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March 5, 2007

『不完全なふたり』諏訪敦彦
梅本洋一

[ cinema , music ]

 このフィルムがフランス人の俳優たちとパリで撮影されたためだろうか。普段なら諏訪敦彦のフィルムにほとんど顔を見せない「映画的な記憶」がいろいろな場所に垣間見える。
 このフィルムが別離の聞きを迎えた夫婦の短い時間の出来事とその顛末を追うという意味において、まず全体としてこのフィルムが準拠するのは、ロベルト・ロッセリーニの『イタリア旅行』である。リスボンで仕事をする建築家夫婦(ブリュノ・ドデスキーニ、ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ)が友人の結婚式のために久しぶりにパリに帰ってきて数日間を過ごし、自らの暮らす場所と別の場所でふたりの存在について再考すること。そして、そこで出会う人々。ゴダールが『軽蔑』で『イタリア旅行』をリメイクしたように、諏訪敦彦は『不完全なふたり』で『イタリア旅行』をリメイクしている。そして同時に、トデスキーニが偶然入るカフェで哲学的な箴言を吐く老人に出会うのだが、この件は、もちろん、『女と男のいる舗道』でアンナ・カリーナが入るカフェで、哲学者ブリス・パランに話を聞くシーンを想起させる。
 ホテルの部屋、ベッド、カフェ、レストラン、駅、そしてロダン美術館……様々な場所を彷徨しながら、ふたりは自らを語り、他者の言葉を聞く。旧来の諏訪敦彦のフィルムが、主要なふたりが常に対面し、その緊張感をモーターにしていたのはややアングルを変え、他者がふたりの間の関係に介入し、その他者がふたりに常にふたりとは別な人生があることを想起させ、他者の人生の介入によってしか、ふたりの人生もまた成立しないことを感じさせる。だから、『不完全なふたり』は、以前の諏訪敦彦のフィルムよりも、ずっとおおらかに進行する。特に、ヴァレリア・ブルーニ=テデスキがロダン美術館で高校時代の友人アレックス・デスカスに出会い、美術館のベンチにすわって語り合うシーンは秀逸だ。やや引き気味のキャロリーヌ・シャンプティエのキャメラがふたりとアレックス・デスカスの息子を捉え、ゆっくりと正確に言葉に交わすふたりを明瞭に映しだしている。
 もちろん、(常に諏訪映画にあるように)ときに、生気を欠いた退屈なシーンもあるし、もっと演出を発揮した方がよいと思われる部分も多いのだが、『不完全なふたり』の場合、他者の人生との交錯によって、主人公たちのそれが明瞭になってくるという意味において、その退屈さも必要なものであるとさえ思われてくる。