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January 22, 2007

D.W.グリフィス 最初期短編作品集
田中竜輔

[ cinema , sports ]

 早稲田大学演劇博物館21世紀COE・演劇研究センターの企画よる上映活動「失われた映画を求めて」にて、グリフィスの貴重な初期短編を6本見ることができた。それらのフィルムはまさにアメリカ映画が「物語る映画」としての映画的な機能をすでに100年前に生み出していたことの証明であり、グリフィスの存在がどれほどにアメリカ映画に、否、現在のすべての映画にとって逃れられぬものであるかを改めて感じさせるものに違いない。だがそういった歴史的な関心よりも、今回の上映で個人的にもっとも感動したのは『インディアンと子供』における川のシーンだった。もしかしたらリヴェットの『セリーヌとジュリーは舟でゆく』の夢からの脱出のシーンはこのフィルムのリメイクだったのかもしれないと思うほどに、ここには官能的な水の揺らぎが息づいている。もちろんそれはこのシーンに限った話ではない。不意にフレームの内部に揺れ動く草木のざわめき、あるいは大きな身振りを持って演じる人々の姿……画面に存在するものすべてが、ただそこにあることだけで感動的であり、そこで展開されているはずの物語の存在などついつい忘れてしまう。こういったフィルムを見るといつも、バザンによる「写真映像の存在論」やロメールの「美の味わい」が、永遠に読み返される必要のある文献であることを再認識させられる。
 このような貴重で美しいフィルムを無料で見る機会を作ってくれた主催者側には謝意を表明すべきだろう……が、それでも私にはひとつだけ怒りを感じてやまないことがある。それは、これらの映画における物語の内容のわかりづらさを理由に、物語や登場人物の詳しい説明が「マイク」を通して、なんと作品の「上映中」に付け加えられていたことだ。単純に呆れてしまった。もしかしたらそれは親切心から加えられたものかもしれない。しかし、そんなものは「侮辱」だ。「観客」に対する侮辱ではなく「映画」そのものに向けられた侮辱だ。これらの映像はたしかに研究者にとっては単なる「アーカイヴ」なのかもしれないが、「観客」にとってはまずその前に「映画」なのだ。そこには何かを付け加えるべきではないし、何を差し引くべきでもない(現にカメラの背後に立つグリフィスは、カメラの前に存在するすべてに何も付け加えず、何も差し引いていないではないか! )。映画はまず何より「見る」ことに属すものなのであって、間違ってもそこにあるとされる物語や知識のようなものを「知る」ためのものなどではない。このサイレント作品の上映会で私が聞きたかった唯一の音とは、カラカラと回る映写機の乾いた音だけだ。私は「お勉強」のためにこの上映会に来たのではない。「映画を見る」ため、ただそれだけのために来たのだ。このようなことが許されるのだとしたら、「失われた映画」は、永遠に失われたままだ。私は真剣にそう思う。