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November 16, 2007

『摩天楼』キング・ヴィダー
田中竜輔

[ DVD , photo, theater, etc... ]

 TSUTAYAをふらふらと散策していると、なんとなくこのタイトルが目につき、手に取ってみて初めてキング・ヴィダーのフィルムであることを知った。今年の2月にDVDがリリースされていたようだ。ヴィダーのフィルムの中でもこの作品は決して頻繁に耳にするタイトルではない。ためしにネットで検索してみると、映画の内容以上に、主演のゲイリー・クーパーとヒロインのパトリシア・ニールが熱烈な不倫関係を結んだというスキャンダルについての記述の方が目につく。また、邦題は『摩天楼』とつけられているが、原題は「The fountainhead(水源)」であり、これはアメリカのユダヤ人小説家アイン・ランドによる小説を原案にしたもので、映画化に際してもランド本人が脚本化を手がけているとのことだった。
 この作品はひとりの建築家が主人公である。ひとりの厳格なる建築/芸術家と社会との、資本との闘争と、そして彼の理解者たるひとりの女性建築記者(パトリシア・ニール)と彼女の働く新聞社の社長(レイモンド・マッセイ)との哀しい三角関係が同時に描かれている。原作は未読のため二次的な情報にすぎないが、アイン・ランドはその建築家のモデルにフランク・ロイド・ライトを想定していたとのことである。しかし、個人的に映画を見ながら想像させられた建築家像というのは、ライトというよりもミース・ファン・デル・ローエだった。
 実際、クーパーが映画の冒頭で提示する「ガラスの箱」のような建築模型はシーグラム・ビルやレイク・ショア・ドライヴそのもののように見えたし、中盤で彼が初めて手がける高層マンションは、初期のいくつかのドローイングにそっくりだった。もちろん、そればかりではないものもある。このフィルムにおいて重大な意味を持つスラム地区の都市計画案はル・コルビュジエの計画案を想起させもするし、マッセイとニールのために作られた自然に囲まれた別荘はライトの手がけた住宅を思い起こさせもするのだが、やはり彼はミースだ。クーパー演じる建築家の、ほとんど極論にさえ見える芸術至上主義――社会に奉仕するためのものではなく、ひとつの意思の発露としての建築/芸術――、あるいはコンクリートや石材といった素材そのものへの執着――序盤で仕事を追われたクーパーは大理石発掘場で労働を営なむこととなるのだが、ミースもまた大理石細工師の家に生まれている――といった細部には、どうしてもミースという特異なモダニズム建築家の姿が浮かび上がってくる。

 しかし、そのような細部に執着しなくとも、このフィルムが建築、そして都市それ自体に直接目を向けたフィルムであることは明らかである。なぜなら『摩天楼』とは、同じくヴィダーによる『群衆』をそのまま裏返すことによってつくられたフィルムであるからだ。『群衆』のラストシーンのキャメラワークが、サーカスの小屋の全景にひとりの男を消失させてしまうような後退運動を為していたのとは逆に、このフィルムのラストショットが建設途中の高層ビルの最上階に君臨するクーパーの仁王立ちを見上げながら上昇していくことは、そのことの明瞭な根拠になりうるだろう。つまりこのふたつのフィルムにおいては、都市に住まうものと、都市を生み出すもの、それぞれが問題になっているということである。
 ヴィダーは「窓」というひとつの「フレーム」を介して目にされる風景を、映画というもうひとつの「フレーム」で捉えなおすことで、二重に問題にしようとする。その風景とは、窓のすぐ傍にそびえ立つ高層ビルの壁面のような、風景と呼ぶのをはばからせるような貧しいものでもあり、あるいは限られた人々によって高層ビルのオフィスから見下ろされる雄大な全景――ただしこれらはあくまでセットの内部で構築されたものであり、現実の風景ではない――でもある。それらの風景は、船上から見られるような断面としての都市の風貌とも絶対的に距離を有している。風景とは、不特定な人々による限られた視点の総体によって構築させられる不可視の対象であり、それに対する絶対的な視点など存在しない。ヴィダーがこの2本のフィルムで見せてくれるのは、その風景に対して絶対的に権力を有する者と、無力なる者がいるというごく当たり前の事実である。そして重要なことはその優劣などではなく、そのような空間に対する視覚の極限を、同じように空間の芸術である映画が、どのように捉えなおすのか、ということにほかならない。
 『群衆』と『摩天楼』は、同時代の都市を映画において捉えることと、その中でフィクションを織り成すことについての省察であり、同様に傑作である。たとえばそれに関するレフェランスとして、黒澤明の『天国と地獄』やジャック・タチの『プレイタイム』における、「都市」と「セット」をめぐる実験は特に重要なものであるだろうし、アラン・レネの最新作『6つの心』において、人々の邂逅の場となるいくつかの空間から見える、CG(?)によって描かれたパリの風景は、『摩天楼』の「窓」から見える都市の風景と同様の思考によって導かれたものなのではないだろうか。そして当然のことながら、黒沢清による東京を舞台にしたフィルム――『回路』、『アカルイミライ』『叫』――や、直接的に空間造形を扱ったフィルム――『風の又三郎』、『蟲たちの家』――を忘れてはならないだろう。氏による次の作品は『TOKYO SONATA』とアナウンスされているようだ。