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February 1, 2007

『Apocalypto』メル・ギブソン
松井 宏

[ cinema , cinema ]

 すでにその喧噪から知るひとも多いだろうが『Apocalypto』はマヤ文明(末期)という壮大な主題を持っている。そして前作『パッション』と同様その「超残酷な」描写や、その歴史のあべこべぶりは方々で非難の的となり(マヤ文明とアステカ文明の混ぜこぜetc)、当然今回も全編「マヤ語」で、さらには近頃の彼自身の素行の悪さもあったりと話題騒然。だが「環境破壊、過剰な消費、政治腐敗などマヤ文明が直面した問題と我々のそれとの平行関係」とギブソンは生真面目に語ってもいるのだった。
 そうかそうかと確かに言えもするが実際それらの描写はやたら中途半端。自然とともに平穏に暮す「善き野蛮人たち」が、文明の体現者たる「悪しき野蛮人たち」の酷い侵略をうけ、連行されて文明(とその退廃)を目の当たりにし、生け贄にされ、しかしそこからひとりが脱出に成功し、さあ家族の元へ帰還すべく追っ手たちとのチェイスが始まり……と、大部はそんな冒険活劇であり、しかも移動することや追/逃走の運動など、それでいいのかと不気味に思うほどシンプルなアクション映画として見事に成功している。たしかにヒーローたる善き野蛮人ジャガーが退廃した文明の終わりを実行する「破壊者=救済者」になるという筋が被るのだが、そんな意図を嘲笑うほどにジャガーの身体は逞しく跳ね上がってゆく(ロナウジーニョを思い出させずにはいられない)。
 いまどき70年代ではあるまい、アクション映画を完終させるだけで許されるわけなかろう、だがこのままではそれ以外終わりようがないだろう、と宙吊りの不安に駆られるのだが、まさしく追/逃走が終わった瞬間訪れるひとつのショットによって『Apocalypto』はとんでもない脱力感を我々にもたらす。本当か? いやまさか? 何なのだ? と反芻すること間違いない。『宇宙戦争』ラストの対蹠とも言える、ある脱力感である。要するにギブソンはマヤ文明を建て前にして、ここ数年のアメリカ介入以前のイラクはこうだったのだと(悪しきイラク人たちと善きイラク人たち)、つまり介入の正当化としてフィルムを企図したと結局そうも言えるのか。密やかにだがあけすけにラストでヒーローがあんまりに都合の良い犠牲者=ヒーローに落とし込まれ、一方で海上には「真の救済者」が登場する。すべてをそこから見るとき、これまた『宇宙戦争』とは真逆の、家族に対する異様に保守的な執着さえ思いだされよう。妊婦は何度転倒しようが絶対に子供を産む定めにあり、子供の持てない夫婦は死ぬ定めにある。だが重要なのはその執着が増せば増すほど、同時に、同じ振れ幅で正反対の極が生じていること。つまり名だたる純潔主義者ギブソンはジャガーの身体に恐怖すると同時に死ぬほど魅力を感じていて、ほとんどそれは同性愛的な様相を呈すのだ。その魅惑に屈した結果が良質なアクション映画の側面を生み出したとさえ言える。
 すべては逆なのかもしれず、つまりギブソンはジャガーの身体に恐怖しながらあまりに恋しすぎたゆえ、自らを戒めるべく、どうしようもなく最後の救済者を登場させざるをえなかったと。だがどちらにしろ『Apocalypto』はふたつの反する極を発生させ、真面目にやればやるほどそれらはどちらも研ぎ澄まされ、その挟まれのなかに上述のひとつのショット(というか180度のパン)がある。ジャガーは逞しく美しくなればなるほど、脆くて脱力的な死を要請してしまう。最後の彼とその家族(新たな命も加わっている)の存在もまたその結果だろう。あまりにわけがわからなくて、けどもうすでに死が決定しているその亡霊じみた姿は、一方で、おそらくギブソンが消去できなかった剰余でもあり恐怖なのだと言っておこう。


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