« previous | メイン | next »

February 14, 2007

柳宗理 生活の中のデザイン展(東京近代美術館)
梅本洋一

[ photo, theater, etc... , sports ]

 家具や食器など生活必需品で気に入ったものを探すのはすごく大変なことだ。椅子ならば、座れれば良い。ナイフなら切れれば良い。それを基準に据えれば、選択は簡単だ。どこにでもそうしたものは置いてある。でも、面倒なのは、椅子もナイフもなかなか壊れないことだ。ひょっとすると、孫子の代までそれらは引き継がれるかも知れない。だから、自分のしょうもない美観を頼りに、いろいろなカタログを見たり、実際にショップを訪問したりする。そして懐具合と相談して何かを買うことになる。ここでもまた問題発生! ちょっと使うと気に入られなくなることがある。でも捨てるにはもったいない。
 柳宗理の家具や生活用品を見ていると、いわゆるfausse simpliciteの美学を感じる。何のてらいも装飾もない、機能一辺倒のデザインに見えながらも、そのデザインは、実は長い時間をかけた実践と研究の結果なのだ。つまり「偽の単純さ」である。こういうものに囲まれていると豊かな気分になるだろうな。こんなナイフをずっと使い続けると飽きないだろうな。ぼくらにそんなことを考えさせてくれるような家具や調理器具が並んでいる。ミシンやクルマのデザインもあるし、セロテープの台もある。バタフライチェアばかりが柳宗理ではない。やはり思い出すのはシャルロット・ペリアンだ。柳宗理の先生だから当然なのだが、彼女のソファを見ていても「偽の単純さ」を感じる。
 もっともこの展覧会の展示方向はショボイものだった。単に羅列しておいてあるだけ。触ることもできないし、使ってみることもできない。まるで柳宗理やシャルロット・ペリアンの使いながら、触りながら考えて作っていくデザインを裏切るようだ。彼らは権威になりたくはなかった。長く使って飽きの来ない、しかも使い勝手の良いものを作った。だから使ってみたい。ぼくだったら、柳宗理風の居間や台所を再現して、実際に彼が生活のデザインをどう変えたのかを見せたい。「芸術作品」=「鑑賞する」=「ありがたがって見る」──そんな方式で展示が行われている美術館は最低だと思う。昨年見た清家清展では、実際に彼の家が再現されていたし、前川圀男展では、東京海上ビルの模型と実際の東京海上ビルが重ねて見えるような工夫がしてあった。シャルロット・ペリアンの椅子だって座ってみたい。柳のバタフライチェアだって座ってみたいのが人情だ。ぼくの息子は、展示場を走り回って監視員に注意されまくっていた。近代美術館にはせっかくフレンチのレストランができたのだから、柳宗理展の間ぐらいは、柳の陶器で、彼のカトラリーを使って食べられるような機会を設けてくれも良いのではないか。
 ぼくと息子は、ちょっとストレスが溜まったので、九段下にある文久元年創業の寿司屋に寄ってランチをした。伝統のある寿司屋なのに、ガツガツ食べる息子に優しかった。


東京国立近代美術館にて開催中