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January 18, 2007

『モンスター・ハウス』ギル・ケナン
結城秀勇

[ cinema , cinema ]

枝から離れくるくると舞い上がる紅葉した木の葉をカメラが追うことから、この映画ははじまる。カメラの動きは、この作品にエグゼクティヴ・プロデューサーとして名を連ねてもいるロバート・ゼメキスの『ポーラー・エクスプレス』のワンシーンを思い出させる。サンタのもとへ向かう列車に乗るために必要な「往復切符」が主人公の少年の手を離れて車外へ飛んでいってしまうという場面だ。もちろんその「往復切符」という名が示すとおり、切符は少年の手になめらかに舞い戻ってくることとなる。その循環運動を思い出した。
『モンスター・ハウス』はとてもクラシックなフォルムを持つ作品だ。やせっぽちの少年と、デブな友達が、可愛いけれどちょっとおかしな女の子を連れて、不気味な屋敷に乗り込んでいく。そのひとりひとりの登場人物の演出という当たり前の要素が、はじめに挙げたような技術的な目新しさよりも、この映画の良さを支えている。主人公のふたりの顔ときたら、ジュブナイル映画の登場人物たちのイメージを様々にちりばめてつくったみたいだ。まるでこの映画の舞台となっている時代に製作された、当時の大人が少年だった頃の古き良きアメリカを描いた映画の登場人物みたいに。
「クラシックな」と書いたけれども、実はこの映画では「むかしむかし=いつでもない時代」というおとぎ話の定番を踏み外している。ベビーシッターがかけるカセットテープ、オタク青年がプレイするビデオゲーム、そして、緑の芝生の前庭を備えた典型的な「郊外」の風景の裏にぽっかりと穴を穿つ高層マンション建設予定地。すべてが不必要なまでに80年代後半を明確に指し示している(かつて第二次世界大戦に従軍した老人は、あれから「45年間この町に住み続けてきた」と語る)。もちろんそれは76年生まれのギル・ケナンにとっての「少年時代」ということでもあるだろう。しかしこの映画が「モンスター・ハウス」(モンスターのいる家ではなくて、家自体がモンスター)と戦う物語を持っていることを考えると無視できない要素である。この物語の最後には、主人公がハウスにしてワイフ(少年はハウスワイフ=主婦と言い換える)であるモンスターを木っ端みじんに爆破してしまうわけだが、それは単に思春期を迎えた少年のイニシエーションであるばかりでなく、歴史的な家庭の崩壊の隠喩でもあるはずである。
だが、通過儀礼を経たはずの少年は最後、その晩だけは子供に帰ることを自分に許す。彼らの功績によって、町の子供たち全員に失われたフェティッシュが返還される。いや子供たちにだけではなく、いまはもう大人になった者たちにもだ。その晩、その町の路上には子供たちしかいない。まるで時が止まってしまったように。
冒頭に挙げた『ポーラー・エクスプレス』では、その旅の終わりとともにもうなめらかな循環運動に参加することができなくなることが示唆されていた。しかし『モンスター・ハウス』では、人々は通過儀礼=あるシステムの崩壊を経た夜にいつまでも留まり続ける。それは単なるノスタルジーではない。人々が住む町はいまではもう、子供時代の思い出が閉じこめられた穴の上に建設されたものではなくなって、目的もよくわからない巨大な資本のために掘られた穴の上に移設されてしまったのだ。その穴は、上に高層マンションがたくさん建ち並んでしまった現在でも、僕らの下で大きな口を開けている。


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