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March 15, 2007

『ラストキング・オブ・スコットランド』ケヴィン・マクドナルド
松井宏

[ cinema , cinema ]

このフィルムは『ブラッド・ダイヤモンド』と同じくアフリカを扱い、どちらも実話をもとに構成されていて、どちらにも恐ろしい軍事独裁政権があって(もちろんそれはある時期からアメリカ映画でアフリカを物語るときに欠かせぬ要素となっている)、両者の物語のあいだに時代の差はあれど(『ラストキング』は70年代、『ブラッド』は90年代後半)、けれどもっとも重要な共通点は、どちらもがアフリカを父として扱っているということだろう。名もなき漁師だろうが残忍な独裁者だろうが関係なくて、彼らにアフリカが託され、そして彼らは父として描かれる。つまりかつては労り見守り、あるときには救い出しあるときには罰を加えるべき「子供」としてアメリカ映画にあったアフリカが、いつの間にやら父になっているのだった。
『ブラッド』は一種の告発として社会に影響を及ぼし世論を賑わしつつ、しかしこのフィルムは、もちろん『ラストキング』も、物語のかなり早い段階で実際には告発を終えているともいえ、つまり前者ではすぐさまディカプリオがジェニファー・コネリー演じる記者にアフリカと「お前らの世界」を繋ぐダイヤモンドの黒い流通を語り「あんたの雑誌だって宝石会社の広告で成り立ってる」と正しき事実を言い放ち、後者ではスコットランドからやってきた医師の卵たる若者(彼がフォレスト・ウィテカー演じる独裁者の「息子」になる)がすぐさま同僚の女性に「現実を見ろ。血を血で洗う、それがアフリカだ」と言い放つ。告発はその時点で終わっていて「真実」はその時点ですでに解き放たれたと、そうも言える。おそらくそれは「アフリカの真実」がすでに教科書にしまいこまれた歴史として、つまりそこには一種の回顧的な視線がすでに生まれてしまっているのだろうが、けれどもそういう了解事項としてのアフリカを越えて同時にあるのは、なんだかユートピア的な(かつての「ロマンスの地」アフリカというユートピアではなくて)感覚のような気がする。つまり単純に、アメリカ映画における大量殺戮の場が未来とか仮想空間に移ったように、父と息子の物語(もちろんオイディプス的なるそれも含まれる)の場がアフリカに移ったというような、そんな感じなのである。
ここでたとえば『幸せのちから』『ナイト・ミュージアム』というフィルムでの父の再構成のされ方を思い出してしまうのだが、前者は80年代レーガン時代のリベラリズム的理想を異様にあからさまに見せつけ、そんなこと許されるのかと心配させるほどのフィルムで(サルコジのキャンペーンにうってつけ)、後者は歴史博物館を舞台に世界のすべての歴史が時代を越えて入り乱れひとつの空間で大円団の和解を迎えるのだが、つまり両者はどちらも一種の理想の極を体現しつつ、そのどちらの中心にも父の復権が据えられているのである。一方はこれまた実話をもとに構成された「かつて」の物語で、もう一方は現代を舞台にしたCG空想ファンタジーなのだが、とにもかくにも幸福の追求(pursuit of happyness、これが『幸せのちから』の原題)はいまや父権の再構築となり、父権の再構築によっていまやユートピア的な世界ができあがってしまう。それらにふと脱力感というか奇妙な感覚を覚えてしまうのは、おそらく私だけではないだろう。