« previous | メイン | next »

May 11, 2007

『楽しみと日々』 金井美恵子、金井久美子
槻舘南菜子

[ architecture , book ]

 金井美恵子の本を読むこと、それはまず帯をはずし、カバーをめくり上げることから始まる。だからたとえ文庫版の『タマや』が出版されたとしても、視線を合わせることなく横顔をこちらに向けるアンナ・カリーナが表紙のハードカバーの方が良いに決まっているし、そうでなければ彼女の本を読んだとは言えないのだ。彼女の刺激的で時に辛辣で正確な批評—それは五十年代ハリウッドから、エリック・ロメール、山田五十鈴の眼差しに、将又、韓国映画に至る—とともに、金井美恵子の姉であり、装丁の多くを手掛ける金井久美子が著者として名を連ねているのは、雑誌『和樂』で映画についてのエッセイとオブジェの連載をしていたからなのだが、もちろんこの本の装丁も彼女によるものだ。それぞれに名前がつけられた箱—山田五十鈴BOX、ドライヤーユニット、ワイズマンフレームーに、かなりの逡巡をもって敷き詰められたであろう写真や絵画やレコードやリボンやレースやガラス玉やミニチュアの家具、そして、それらの間に生まれる余白に、何がしかのイメージの連鎖を見ることはできるかもしれないけれど、そこに意味や必然性を求めるのは無粋だ。すでに伝説と化している幼少期、母におぶわれて映画を見た彼女が『映画、柔らかい肌』で「母親や家族の次にスクリーンがあった」と語ることや、ジョン・フォードの『黄色いリボン』を姉と二人、黄色いリボンをして見に行ったというエピソード(私は大好きなのだが)は、彼女が映画に重なるというよりも、触れているという感覚に近い。もちろん、文字通り映画に触れることなど不可能なのだが、金井美恵子は言葉によってその距離を縮めようとしているように思えてしまう。たとえば彼女の描くさまざまな細部—『三つ数えろ』のローレン・バコールや、『麗しのサブリナ』のオードリー・ヘップバーンのタイトスカートーを思い出してみるといい。そうでなければあんなにも女の纏う一枚の布の表面を描写し続けることができるのだろうか? 決して報われることのなく、見つめることしか叶わない映画へのオマージュは、四角い箱という小さな、しかし自由なスクリーンの中で、彼女達の手で選択され、配置され、作り出されたものなのだ。触れられるオブジェとして。