を進ませること。そのとき、「聴く」こととは、決して自明の「行為」ではなく、まるで異質な「体験」となる。ライヴ終了後もしばらく続いた突き刺さるような鼓膜の痛み、あるいは内臓を蠢く違和感は、「聴く」という「行為」が「体験」へと確かに変質してしまったことを確かに物語っていたように思う。だからこそ何度でも言いたいと思うが、「どでかい音」は、絶対に、本当に重要なのだ。